第2章


「ただいま」

「あれ。シズネ、今日は早いねって、もうこんな時間か! ごめんね。まだご飯作ってなかった」

 そう言うと、ノートPCを操作していた男は書きかけのプログラムを保存して玄関の前に移った。シズネと呼ばれた女は玄関でパンプスを脱ぎながら、食材の詰まったビニール袋を手渡した。

「いいよ。ユウキも最近は仕事も増えてきて忙しいでしょ。お互い精の付くものと思って、お肉買ってきたから、それ食べよう」

 ユウキと呼ばれた男は、受け取ったビニール袋の中を確認すると答えた。

「お。いいお肉買ってきたね。それじゃあ今日はがっつり食べようか」

 シズネは、荷物をリビングに運んで簡単に着替えた。慣れた手つきで夕飯の支度を始めるユウキの傍に立つと、肉以外の総菜を用意し始めた。

 普段は、在宅プログラマーをしているユウキは、平日に仕事のシズネに代わって夕飯の支度を行っている。しかし、最近は生活も安定してきたことで、ユウキの仕事は増え、今日は珍しく夕飯を作り損ねてしまっていたらしい。

 二人は手際よく支度を終えると、小テーブルにお皿を並べた。座布団に腰を落とすと、手を合わせて各々好きな料理に手を付けた。買ってきた肉の他にも、ほうれん草の胡麻和え、あさりの味噌汁、茄子の浅漬けといった栄養バランスの取れたものが並んでいた。


*


 食事と片付けを終えた二人は、各々互いの時間を過ごしていた。ユウキは作りかけのプログラムを進め、シズネはスマホで音楽を聴きながらリラックスしていた。二人はポツポツと会話をすることはあったが、どれも当たり障りのない内容ばかりであった。

 しばらく互いの時間を過ごすと、シズネは時計をちらりと見てユウキに対して呟いた。

「今日、だよね」

「そうだね」

 ユウキがシズネの問いに答えると、シズネは布団に横たわり、部屋着の首回りを寄せて、首元を露わにした。ユウキは器用に腕を布団に立てて、シズネの身に覆いかぶさった。

「いただきます」

 ユウキはシズネの耳元で呟くと、人よりもわずかに鋭い犬歯をシズネの首元に突き立てた。喰らいついた傷口からこぼれる血をユウキは飲んだ。

 シズネはユウキと出会った日から、血を欲するユウキのために身を捧げていた。しかし、血を飲まれる度にフラフラになるため、ユウキはシズネの体調管理を申し出た。その結果、シズネは血を捧げるため、ユウキはシズネの負担を減らすために、共に生活をすることになった。

 シズネは、ユウキが自分の血を飲む度に喉が鳴るのを感じた。だんだんとユウキの体温が移って、首元に熱が帯びる。

 シズネにとってこの血を飲まれる時間は恐怖のときでも、陰鬱なときでもなかった。むしろこのときだけはいつも頭の中を回る雑念を感じることがなかった。それに自分の全てを見透かされているような不思議な感覚がした。この時間が永遠に続けばいいのにとさえ感じた。しかし、血を無我夢中で飲む度に、申し訳なさそうな表情を浮かべるユウキを見ると、そんなことを言うことはできなかった。

 いつ壊れるとも知れないこの時間の存在が、いつの間にか二人を結ぶ唯一の理由になっていた。

 しばらく血を飲んでいたユウキは、血の出が悪くなったのか、再び丁寧に犬歯を突き立て、血を飲み始めた。何度か繰り返しているうちに、脱力感を感じ始めたシズネはそれを伝えるために、ユウキの背中を軽く叩いて合図をした。すると、ユウキは名残惜しそうに血を舐めながら、丁寧に傷口を圧迫して漏れ出る血を抑えた。

「ごちそうさま」

 ユウキは〝食事〟を終えると、起き上がってシズネの上から体をどかせた。シズネは首元に残るユウキの温もりと倦怠感を感じながら、ユウキに尋ねた。

「足りそう?」

「うん。今回もいつも通り明後日までは持つと思う。シズネは体の方は大丈夫?」

「うん。ちょっと体がだるいけど、大丈夫」

 恍惚とした表情を浮かべたシズネは、ぼんやりとユウキを見つめた。ユウキはどちらかというと整った顔立ちをしている。しかし、出会った当初は、そんなことを考える余地もないほど、顔色も悪かった。それが今では、血色もよくなり、表情も明るくなっていた。


*


 この数か月の間に、シズネはユウキのこと、もとい吸血鬼のことをよく知ることとなった。この関係を続けるために、少なくともユウキのことや〝食事〟についてを知る必要があった。そこで、理知的なタイプである二人は、少しずつ相談しながら、ユウキについて知り、今後の〝食事〟方法を模索した。

 まず、ユウキは都市伝説や物語上に登場する吸血鬼とは異なり、ほとんどヒトと変わらなかった。ヒトと同じように、普通の食事をする必要があり、吸血鬼の弱点と言われるにんにくや太陽光を苦手とすることは全くなかった。唯一ヒトと異なるのが、血液を飲む必要があるということだけであった。この感覚をユウキは「デザートは別腹」と表現した。シズネが理解するのには、十分すぎるほど的確な表現だった。しかし、この血を必要とする〝空腹〟は、いくら普通の食事で腹を満たしても、デザートほど簡単には紛れることはないらしい。

 ユウキの話から、ユウキの存在について一つの結論をだした。ユウキの存在は吸血鬼のようにヒトとは完全に別種の個体ではなく、ヒトの亜種のようなものだった。そこで、ユウキのような存在を吸血鬼ではなく、あくまでヒトの一種とした吸血族と呼ぶことにした。

 〝食事〟方法については、そう簡単にいい方法が見つかることはなかった。ユウキが満足するようシズネが血を差し出しすぎれば、シズネの体調が回復するまでにかなりの時間を要することになった。一方で、血を少なくすると、ユウキの〝空腹〟が満たされず、次に血を飲むときに我慢しきれず、ユウキが血を飲みすぎることがあった。

 四苦八苦の末にユウキが〝空腹〟に耐えられ、なおかつシズネの体に負担がかかりすぎない頻度と血液量にたどり着いた。それが、〝食事〟は三日に一度、シズネが倦怠感を感じるまでの血液量であった。

 加えて、この綱渡りのような〝食事〟方法を少しでも安定させるために、シズネの体調について気に掛ける必要があった。シズネは血を飲まれることで、貧血になりやすくなる。そこで、できるだけ貧血に効く食材を選び、バランスと取れた食事を心がけ、定期的に血を飲まれても、身体に影響がでないようにした。


*


 今までのことを思い出していると、ユウキにとっての食べ物の一つである血について、ふと疑問が頭をよぎった。

「そういえば、血に美味しいとか不味いとかってあるの?」

「血の美味しさか……」

 シズネに会うまで、ユウキは〝空腹〟に耐えきれなくなると、路上の酔っぱらいの血を飲んで過ごしていたらしい。布団の隅に腰を落としていたユウキは、そのときを思い出すように口元に手を当てた。

「今まで考えたことがなかったな。今まで味わう余裕なんてなかったからかもしれないけど、味に大きな違いを感じたことはない気がする。だけど、強いて言うならのどごし?のようなものが人によって違う気がする」

「のどごし?」

 シズネは倦怠感が収まってきた体を起きあがらせながら、繰り返した。

「うーん、味の違いは分からないけど、人によって血の飲みやすさが違うんだ。のどごしがすっきりしてると血は飲みやすい。おそらく、サラサラな血液だとのどごしがすっきりってことかな」

「それじゃあ、健康的な生活を送っている人程ほど、血が飲みやすいってことなんだね」

「そうだね。あ。あと、にんにくを大量に食べた人はもう匂いがきつくて、もう血は飲めなかったかな」

 ユウキは冗談めかして、物語上の吸血鬼を暗喩した。

「ふふ。じゃあ今後はにんにく少なめで料理を作らないとね。あと、食物繊維たっぷりにした方がいいね」

「大丈夫。ここ最近健康的な食事をしているシズネの血は十分飲みやすいよ」

 ユウキはフォローするように、現在のシズネの血を褒めた。しかし、その言葉はシズネにとっては不本意なもので素直に受け取れなかった。

「せっかくだから十分飲みやすいんじゃなくて、極上くらい美味しいに越したことないよ」

 シズネは布団をかぶって、顔を隠した。

「そんな風になってしまったら、俺が血を飲むのを我慢できなくなってしまうよ」

 ユウキは部屋の電気を消しながら、シズネに声をかけた。暗い部屋の中でユウキが毛布にくるまる音がする。

「大丈夫だよ、きっとその頃には私が血を飲まれることに、今よりも慣れるだろうから。それに、少しずつ美味しくなれば、ユウキも慣れるよ」

 布団から顔を出しながら、シズネは小さく呟いた。

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