第2章 #1-7 福島殿の名が泣く

#1-7 甲斐国 要害城 大永元年十一月十三日 1521.11.13 side信虎夫人大井姫椿


「ほぎゃあほぎゃあほぎゃあ」

まあ、元気なこと、泣く子は育つといいますから。嬉しいこと。


この声はお腹が空いたようね。

二刻前に乳母の乳をたっぷり飲んだはずなのに。

まあ、私のおっぱいも泣き声に反応して張ってきているから。今度は私の番。


隣室のふすまをそっと開けると、乳母の板並がちょうど勝千代を抱き上げているところだった。


「ありがとう板並。今度は私が、勝千代に乳を与えたいのだけどいいかしら。」


「御曹司様の乳付けは、わたくしの大切なお役目!姫様は体を労わって頂きたく。」


「そんなのいいのよ。私もこの子の泣き声でおっぱいが張ってきてるから、ちゃんと飲んでもらわないとつらいの。」


「それなら、構いませぬが、きちんと養生して頂かないと困りますので。」


「大丈夫よ、初めての子じゃなし。それに我が子に乳を与えるのって幸せじゃない。」


「そうですね。特に勝千代様は凛々しい上に、乳房を口に含むと笑顔のように見える顔になるのですよ。まったく愛らしいこと。」


「まあ父親が、虎ちゃんだからね。武田の男子おのこはみなおっぱい大好きなのよ。竹松の時だって、私の乳も出ないのに物凄い勢いで吸いついたんだから。」


「まあそれは大変で御座いますね。姫様の乳房は、御屋形様のために取っておかねばなりませんから、勝千代様には私が乳を与えとうございます。」


「大丈夫、戦が終わるまでは虎ちゃんには我慢させてるから。」


「あらまあ、でも御屋形様も穴切通りに時々息抜きに通われているとか。」


「まあ虎ちゃんは基本猿だからね。しゃあないよ。勝千代はきちんとした大人になりましょうね。はいおっぱいですよ。」


「わきゃあ、はむっはむっ。」

本当にこの子も可愛いわよね。

まあ乳母が付くから、交代で乳を与えられるけど。

この子は大喰らいだから、一人だけだったら大変だったかもね。


「姫様は今勝千代の世話をしておりますゆえ、もうしばらく。」

何やら隣室から声が、火急の用事かしら?


「板並~。どうしたの。」


「はい、板垣様と、萩原様と、あともうおひとりでお三方が、姫様にご相談をと。」


もう一人とは、どなたかしら?結構な厄介ごとかもね。


私は、勝千代が満足するまで乳を与えると。


「それじゃあ板並、勝千代をお願いね。」


さすがに夜着のままでは、人前には出られないわよね。

小袖に、打掛を羽織ってと。


「ちょいと胡蝶、着付けを見てくれない~。」

さすがに家臣の前ではしっかりしないと、虎ちゃんが舐められちゃうからね。


胡蝶は、私の普段の事柄様々を見てもらっている局だけど、キチンとし過ぎているのがちょっと疲れるのよね。


「姫様、殿方など、散々待たせれば宜しいのです。キチンと白粉もはたいてからでないと。」


「そんなのいいから、どうせ相談事なんだからおめかししたってしょうがないじゃない。」


「いや武田のお北様として、常に身なりはきちんとしませんと・・・。」


「お化粧してるうちに御味方が危機に陥ったら大変じゃない。これくらいでいいわ。行くわよ。」


「はあっ。(溜息・・・)」

溜息ばっかりついてると幸せが逃げてくわよ。


「待たせたわね。でどうしたのかしら。」

座敷の間に進むと、板垣の爺と、荻原常陸介、そして、あ、こちらは不外様だ。


「これは、これは、不外様では御座いませんか。わざわざこのような山奥にまで訪ねていただき申し訳ございませぬ。」


「姫、そう猫をかぶらんでも宜しい。不外様も姫の普段はご存じだ。」

おやまあ板垣の爺ったら憎たらしい口を


「何よ、不外様に誰が話したのよ。もう失礼しちゃうわね。」

不外様が苦笑しているが、まあ良い。これは不外様はお客様ではないと気を使っての言い廻しかしら。


「不外様、先にお尋ねしておきますが。陣僧は常に中立と聞きます。

これから武田の相談事に入っても宜しいのですか?」


「これは厳しいことを。しかし今回はそもそも御屋形様が不外殿に今川軍との仲介をお願いして、向こうの陣に入っていただいた件の話じゃ。その顛末がなにやらきな臭い故、同席願った。姫もそのように承知下され。」

板垣の爺が断りを入れる。

そっか、虎ちゃんもう福島勢に降伏勧告したんだね。


「それで首尾は、良くなかったから、ここまで来たんだよね。」

私の言葉に備中守が、そっと不外様に目をやる。


「福島殿は全軍をもって、武田へ進軍するつもりでございます。」

不外様はゆっくりと私の目をまっすぐに見据えて答える。

ああ、そうか、虎ちゃんはどうするんだろう。


「お屋形様はどのように動かれましたか。」

私はそのまま板垣の爺に首を動かしじっと見据える。


「迷っておられます。」

ゆっくりと答える。


「何を迷うことが。」


「武田1500の騎馬はいつでもご出立できるよう待ち構えてございます。」

爺が答える


「お屋形様は、ここで、武田の総力をあげれば、万の足軽の屍をさらせようと。しかしそれでは福島の名が泣くと。」

そう、地理にうとい場所での会戦は機動力のある騎馬にとって地の利を得た場所。

相手はどこへ進軍しようと、武田軍は好機を見計らって攻められ、また不利と見れば素早く引くことが出来る。

大軍を移動せねばならぬ相手の動きはこちらからは筒抜けなのに、相手にはこちらの動きは全くつかめないのだ。

同じ騎馬隊で武田を牽制することが出来ない今川軍に取って、今回の大将福島の決断は、大軍を犬死させるが如き愚行に見える。


「今一度、私めが仲裁に赴くと申し上げたのですが。」

不外様は悔しそうに声を出す。


「福島殿もいまさら引けなかったようね。今の時点で降伏したら、福島家が破産するのではないかしら。」

結局万の足軽を食いつぶそうと、最終的に虎ちゃんさえ仕留めればあとは何とかなると思っているのかしら。

まあ数字の上では1頭の馬を7人の足軽で抑え込めばいいのだから、数の暴力は有効よね。

まああちらにも相当な被害は出るでしょうね。


ーちなみに、この時代の合戦に玉砕戦というのはまずあり得ない。2割も兵士が損耗したら残りの5割の兵は戦場から逃げ出すのが普通であり。今川の兵の軍規でも敵前逃亡を拒めるほどの強制力は持っていない。ー


「この場合、甲斐にとって一番善き案をお屋形様にお示し頂きたい。」

常陸介が平伏して口に出す。

もう、実はその案は考えてあるんでしょう。

こういうときばっかり私に丸投げしようとして。


「荻原常陸介、あなたは何を最上と考えるのかしら。」


「それは、おふくしまを討つが一番と、足軽など幾ら討ち倒そうと双方被害が増えるのみ。」


「そうね、常陸介が使者として、敵陣に赴き、油断を誘って福島殿を切り捨てるのが一番被害は少ないし、双方にとって幸せね。でも常陸介は仁義を知らぬ極悪人として家名は地に落ちるわね。」


「それも甲斐の民の為ならやむなし。」


「まあそこまで極端なことしなくとも今回は大丈夫でしょ。福島程度のために常陸介の名を汚すことはないわ。今川はもう動いたの?」


「いえ、しかし十日とかからず勝山城を出立するかと。」


「同じ道を戻り飯田河原を決戦城とするのからしら。」


「そのまま戻るが一番確実かと。」


「そうね、じゃあここからは申し訳ないけれど軍議になるから、不外様は席を外してくれないかしら。」


「そ、それは構いませぬが、御屋形様不在のままで軍議など。」


「話が終わったら二人から結果を聞いていただいて構いませんから。どうせ虎ちゃんに理解させるために、家臣衆全員に分かるくらい優しい言葉にする作業が必要ですから、その間にこんな策不外様にも筒抜けになってしまいますわ。」


「それなら同席しても同じであろうに。」

板垣の爺が笑いながら答える。


「いいえ、不外様は中立なお方、今川を蹴散らす企みに加わるわけには参りませぬ。それに、ほら。」

板垣の爺の後ろに目を向ける。


「ん、どうした。」


「武田の可愛い姫が、不外様に甲斐の菓子をもてなしたく、お待ちかねでございます。」


障子の向こう側に、小さな影が、供のものを連れて映っている。

「知恵、不外様をご案内して差し上げなさい。」


「はい、かかさま。ふがいさま。こちらへ。」

知恵には重すぎる障子を供の局が開くと、とてとてとお辞儀した知恵が、不外様を別室へと連れてゆく。


「さて、それならこんなのはどうかしら」

3人は、今川を迎え撃つ策を講じることとした。

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