2-8.贈る言葉

《は?》


 自分を浄霊してほしい。


 そんな、思いも掛けない要望を聞いて、わたしは絶句した。


 浄霊とは、霊に対して適切な儀式を施し、この世からその存在を消滅させることを指す。霊を天に還すことと説明されることが多いけれど、そもそも魂が天に昇るということ自体を認めなかった、いや、それじゃ説明できないよと常々口にしていた祖母が実施していたことを考えると、それはどうも怪しい気がする。


 いずれにせよ、結果としては除霊と同じことになるけれど、この二つは一応、大きな違いがあるとされる。除霊は、霊術師が問答無用で霊を破壊、解体して、その存在を滅せしめる行為。一方浄霊は、本来はこの世に留まるべきでない霊に対して、儀式によってこの世との縁を絶ち、安らかに眠らせる行為とされる。でも、この二つ、どれまでの違いがあるのかはわからない。同意の有無という程度じゃないのか。


 だからわたしは、浄霊という行為自体は否定しないけれど、できることならやりたくない。


《いや、だって、あなた、まだちゃんと意識があって、頭も回るし。だいたい、未練があるから、この世にいるんでしょう》


 未練というよりは、欲望とか煩悩とかという方が適切かもしれない。とても人間らしい感情だけど、霊になってもなおそれを身に帯びているのは、決して不幸なことではなく、楽しみを味わう機会がまだまだあるということだと思うから。


《最初はそうだっただ。でもな、みんなと楽しく過ごせたし、もうええだ。おら、自分が死んでるのはわかってただ。でも、今が楽しかったから、何となく、そのままでいただ。ヤーセミン様はまだお若いから、もっと生きていたいって、思うだよ。でもおらは、もう、十分生きただ。楽しかっただ。これ以上このままだと、人を殺めてしまうかもしれないだ。だから、ヤーセミン様にお願いしたいだ》


 うん。そんな。でも。


《でも、あなたたちは、少なくとも悪霊じゃないでしょ。ざっと見たところ、多少は邪気を帯びているのも居るみたいだけど、鬱屈したものを発散する機会がなければ、無理もないし。侵入者を撃退する以外に、人に対して悪さをしたわけでもないんでしょ。それに、このあたりの生物も、よく育ってるし。十分に役に立っているのよ》


 この世界の生物は全て、量の多寡はあれ、霊力を保持している。正しくは、生きている者は、その霊的エネルギーをもって、生命を維持している。ただ、その霊力を自分の意思で制御、活用できる者は非常に少なく、そういう者が霊術師と呼ばれる。なお、人間以外の生物が、自らの意思で霊力を行使できるかどうかは、今のところわかっていない。


 そして、霊が邪気を濃く帯びるようになると、それは霊力を多く消費するようになる。その結果、悪霊が生じると、周囲にある霊気をどんどん吸い取ることになり、周辺の生物に悪影響を及ぼす。だから、悪霊が湧いている場所の周辺では、動物は本能的に逃げ出すし、植物は元気をなくしたり枯れたりしてしまう。


 でも、この周辺には、そういう気配はない。今回の目的の一つ、デリゼッゲも、よく育っている。いや、人の手が入っていない分だけ、生き生きとしているようだ。つまり、少なくとも生物の生態に対して、彼らは悪影響を及ぼしておらず、したがって悪霊化していないと断言できる。


《そうかもしんね。でも、いつまでもこういう姿でいんのか。そう思うと、かえって疲れるだよ。そろそろ眠りについてもいいと思うだ。だから、ヤーセミン様、お願いしますだ》


 俺も、わたしも、と、霊たちが次々と浄霊を希望する声を上げだした。


 どうして。どうしてよ。


 ここで、一見楽しそうに過ごしていたといっても、故郷が恋しかったんでしょ、戻りたいと思ったんでしょ。


 わたしに着いてくれば、また、楽しい日々に触れられるじゃない。普通の生身の人とは会話できなくても、わたしとなら、やり取りできるじゃない。何より、心残りだった、生まれ故郷をもう一度見ることだって。


 それなのに、なんで。


《ヤーセミン》


 混乱していたわたしを見かねたのだろう、それまで黙っていたフェリットが、口を開く。


《キミの考えもわかるけどね。霊は、具体的な未練がなければ、この世に残ろうという意思はなくなるんだよ。むしろ、それが自然のことなんだ。キミの倫理観は美しいのだろうけれど、それを霊に押し付けちゃいけないよ》


 わたしの倫理観を、霊に押し付けちゃいけない。それはそうだろう。でも。


《だからって。一方通行なんだよ、戻れないんだよ》


《かえるべき場所に、かえれないって、幸せなんだろうか》


 それはそうかも、だけど。


《それじゃ、あんたは、どうなのよ》


 質問に質問で返すって、その時点で議論を放棄しているも同然だけど。


《そうだね。でも、ボクは、ヤッセの脇にいるのが心地いいから。“かえるべき場所”があっても、今のここが、心地いいから。だから、こうしてるだけ。でも、ここの場所は、もういい、そう思ってるんなら、話は違うよね》


《……》


 そうか。


 今まで、たくさんの霊と接してきて、友達同然になったりしたコも多い。だから、彼らの存在理由を、生身の人間のそれと同じに見ていたんだ。自分の、勝手な思い込みで。


 そうだね。


 もう満足した、そういう感情って、あるよね。


《うん……》


 キュッと目をつむる。


 祖母から教えてもらった浄霊の術、行使すること自体は問題ない。そして、霊の願いについても、理解した。


《そっか。そうだね。生きた人間のエゴだよね》


 十全に納得できたものではないけれど、覚悟は決まった。


《お待たせしました。それでは、一体ずつ、施術させていただきます。それでは、お名前と、生前の宗派をお教えください》


 宗派といっても、ポリュシュ人なら、真正教伝統派の可能性が高い。その場合の儀式って、正直よく知らないんだけど、確か教典の重要な部分を読み上げてから、神の許しを得られるよう祈ればよかったと思う、というか、白状しよう、よくわからない。真正教古典派や真一教の儀式なら任せとけって言えるんだけど。


 案の定、浄霊を希望した霊は、全員が伝統派だった。本来は聖職者、具体的には司祭あたりが行う儀礼なんだろうけど、ここは聖職者ではなく、生身の人間代表として、彼らを送ることにしよう。ただし祈祷文は、古典派のもので我慢してもらう。納得できないなら、通常の祈りの文句だけを述べてもいいと言ったけれど、全員が、ヤーセミン様の得意な方法でお願いします、って。


 全員をまとめて送ることもできるんだけど、そんなやっつけ仕事はしたくない。これはいわば、霊に対する葬儀とも言えるのだから、一人ずつ丹念に執り行わないと。まして、この世で最後の経験になるのだから。


《……永遠の記憶、永遠の記憶、永遠の記憶、……アミン……》


 頭に入れている祈祷文を朗唱し、十字を切ってから、印を結び、誦文を行う。霊をこの世から解放するものなので、霊の邪気をいったん完全に取り除くことになる。


《おお……》


 霊が歓喜に満ちた声を上げる。ここまではいい。問題はこの先だ。


 霊は、その身に霊気を帯びている。この霊気と入れ替えるように、わたしが持っている霊気を注入して、霊体の感覚を徐々に削ぎ落としていく。こうすることで、霊が抱く感覚を苦しむことなく減らしていくことができる。この霊気を注入している間、彼らの感覚の一部が、わたしに伝わってくる。すなわち、彼らの霊体反応を感じることになる。


 自分が行使している術について、まだ納得のいかない部分は残っている。でも、ここは高度な集中を要するところで、失敗すれば、浄化どころか霊が極めて不安定な形でこの世に残ることになる。それは、絶対に許されない。わたしを信頼してくれた、この霊のためにも。


 そして、最後に、意識を閉じさせて、完全に眠らせ、その直後に、霊体が消滅することになる。


《ありがとう》


 儀式の最終盤、そんな声が、頭に残った。


 恐る恐る顔を上げると、そこには、最初に浄霊を頼んできた霊体は、もう存在していなかった。


 ……。


 いやいやいや。まだ終わっていない。感傷にふけるのは、全部を終えてからだ。


 疲れてるから休憩する? 冗談じゃない。自分の存在を消すという重大な決意をした霊たちを、待たせるなんて。そんな失礼なこと、できるか。


 一体一体、丁寧に、朗唱を行い、儀式を執する。そして、霊体を浄化、すなわち、その姿を消していく。


 希望した霊体に対する浄霊を終えたら、すでに夜を通り越して、明け方になっていた。


 儀式の中で、まだ、伝えられるものがあったのじゃないか。まだ、施せるものがあったのじゃないか。そんな念が、頭の中を、ぐるぐると駆け回る。


 でも、贈る言葉は、もう届かない。


 がくりと膝が折れる。精神的にも肉体的にも、ほぼ限界に近くなっているようだ。


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次回は12月19日(日)投稿予定です。

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