1-6.【Side:ネジャット教授】とんでもない行き違いが発覚

 読み込んでいた文献から目を離して、体をうーんと伸ばす。研究室で書物に囲まれて、そこから英知を吸収するのは、実に心地よく、時間の経過を忘れる。しかし、こればかりでは、体にもよくない。


 そろそろ講義の時間だなと机を立つと、バサバサと紙が落ちる。研究補助者のサイード君が、いい加減書類を整理して下さいよ、という愚痴……いやいや、わたしには、何も聞こえない、それは幻聴だ。


 ともあれ、落とした紙を手に取ってみる。うむ?


「……手紙? ……これは! ……サイード君! なんだね、これは」


「ネ、ネジャット先生、どうしました?」


「ここにある手紙、わたしが書いたものだが……ヤーセミン君といったか、彼女へ至急送付せよと言っただろう」


 わたしは、学問研究の今後について、憂慮している面がある。それは、学生の視野や好奇心が、徐々に狭まっていることだ。


 特定の分野に特化して、その分野の先行研究をひたすらチェックして、これまで調べられていないところを探して、そこを狙って論文を書く。学生から見れば、研究者としてのキャリアを作るには最適の方法だし、早く学位を取ればポストも確保しやすくなる。専門分野が明確化することで、セールスポイントも強く出せるようになる。


 しかし、研究者の養成方法が、こういうルートに絞られつつあるのは、学問研究が深化発展する可能性を狭めてしまうのではないか、そう思えてならない。


 もともと真一教での学問は、特定の分野に限定して研究するものではなかった。師について学を修めた者は、別の場所に赴いて異なる師から異なることを学び、それを修めるとまた別の場所へ移る。そして、訪れた先々で、自分の身に付けた学を他の者に伝える。学がある程度蓄積されたり、自分の中で成熟したりした時点で、それを著作としてまとめる。そういう、自由で動的なものだったはずだ。


 だからこそ、学問世界の外に居る優秀な存在、特に、専門分野に拘泥せずに、しかし新しいものを提供する論文を書ける、そういう者に、学生に、ひいては研究者になってほしいと思っていた。


 わたしが、論文を応募したのはそういう目的だったし、その目的に見合う論文を出してくれた一人の若者に対して、若手研究者としてぜひ迎え入れたいと、そういう手紙を書いたはずだったのが。


「えーと……ヤーセミンさんへの書面は、すでに発送しておりますが」


「では、ここにある、これは何だね?」


「ふうむ……おかしいですね。少々お待ちください、控えを確認してまいります」


 コンスタン大学の名で発送する重要書類については、担当書記官が内容を確認して控えを取った上で封入し、大学指定の送付業者へ移す流れになる。その控えは、事務所の倉庫にあるはずだ。いずれにせよ、ここに原本があるのはおかしい。どこかで何か行き違いでもあったのだろうか。


 まったく。コンスタンから遠く離れた、恐らくはウクリーンあたりの田舎町に住む若い女性が、他に例を見ない論文を送ってきたとなれば、いやが応でも注目を浴びる。今のところは、教授連中はアブストラクトを見ているだけで、本文までしっかり読んでいるのはわたしだけだから、今のうちに手を打っておかなければいけないというのに。


 女好きのミレンコ教授などに目をつけられれば、またも女子学生が毒牙にかかり、妾コレクションに回されるのがオチだろう。野心家のドビアディス教授なら、ヴェジール(大臣)のポスト欲しさに、王宮へ家庭教師名目で献上しかねない。東方異教徒好きのザイヌッディーン准教授だと、問答無用で妻に引き込む危険もある。田舎の若い女性を呼び寄せるという観点では、この大学など、まことに不適切な場所と言わざるを得ない。


 だからこそ、大学名を使いつつ、わたしのように年かさの研究者が保護すべきだろう。


 そういう判断は別としても、ああいう論文を書ける者に会いたい、議論したいという、研究者としての性がある。こういう大学にいれば、知識人、教養人などというものは、掃いて捨てるほど存在する。しかし、賢人、哲人と呼べる者はそうそういないし、そういう期待を持てる学生もめったにいない。だから、ぜひとも、側に置きたい。


 そんな風に思っていると、サイード君がバタバタと廊下を駆けてくる。まったく、騒がしい。


「ネジャット先生、すみません! どうやら、送付する際に手違いがあり、手紙の本体とメモが入れ替わって送付されてしまったようです!」


「何?」


「送付されたのは、こちらです!」


 なになに。


「『……ヤーセミン嬢、必ずや我が下へ置くべし、仮定雑なれど推論鋭く稀な論士たり、されど……当面は我が助手の職……多いに期待……他官競る覚悟……女子学生を集め……物足りない……妾として囲い込むのも名誉と感謝されよう……ハレムへの上納も考え得る……』って、なんじゃこりゃああああああ!」


「す、すみません。その、事務官が、メモの方を送付する書簡と勘違いした模様です」


「た、直ちに、すぐに書き直す! それを、今日中に、特急便で発送せよ! 事務方へ請求書を回してたら時間がないから、経費はわたしの私費で! 誰に取られるといけないとか、そういう次元ではない! 大学の、いや、研究者という職の名誉に関わる! あんな“回答”を文書で受領されたり……いや、あの粗雑な形式なら、正規の文書でないと理解してくれるだろうか……ああ、もう……」


 先生、そろそろ講義のお時間ですがと、事務員が声を掛けてくるが、講義などやっていられる状態ではない。そうだ、先に送付したものが届いていない可能性もあるから、この出していないものと、謝罪と釈明を含めたものの二通を用意するか。早馬を駆けさせて、少しでも時間を稼いで……。


「それにしても、あんなメモ、いったい誰が……」


「申し訳ありません、先生が書かれる内容について、念のためにと端切れ紙に書き留めたものが、送られてしまったようです」


「むう……いや、サイード君が悪いわけではない。最終確認しなかった、わたしの責任だな。ひとまず、事務長にひと言報告しておかねばならんか。まったく、頭が痛い」


 若者は、決断力も行動力もあるから、まずい情報を伝えてしまうと、とんでもない動きをすることもある。素直な娘であってくれればよいが。


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ネジャット教授は常識人なのですが、事務処理上のミスが、この物語が起きる切っ掛けになってしまいました。大学だけ妙に現代風ですが、あまり気にしないでください。

ちなみに、ネジャット教授以外にも何人かの名前が出てきますが、サイード以外の研究者たちは今後登場することはないと思います。

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