第1章#7-2 虎の子 武田竹松と 母

#7-2 甲斐国 府中 躑躅が崎館  大永元年九月二十五日 1521.9.25 side大井夫人椿


「かかさま・・・。」


少し思いつめたような小さな声が障子の向こうから聞こえる。


乳母に見つからないように忍んできたのかもしれないわね。


「竹松かな。どうぞお入りなさい。」


ゆっくりと障子を開け、おずおずと幼子が姿をあらわし、そーっと音を立てまいと閉める一生懸命な姿がほほえましい。


「かかさま。・・・父上は敗けてしまうのですか。」


思いつめたように、ゆっくりと、しかし真っ直ぐに私に目を合わせて言い切った。

もう5年か、思えばあっという間の5年間だったよね。


やっと、牧の姫と虎が結ばれて。

竹松が生まれて。

色々悲しいことがあって。

そんな中竹松のお陰で、猫大将が虎に生まれ変わって。

今の虎ちゃんがあるんだから人生分かんないもんよね。


「竹松。どうして父が敗けてしまうなんて思ったのかしら。」

わたしは、ゆっくりとほほ笑みながら語りかける。


「だって、駿河から今川の兵が、いっぱい押し寄せて・・・。」

5歳とは言え、家中に伝わる話をキチンと理解している。

もう赤子ではないのだなあと実感する。


「穴山の戦でも、かかさまの大井の城も攻められて、でも、国中のどの方も父上に味方してくれないって・・・。」

虎ちゃんが心配なんだなぁ。

ずーっと我慢して、泣きたくてもいつも我慢して。

私の娘たちの前では、おにいちゃんだから大丈夫ってぶるぶる唇が震えてたりして。


「そっかー、みんなそんな風に言ってるんだね。でも竹松は父様が敗けちゃうと思ってる?」


「父上は敗けませぬ。」

慌てたように竹松は声を荒げる。


「しぃぃぃっ。」

にこっと笑顔を見せて、唇の前に指を立てる。


せっかく忍んできたのに乳母の金丸の局が気づいちゃうよ。

「そうだね、・・・いい竹松。お前が生まれてから父様は戦で敗けたことがないんだよ。」


竹松の目がちょっとキラキラしてきた。


「父様はね、子どもの頃は周りの若い子ども達を引き連れて、ちょっと威張った子どもがいたら自分から真っ先に飛び込んで行って、相手が泣こうが喚こうがひっかきまわすもんだから、川田の猫大将って呼ばれてたんだよ。」


「虎じゃなくて、猫ですか?」


「そう、やんちゃなドラ猫よ。」


「どうして猫だったんですか?」


「知りたい?」


「かかさま。教えてください。」


「かかさまには一度も勝てなかったからに決まってるじゃない。

飛びかかってきたらクルクル転がって、でも身軽だからまた飛びかかってきて。

そう猫じゃらしに必死に食らいつく姿みたいで、猫大将ってあだ名をつけてあげたのよ。」


竹松が笑顔を見せる。


「でもね、お前が生まれてから父様は、お前を守れるくらい強くならなきゃって、いっぱいいっぱい努力してね。そうして父様は虎の生まれ変わりって言われるくらい強いお侍様になったの。」


「ふーん、じゃあかかさまも父様に負けちゃったの。」


「どう思う?」


「うーん、わかんないけど、かかさまの前の父様ってたしかに猫みたい。」


「ゴローンとなって喉をゴロゴロさせてるよね~。」


「でも夜中にこっそり母様のお部屋に入っていくときは虎みたいに感じるよ。」


「まあ、そんなに夜遅くまで起きてるなんて金丸の局にいいつけちゃいます。」


「ええええっ。」


「いい、竹松。父様は、竹松が大きくなって、かかさまや妹達を守れるくらい強くなるまでは決して他の人には敗けない!って、かかさまに約束してくれたの。」


「えーっ、じゃあ、竹松もかかさまを守れるように沢山つよくなる。」


「そうねえ、だから心配せずに早く寝なさい。もうすぐ裏のお山にみんなで移って、かかさまの赤子を竹松に守ってもらうんだから。」


「はいっ。今度は弟がいいなあ、妹も可愛いけど一緒に刀を練習したいんだ。」


「そうね、二人で守ってもらえば父様も猫に戻っちゃうかもね。」


少し笑いながら


「今夜は一緒におやすみする?」


「いいんですか。おなかの子がもうすぐだからかかさまにはあまり近づいてはいけないって。」


「今夜は竹松に守ってもらいたいなあ。」


「はいっ。」


竹松は嬉しそうに夜具に忍び込んできた。


さて、虎ちゃんはちゃんとやってるかな、いや、虎ちゃんと一緒に虎の名を頂いたあの悪ガキ虎軍団なら、ちゃんとうまくやるに決まってる。


騎馬で虎を追い込むなんて、昔から無理な話なのだから。

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