第4章
「ただいまー」
帰宅したシズネは玄関で一息ついて、パンプスを脱いで部屋に上がった。ほのかに赤くなった鼻だけで、外の寒さが伝わる。
「おかえり。ちょうどよかった。あと少しでご飯ができあがるところ」
「うわ、美味しそう。ありがとう」
仕事から帰宅したシズネは、台所を抜けるとエアコンの下で冷え切った体を温めながら、荷物を片付けた。その間にユウキは最後の仕上げにとりかかった。この時期は鍋で済ましがちだが、ユウキは手の込んだホワイトシチューを選んだ。
ユウキは元々料理が得意ではなかった。しかし、シズネの指導の下、料理を作っていくうちに、作れるレシピはかなり増えた。シズネの体調のためというモチベーションがあったからだろう。おかげで最近は少し凝った料理も作れるようになっていた。
ユウキが最後に味見をしている間に、片付けを終えたシズネはサラダ、パンをよそい、小テーブルに並べていく。最後にユウキが味見を終えた具沢山のシチューを小テーブルに並べて夕飯の準備が完了した。そして、いつも通りユウキとシズネの二人で食事を始めた。
「ユウキだって、仕事があるのにこんな豪華なご飯を作ってもらって申し訳ないな。今度の休日は私がご飯を作るよ」
「いいよ。もう休日はご飯を作ってくれているじゃないか」
「休日だってユウキが手伝ってくれてるじゃん。そうじゃなくて、ちゃんと私がご飯を奮うよ」
「そっか、楽しみにしているよ」
何気ない会話を交わしながら、ユウキは食事に手を付けていった。
「シズネは年末どうするの?」
年末が近づいてきた今、シズネの予定によっては頭を悩ませる必要がある。気を使わせないよう、自然に聞いてみたつもりだった。
「何も予定はないよ。元々実家に帰る訳でもないから」
「そっか」
ユウキはほっとした。安心したユウキは再び食事に箸をつけ始めた。
「そこのドレッシングを取ってもらっていい?」
ガシャン
突然箸を落としたかと思うと、シズネは小テーブルの上の皿を巻き込みながらユウキの方へ倒れこんだ。
「? はぁ、はぁ……」
ユウキは慌ててシズネの傍に寄った。床に手をついたシズネの息は、今にも過呼吸を起こしそうな程荒くなっていた。
「な⁈ どうしたんだ? とりあえず深呼吸! 息を深く吐いて!」
ユウキがシズネの背中をさすりながら、息を整えさせようとすると、シズネがビクッと体を震わせて深呼吸を始めた。幸い落とした皿が割れることはなく、怪我もないようだった。しかし、異常事態であることは明白だった。
しばらくして、シズネの様子が落ち着くのを確認するとユウキは尋ねた。
「落ち着いた?」
床に手をついた体勢のまま、シズネは弱弱しくうなずいた。体を起き上がらせようとするシズネの手助けをすると、ユウキは切り出した。
「一体どうしたの?」
「わ、からない。けど、急に体に電気が流れたみたいになって、気付いたら……」
不可解な事態に困惑しながら、ユウキはシズネが何かを手にしているのに気が付いた。
「ドレッシングの瓶……?」
「‼ そうだ。ドレッシングを取ってって言われて、急に何をおいても取らなきゃという感覚に襲われたんだ。深呼吸のときもそう……」
混乱するシズネに対して、ユウキの中で一つの仮説が浮かんだ。
「まさか俺の言葉が、シズネにとって命令になってしまっている……?」
「え……?」
「ごめん。ちょっと試すけどいい?」
「わかった」
ユウキはまだ弱弱しいままのシズネが再び倒れこんでしまわないように、自分の胸にもたれかけさせた。そしてシズネの体をしっかり支えると、命令をしようとした。しかし、手頃な命令が思いつかず、少し悩んだ後、言葉を発した。
「手を上げて」
すると、シズネは再びビクッと体を震わせた。そして、ユウキが体を支えるのもお構いなしに、手をしっかりと上げた。
「もういいよ」
ユウキがシズネに優しく言うと、シズネは一気に腕から力を抜いてぐったりとした。ユウキの命令に従ったシズネの息はまた少し荒くなっていた。
「やっぱりか……」
「うん、間違いないね……。私、ユウキの言葉でその言葉を実行しなきゃという感覚に襲われてた」
先ほどまで混乱していたシズネは、冷静さを取り戻して、自分の体に起きたことを語った。一方で、ユウキは今起きている異常な事態が、吸血族である自分のせいではないかと気が気でなかった。
「でも、なんで……。なんで急に? まさか俺に何か吸血族としての変化が起きたのか?」
「もしくは、私に何かが起きたのか……」
ヒトの血を飲むという自分がバケモノたる由縁を、シズネに受け入れてもらって、ユウキはやっと自分と向き合えるようになっていた。しかし、この現象がユウキの吸血族としての身に、変化が起きたことによるものならば、自分はさらにバケモノらしくなったということになる。ユウキはそんな不安と、何かの間違いであってほしいという葛藤で思考が覆われた。
ユウキは考え込んでいると、シズネは静かに身じろぎをした。いつ間にか、シズネの体を支えていた手に力が入って、強く腕を掴んでしまっていた。
「ごめん」
はっとしてユウキは手をどかした。我に返ったユウキは、今はシズネの身を案ずることの方が重要であると気付いた。被害を被っているシズネそっちのけで、己の心配をしている自分があさましかった。しばらく気持ちを整えた後、大きく息を吐き出した。
「とにかく今考えても仕方がないね。かといって、もう少し調べたら何かわかるかもしれないけど、今日は止めておこう。今日は休んだ方がいい」
「うん……。本当に気を付けないと、あの感覚は危ない……」
シズネは遠い目をしながら小声で呟いた。
ユウキは弱り切ったシズネを布団まで運ぶと、緊張の糸が切れたのか、シズネはあっという間に眠りに落ちた。
その様子を見届けたユウキは、荒れたテーブル周りを片付けながら、自分たちの身に起きたことについて改めて考えた。
一体なぜという疑問が真っ先に浮かんだが、考えるべきことは今後どうするかであった。まずは何よりも不用意に命令をしてしまうことを避ける必要がある。そのためには、この命令が起きる条件を明らかにする必要があった。
ユウキの言葉が誰にとっても命令になってしまうのか、誰の言葉でもシズネにとっての命令になってしまうのか、ユウキの言葉だけがシズネにだけの命令となってしまうのか。それによって対策が大きく変わってくる。根拠はないが、ユウキの言葉だけがシズネだけの命令になっているという気がした。もしそうならば、シズネと共に命令となってしまう条件を見つけてコントロールしていく必要がある。もちろん今回の件でシズネとの関係が終わらなければだが。
眠っているシズネを見て、ユウキはもう一つ気になることができた。シズネの意識がない場合、命令に効果はあるのか。疑問に思ったユウキは今のうちに試すことにした。
「笑って」
ユウキの命令に対して、シズネの様子に変化は一切見られなかった。
「とりあえず、互いに気づかぬうちに命令してしまうということはなさそうかな……」
一つ不安が解消されたユウキは安堵して、部屋の隅の布団を敷いて体を潜り込ませた。
目を閉じると目を背けていた不安がどんどんと大きくなった。もし明日からまた一人で生きていくとなったら、もう生きていける自信がなかった。今でこそ血を飲むという行為を受け入れてくれているが、いよいよバケモノらしくなってしまった自分をシズネが受け止めてくれるのか。そうなれば、新たに自分を受けて入れてくれる人はもういないだろう。この関係が終わってしまうかもしれない明日が来るのが怖かった。
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