第8章
「今日も目覚めていない、か」
「はい」
オキツは朝夕の診察のためにシズネの元を訪れていた。しかし、オキツが診るのは眠るシズネばかりで、さすがのオキツもまいっているようだった。
「今日も容態は良好。かなり安定した状態が続いているんだけどね、それでも目を覚まさないのか」
シズネの診察を終えたオキツは、今度はユウキの頭部の診察を始めた。
「君の傷については、十分塞がったから、もう抜糸ができるね。今日の午後なら時間を空けられるからそのときに抜糸をしよう」
「わかりました。よろしくお願いします」
オキツが病室から去るのを見届けたユウキは、改めてシズネの方を見やった。
眠るシズネの顔は、本当に普通の顔だと思う。少し伸ばした黒髪に、化粧っ気のない顔。武器にできる可憐さや美しさもなければ、それらを跳ね返すような強さもない、どちらかと言えば幸の薄い顔だ。そんな儚げな子を過酷な吸血族の世界に引き込んでしまった。それどころか、本当は守るべきシズネをユウキは頼り切ってしまっていた。ユウキはその事実にただ罪悪感を感じることしかできなかった。
しばらく考え込んだ後に、ユウキはタオルを濡らすために入り口近くのシンクへ向かった。シンクの鏡を目にすると、そこには濃い隈のできた顔が映っていた。オキツに食事、睡眠、休憩をしっかり取るように言われたものの、食欲は湧かず、なかなか眠ることもできなかった。仮に眠れても、嫌な夢で飛び起きて、結局ろくに眠ることもできずに夜が明けてしまうということを繰り返していた。その代わり〝空腹〟だけは毎日はっきりと強くなっていった。
濡らしたタオルを手にシズネの元に戻ると、ユウキはシズネに被せてある布団をどかせ、シズネの体を拭く準備をした。
始めは意識がないシズネの体を勝手に拭くのは躊躇われた。一方で、生命活動をしている以上、放っておく訳にもいかなかった。しばらくの葛藤の末に、シズネの体に触ることに罪悪感が感じられるも、最終的には自分のせいでシズネはこんな目に遭わせてしまった責任感の方が勝り、ユウキはシズネの着る患者服に手をかけることになった。初めて触れるシズネの素肌に熱い気持ちが込み上げかけるも、冷たい体温に一気に現実に引き戻され、淡々とシズネの体を拭いて着替えさせた。それからは一、二日に一回程度の頻度でシズネの体を拭いている。
ユウキは慣れた手つきで少し汗ばんだシズネの体を拭いていった。肌からシズネの体温が伝わり、生きていることにほっとする。
体を拭き終わり、再びシズネに洗濯した服を着させながら、首元に視線を移した。痛々しい傷は塞がってはいるものの、それでも未だ首元には傷跡が多く残っていた。この傷跡を見ると、毎回ユウキは締め付けられる思いがした。
シズネの着替えを終えた頃には、既にお昼時を迎えていた。食欲はないものの、このままの調子では身がもたないため、後ろ髪を引かれつつも、ユウキは近くのコンビニへ向かった。
*
病室に戻ったユウキは、簡単にお昼を済ませて腹を満たしたものの、かなりの期間堪えている〝空腹〟だけは満たされることはなかった。しかし、シズネ以外から飲む気もなければ、目を覚まさないシズネから飲むこともできないため、この〝空腹〟をただ耐えるしかなかった。シズネが目を覚ますまで責任を持つこと、シズネ以外から血を飲まないこと、これらはいつか両立できなくなり、決断しなければならない日が来ることは分かっていた。いい加減決断しなければ、限界を迎えてしまうところまで来ていたが、それでも決断することができなかった。その葛藤に揺れていると、オキツが道具を携えて病室に訪れた。
「失礼するよ。頭の傷から抜糸をするけど、もう準備ができているかい?」
「あ、はい。大丈夫です」
完全に抜糸のことを忘れていたユウキは、思わず呆けた声を出してしまった。
オキツはユウキをベッドに横たわらせると、道具を広げてユウキの頭部に残る糸を丁寧に抜いていった。頭部に広がる奇妙な感覚を味わっているうちにうつらうつらしていまう。そんな睡魔と戦っているうちに、カチャリと道具を置く音で目が覚める。
「さて、頭部の傷は塞がって、後遺症も全くないから、君はもう大丈夫だね。だけど、医者として、今の不健康な様子は看過できないよ。僕が口出しできることではないとはいえ、僕たち吸血族にとって血を飲むことも立派な健康管理だ。だから、君も覚悟を決めなさい」
明らかに顔色を悪くし、目の下の隈も作っているユウキを見かねて、オキツは含みのある言い方をし、病室から立ち去った。
始めは飲んでしまったとはいえ、意識のないシズネから血を飲むのには抵抗が感じられた。血を飲むことでシズネが目覚めるのならばよいが、そう甘くはないことは身をもって痛感させられた以上、やはり意識のないシズネから血を飲むわけにはいかなかった。かといって、病院に蓄えてある血を飲むことも、シズネを裏切るような気がして、気が引けた。この〝空腹〟も限界を迎えている以上、シズネを待つには血を飲むしかなかったが、どちらを選ぶこともできずギリギリの葛藤に苛まれた。加えて、一度気が逸れて忘れていた〝空腹〟に再び襲われ、気が狂いそうだった。
冷静な思考を失い、目の前のシズネの血を飲んでしまおうかとシズネの服に手をかけたそのとき、シズネの指がぴくッと動いた。驚いて「シズネ?」と声をかけながら、シズネの顔に視線を向けると、うっすらとシズネが目を開け、ひどく乾いた声で「ユ、キ」と呟いた。
その瞬間、それまでの〝空腹〟も飛んでいき、血が昇って何も考えられなくなった。やっと感情が追い付いてきたユウキは、涙を堪えながら、「よかった……」とだけ呟いた。
「ちょっと待ってて。先生を呼んでくるから!」
シズネが起きたことをオキツに伝えるために、ユウキは慌てて病室から飛び出した。
*
オキツを連れて病室に戻ると、先ほどよりも焦点は合っているものの、シズネは未だぼんやりした表情を浮かべていた。
「シズネ、先生連れてきたから」
ユウキの声に反応したシズネは、ユウキたちの方へ視線を向けた。
「ユウキ。ここ、どこ?」
「病院だよ。覚えてる? ショッピングモールでのこと」
「ショッピング、モール……。あ……、ユウキ、怪我、血が」
しばらく間を置いた後、恐怖の表情を見せたシズネは、まだ記憶が混乱しているのか、ユウキの身を案じた。
「もう大丈夫、俺は何ともないし、シズネも起きてくれた」
「そっか」
シズネはユウキの言葉で落ち着きを取り戻したようだった。
「でも顔青いよ。血は?」
「今はシズネが先決だ。俺はまだ我慢できそうだから」
ユウキの言葉にシズネは口を閉ざした。
「それじゃあ軽く様子を見るよ」
ユウキと入れ替わるようにしてシズネの元に寄ったオキツは、携えた道具でシズネの状態を確認した。
「うん、問題はないね。だけど一週間以上寝たきりだったから軽いリハビリが必要だね。体の筋肉が固まってしまっているから、ストレッチとマッサージをすること、そして、食事は流動食からだ。それとまずは、水を飲んでおこう。難しかったら口を湿らせるだけでいいからね」
オキツはシズネの状態を考慮してか、ストローの付いたコップを差し出した。ユウキはそのコップを受け取ると、横たわるシズネの口元にストローの先を差し出した。シズネは体に力が入らないのか、時間をかけて少しずつ水を口に含んだ。
「彼女への自分の状態の説明は、また後にしよう。まだ意識が朦朧としているようだからね。意識がはっきりしたら、タイミングを見計らって説明をすればいい。僕たちの説明もね」
オキツはユウキに対して言い残し、病室を去っていった。
「体の方は大丈夫? 気になることはない?」
オキツが問題ないと言いつつも、ユウキはシズネのためにできることを探した。
「大丈夫。ユウキは?」
「俺は、大丈夫」
ユウキは心配をかけまいと大丈夫だと言ったが、正直シズネの血を飲みたくてたまらなかった。今までは意識のないシズネから飲む訳にはいかないと考えていたが、意識を取り戻したシズネを前にして、罪悪感も何もかもを捨ててただ血を飲みたいという気持ちに駆られた。
「ごめん、やっぱり〝空腹〟の限界なんだ。飲んでいい?」
「うん、いいよ」
「わかった、ありがとう」
ユウキは、体を動かせないシズネに代わって、首元を広げると、「いただきます」と呟いて、そのまま首元に喰らいついた。
普段ならシズネが合図を出して血の量をコントロールしていたが、それができない以上、ユウキが調整する必要があった。そのため、なんとか自分を律するために、ユウキは爪が食い込む程に拳を握って冷静さを保った。おおよそ今までと同じくらいの血で切り上げ、顔を上げると、やはり体調が万全ではなかったのか、シズネは静かに寝息を立てていた。ユウキはシズネの首元を元に戻すと、安心のあまり急な疲労と眠気に襲われ、そのままベッドに倒れこんだ。
*
翌朝、ユウキとシズネの病室に三人は集まった。
「さて、意識もはっきりしたようだから説明をしようか」
そう言うと、オキツはシズネとユウキの状態について、ユウキに説明したのと同じ内容をシズネに説明した。
昨日はシズネが目を覚ましたことに舞い上がっていたが、改めて自分のせいでシズネにどれほどの負担をかけたかを考えたユウキは、シズネの顔をまともに見ることができなかった。
オキツの説明の間、シズネの横顔にちらりと視線をやると、怯えの表情が伺い知れた。
「ここまでは既に説明した通りだけど、君たち二人は吸血族のことはあまりよく知らないみたいだから、そこについても説明しよう」
シズネもユウキと同じように、吸血族の呼び方が同じであることに気が付いたのか、はっとした表情を浮かべた。
「まず、僕たち吸血族はバケモノではなく、ヒトが進化しただけのヒトの亜種のような存在だということを理解してほしい。僕たちはヒトをベースにした突然変異のような存在で、血を飲むといったような特異性を持つようになったんだ」
「突然変異でこんなに数がいるものなんですか?」
突然変異というと、一人か二人くらいしか生まれなさそうだが、ユウキは少なくとも吸血族を二人前にしている。世の中に数人しかいない存在がこの短期間で一堂に会するなんて信じられなかった。それくらいなら、バケモノがあちこちで身を潜めて暮らしているとでも言われたほうが納得だった。
「なんら不思議なことではないよ。ヒトだって元々は同じ祖先からネアンデルタール人、我々ホモサピエンスに分かれたなんて言うだろう? それと同じで僕たち吸血族もヒトから分化しただけで、結構昔からいたみたいだよ」
ユウキの疑念に対して、オキツの答えはあっさりしたものだった。
シズネと生活をしていく中で、自分たち吸血族はヒトに近い存在ではないかという仮説は立てられていたものの、それはあくまで仮説であった。そのため、オキツの答えは、あっさりしていたものの自分をヒトだと認められる、そんな救いのようなものであった。
「吸血族も同じヒト」
肩に荷が下りて安堵したユウキを見て、オキツとシズネは表情をほころばせた。
「それに吸血族の体の組織だってヒトと変わらないよ。まぁ、強いて言うなら、ヒトの血を飲むために犬歯がほんの少し、鋭くなっているくらいかな。普通のヒトでも犬歯が鋭い人はいるから見分けるポイントとかにはならないけどね。ヒトと体の組織が変わらない訳だから、もちろん吸血族とヒトとで子をなすことをはできるし、その子供は吸血族であったり、普通のヒトであったりだ。まあ、吸血族同士の方が、子供が吸血族である可能性は高いけどね。かといって、普通のヒトの間からも、吸血族が生まれることはあるよ、君みたいにね。おそらく吸血族というのは、遺伝的要因で生まれるんだろうね」
一体なぜ家族の中で自分一人が吸血族なのか、今までユウキはずっと疑問に感じていた。長年抱えてきた不安に加えて、疑問をここにきてやっと解消することができた。
「だけど残念なことに、吸血族の中には、自分たちたち吸血族はヒトよりも優れた上位種であり、ヒトなんて劣等種なんて考える者たちもいる」
オキツの言葉にユウキとシズネははっとした。
「もしかして、俺みたいなヒトから突然生まれた吸血族というのは、親も吸血族だった人たちからすれば、よくない存在ということですか?」
ユウキはショッピングモールで出会った、茶髪の男の言葉を思い起こした。茶髪の男はユウキの親のことを知るなり、突然態度を変えてシズネを襲った。それが、ヒトを差別する考えに基づいているのならば合点がいった。
「あぁ、一部の者は、ヒト同士から生まれた吸血族のことを差別しているようだ」
「野良……」
シズネもショッピングモールでのことを思い出したのか、茶髪の男の言葉を呟いた。
「うん、彼らは、ヒト同士から生まれた吸血族のことを野良なんて言って差別している。だけど悪く思わないでほしい。ヒトの中でも差別があるのと同じことで、あくまで一部の者たちだけだ」
ユウキとシズネは思わず黙ってしまった。陰鬱な雰囲気に包まれそうになり、オキツは改めて切り出した。
「話を戻そう。吸血族の体はヒトとはあまり変わらないけど、大きく変わるのが人の血を栄養の一つとすることだ。だから、普通の食事に加えて、ヒトの血も摂取しないといけない。かといって、生まれたときから血が必要という訳ではないんだ」
オキツの説明には、身に覚えがあった。一方で、シズネは予想外の内容で、ちらりとユウキに視線を向けた。
「吸血族は、生まれてある程度はヒトと同じように成長し、その後吸血族として成長する。つまり、だいたい成人するまでは普通のヒトと同じように成長をするから、それまではヒトの血を飲まなくてもいいんだ。まあ、このときは少し血が美味しそうに見えるくらいだね。だけど、成人前後くらいから吸血族としての成長が始まり、普通の食事だけではなく、血も必要になってくる。それもヒトの血がね。
おそらく、君は試したんじゃないかな? 不思議なことに、他の生き物の血では僕たちの〝空腹〟は満たされない。他の生き物の血で空腹は多少紛れるが、根本的な解決にはならない。ヒトの血のみが僕たちの栄養になるんだ」
「はい、吸血族になってすぐのうちは、ヒトの血を飲むなんてと思っていました。だから、周りの目を盗んで、他の生き物の血で我慢しようとしましたが、全く効果はありませんでした。それで、ヒトの血を飲むしかないって悟って、隠れてヒトを襲って……」
シズネと会う前、血が必要になってすぐは、まさかヒトの血を飲むなんて受け入れられずに我慢をしようとしていた。葛藤があったものの最終的には〝空腹〟に負けてしまった。その後何度も血を飲むのを止めようとしたものの、結局は毎回〝空腹〟に負けてしまった自分が情けなかった。
「〝協力者〟のことも知らずにうまく血を飲んできたもんだね」
オキツは感嘆の声を漏らした。
「はは、それが失敗したおかげで、今の現状があるんですけどね」
ユウキは自虐的に苦笑した。シズネはどんな表情をすればいいのかと、困惑した表情を見せた。
「そうか。とりあえず、よかったと言っておこうか。で、ここからは僕の憶測だけど、この血を飲むという行為は周りからすれば異質で、排除されるべき存在になりかねない。かといって、君も体験した通り、正体を隠しながら血を飲むという行為はそう簡単なものじゃない。だから、自分で血を確保できるようになるまではヒトとして成長して、それから吸血族として成長することになるんだと思う。本当に僕たち吸血族はうまくできているよ」
「なんだか意図的なものを感じますね……。それくらいなら始めから血が不要であればいいのに」
「そうだね。もしかしたら、元々は人為的に生まれた存在なのかもしれないね。だけど、今となっては分からないし、そもそも種の進化というのはうまくできているものだからね」
「種の進化……。もしかしたら、いつかヒトが淘汰されて吸血族が中心となる未来が来てもおかしくないですね」
オキツが説明を始めてから口数の少なかったシズネは珍しく感想を口にした。
「そうだね、そんな未来があるかもしれないね。だけどそれは僕が生きている時代ではないことを祈るよ」
ユウキはシズネの意図を図り知れなかった。
「さて、また話がずれてしまったね。僕たち吸血族はヒトの血が必要な訳だけど、この血は僕たち吸血族に変化をもたらしているようなんだ。さっき、一部の吸血族が自分たちのことを上位種だと考えているという話はしたけど、それにも理由があって、その理由の一つが、ヒトの血による吸血族の変化なんだ。実は僕たち吸血族は血を飲むことで、優秀になるんだ」
「優秀? 協力者みたいにですか?」
オキツの言葉にピンとこない二人は首をかしげた。
「なんというのかな、協力者が何かに秀でるのに対して、僕たち吸血族の場合は、頭の回転とか運動神経とか、体が丈夫になったりするんだ。感覚としては、一集団に一人いる天才みたいなイメージかな? もちろん個人差はあるけどね」
「言われてみれば、独学だけで仕事にできる程プログラミングをマスターするなんて、そう誰でもできることじゃないよ。しかも短期間で」
ユウキと共に過ごしてきたシズネにとって、オキツの説明は納得できるものらしかったが、ユウキ本人は、オキツの優秀という言葉に未だピンと来ていなかった。
「僕はその分野に疎いから断言はできないけど、その可能性は大いにあるね。それに今回頭部に傷を負って、無事だったのも吸血族だからこそだよ」
「そっか、今まで当たり前だと思っていたことも、普通のヒトからすれば当たり前じゃないのかもしれないのか」
「うん。思わぬものが吸血族由来のものかもしれないよ。とまあ、大きな変化ではないにしろ、これだけ吸血族が血を飲むと変化が起きているとなると、体の組織に違いはないにしても、もっと細かく調べたら、違いがあるのかもしれないな」
オキツは再び一人で考察を始めそうになる。我に返ったオキツは慌てて話を戻した。
「おっと、いけない。吸血族が自分たちのことを上位種だと考えるのにはもう一つの理由があって、それは君のような協力者の存在だ」
「私ですか?」
唐突に話題に中心となったことにシズネは驚きを見せた。
「そう、君たちは眷属と呼んでいたね。吸血族は普通のヒトを自分の命令に従う協力者にすることができるんだ。これが吸血族を普通のヒトよりも上位の存在たらしめる一番の理由だよ」
「協力者ってどうやってできるんですか?」
ユウキはシズネが協力者になってしまった原因が未だにわからなかった。少なくともシズネを従わせようなんて思って過ごしたことはない。
「協力者は、吸血族が血を飲む際に体液を一定量注入することでできるんだ。だから、一人の吸血族に対して複数の協力者は作れるけど、一人の協力者に対して主となる吸血族は一人までだ」
ユウキは体液の注入なんてことはした覚えはなかった。そもそも、その方法すら知らなかったのだから、体液の注入なんてしようがない。
「でも、俺は今まで普通に血を飲んでいただけで、体液を注入しようとなんか意識していなかったはずなのに」
「まあ、本来は意識して体液を注入させるから、一度血を飲むだけで相手を協力者にできるんだけどね。君の場合はその方法を知らなかった訳だから、直接血を飲むうち気付かぬうちに少しずつ体液が混入して時間をかけて協力者になったのだろう。なにせ、僕たちが本能的に首元から直接血を飲もうとするのは、相手を協力者にするのに最も効果的だからだ。今まで血を飲んでいく中で、しっかり効果は表れてしまったんだろうね」
「そうですか、シズネから直接血を飲んでいるつもりが少しずつ体液を混入させてしまっていたんですね」
言われてみれば、シズネから血を飲んでいるつもりが、風邪をうつしてしまったことがあった。知らず知らずのうちに、血を飲むときにシズネの体に体液を混入させてしまっていたのだ。知らなかったこととはいえ、シズネの体に大きな変化をもたらしてしまった原因が日ごろの自分の行動によるものとなると、後悔してもしきれなかった。
「あとはあらかた説明した内容と被るけど、協力者になると、主である吸血族が発した命令を何よりも優先して実行するようになる。たとえそれが、自分の命を絶つような内容でもだ」
隣に座るシズネが小さく息を飲んだ。
「ただし、気を付けなければならないのは、命令を実行してただ終わりとはならないんだ。この命令を実行すると、協力者の全身に快感が襲うことになる。その結果、協力者は次の命令を求めていき、自ら主である吸血族を欲するようになり、心身共に吸血族のものになる。この命令はまるで麻薬のようなものだ。だから一部の吸血族はこれを利用して、血を飲むことを楽しんだり、正体がばれないように上手く働きかけたりするんだ」
オキツの説明に悪寒が走った。ユウキ自身はその快感というのを経験していないが、その直後のシズネは今にも堕ちていきそうな様子だった。ユウキとシズネはうまく乗り越えたとはいえ、もしシズネが快楽の虜になっていたらと考えると恐ろしかった。
「そのくらい僕たちの命令は危険で、不用意に扱うものではないんだ。その点、君たちは大丈夫かい?」
「俺たちも意図せず命令してしまうことがあって、かなり困惑しましたけど、試行錯誤の結果、コントロールできるようになりました」
「そうか、それはよかった。君も大丈夫だったかい?」
オキツはシズネ一人に真剣な面持ちで尋ねた。
「はい。溺れそうになってもユウキが止めてくれましたから」
「それはよかった」
オキツは少し間を置くと話を再開した。
「あと、もう一つ協力者について説明しておくべきことがあって、それは体に進化が起きるということだ。今回の君でいうと、脊髄の活性化と、超低血圧状態への順応といった、血を飲まれることへの耐性という進化だ。この進化は協力者が望むことであったり、吸血族が望む形であったり、いろんなタイプがある」
「血を飲まれる耐性……」
ぼんやりとシズネが繰り返した。見かねてユウキは切り出した。
「あの、協力者になったヒトを元にも戻す方法はないんですか?」
「ないよ。ただし、主である吸血族が死ねば、命令からは解放さる。それに、他の吸血族から協力者にされることはない訳だから、二度と命令を受けることはなくなる。変わってしまった身体はそのままだけどね」
「そうですか……」
シズネを元に戻す方法があればと思ったが、そんな都合のいい話があるわけもなく、ユウキは肩を落とした。そして、長時間吸血族について説明をしきったオキツは一息ついた。
「これで、吸血族について説明しておくべきことは全部かな。それと、軽くうちの病院についても説明しておこう。うちは、一般患者も受け入れているけど、元は血を必要とする吸血族のために作った病院なんだ。だから、君が駆け込んだ病院が運よく吸血族を受け入れているところだったという訳ではないんだ」
ユウキはオキツの意図が分からず、シズネを連れてこの病院に来たときのことを思い起こした。あのときは血を失ったシズネを助けるために、ただがむしゃらに走り尽くした先にこの病院を発見したはずだった。これが偶然ではないと言われても、ユウキは腑に落ちなかった。
「実はうちには吸血族が導かれるように細工があるんだ。僕たち吸血族はヒトの血の匂いに敏感ということを利用して、うちの周囲にはヒトの血がほのかに香るようにしている。普通のヒトにはわからない程度に匂いをね。
ただ、あんまり強い匂いになると、逆に警戒してしまうから、あくまで僕たち吸血族が無意識に感じ取れる程度には調整している。だから、周辺を通った吸血族は、この辺りと血を関連付けるようになる。いわゆる、サブリミナル効果みたいなものだね。その結果、吸血族関係のトラブル、例えば君たちみたいに輸血を求めた吸血族は、無意識にこの辺りに足を向けるようになるという訳だ」
「言われてみれば、どこか近くに病院がなかったかと考えながら、気付いたらこの辺りに向かっていたような……」
どうしても狐に化かされたような感覚は拭えなかった。それでも、迷いなくこの病院にたどり着いたという事実に、オキツの言葉に納得するしかなかった。
「かなりずるいように思えるかもしれないけど、吸血族にとっても、吸血族への理解がない病院に駆け込んで、騒ぎになられるより、刷り込みでもなんでも始めから吸血族への理解があったところへ行った方がいいだろう?」
たしかに、危険な状態であったシズネを連れてきた先が吸血族への理解がない病院だったとしたら、ここまで的確な治療をしてもらえなかったかもしれない。
「あとは、吸血族が血を飲みすぎてしまったと言って連れてきた患者に輸血を行ったり、ヒトから血を飲むのに抵抗があって、どうしようもなくなった者に血の提供を行っている」
意外と自分たちの似た境遇の者がいるということに、ユウキは少し安心した。隣のシズネからは表情を読み取ることができなかった。
「ここに来る吸血族は多いんですか?」
「最近は吸血族の来院はかなり多くなったよ。今も何人か来ているね。血のこと関係なしに来院する者も出てきたくらいだ。おかげで、血の消費がかなり早くなったよ。ある程度は購入すればいいけど、それだと足りないから、僕が関わったヒトや、僕の協力者の中で吸血族について理解のあるヒトから血を定期的に提供してもらっている。これは違法行為に当たるから口外はしないでおいてね」
「気を付けます」
違法行為だと言いながら、軽口にそのことを言うオキツの様子は、違法かどうかなど全く気にしてないようだった。
「それと、来院する吸血族が増えるということは持ち込まれるトラブルも増えるということだ。だから、吸血族の存在が無闇に広まらないよう適宜対応も行っている」
「それって……」
吸血族が取りうる、自分たちのことが広まらないようにする方法として、ユウキは一つしか方法が思いつかなかった。そこまで考えたユウキは一気に現実に引き戻されるような感覚がした。
「多くの場合は、口外しないように説得するんだけどね、必要に応じては協力者になってもらって、余計なことは喋らないようにしている。
そんなわけで、吸血族にとっては、訪れやすい場所にしているから、困ったことがあればうちを頼ってくれて構わないよ」
ユウキは隣に座るシズネが少し体をこわばらせたのに気が付いた。ユウキもオキツの言葉には複雑な心情だった。
いくら吸血族がヒトのことを差別せず、普通のヒトと同じように生きようとしても、その正体がばれれば、吸血族が同じヒトと言えど問題になる。平穏を守るには、吸血族の力を行使するしかない。このオキツでさえそうなのだ。どんな思いで生きようと、ヒトのことを従えなければいけないという現実はひどく残酷なものであった。
「先生は、吸血族のためだからそこまでできるんですか?」
「僕かい? 僕にはそんな大層な思いはないよ。もし僕を吸血族やヒトを助ける聖人君子だと思っているのなら、その考えは取り払ってくれ」
ユウキはオキツの予想外の反応に唖然とした。オキツは自分のためではなく、吸血族のための病院を建て、ヒトを従えている。そんなオキツが聖人君子でないと言われても納得できなかった。
「僕は元々誰かのためとかではなく、むしろ吸血族とは何か、何がヒトと違うのかを知りたくて医者になっただけだ。医者なら人体について学べるし、触れる機会も多いからね。だから医者になって、吸血族のために何かをしたことなんてなかったよ。だけど、いろいろな偶然が重なってね、せっかくだから吸血族のための病院を作ろうとなったという訳だ」
「そうなんですか」
ユウキはオキツの説明で安心した。もしオキツの行動理念が全て吸血族のためであるならば、おそらく吸血族のためならばどんな手段も選ばず、冷徹な判断をするかもしれない。しかし、オキツの行動原理は個人の興味によるものだった。それが自分たちにとって幸いなのかはわからないが、人間味を感じられてほっとするところがあった。同じくシズネも安心したのか、肩の力を抜いていた。
「とりあえず、僕から説明できることは以上かな。何か聞いておきたいことはあるかい?」
「あの、私の脊髄が活性化されたって、どの程度変わったんですか?」
「さすがに、解剖して君の脊髄を見たという訳ではないから、そこまで詳しくは分からないな。だけど、一般的に二十%の失血は命に関わると言われているが、君は半分近くの血を失っていたにも関わらず生還した。今のところそれが目安ということだ」
「そうなんですか」
オキツの答えを聞いたシズネからは感情を伺い知ることはできなかった。
これ以上、シズネが聞くことはないことを確認すると、ユウキは切り出した。
「あの、それだけ吸血族に詳しいなら、血を飲まなくても済む方法というのはなかったんですか?」
「僕が興味を持ったのはあくまで吸血族とヒトの違いについてだからね、あまりそういう目線で物事を見ていなかったよ。だけど、僕が医者として吸血族について調べる限りではその方法はなかったよ」
「そうですか……」
ユウキはオキツの言葉に落胆した。
「だからといってその方法がないとは言い切れないかな。可能性があるとすれば、細胞レベルとか、分子レベルでの研究の先にあるかもしれないね。それに今までは方法がなかったけど、吸血族がかなり増えた現代なら、その方法を見つける人が出てくるかもしれない。最近では、技術が向上しているからなおさらね。だからまだ希望を捨てなくてもいいんじゃないかな」
「そうなんですね、ありがとうございます」
そうは言っても、自分が生きている間にそこまで状況が変わるとは思えず、ユウキは苦笑いした。
「さて、随分と長時間説明してしまったね。それじゃあ、僕は仕事に戻るよ。リハビリをしてもう少し体が動くようになったら退院できるからね」
「お世話になりました」
もうこれ以上説明すべきことはないと見て、オキツは病室を去ろうとしたが、不意に足を止めた。
「あ、そうそう。今回のことはきちんと保険がきくようにごまかしておくから、費用の方はあまり気にしなくていいから」
オキツは最後に思わぬ置き土産を残して去っていった。
「お金、どうしよう」
「考えてなかった……。いや、後で考えよう」
ユウキとシズネは一気に現実に引き戻され、青ざめた。
*
「俺、ちょっと外の空気を吸ってくるよ」
オキツの説明の最中、シズネはどこかよそよそしく様子がおかしかった。オキツが去った今もシズネは一言も発さない。
そんなシズネの様子に、吸血族である自分なしの一人で考える必要があると考え、ユウキはそれとなく病室を後にした。誰もいない休憩スペースでコーヒーを飲みながら、隅のベンチに腰掛けた。
「俺はどうしたらいいんだろうな」
ユウキはオキツから聞いた話をぼんやりと思い出しながら、足元を見つめた。
オキツはヒトと吸血族には大きな違いなんてないと言っていた。たしかにユウキはその言葉で救われたが、ヒトを襲い、ヒトを支配下に置くことができる吸血族は、ヒトにとっては紛れもない脅威であることに違いはない。たとえユウキ自身が、自分が同じヒトだと受け入れられたとしても、あんな説明を聞いてシズネが吸血族である自分を受け入れてくれるはずはない。そもそも吸血族である自分とさえいなければ、協力者にならなければ、今回のことに巻き込まれずに済んだのだ。そんな目に遭えば、いくらオキツが説明をしようが吸血族に対する恐怖を拭い去ることはできるはずはない。
シズネと共にオキツの説明を聞くと決めた時から、覚悟していたつもりだが、シズネの様子を目の当たりにして、シズネから離れるべきだということを痛感させられた。最近ではこの契約じみた行為はお互いの欲求を満たすものとなっていたが、この行為の影響がわかった今はもう事情が違う。自分たち吸血族がヒトに与える影響はあまりに大きすぎた。この影響を考えると、これ以上シズネから血を飲むべきではない。かといって、オキツから血を提供してもらう、ましてや他のヒトを探すということは今までのシズネのことを裏切るような気がして気が引けた。
「もう血を飲むことを止めるしか……」
ユウキは不可能なことを理解しつつも、自分に残された道はそれしか残っていなかった。その結果、理性が失われたり、他のものを失うことになっても。どのみちシズネが目を覚ますまでの責任果たしている以上、自分がどうなろうとも問題はない。
オキツの説明した内容をあらかた消化しきった後も、ユウキはシズネを一人にするため、ぼんやりと時間を過ごした。しかし、日も暮れ始めたというのに、シズネは全く病室からでてくる気配も何もなかった。さすがに様子を見ようと、病室の前に立ったもののどんな顔をしてシズネと会えばよいのかわからず、なかなか病室に入れなかった。それでも、可能ならシズネときちんと話をしなければならないと考え、ユウキは意を決してノックをしてからドアに手をかけた。
シズネは病室の隅でブツブツと呟きながら、頭を抱え込み蹲っていた。ユウキが病室に入ってきたことには全く気が付いていないようだった。
「ごめん、シズネ」
変わり果てたシズネの様子に耐えられず、ユウキはシズネに駆け寄りながら謝った。シズネに伸ばそうとした手を慌てて戻し、ユウキはシズネの近くにしゃがみ込んだ。
「え? あ、いや、違くて、あの」
いつの間にかユウキが病室を訪れていたことで我に返ったシズネは、なんとか取り繕うとした。
「シズネ、ごめん。シズネの様子がおかしいということは気付いていたけど、そこまで思い詰めていることまで気付けなかった。あんな説明を聞いて、協力者になんかなったせいで身体まで変わってしまって、恐怖を感じない訳がないよね。ごめんね、もうシズネを怖がらせないためにも、シズネから血は飲まないから。それに、これ以上俺といたら、またシズネが傷ついてしまうかもしれないから、もう……」
「違うの!」
シズネはユウキが言い終わらないうちに声を荒げた。未だにユウキと視線を合わそうとしなかったが、シズネは何かを言いたげに口をもごもごと動かした。
「私は、今も、ユウキに血を飲まれるのは嫌、じゃない……。それに、吸血族であるユウキが怖いなんて思わない。でも違うの!」
ずっと何かを抑え込んでいたシズネは、最初はしどろもどろだったが、言葉をつなげていくうちに感情を高ぶらせ、最後に爆発させた。
「私の血はユウキのためにって思っていたのに、あんな人に無理やり飲まれて。それに、ここでなら簡単に血が手に入る。協力者も簡単に作れるなら……」
ユウキはシズネが吸血族のこと、吸血族によって体が変えられてしまったことを恐れているのだと考えていた。しかし、シズネが恐れているものは全く別のものであり、それが何かをユウキは理解した。
「俺はシズネ以外から血を飲もうなんて考えたことないよ」
「嘘だよ! 第一、他の人に血を飲まれた裏切り者の私のなんて飲みたいなんて思うはずはない。ましてや、血を飲んでほしいと思っている私なんて。これに今回のことだって、全部私が原因だ。私はユウキに愛想つかされたら……」
溢れる感情に耐えられず、シズネは涙を流しながら、声を荒げた。そして、全ての感情を出し切ったシズネは、そのまま俯いて嗚咽した。
ユウキの言葉はシズネに届かず、ユウキは泣きじゃくるシズネを見つめることしかできなかった。ユウキは、シズネの首元にひっかき傷ができていることに気が付いた。目を覚ましたときにはなかった新しい傷だった。ユウキは何をすべきかやっと悟った。
ユウキは、シズネの身を自身の方に寄せると、そのままひっかき傷の残る首元に喰らいついた。シズネはユウキの思わぬ行動に驚きの反応を示したが、そのままユウキに身を預けた。
ユウキは喰らいついた傷口から少し血を飲むと、すぐに別の場所に歯を突き立てた。まるで、傷を上書きするかのように、ユウキは何度も何度も繰り返した。
何度も喰らいつかれているというのに、シズネは身じろぎもしなかった。いくらシズネが血を飲まれることに耐性をつけたとはいえ、あまり今はまだ血を飲みすぎる訳にはいかなかった。そのため、ユウキは早々に血を飲むことを切り上げ、複数の傷口を圧迫してから、首元から口を離した。シズネはいつの間にか泣き止んでおり、ユウキはシズネの目を見つめた。
「俺はシズネ以外から血を飲む気はないよ。たしかに、シズネが他の人から血を飲まれるのは嫌だ。だけど今回は俺が不甲斐なかったせいだ。だから、そんなことで愛想をつかす訳はないよ」
「だけど……」
再び涙を浮かべそうになっているシズネの言葉をユウキは遮った。
「それに、今日の説明で血を飲む他の方法を知れたけど、俺はその方法を使う気はないよ。俺が血を飲むとしたらシズネからだけだ」
「でも、さっきしきりに血を飲まなくていい方法を聞いていたのは? 私の血を飲みたくなくなったってことじゃないの?」
「あれは、シズネが俺たち吸血族のことが怖くなったんじゃないかと思ったんだ。でも、シズネがいいのなら、俺はシズネから血を飲みたいと思っている」
「いいの? 私で?」
シズネは顔をぐしゃぐしゃにしてユウキに問いかけた。
「あぁ。今後ずっと一緒にいて血を飲ませてほしい」
ユウキは同情でも心配でもない本音を言葉にした。
「うん。ずっと私と一緒にいて血を飲んで下さい」
「あぁ、もちろんだ」
シズネは再び泣きじゃくりながらユウキの問いに答え、ユウキはそのままシズネを強く抱きしめた。
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