第1章#5-1 岐秀 と荻原常陸介
#5-1 富士川西岸大井領 長禅寺 大永元年九月十二日 1521.9.12 side荻原常陸介
岐秀 元伯(ぎしゅう げんぱく)は寺の門前に植えられた樹齢200年にもなろうかというビャクシンの古木の横で、往来を進む大八車と荷馬の流れをじっと見つめていた。
「師よ、一緒には参りませぬか。」
荻原常陸介は足軽と大井の郷総出で行う稲刈りがようやく終わりを迎える中、信虎の妻、椿の招きによりここ大井の郷長禅寺の住職となった岐秀に声を掛ける。
備中守はこれから北に3里程進んだ甘利の里へ、収穫したばかりの米と共に住民総出で避難する集団を警護する途中であった。
「福島殿の目当ては信虎殿であろう。寺に火をかける真似など、今川の殿様や奥方である寿桂尼様がお許しになるまい、心配はご無用にございます。」
ゆっくりとどこか心地良い響きの声が返ってくる。
「椿様はもう臨月とか、そちらこそ無理をしないか心配なのですが。」
岐秀は笑みを浮かべながら、自分のことを師として敬い、この地に招いてくれた愛弟子とも呼べる姫の身を案じる。
「この戦は、椿の姫がすべて段取りを付けてからややこを産むつもりでおりまする。」
備中守はやや得意げに答える。すぐにも今川2万が攻め寄せて来ようというのに、二人の佇まいは穏やかなものである。
「戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり」
岐秀はむしろ楽しそうにつぶやく
「孫子でしたかな。確かに姫様は戦わないのに勝ってしまいますな、では失礼いたします。」
「富田の城にはどちらが詰められます?」
「飯富兵部でざいます。兵部こそ富田城の恐ろしさを身に染みている武将でしょうから。」
「父上を戦で無くした城を、今度は今川を陥れるために使われるか。」
「その戦の知恵を授けたのが外ならぬ岐秀様ではございませんか。」
「私は何も授けておりませぬ。あの姫が自分で考え自分で守った城でございます。」
「その城を、今度は惜しみもなく明け渡すつもりですぞ。」
「城は奪えても人の知恵は何人にも奪えませぬからのう。この地にある本当の宝は人の知恵にございます。」
「では大切な大井の民をお預かりして行きますので。今川の皆様をご歓待いただきますようよろしくお願いいたします。」
「萩原様もたいそう人が悪い、米も馬のまぐさも、わら一束すら残さず運んでしまわれるのにどうおもてなし出来るというのでしょう。まあ良い、萩原様と姫の描いた段取り、目の前で拝見させていただきましょう。」
荻原常陸介と刈り入れたばかりの米を満載した荷車を連ねた足軽武者とそれに守られて進む大井郷の住民達は甘利の里へ向けて出発していった。
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