第2章 #1-5 甲斐の民 怨嗟の泣声

#1-5 甲斐国 甲斐府中 躑躅が崎館 大永元年十一月十日 1521.11.10

 side板垣右兵衛尉信泰


目の前に座る僧の顔は苦々しげにお屋形様を睨んでいた。


「拙僧に、今川軍へ降伏勧告の使者として赴けということでございましょうか。」

不外上人様は、背筋を伸ばし、正面から対峙する。


- 不外上人は、信虎に乞われて、この時期甲府の一条小山にある一蓮寺に滞在していた。不外は遊行上人と呼ばれる、第24代の時宗総本山の住職である。

浄土真宗の一派である時衆は、踊念仏で知られる一遍上人より始まった一派であり。一般庶民へ常に念仏を唱え踊り教化を進めるそのスタイルは、後世庶民の盆踊りへと発展する元となったといわれているのだが、時衆の歴代住職は、本山の寺にとどまるのではなく全国各地で念仏を伝え歩いたことから遊行上人と呼ばれた。その時衆の僧は、一般庶民への教化だけでなく。武士の間でも、戦場を渡り歩き念仏を唱える陣僧として各地に広がっていた。-


「いかにも、福島殿の陣僧の筆頭は、拙僧の弟子である叟順そうじゅん殿と聞く。この戦の調停に最もふさわしい役とは思わぬか。」

お屋形様が(普段と違って)ゆっくりと穏やかに不外上人様に語りかける。


「一度甲斐府中から撤退したといえ、今川軍は今だ万近い軍勢を誇っております。そのような軍勢に、降伏せよとは正気の沙汰とは思えませぬ。」


「不外殿の心配もごもっともかも知れぬ。しかし、この先、いくさが始まるとどうなると不外殿は予想される。」

お屋形様が知恵者に見える。さすが夕べより備中守殿に徹夜で内容を叩き込まれた成果が上がっておる。


「今でも武田は全軍合わせ二千でしかなかろう。」

不外上人様が渋々と言った感じで話し始める。


「さよう、二千のみ、おかげで今回の武田はこの大戦でも臣下は疲労しておらぬ。」

御屋形様は二千の軍勢を少ないと言わせるのでなく、銭勘定の視点で応えた。


さよう、(結局御屋形様の知恵袋である)奥方の椿様は、今年の夏の終わり今川の甲斐侵攻を知ると、戦支度に動き始めた甲斐の国中の領主に、そのまま領内に留まることを下知した。

その結果今回の戦に武田軍として集まっているのは、お屋形様直臣のうち、甲斐府中近郊のわずか二つの領主と、十の村から徴収された300弱の足軽農民。さらに甲斐の国以外から武田に禄をはみ直臣となった外様の足軽大将のみである。


「この甲斐は今川の侵略により、田畠は荒れ、村々は焼かれ、物価は狂乱し、民は怨嗟の泣声に満ちている。」

お屋形様はいきなり甲斐の現状を語り始めた。


「・・・・。」

不外上人様は御屋形様の言葉に口を閉ざす。


「そのような状況を憂いて、民のため、不外殿は逗留していた諏訪より、わざわざ足を伸ばして頂いたのでは無かったかな。」

遊行上人は、土地に縛られないため、基本その土地を領する領主の顔を伺う必要はない。

自らの必要を感じれば、どの地域でも足を運ぶ。

今回不外上人が武田の招きに応じて甲斐を訪れたのは、大軍をもって甲斐の国を蹂躙する今井によって虐げられた甲斐の民を救い、また戦場となり命を落とした甲斐の足軽らを弔わねばならぬという、悲壮な使命感を感じてのことである。


「して、不外殿から見て、甲斐の姿はどう映った。」

御屋形様は、ゆっくりと、そして力強く問うた。


「信じられぬことであるが、民は、今川の侵攻を聞いても、黙々と稲刈りにいそしみ、日頃と変わらず蔵に米を運び、自分の村の守りすら備えない。」


「いかにも。」


「各地の領主は、自分の領地の境を閉ざし、今川にも、さらに信虎殿にも中立を唱え、全く動かぬ。さらに、今川に兵糧を請われれば商人を通じ手配までする。まるで、甲府の盆地を相撲の土俵に仕立て上げ、周りの領主は高みの見物に講じているが如き様相である。」

さすが上人、うまいたとえ話だ、そして、この戦の本質を分かっている。


「まさに、この戦、儂と、今川の相撲取りの大一番を甲斐の者全てが眺めておるのよ。」


「しかし、甲斐の物価は狂乱の相場となっておるのは事実。民草は法外な米の価格に怨嗟の声を上げておりましょう。」

不外上人様は、してやったりの御屋形様の声に、水を差すように口をはさむ


「はて、米の値が高くなって、どこの民が苦しんでおるのかな?おい信秦、どこぞ町民より訴えでも上がったか?」

まったくお屋形様も演技が上手になり申した。

とぼけた顔でこちらに振ってくる。


「いえ、町中にそのような声は皆無にございます。」

不外様、すでにあなたは術中に嵌っておられるのですよ。


「そ、そんなはずはあるまい。町中の米屋では堂々と1升を200文と売り出しがされておるではないか。平時の10倍の値でだれも米が買えぬではないか。」


「いやいや不外様。甲府の町の者は、喜んで米を銭に替えておるゆえ、米の買取は1軒当たり1俵までと制限をつけておる有様でございます。」


「まあ、甲斐の国は、今川の侵攻が9月の刈入れの時期に重なったゆえ、大騒ぎでのう。実は今年の棟別銭も徴収できておらんのだよ。」

御屋形様がさらに追い打ちをかける。


- 棟別銭とは、戦費調達などの名目により臨時に徴収される税金の一種だが、戦乱が続く戦国時代にあっては、毎年の課税のように徴収されていた。-


「はて?棟別銭とは何が関係ございますので?」

不外上人様が、いぶかしげな表情を見せる。


「いやあ、甲斐の国では今川の侵攻を聞き、皆今年は早めに米を収穫できたからのう。」

御屋形様、悪い顔をしております。少しは説明しないと。


「さようにございます。不外様。刈入れ後に米の値が暴騰したお陰で、町人はあらかじめ買い入れた米を逆に売ることで、今年の棟別銭を十分に確保でき喜んでおります。逆にもっと値上がりしないかと値踏みしておるものまでおりますぞ。」

不外上人様に、町人達が何故競って米を銭に替えたかを補足する。


いやあ、姫様よりこの策を聞いた時は、さすがにペテンではないかといぶかしんだものよ。

一度聞いただけでは理解できず、荻原常陸介を伴って、大井の里の長禅寺まで、岐秀禅師にその仕組みを尋ねに参ったからのう。

わしらでも一昼夜かけてやっと理解したものじゃ。

不外様もまったく不可思議な顔をしておるが無理もあるまい。


「米が暴騰して民が喜ぶなど聞いたこともないわ。」

まったく、儂も聞いたこともなかったわい。

当然こんなに米が高くなったことなぞ甲斐の歴史を紐解いても一度もあるまい。


「しかしそのような高い米なんぞ誰が買う。」


「不外殿が今申した通り、今川が買ってくれておるではありませぬか。」


「しかし市では今川の足軽からも1升120文で買い上げておったのだろう。」


「左様、その同じ米を十日後には、今川に200文で販売しておりますゆえ、武田の腹は何も傷みませぬぞ。」


「何しろ米は、取っておきたくとも毎食腹の中に収めねばなりませぬからのう。今川の足軽も全てを銭に変えたくとも、腹の分も取っておかねばならぬ。日がたつにつれ、高い甲斐の米も買ってくれます。いやあ、この時期に万もの人間が米を求めてくれることなどありませんでしたから甲州の穀物座はどこもホクホク顔と聞いております。」

兵は傷つけても決して殺してはならぬという策も、まったく姫様はお優しい事であると、内心馬鹿にしておった者もあるようだが、まったくもって恐ろしい策よ。

傷ついた兵も食わねばならぬは道理、1万人を二ヵ月も食い続けさせるが策となるとは思いもしなかったわい。


「今は米の話をしておるのではない。さて不外殿、このままでは今川は銭も兵糧も尽き、決死の覚悟で武田を攻めねばならなくなるぞ。」

御屋形様が話を戻す。

あの信虎様がまともなことをお話になるとは爺は、爺はうれしゅございますぞ。


「万の兵に向かってこられたら、信虎殿といえど無事では済みますまい。」


「確かに府中に一斉になだれ込まれてはたまらん。しかし今は、勝山の城に籠っておる。武田の騎馬は今も1500騎が健在ぞ。わずか府中より4里であろう。備えも碌に無い勝山の城に儂らが攻め込めばどうなる。」


「・・・。」

不外殿も理解されたようだ。この戦、馬を減らした時点で、今川は詰んでいるのだ。


「武田は別に福島殿と正面からやりあって攻め滅ぼしたい訳ではない。もとより今川が攻めてくるを仕方なしに立ち向かったのみ。非は我らにあらず。今降伏すれば、今川の足軽どもも、暖かい駿河にて年を越せよう。もちろん相応の賠償は頂くが、命あっての物種であろう。」


「・・・。」

ひととき思案しておられる。さすが思慮深いことよ。


「あいわかった。福島殿に叟順を通じて、この戦の調停、声を掛けてみよう。」

ありがたい。

できれば、福島殿がものの道理の分かってくれるものであればいいのだが。

こちらもこんな戦で、お味方を討死などさせたくはない。

ともかく早く終わらせねば戦費ぜにがかかって仕方がないのだ。

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