第七章 灰色の間諜
思わぬ事件に遭遇したため、その後の仕事がずれこみ、シオンたちがパニッツアに到着したのは正午を大幅にすぎたころだった。大急ぎでパニッツアの商会本部で荷物をおろし、昼食もそこそこにしてふたたび荷を積みこみ、すぐにマリーネへ飛んだ。
ようやくマリーネの支部に着いたのは、太陽が西の空からそろそろ傾きだそうというころだった。
「おつかれ。あんたたちにお客が見えてるよ」
「……客?」
到着したとたん、むかえに出たジュディスがそう言ったので、リュナンたちは顔を見合わせることになった。
「誰だ?」
「さあ、それがよくわからないんだよ。帽子を目深にかぶってボソボソ喋る、妙な風体の男だ。最初は物乞いかと勘違いしたくらいでね。追い出そうかとも思ったんだけど」
「そんな妙なやつ、なんで商会のなかに入れたりしたんだよ」
危ないだろ、と呆れたように言うレイノルドに、ジュディスはからからと笑った。
「もちろん、一応物騒なものでも持ってないか調べさせてもらったよ。それに、相手はひとりだからね。この商会の荷役たちがみんな腕自慢だってこと、あんたたちも知ってるだろ?」
このジュディスもふくめて、とこぶしで胸を叩かれては納得するしかない。
「まあ、そりゃそうだけどよ」
「それに、なんていってもあんたたちの名前を知ってたからね」
「は? オレの?」
レイノルドが自分を指さすと、ジュディスは首をふった。リュナンとシオンを指さし、「あんたたち」と言う。
「……わたしとシオン?」
「そうだよ」
「え、なんでオレだけ仲間はずれ?」
差別だ、と不平を述べるレイノルドを尻目に、リュナンとシオンは顔を見合わせ、ふたりそろって首をかしげたのだった。
三人そろって商会の応接室にでむくと、猫背気味に体をかがめ、来客用のソファに腰かけていた男がすっくと立ち上がった。
ジュディスの言ったとおり、室内であるにもかかわらず帽子を目深にかぶっており、首にはスカーフを巻いて口元を隠していた。身なりはあまり裕福そうには見えない。
たったひとつ目をひいたのは、帽子の下からわずかにのぞく髪が見事な赤毛だったことだ。――まるで、染料で染めたような。
その色を見たとたん、リュナンの脳裏にピンと閃くものがあった。
「あっ、あなた、まさかあのときのスリ!?」
唐突にリュナンがあげた声に、シオンとレイノルドが驚いてこちらをふり返る。
はたして、謎の男はかぶっていた帽子を脱ぎ、胸元にあてると、丁寧な仕草でお辞儀をした。
「お久しぶりです、みなさん。その節はどうも」
そして、顔をあげた男はリュナンたちにも見覚えのある――だが、完全に予想外の人物だった。
「「ああっ!」」
異口同音に声をあげたのは、シオンとリュナンだった。
「あなたは!」
「マルクさん!?」
ファンヴィーノの崖道で言葉をかわした男は、にっこりとほほ笑んでうなずいた。
「はい」
「ということは、あんたが暴走馬車に乗ってた人か。シオンたちに荷物を押しつけたって聞いたけど……、ってあれ? じゃあ、なんでこのひとがスリなんだ?」
冷静なレイノルドが首をかしげ、なんかおかしくないか、とリュナンに確認をうながした。
「そ、それはそうだけど……でも」
まちがいないと、リュナンの勘は告げていた。
困ったリュナンを慮るかのように、沈黙が落ちたところを見はからってマルカートが言った。
「そちらについては僕からご説明いたしましょう」
宙に書かれた文字を読むように、彼の視線があちこちをさまよった。
「でも、そうですねえ。まずは何からお話したらいいのか……。とりあえず立ったままではなんですから、座ってもかまいませんか?」
「どうぞ」
シオンがうなずいた。来客用のソファにマルカートが腰かけ、その向かいに三人が並んで座る。このところ、なぜかこの構図で座る機会が増えた気がする。
一同が落ちついたところで、リュナンがはい、と挙手した。
「なんでしょう? リュナンさん」
リュナンはさきほどからずっと気にかかっていたことを訊ねた。
「マルクさんの髪の色、たしか茶色だったと思うんですが……その真っ赤な髪は、あの、一体どういうご事情で」
ああ、とマルカートはうなずいた。
「お察しのとおり、あなたから頂戴したきつーいお仕置きの結果ですよ。石でもぶつけられたのかと思ったぐらい、実に痛かった」
「えーと、す、すみません……?」
謝るのも妙な気がしたが、リュナンは反射的に頭をさげた。
「最初はトウガラシの粉か何かと思ったので、水で洗い流そうとしたらかえって染まってしまってね。結局落ちずじまいですよ。あきらめて全部染めちゃいました。おかげで目立って仕方ないんですが」
ファッジはトウガラシやコショウなどの香辛料だけでなく、染粉などのありとあらゆる粉末を混ぜたと言っていたので、簡単には落ちないものだったのだろう。だからといって何も真っ赤に染めなくともいいのではないか、とリュナンは思う。それとも皮肉のつもりなのかもしれないが。
「では、やはりあなたがあのときのスリなんですね。俺たちに荷物を預けておいて、どうしてそんな回りくどいことをされたんですか?」
訊ねるシオンに、マルカートはこほん、とちいさく咳払いした。
「退屈かと思いますが、釈明のためにまずは僕の身上からお話しさせて頂きましょう。僕は、おおやけには存在しない人間なんです。ここまでくればお気づきでしょうが、マルカート・レバノンという名前も偽名です」
「住所も届け先もな」
ぽつりとつけたしたレイノルドに、マルカートはばつが悪そうに笑った。
「無駄足を踏ませてしまってすみませんでした。ただ、一度では失敗する可能性もあったので、なるべく機会を増やしておきたかったんです。僕が失敗したら、別の通りの角で別の人間がシオンさんの懐に手を入れる予定になっていました」
なるほどな、と一応納得したのかレイノルドが皮肉げに笑う。
「あんたの腕がよかったから、一回ですんだわけだ」
「ええまあ」
あっさりとした肯定に、厭味が不発に終わったレイノルドは不機嫌な顔になった。
「けど、よく先回りができましたね。崖道で別れてから、俺たちをマリーネで出迎えるのは難しかったのでは? 俺たちもスフルで時間つぶしたり、商会へよったりしてましたけど」
「五分五分の賭けでしたが、なんとか間に合いました。スフルの方に助けてもらったあと、すぐにマリーネへ飛んでくれる人間を探したんです。さいわいあそこは中継地ですから、飛行士には事欠きません。礼をはずむと伝えれば、何人か立候補してくださいましたよ」
「それならやっぱり、どうしてわたしたちに荷物を預けたんですか? 預けた荷物を本人がわざわざ掏りに来るなんて、意味がわかりません」
腹立たしくて、きつい物言いになってしまった。騙されたことに対する怒りなのか、道理の通らないことへの苛立ちなのか、おそらくその両方だ。
「リュナンさんのお怒りはもっともです。僕としてもあなた方を巻きこむのは不本意だったのですが……、あのときは、保険のつもりだったんですよ」
「保険?」
リュナンのみならず、シオン、レイノルドも同時に声をそろえた。
「ええ。僕は本当ならあの崖道で殺されるはずだったので」
マルカートの言葉に、リュナンははっと息をのんだ。
「飼葉に毒ですか」
冷静なシオンの指摘に、マルカートが感嘆した様子で目をみはる。
「お気づきでしたか。ええ、そうです。馬車の暴走に見せかけた『殺人』でした。幸い、未遂に終わりましたが」
「ど、どうしてマルクさんが……?」
「理由はおいおい説明していきます。とにかく、あのときあなた方が偶然通りがかって助けてくださらなければ、僕は崖から転落して死んでいたでしょう。そして、いまここに居る僕も存在しなかった。そう仮定してくださいませんか」
神妙な表情でリュナンはうなずいた。
「僕が事故で死んだあと、必要になるのは死体を回収する人間です。つまりあのとき、死の見届け人であり、死体の第一発見者となる人間が近くに潜んでいる可能性があった。もし、もう一度命を狙われたら、せめてあれだけは手元から離して信頼できる誰かにあずけておく必要があったんです」
「え……?」
「僕は『行方不明者』ではなく『事故死した人間』として、必ず発見されなくてはならなかった。なぜか? 理由は、タマラ市章の入ったあの書類を持っていたから、です」
リュナンたちが話を飲みこむのを待って、マルカートは先を続けた。
「そして、僕の遺体はパニッツアで発見される必要があった。スフル以北は今のところ、パニッツアの管轄に入りますからね。身元不明の僕の『死体』は当然、パニッツアに一時あずけられることになります」
リュナンは隣に座るレイノルドに、「そうなの?」と目で訊ねた。彼はかすかにうなずいて肯定を示した。
「航空規定にも書いてあるぞ。ちゃんと読んどけ」
「身元を保証するものをひとつも持たず、持ち物といえばタマラ市章の入った文書筒らしきものだけ。僕の死体が運ばれた先がどこであれ、あの文書筒は開封されるでしょう。なかには紙切れが一枚入っています。それは誰にあてたもので、なんと書かれていたか?」
おわかりになりますかねと、いかにも軽い調子でマルカートは言う。さっぱりわからず、リュナンとレイノルドはぶんぶんと首を横にふった。
「……あくまで推測の域でいいなら」
ぽつりと答えたのはシオンだった。
「内容は……そうですね、もっと親密な関係になりたいということを婉曲な言い回し、あるいはもっと直接的に書かれたもの。もしくは俗っぽく恋文だと匂わせてもいい。そして、あて先は他ならぬマリーネ市長、カルロ・ベルリーニ」
リュナンはぎょっと目をみはった。だがそれはマルカートも同様だったようだ。
「驚きました。どうしておわかりになったんです?」
「わかったわけではありません、たんなる推測です。それにマルクさん、あなたがさっき言った『おおやけには存在しない人間』という言葉がひっかかった。おおやけには存在しない、名前を持たない、そして何者かに事故と見せかけて殺される可能性のある人間とはどういう人間なのか、考えてみました」
淡々と言葉をつらねるシオンに、マルカートは浮かべた笑みをどんどん深くしていく。
「それで、答えは出ましたか?」
「――
できのいい生徒に点数をつける教師のように、マルカートは満足げな様子で目を細めた。
「って、つまり、え、ええええ――!? ……マ、マルクさんがスむぐぐ」
仰天のあまり、声を荒げかけたリュナンのくちびるを、慌てて男たちが両脇からおさえにかかる。
「だから声がでかいって!」
「いいかげんにしろよおまえは!」
「……ご、ごめんなさい」
しゅんとうな垂れると、今度は彼らもさっさと解放してくれた。
「でも、本当なんですか? 失礼ですけど……マルクさん、そういう職業の人にはとても見えません」
遠慮のないリュナンの意見に、マルカートはさすがに笑うしかないようだった。
「そりゃ、見えたら困りますよ。むしろ似合わないほうがばれにくいでしょう、裏の仕事は特に」
「はあ。そういうものなんですか」
「そういうものなんです」
マルカートは深くうなずいた。
「話をもとに……いや、むしろ進めましょうか。まあ、いろいろすっ飛ばして僕がそういった日陰の活動を行う人間だとしましょう。身元不明の人間が原因不明の死を遂げ、パニッツアで死体が発見される。所持品はいかにも裏のありそうな文書筒のみ。内容は――親密さをうながすもので、あて先はマリーネの市長。おまけに、ここまでいくとむしろやりすぎの感はありますが、文書にはタマラの市章が入っている。まさか個人的な恋文に市章など使うはずもないですが、役人であれば無視できないでしょう。これほどのお膳立てがあれば、遠からずパニッツア市の中枢にまでうわさなり密告なりが届きます。それで果たされる目的は何か」
あっと声をあげたのはレイノルドだった。
「シオン、前におまえの言ってたあれか! 疑心暗鬼ってやつか」
「……疑心暗鬼?」
意味がわからずきょとんとするリュナンだが、マルカートはそのとおり、と褒め称えた。
「公的文書――かどうかもわからない、むしろクサすぎる文書を持った人間が不審死を遂げたところで、すぐに同盟間での裏切りだと判断する人間は少ないでしょう。できるとすればせいぜい、疑心暗鬼をばらまくことぐらい」
「けど、逆に言えば」
と、シオンがここで口をはさんだ。
「疑心暗鬼をばらまくことはできる」
快哉をあげたのはマルカートである。
「そう、そこまでが第一段階です」
「第一段階?」
「つまり、第二段階があるってことか?」
リュナン、レイノルドが疑問を呈したのを見、マルカートはシオンに視線を移した。シオンはしばし口をつぐみ、ややあって、気は進まないという顔で答えた。
「タマラでの極秘会議。そしてその帰路で、バルトリード市長が謎の襲撃を受ける。それが第二段階。違いますか」
あっ、とリュナンは声をあげた。
まさか、あの事件こそが――?
「いやはや、お若いのにあなたは実に柔軟な発想をお持ちだ。思考の飛躍も職業柄か得意でいらっしゃる」
「…………」
「厭味ではありません、褒めているんですよ。誤解なさらないよう」
シオンは低い声でどうも、と返した。
「そう、シオンさんの言うとおり、それが第二の段階になるはずでした。タマラからの帰路で、何者かがバルトリード市長を襲撃。一撃で撃墜できれば完璧ですが、まあそうはうまく事は運びません。墜落させて、海にでも落とせば御の字だ。救助されたとしても、まったくの無傷というわけにはいかないでしょう。盟主であるかの『獅子の牙』を多少なりとも削ぐことはできる」
ですが、とマルカートは肩をすくめた。
「結果はごらんのとおり。第一段階も第二段階も予期せぬ異分子のために計画は見事失敗に終わりました。どちらも、あなたたちが偶然関わったためにね」
ぞくりと、リュナンの背中に冷たいものが走った。禁断の秘密に触れたときのような、あるいは開けてはいけない箱の蓋に手をかけてしまったかのような――。
いやな緊張に、どくどくと鼓動が早まる。
「このままさらに仮定の話をすすめますが、バルトリード市長の命が危うくなったとしましょう。市長を欠いた市議会がどう考えるか、です。怨恨か、反市議会の組織か、あるいは同盟相手であるタマラかマリーネか。そこで伏線として生きてくるのが計画の第一段階です」
「なるほど、タマラがマリーネに擦り寄っているのではないかと思わせる『疑心暗鬼』か。そこまでいくと、たかが猜疑心と言っていられないな」
レイノルドは厳しい顔つきで考えこんだ。
「推測ついでにもうひとつ、訊きたいことがあります」
シオンが問い、マルカートがどうぞと促した。
「タマラ市長のご息女であるオルビアさんを利用することも、その計画にはふくまれているんじゃないですか?」
「ほう。その考えに至った根拠は?」
マルカートは興が乗ってきたように、シオンのほうへ身を乗り出した。
「実際にベルリーニ市長とオルビアさんを目にする機会があったからです。オルビアさんにはその気はないようでしたが、市長はわざと多数の人間の目につくように、熱心にオルビアさんを口説いているように見えました」
リュナンはオルビアとカルロ・ベルリーニのやりとりを思い出した。たしかに、市長のような立場のある人間なら、通常ああいったことは人目を憚るものだろう。
当人たちの間には甘いロマンス的な要素などかけらもなさそうだったが、第三者が遠くから眺めているぶんには、つれない女性と熱心な求婚者に見えてもおかしくない。
シオンは淡々と続けた。
「口実をつくってオルビアさんをマリーネに迎え、時機を読んでゴシップ誌にでも情報を流す。紙面ではマリーネ市長とタマラ市長の娘の恋が盛んに書きたてられるでしょう。その結果、マリーネとタマラの結びつきがより強固になったような『印象』を世間の人が受けるように」
ああ、とリュナンは思った。
「だから恋文を匂わせたってこと? でも、オルビアさんはマリーネの市長のこと、全然好きじゃなさそうだったけど」
「そのへんはなんとでもなる。最初はつれなかった女性のほうが、熱心に口説かれて心変わりしたとでも書けばいい。本人の意思は関係ねえよ、『世間の人間がどう思うか』が重要だからな」
レイノルドが舌打ちでもするかのように、苦い顔で吐き捨てる。
「ただ、計画と呼ぶにはあまりにも不確定要素が多すぎるのが気になる。確実性がないというか。ルキウス市長を襲ったのだってそうだ、杜撰すぎる」
シオンの言葉に、マルカートが苦笑しながらもうなずいた。
「僕の目から見ても穴だらけの計画ですよ。しかし不確定要素だけをばらまくだけばらまいて、あとはその要素がどんな模様をえがくのか、面白がって眺めているような人間もいるんです。まあ、僕の上司……もと上司の話ですが」
「面白がって? そんな、まるで遊びでもしてるみたいに……」
「本人にとっては、もしかするとゲームの延長なのかもしれませんね」
鋭く目をすがめ、レイノルドがマルカートをにらみつける。
「あんたのその上司とやらだが――」
「おっと」
手で何かを押しとどめる仕草をし、マルカートはさえぎった。
「それ以上詮索しないことをおすすめしますよ。あなただけでなくここにいるおふたりも危険にさらされる。あるいは、この商会ごとね」
レイノルドは悔しげな表情で沈黙した。さきほどからマルカートは、決定的なこと――たとえば首謀者の名前などについては、何も触れていない。黙って考えごとをしていたシオンがふと顔をあげた。
「マルクさんはその段階とやらをどこまで知ってたんですか?」
「どこまで――とは、どういう意味でしょう」
「計画の通りなら、あなたは最初の事故で亡くなっていたことになります。つまり、あなたが亡くなったあと、第二段階以降の計画は知りようがない」
「ああなるほど、そういう意味ですか。大部分は推察ですが、僕は僕で独自の情報網を持っているので繋ぎあわせることは可能です。それに、僕はもと上司の性格を知っていますから」
「では、あなたは計画の全容を知っているわけではないのですね?」
念を押すようなシオンに、マルカートは怪訝な顔をした。
「……と言うと?」
「ルキウス市長と、ホーク・アースライトの乗った〈テンペスタ〉を襲撃した人間を、マルクさんはご存知ですか」
リュナンは息をとめた。シオンとマルカートが真正面からにらみ合うのを、固唾をのんで見守る。
「そうですね、僕も名前まではしりません。世の中には金さえ積めば犯罪も辞さない人間も多く存在しますからね。それに、空という分野においては、僕よりもあなたがたのほうが手がかりは多いと思いますよ」
「手がかりはあります。ただ――確証がない」
「確証を得て、それからどうします?」
マルカートはずばりと切りこんできた。
「犯人をつきとめて、あなたがたはどうしたいんですか? 通報か、あるいは報復でもしますか」
「…………」
「これ以上藪をつつくのはおすすめしません。すでにあなた方はじゅうぶんこの件に巻きこまれている。望むと望まざるにも関わらずね」
「それなら、どうしてあたしたちの前にあらわれたんですか?」
我慢できず、リュナンは詰問した。
思わず責めるような口調になってしまったのは、悔しかったからだ。勝手にまきこんでおいて、相手の不利になる情報だけは隠されたまま説明をされても、リュナンたちだって納得がいかない。賛同するようにレイノルドがうなずいた。
「そうだ。黙って行方をくらませる選択だってあったはずだぜ」
たたみかけられ、マルカートは心外だとでも言いたげな表情になる。
「憶えておられないかもしれませんが、別れぎわに僕は『また会えたときに、お礼をさせてもらいます』と言いましたよ。不本意にもまきこまれたあなたたちに、せめて概要だけでもお伝えしようと思ったまでです。本音を言えば、勝手に調べられても困るという理由もありますが」
「これがその礼だって?」
レイノルドがふんと鼻を鳴らす。
「今まであんたが語ったことが真実だとどうして信じられるんだ? でっち上げかもしれねえのに」
「たしかに、全部虚偽かもしれませんね。信じる信じないは、もちろんあなたがたの勝手です」
次に口をひらいたのはシオンだった。
「マルクさんはこれからどうするつもりなんですか?」
「そうですねえ、一度殺されかけた身で元いた場所へは戻れませんし、潜伏しようにも三都市の外へ出るしかないでしょうね。ブリギオン外海を渡って新大陸へむかうのもいい。どうせこの目立つ頭では隠密行動には不向きでしょうから」
「……それなら赤じゃなく、いっそ黒にでも染めればよかったのに」
ぼそりとしたリュナンのつぶやきはきれいに無視される。
「きっかけを与えてくださったことに感謝しますよ。これでようやく、踏ん切りがつきました」
マルカートはにっこりと笑った。
「踏ん切り? 間諜から足を洗う気か?」
「いいえ。今さら真っ当な人生を歩めるとは、さすがに僕も思ってません。警邏につき出したいならどうぞ。ただし、そのときは僕も全力で抵抗させてもらいますよ」
得体の知れない笑みが不気味だった。こうしてのこのことひとりでやってきたのだ、マルカートにも逃げおおせる自信があるのだろう。
「感謝のしるしに、これはお渡ししておきます」
懐に手を入れたマルカートは、シオンに向かって黒い筒をさし出した。見覚えのある文書筒だったが、封印は破られた跡がある。
「…………」
シオンが無言でそれを受けとると、かたい何かが入っている音がした。真意を問うように彼を見つめると、マルカートはうなずいた。
「入ってるのは精巧に作られた偽造印です。よほどの目を持つ人間でないと、見破るのはむずかしいでしょう。それをどうするかはあなたたちの判断に委ねます。文書のほうは破棄してありますから、筒ごとタマラの誰かに渡すのもよし、あるいは海に捨ててくださってもかまいません」
「……参考までに訊きますが、あなたはどうしたかったんですか」
低い声音で問いただすシオンに、マルカートは形容しがたい微笑を浮かべた。はかない、と表現するのがいちばん近いかもしれない。
「僕はね、他人よりも情のうすい人間なんです。比喩ではなく。正直、三都市間で争いが勃発しようが、その結果市民がどうなろうが別にどうでもいいと思っていました。本気でね」
「どうでも……!?」
かっとしかけたリュナンだったが、さきほどの失態を思い出し、つとめて冷静になるよう呼吸を整えた。
「どうでもいいって、マルクさんの家族や、マルクさん自身もですか?」
「僕は孤児なんですよ、リュナンさん。家族はいません。そしてついでに言うなら、僕は僕自身の命にもあまり執着がない。だから、もしあのとき秘密裏に始末されるのではなく、任務としての死を与えられていたなら、僕は殺されてもよかったんです」
「そんな……」
リュナンは顔をくしゃりとゆがめた。
それは危険を冒してでも彼を救おうとしたシオンやレイノルドに対して、あまりに哀しい言葉ではないか。
(――せっかく拾った命なのに)
「ただ、僕本人に断りもなくっていうのがね、単純に気に入らなかった。出し抜いてやろうと思ったのも、あなたたちに助けられたからです。信じていただかなくても結構ですが」
「…………」
「僕は基本的に、自分のことも他人のこともどうでもいい。――ただねえ」
言葉をきり、マルカートはふっとほどけたように息を吐いた。
「あなたたちの乗っている飛翔獣を見たとき、ああ、なんてきれいだと思ったんです。あんなにこころを動かされたのは本当に久しぶりだった。だから、急に惜しくなってしまったんです。飛翔獣が青い空ではなく、戦火の炎や黒煙で汚れた空を飛ぶことになるかもしれないのがね」
リュナンはふと、はじめてマルカートに出会ったときのことを思い出した。飛翔獣の優美さにこころを奪われ、目を輝かせて語っていた姿を。あのときの彼は、たしかに演技には見えなかった。
「気が変わった。理由があるとすれば、それだけですよ」
「……信じます」
なんの気負いもなく、リュナンのくちびるからぽろりとそんな言葉が転がり落ちた。シオンとレイノルドがふたり同時にこちらをふり返り、マルカートまでもが驚いたように瞠目する。
「だって、あのときのマルクさん、とてもうそをついてるようには見えなかったもの」
マルカートは今度は苦笑するようにそのくちびるをゆがめた。
「あなたたちは本当に、お若い」
すっくとソファから立ち上がり、脱いでいた帽子を頭にかぶった。
「それに『信じる』とはなんとも穢れのない、青い言葉だ」
彼はごく自然な動作でゆっくりと歩き、応接室の扉をあけた。
「でも、それも当然かもしれませんね。あなたたちは毎日、あの空の下を飛んでいるんですから」
その声に、ほんの少しの羨望がまじっているように感じられたのは、リュナンの気のせいだろうか。
彼の逃亡を邪魔することも、誰かを呼び、協力して拘束することも、あるいはできたかもしれない。だが三人の中のだれひとりとして、動こうとはしなかった。
マルカート・レバノン――あるいは名もなき間諜はこうして、リュナンたちの前から姿を消したのだった。
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