終章 茜空に誓って


 ミャアミャアと鳴くウミネコの声が、港から風に運ばれて聞こえてくる。

 南に街を見下ろし、西にパレリアをかかえたアンファール飛行場の、もっとも海へせり出した部分は絶好の夕景スポットでもある。簡素な柵があるだけのそこから、シオンは思いきり腕をふりかぶり、手ににぎっていた黒い何かを遠くへと投げた。

 それはきれいな放物線をえがいて飛び、波の彼方へ吸いこまれていく。

 シオンのかたわらで、その行方を最後まで見守っていたリュナンはぽつりとつぶやいた。

「本当によかったのかな……これで」

「さあなぁ。無用な争いの火種にさえならなけりゃ、いいと思うけどな、オレは」

 ふたりのいる位置から少し離れ、草を食んでいるフューとアマネアの様子を見ながらレイノルドが答える。

「まあ、あの男がでたらめを言ってないともかぎらないからな。オレにはなんとも言えねーけどよ」

「レイくんて、マルクさんにはやけに辛辣だよね」

 ふり向いて指摘すると、レイノルドは眉間にしわをよせた。

「そりゃそうなるだろ、あんなうさんくさいやつ。のらりくらりと言い逃れして、どこまでがうそでどこまでが本当なのか、まったくはっきりしねえ」

「そうかな。少なくともアマネアを……飛翔獣をきれいだって言ったときのマルクさんは演技じゃなかったと思うよ」

 リュナンはフューをじっと見つめた。夕暮れのあたたかな光が白い体に照り映えて、素直に美しいと思える。

 フューは視線を感じとったように顔をあげ、リュナンを見てきゅー、とひと声鳴いた。その仕草に、愛おしさで胸がいっぱいになる。

「わたしは、この子たちがいたからマルクさんの気持ちも変わったんだって思いたいな」

 レイノルドはしばし宙をにらむようにして何かを考えていたが、はあ、と嘆息して肩を落とした。

「やっぱり甘いと思う?」

「たぶんな。でも、おまえはそれでいいと思うぜ」

 ふいにレイノルドはアマネアの手綱をつかむと、シオンに声をかけた。

「オレは先にこいつら厩舎にあずけてくるわ」

「おう、頼む」

 シオンがフューの手綱をつかみ、なだめるように頭を撫でてから、レイノルドに手渡した。主人自らが渡したためか、アマネアの乗り手だからか、レイノルドに手綱をひかれてもフューは嫌がらない。

「えっ、ちょっと、レイくん?」

「もう少しそこで、のんびり夕日でも眺めてろよ。……それとも、おまえがフューたちつれて行くか?」

 レイノルドはにやりと笑い、まとめて持ったフューとアマネアの手綱をリュナンに差し出した。

「う……」

 リュナンは返答につまる。右手がしばしのあいださまよい、手綱に伸ばしかけたところで、フューと目が合った。こちらを無言で見つめる、飛翔獣の穏やかな黒い瞳。

 首をふったり、身をよじって避けるようなそぶりはない。いまなら、と思った。ともに命の危険にさらされ、乗り越えたいまなら許されるのかもしれない。

しばし葛藤したのち、結局リュナンは手を下ろした。まだ、その資格はない。

うつむくリュナンの頭を、レイノルドはぽんと軽く叩いた。シオンはそ知らぬふりで海を眺めている。

「じゃ、またあとでな」

 引き止める隙もあたえず、背中を見せたレイノルドはひらひらと手をふった。二頭をつれ、ゆっくりと飛翔獣用の厩舎へむかっていく。今日はマリーネでひと晩過ごし、明日の朝一番にまたタマラへ飛ぶのだ。

 ため息をつき、ふと隣にいるシオンに視線をやって、リュナンは唐突にふたりきりで残されたことに気づいた。

(こ、こんな急に! いったい何を話したらいいの)

 焦り、うろたえるリュナンの内情など知るはずがない。シオンは感慨に耽る様子で、赤く染まるパレリアの海を見下ろしている。

 いまが夕刻でよかった、と心底思った。頬がどうしようもなく火照っているのも、顔が赤くなっているのも、ぜんぶ夕日のせいにしてしまえる。

 だがリュナンがこれほど緊張を強いられているというのに、シオンときたらいつもとまるで同じなのだから、本当に悔しい。こうして横顔を眺めているだけで幸せな気持ちになったり、切なさに胸がしめつけられたり、心臓が勝手に走り出したり、そういうリュナンの内実には少しも気づいていないのだ。

(……ずるいなあ)

 気づいてほしいような、でも一方で、ずっと気づかないで欲しいような感情もある。幼なじみという関係に甘んじて、隣に立っていても許されるこの距離が、一番居心地がいいような気もしてる。

 ――でも。

「シオンも、マルクさんのこと信じられないって思ってる?」

「うそは言ってないかもしれない、だが本当のことも全部は話していない。俺はそんなところだと思ってるけどな」

 訊ねると、淡々とした答えが返ってきた。

「へたに話せば俺たちにも累がおよぶから、半分は釘をさしに来たんだろう。レイはそれが気に入らないんだろうが」

「うん」

 リュナンはうなずいた。

「……少なくとも、マルカート・レバノンがマリーネの人間であることはわかる」

 驚いたリュナンは「え?」と聞き返した。

「なんで断言できるの? 言葉づかいにも特にマリーネの訛りはなかったよ」

「子どものころ、街のはずれにある高台から飛翔獣が飛ぶのを見たと言ってたろ。ここから景色を見て、間違いないと確信した」

 前方に見下ろせる、残照にきらきらと輝くパレリア海を示し、シオンは言う。

「飛行場が土地の高い位置に作られているのは、三都市のなかじゃマリーネだけだ」

「…………」

 リュナンはぱちぱちと目をまたたいた。たしかにそうだ。

「だからと言って彼を抹殺しようと謀った『もと上司』がカルロ・ベルリーニとはかぎらないけどな」

「……わたしも、できたらそこは深く考えたくない」

 あのカルロという男は、何か油断ならないにおいがした。一瞬目が合ったとき、背筋がぞっとしたことを憶えている。

「ああいう男は敵に回したくないな、俺も」

「シオン。おじいちゃんとルキウスおじさまを襲った、あの機体は……」

 リュナンは言いかけ、少し迷って、結局口をつぐんだ。ホークたちを襲った機体については、なんとなく触れないほうがいいように思えた。

 シオンはきっと気づいている。だがそれを言及しないのは、マルカートにも話したとおり、確証がないからなのだろう。

 あのとき、もし敵の機体を追っていたらどうなっていただろう。なにかが変わっていただろうか。

「……飛んでりゃ、そのうちどっかで会うこともあるさ」

 しかし自分の思考はシオンには筒ぬけだったらしい。先回りした返答に、リュナンは気まずくなった。

「また、あの単葉機に出会ったときはどうしたらいいと思う?」

「それは俺にもわからん。相手が撃ってきたら逃げるしかねえだろうな」

「…………」

 珍しく、シオンがかすかな笑みを浮かべた。苦笑に近いものだったが、その表情には胸を苦しくさせるようななにかがあった。

 リュナンは息を吸いこんだ。

「あ、あのね、シオン」

「ん?」

「わ、わたしね……す、好きなの!」

 叫ぶように言うと、シオンはさすがに面食らった様子でリュナンを見返した。

「――っ、飛ぶのが!」

 間髪いれずにつけ足すと、ああ、と納得したようにうなずく。

「俺も好きだぜ」

 その瞬間、どっと体から力が抜けそうになるのを、かろうじてこらえた。

 ばか、いくじなし、なにその中途半端、とリュナンは内心で自分を罵ったが、さいわいなことにシオンはまったく気づいた様子もない。

「日没までのこの時間も飛ぶには良い時間だが、夕日が逆光だと飛行眼鏡越しでもまぶしすぎてな。意外と事故の起こりやすい時間帯だから、見習いのあいだは飛行禁止だ」

「わかった」

「夕日を見ながらの飛行はそれはそれで最高だから、いつか一人前になれたときにひとりで飛んでみろ。感動するぞ」

「……うん」

 どこかうれしそうに語るその横顔に、胸が切なくしめつけられるような思いがする。きっとたぶん今だって、彼の頭には空のことやフューのことしかなくて、隣で舞いあがってるリュナンのことなんか何ひとつ意識などしてないのだろう。でも、しょうがないよね、それがシオンなんだから。

 そういう男を、好きになったのだから。

「ねえ、シオン」

「なんだ?」

「わたしね、カーウェイには憧れとか、そういう気持ちで飛翔士目指すならやめとけ、って言われてすごく腹が立った。憧れからはじまってなにが悪いんだって。たけど実際、きのう今日と手綱はほとんどシオンに任せっぱなしだったし」

「結果的にそうなったのは面倒ごとが続いたせいもあるだろ。別におまえのせいばっかりってわけじゃ……」

「うん。でも、なんか甘かったな、って。お荷物だなって認識したの」

 言葉にした瞬間、ふっと胸のつかえがとれた気がした。なんだ、意外と気にしてたんだな、と他人事のように思う。

「おまえ、それでずっと悩んでたんだな」

 シオンの言葉にはっと顔を上げる。まさか気づかれていたのかと驚いた。シオンは自分のことなど何ひとつ気にしていないと思っていたのに。

 でも、そんなことはなかった。だって彼はリュナンの指導教官だ。自分の教えている後輩のことをまったく気にも留めないなんて、そんなことあるはずがなかった。

「テンペスタを助けるために無茶なことをしたのも、それが理由か?」

「……ううん。あれは無我夢中だっただけ」

「やめたくなったか?」

 問われて、とっさにかぶりをふった。

「この仕事が楽しいことばかりじゃないってのは、もうわかったろ」

 うん、とリュナンはうなずいた。

「つねに墜落だの事故だのの危険はつきまとうし、たちの悪いあたり屋もいる。この先もっと、怖い目にも痛い目にもあうかもしれない。きついことを言うが、命を落とす可能性だってゼロじゃない」

「うん」

「やりがいのある仕事なんて他にいくらでもある。もしかしたら、おまえがより能力を発揮できる仕事だってな。それでもか?」

「――うん」

 リュナンははっきりとうなずいた。

「憧れからはじまったけど、いいかげんな気持ちじゃないってわかった。フューもアマネアも、空を飛ぶことも好き」

 すっと息をすいこんだ。思いをこめて。

「命を懸けられるぐらい」

「…………」

 シオンはがしがしと頭をかくと、深く息を吐いた。

「……俺もレイもおまえがいいかげんな気持ちでやってるとは思ってねえよ。だいたい、きのう今日とあれだけ怖い思いして、まだ空飛ぶのが好きだって言える時点で大概だと思うぞ」

 それは、シオンがいつもそばにいたからだ――とは言えない。まだ言えない。

「なるんだよな? パレリア沿岸一の女飛翔士に」

「う……」

 ほじくりかえされ、リュナンは顔を赤らめた。正直、思い出すだけで絶叫を上げてそこらじゅうを駆けまわりたくなる。

 が、羞恥などには負けていられない。ぐっとこぶしをにぎりしめ、決然と顔をあげた。

「なりたい。ううん、なる!」

絶対、あきらめない。

「――よし」

 瞳にこめた決意の色を認め、シオンはリュナンの頭を思いっきりぐしゃぐしゃにした。

「ちょっと、何すんのシオン!」

「俺は運び屋だからな。今さらお荷物がひとつやふたつ増えようが、どうってことはねえ。それよりも、俺からでもレイからでもじいさんからでもどんどん技術を盗んで、はやく一人前になれよ」

 髪を鳥の巣状態にされて、リュナンは文句のひとつでも言ってやりたかった。だが、シオンがあまりに嬉しそうに笑っているものだから、何も言えなくなってしまった。

 本当に反則じゃないか、そういうの。

「ね、ねえ。それって、とりあえずはわたし、今回の試験で合格点もらったと思っていいの?」

「技術的にはまだまだ半人前以下だけどな。覚悟は決まったろ」

 よかった、と安堵で全身から力がぬけそうになった。これからも、飛翔士を目指していいんだ。

 シオンを好きなまま、彼の背中を追いつづけてもいいんだ。

「おまえのその肝の座ったところとか思いきりのよさは、やっぱりじいさん譲りだな」

「そ、そう?」

 髪をなおしながら、動揺を隠すようにリュナンはそっぽを向く。いくつもの感情が複雑に入り乱れて、これ以上見ていたら泣いてしまいそうだった。

「でもな、飛翔士目指そうなんて人間は、無鉄砲なくらいでちょうどいいんだ。命知らずなぐらい空を飛ぶことが好きなバカだけが、あの場所へ行けるんだよ」

「……そういうもの?」

「そういうもんだ。あと言っとくが、俺も最初は憧れからだったぞ」

「えっ、本当に?」

 リュナンはシオンをふり向いた。それは初耳だ。

「ああ。フューが……よちよち歩いていたあいつがはじめて翼をひろげて空を飛んだとき、どれだけ憧れたし羨ましいと思ったか。あいつが自由に飛べる空へ俺も行ってみたいと思った。――そこからだ、俺も」

 そうか、とリュナンは思った。同じだったのだ、彼も。

「夢や目標なんてものはな、原石と同じだ。憧れだろうがなんだろうが、磨いていきゃ本物になるし、あきらめたらあっという間にくもって、ただの石ころにもどっちまう。あきらめずに磨きつづけたやつだけが、本物の珠を手にできるんだよ。俺は、そう思ってる」

 少し驚いた。シオンがこんな風に、夢のことを饒舌に話すことなど今までなかった。

「シオンはあきらめたいと思ったことはある?」

 いや、とシオンは首をふった。

「いまのところはないな。おまえのじいさんみたいなすごいやつが空にはまだまだいっぱいいるからな。追いつくことばっかりで、あきらめてるひまもねえよ」

 リュナンは笑った。あきらめてるひまなどない。本当にそのとおりだ。

 ぐっと首をすくめ、小さく肩をふるわせていると、シオンが怪訝な顔をした。

「どうした?」

「……ううん、なんか無性に走り出したくなっちゃって」

 シオンはふうん、と相槌をうち、それからにやりと笑った。

「じゃ、競争な」

「へっ?」

「レイがいる厩舎まで走って競争。勝ったほうが明日手綱を持つ。それでどうだ?」

「あ、えっ、ええっ?」

 リュナンが提案を飲みこめずにいる間に、シオンは突然夕日に背をむけて走り出した。

「ああっ、ずるい!」

「ずるくねえよ、真剣勝負だからな!」

 リュナンはすぐさま彼の背中を追って走り出した。

「あんまりとろとろしてっと、手綱わたさねえぞー!」

 余裕まじりの声がどんどんと先へ行く。リュナンは泣きたいような、大声で笑い出したいような、前を走る背中に抱きつきたいような複雑な感情のまま、必死で手足を動かした。

 海から吹く追い風が、その気持ちを後押しするかのように強く優しく体を前に押し出してくれる。前へ、前へ。

 重力というくびきからとき放たれ、空へ空へ。

 じっとしている時間などない。走りたい気持ちのまま、走っていけばいい。目指す場所ははるかに遠く、容易に手の届かないあの高みなのだから。

「……もおおおっ、この空バカあああっ!」

 アンファール飛行場に、リュナンの絶叫が風に乗ってこだまする。

 ちょうど厩舎からむかえに出て来たもうひとりの空バカが、おまえら元気だなあ、と呆れたように笑っている。

 ひと晩休んで、朝日が昇って、空が晴れたらまた仕事。

 明日もきっと、いい風が吹くだろう。

 前途多難、もしくは前途洋洋な彼らの様子を、東の空にのぼった一番星がきらきらと輝きながら見下ろしていた。






(完)

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南海の翼 グランテイル物語 朝羽 @asaba202109

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