第3章


「ヘックシ!」

 ユウキは盛大なくしゃみをしながら、体温計を服の中から取り出した。

「大丈夫? 三十八度一分って、かなり熱があるじゃん!」

 心配そうな表情を浮かべたシズネは、今にも倒れそうなユウキの体を支えた。

「ゔう。あまり人が多く集まるところには行っていない俺が、なんで体調を壊しているんだ……」

 シズネはインフルエンザも流行り始めるこの時期に毎日人の多い中を通勤している。それに対して、ユウキは在宅で仕事だ。過酷な環境に置かれたシズネを差し置いて、自分が体調を壊すということを受け入れられずに、ユウキは呻いた。

「私に布団を譲って、この時期にそんな薄い毛布一枚で寝てればそうなるよ! 一応病院に行った方がいいと思うけど、体動く?」

「大丈夫、それくらいの気力はあるよ」

 そうは言ったものの、ろくに思考も巡っておらず、その後は流されるままだった。

 シズネの呼んだタクシーに乗ると、あっという間に近くの病院まで着いた。駅まで出かけるときに見かけるこぎれいな病院だった。到着後は、インフルエンザ検査を受けて、他にもいろいろと問診をされた後、薬を処方されて帰ることになった。

 結果は陰性。ただの風邪だった。小一時間程度の診察だったが、帰宅する頃には、疲弊しきって意識が朦朧としていた。

「おやすみ」

 薄れる意識の中で、やわらかい声がした気がした。


*


 次にユウキが目を覚ますと、布団の横でシズネが毛布をかぶりながら、うつらうつらしていた。

「あ、れ。仕事は?」

 目を覚ましたシズネは、目をこすった。

「うん。今日は休みにしたから大丈夫。それにもう今日は終わりかけだよ」

 窓の方を見ると外からはオレンジ色の光が差し込んでいた。

「そっか。ありがとう」

「だいぶ顔色がよくなったね。待ってて、お粥取ってくる」

 そう言いながら、シズネは立ち上がり、部屋を出て行った。このやりとりには覚えがあった。

 ユウキはだいぶ楽になった体を起き上がらせ、思いをはせた。

 シズネと出会った日、ユウキはどうしようもない〝空腹〟に襲われた。普段ならば酔っぱらって意識のない人から血を飲んでどうにか凌いでいた。しかし、あの日は手頃の人を見つけられず、我慢の限界を超えてしまったユウキは、シズネを襲ってしまった。取返しのつかないことをしてしまったと思ったし、そんな自分に辟易した。シズネを部屋で介抱することにしたが、それが本当に罪悪感だけによるものだったかはわからない。

 自分自身がどうにかなってしまうことを覚悟して、自分がしでかしてしまったことを捨て身の想いで明かした。その結果、なんとシズネはそんなユウキの存在受け入れたのだった。

 それからは共同生活を送りながら血を飲ませてもらうことになった。そのおかげで、〝空腹〟も落ち着くようになり、生活も安定してきた。それまでは、手につかなかった仕事も、今では落ち着いて取り組めるようになっている。シズネが吸血族であるユウキを受け入れたおかげで、人間らしく生きていけるようになったのだ。

 そんなことを考えているうちに、シズネが湯気の立ったお粥を手に部屋に戻ってきていた。

「はい。お粥」

 シズネは、お粥をユウキの前の小テーブルに置いた。

「ありがとう。今回はちゃんと自分で食べられそうだ」

「ふふ。別に自力で食べられそうでも、あのときの逆で私が食べさせてあげても大丈夫だよ?」

「まぁ、悪くはないけど、俺にもプライドがあるから遠慮しておこうかな」

 そう言いながら、ユウキは手を合わせた後、お粥を手に取り、少しずつ食べ始めた。

「そんな言い方されたら、あのとき食べさせてもらった私の方が恥ずかしいよ」

 シズネも、ユウキと出会った頃のことを思い出したのか、少し頬を赤らめた。

 最近のシズネは感情が豊かになったと思う。出会った当初は喜怒哀楽が抜け落ちたようだった。今では全部をさらけ出しているという訳ではないものの、少しずつ感情を表に出していた。

 ユウキがお粥のほとんどを食べ終わるのを見て、シズネは真顔になって切り出した。

「ところで、今日は血、どうする? 体調が悪いから食欲が湧かない…‥‥いや、〝空腹〟にならないということはある?」

「残念ながら、しっかりと〝空腹〟だよ。かといって、こんなときに血を飲んだら、風邪をうつしてしまうかもしれないから、別の手段を考えないとね」

 ユウキは最後の一口を食べて、手を合わせると、皿を元の位置に置いた。そして処方された薬を水で流し込む。

 いつもならば今日は、シズネから血を飲む日である。しかし、こんな状況である以上、明日にするという選択肢もあるが、それまで〝空腹〟に耐えられる自信はあまりなかった。

「私は別にいいよ。私が風邪というならうつしてしまうかもしれないけど、ユウキが私の血を飲む訳だから、大丈夫だよ。それに、血を飲んだ方が治りが早いってこともあるんじゃない?」

「そうだね。じゃあ、お言葉に甘えて血を飲ませてもらうよ。ただ、万が一ということもあるから、今日はしっかり寝てね」

 シズネはユウキが飲みやすいように、ユウキに近づくと首元を差し出した。ユウキは小声で「いただきます」と呟くと、差し出された首元に喰らいつき、シズネに少し体重を乗せるようにして血を飲み始めた。

 いつも〝空腹〟状態で血を飲むと、無我夢中になってしまう。特にシズネの血を飲むときは、シズネがそれを許すということもあって、罪悪感というブレーキが効かなくなる。しかし、飲み終わって我に返った途端、罪悪感が呼び戻る。いつの日か、自制を完全に失ってしまえば、この関係も終わってしまう。そうなれば、やっと見つけた居場所を失うことになる。それがたまらなく怖かった。

 シズネからの合図でユウキは我に返った。まだもう少し飲みたかったが、漏れ出た血を絡めながら止血をする。

「ごちそうさま」

 ひとしきり血を飲み終えると、ユウキはシズネを布団に寝かせるために、立ち上がろうとした。

「ちょっと、何してるの?」

 ユウキの行動に驚いたシズネは、声を上げた。

「何って、シズネも血を飲まれてフラフラだろうし、しっかりと寝てもらわないと困るから」

 ユウキはシズネが驚いている意味が理解できなかった。

「だからといって、病人を布団からだして、あの薄い毛布のところでなんか寝かせられないよ!」

「俺だって、血を飲まれて体に力が入らなくて、それに風邪をうつしてしまいそうな相手をその辺で寝かせられない!」

 お互いに譲る気はないらしかった。

「それなら、二人とも布団に……!」

 二人共一つの解決方法にたどり着いた。しかし、よくよくその解決方法を想像して、口をつぐんだ。

 普段の〝食事〟で互いの距離感が近くなりがちだが、その中でもユウキはシズネにあまり触れすぎないよう極力気を付けている。なにせ、シズネとユウキは血のやり取りをする関係であって、それ以外は他人だ。

「あー、もうわかった! それじゃあ、俺が先に布団の隅で寝てるから、残りを布団が狭くなったと思って好きに使ってもらうってことにしよう!」

 このままでは平行線なので、ユウキは打開案を提示した。その場の思いつきなので、冷静に考えればあまり良案ではなかったが、それでも、意見を曲げない二人が互いに納得するには、これくらいしか思いつかなかった。

「わかった」

「ただし、ちゃんと布団で寝てくれよ。俺が途中様子を見て、その辺で寝ているなんてことがあったら……」

 せめてシズネが嫌がることを提示すればと思った。しかし、当たり障りのないものが思いつかず、そこからの言葉を切った。

「とにかく、ちゃんと布団で寝てくれよ」

 ユウキは再度シズネに念押しすると、言葉通りシングルサイズの布団の隅で横になった。日中にかなり寝てしまったせいで、寝付けないかと思ったが、いつの間にかユウキは眠り落ちていた。


*


 翌朝、ユウキが目を覚めると、その横でシズネはこちらに背を向けて静かに寝息を立てていた。その様子を見てユウキはひとまず安堵した。昨日に比べてかなり体調が回復していた。ユウキはもう起きてしまうか悩んだが、横で眠るシズネを起こさないためにそのまま布団に残った。

 もう一度眠ろうとするも、さすがにもう眠れず、しばらくぼんやりとしていた。だんだんと喉の渇きを感じたユウキは、シズネを起こさぬよう静かに起き上がった。音を立てぬよう部屋を出て、台所で蛇口からの水を一杯飲み干した。シズネより先に目が覚めた今日は、昨日の看病のお礼に朝ご飯を作ろうかと考えながら部屋に戻ると、シズネがゆっくりと起き上がろうとしていた。

「ごめん、起こしちゃった?って顔色が悪いけど、まさか……」

 起き上がったシズネの顔色は明らかに悪く、うつしてしまったことは一目瞭然だった。

「ごめん、うつっちゃったかも……。こんなつもりじゃなかったんだけどな。でも、今日は血を飲む日じゃなくてよかったかな」

 ぼんやりとしながら、シズネは枯れた声を発した。

「そんな心配はいいから、さっさと治して寝ることだけを考えて!」

 昨日シズネに看病されて、調子の戻ったユウキは、昨日と打って変わってシズネを看病することになった。 

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