第六章 蒼海の攻防
翌朝、宿舎前で合流したリュナンたちは商会のタマラ支部からパニッツア行きの荷物を預かり、まだ夜も明けきらぬ薄明のなかを飛行場へむかった。
格納庫がいくつかと、小さな飛翔獣用厩舎をかかえる飛行場には、シオンたちのほかに誰の姿もない。今日パニッツアに戻る予定のルキウスも、彼を送るために呼び出されたホークの姿もまだ見かけなかった。
あのあともふたりで飲んでいただろうから、もしかしたらまだ起きだしてもいないかもしれない。二日酔いになっていないといいけど、とリュナンは思った。
積み荷の数を照合し、体重の配分を考えながら、三人がかりでフューとアマネアそれぞれに分担してくくりつけていく。最終的な持ち物点検をしているあいだ中、ずっとフューが空を見上げては落ちつかないそぶりをしているのに気づき、リュナンはふしぎに思った。
「フュー、どうしたの?」
尋ねるが、フュー自身も何が気に入らないのかわからない様子で、右の前肢と左の前肢を交互にあげたりさげたりしている。なんとなくイライラしているらしいことはわかるが、理由は不明だ。
困ってシオンをうかがったが、フューの主人である彼もまた、眉間にしわをよせていた。
「どうかしたの? シオンまでそんな難しそうな顔して」
「……胸のあたりがむずむずする」
「むずむず? ムカムカじゃなくて?」
昨晩ホークやルキウスにつきあって、シオンも相当酒を飲まされていたのを思い出し、リュナンは訊いた。
彼はかぶりをふって否定した。
「次の日に残るほど飲んではねえよ。二日酔いとかそういうんじゃなく、……なんかわかんねえけど、いやな風が吹いてる」
「いやな風?」
リュナンは朝靄の残る空を見上げた。
が、そこにはようやく彩度を増してきた薄明の空がひろがるばかりで、雨や曇天の兆候は一切見られない。
「雨が降りそうってこと?」
「いや、天気の話じゃない。うまく言えないが、妙な胸さわぎがする」
「胸さわぎ?」
レイノルドはどうかと思い、アマネアの出立準備を黙々とすすめているもうひとりの名を呼んだ。
「ねえ、レイくんはどう?」
「……あ?」
ふり向いたレイノルドはあからさまに顔色が悪く、不機嫌だった。どうやらこちらは翌日に残る量の酒を飲んだらしい。
「もう、完璧に二日酔いじゃない。だから飲みすぎだよって言ったのに」
「し、仕方ねえだろ。シオンはつき合い悪いし、あのじいさんたちはザルだしで……」
言いながら、うっと口元をおさえる。
「しまらないなあ。昨夜はちょっと見直したのに、台なしだよ」
「ううう、容赦ねえぜリュナン……そこがいいとこだけど」
「何バカ言ってんの。シオンがね、妙な胸騒ぎがするんだって。レイくんはなんか感じる?」
「いんや、オレはぜんぜん」
レイノルドは首をふり、けど、と言葉を継いだ。
「うちのお姫さんはなんか感じてるのかもしれねえ。アマネアもいつもより神経質になってる」
リュナンは鞍を乗せられたアマネアの様子を見たが、彼女はフューとちがって、わかりやすく態度では示していなかった。ふさふさしたしっぽを時おりぱたん、ぱたん、と動かすだけで、不機嫌と言われればそうかもしれない、と思うぐらいだ。
「そうなの?」
「ああ。まーでも気のせいかもしれねえけど……あでででで、自分の声が響く」
呻いて頭をおさえるレイノルドに、シオンが横でため息をついた。
「こっちは確認終わったぞ、あとは乗りこむだけだ。レイもとっとと準備終わらせろ、今日もおまえが先頭なんだからな」
「……ふぁーい」
へろへろとした声で答え、レイノルドはふたたび作業に戻るべくアマネアに向きなおる。リュナンは腰を伸ばし、もう一度空をあおいだ。
空は日の出とともに刻一刻と明るさを増していく。吹流しのような形をした雲が風の軌跡をえがき、上空の風の速さを知らしめていた。だが何度空を確認しても、シオンやフューのように、そこに予兆のようなものを感じとることはできない。むしろ感じとれないことを歯がゆく思うべきなのだろうか。
(危機意識が低いってことなのかな。なんだかわたしまで憂鬱になってきちゃった)
ふう、と小さく吐息をつく。
「悪い、俺のもやもやが伝染しちまったな」
こちらの心情に気づいたのか、シオンがすまなそうに詫びる。リュナンはううん、と首をふった。気分が落ちこんだのだとすれば、むしろ自分の能力の低さにだ。シオンが励ますように肩をぽんとたたいた。
「あんまり不安に思うな。単なる気のせいかもしれねえし」
「……うん」
「昼までにパニッツアにつけば一巡だ。あともう少しだから、がんばろうぜ」
言いきかせるようなシオンの言葉に、リュナンは素直にうなずく。
だが、一度くもってしまったこころは、なかなか晴れてくれそうになかった。
*
パニッツア‐マリーネ間は陸地を南下し、マリーネ‐タマラ間はパレリア海をななめに北上する。タマラ‐パニッツア間は東にむかって前半が海上、後半は陸上を飛ぶことになる。中継地はディエス島と呼ばれる有人の大きな島に一箇所あるだけだ。
昨日とおなじくレイノルドが操るアマネアが先行し、リュナンとシオンを乗せたフューがそれに続く。今日もリュナンが前に座って手綱を持ち、シオンがその後ろで航空図や計器を確認しながら指導にあたった。
空はさらに明るさを増して薄水色になり、紺碧の海は銀のうろこのような波頭をきらきらと照り返す。眼下にはフューより低く飛ぶカモメたちと、波を蹴立ててパレリア海を横ぎっていく帆船の姿がちらほらと見える。
低い雲につっこんでいくことも、気流の乱れにつかまれることもなく、リュナンはたびたびシオンの助言を受けながら順調にフューを乗りこなし、ディエス島まで到達した。
(よかった、このままなら何事もなく無事パニッツアに帰りつけそう)
リュナンはそう思った。天候は晴れ、風も穏やかで、最初に危惧していたような事態は何も起こりそうになかった。
ディエス島はパレリアの北に位置し、内海に浮かぶ島の中では比較的面積の大きい島だ。東西に細長いので、空を飛ぶ人間たちのあいだでは「イワシ島」と呼ばれることもある。
牧場兼飛行場は白い砂浜からほど近い位置にあり、薄水色から碧をへて紺青に色の変化する海岸線が視界のなかにくっきりと見える。
あまり整備されていないので、地面にはでこぼこや小石の多さが目立つのだが、景観という点では全中継地の中でも一二を争うほどの美しさを誇る。そのためか、運び屋たちもついついディエス島で長居してしまうことが多い。フューとアマネアの世話をすませたリュナンたちも、砂浜を眺めながらのんびりと休憩をとっていた。
「心配していたわりに、なんかいい調子じゃないか、今日は」
水筒の水でのどを潤しながらレイノルドが上機嫌に言う。二日酔いはとりあえずおさまったらしい。リュナンも力強くうなずいた。
「うん、順調だよね」
「このままなら正午どころかだいぶ余裕もってパニッツアに着けそうだな。なあ、シオン?」
言いながら、かたわらのシオンに話をふった。しかし、相手からの返事はなく、レイノルドは怪訝そうに彼の顔を見た。
「おい、どうした?」
シオンは水平線の先、空の彼方をにらむように目を眇めていた。
「――なにか来る」
ぽつりと彼がそうつぶやいた瞬間、ゴウゥウン……と、大気をふるわせるようなエンジン音が、空の彼方から聞こえてきた。ほどなくしてシオンが感じた「なにか」を、リュナンも目にすることになる。
それは最初、空に見える小さな点にすぎなかった。だが視界のなかで点は見る見るうちに大きさを増し、だんだんこちらとの距離を狭めてきているのがわかった。
青空に映える、明るいレモン色の単葉機には言うまでもなく見覚えがある。
「〈テンペスタ〉!」
そして、もう一機。エンジンの爆音をひびかせ、テンペスタのあとを追尾するように飛ぶ、黒の単葉機がリュナンの瞳に映った。
「なんだ、あの黒いの?」
レイノルドが手をひさしにし、目を細めて遠くを見やる。
「まさか、またタッブとデニー?」
「いや、翼が一葉だからちがう。というか……このあたりでは見たことのない機体だ」
シオンがかぶりをふって否定した。
たしかに、色も微妙に差異がある。遠目には黒と見えたその機体は、よくよく観察してみると濃紺の色をしている。
「様子が変だ。なんであの機体、テンペスタを追いかけてるんだ?」
その瞬間、紺の単葉機の側面で何かがきらりと光った。テンペスタはそれを予期していたかのように機体をななめにかたむける。間髪いれず、海面に白い水しぶきがバッと散った。
「うそだろ、機関銃だって!?」
「まさか、パレリア飛行中の武器の使用は禁止されてんのに!」
「おじいちゃん!」
リュナンのくちびるから悲鳴がほとばしる。
「待て、そういやテンペスタにはホークの大将だけじゃなく市長も乗ってるはずじゃ――」
レイノルドの言葉に、シオンは鋭く息をのみ、唐突にきびすを返して走り出した。
「シオン!?」
「あの黒いの、テンペスタをふたりもろとも墜落させる気だ!」
「まさか……、狙いは市長か!」
え、と思うより先に、体はもう走り出していた。
「って、待てリュナン! おまえはここに残っ――ええい、クソ!」
背後で忌々しいというようなレイノルドの叫びがあがったが、それもふり切ってシオンのあとを追った。どくどくと駆け足で心臓がはやる。いまや不安は抑えがたいほどに大きくふくれあがっていた。
フューを屈めさせ、先にその背中にのぼろうとしていたシオンは、追ってきたリュナンに気づくと、ふり返って怒鳴った。
「バカ、なんでおまえまで来てんだ!」
「だって、わたしのおじいちゃんだもん!」
鞍に手をかけ、せっぱ詰まった声で叫び返すと、シオンはそれ以上何も言わなかった。そもそも口論している場合ではない。命綱をつける時間すら惜しく、きのう今日とたったの二日で定位置になってしまったリュナンが前、シオンがそのうしろにつくという形で、ふたりはフューに騎乗した。
「手綱よこせ!」
リュナンのうしろから手を回し、シオンは手綱を奪いとった。
「行くぞ、しっかりつかまってろよ!」
フューは身をよじらせると、翼をおおきくひろげて離陸の態勢をとる。鋭いいななきとともに、フューは特殊な地磁気を発生させ、上空へと飛びあがった。
*
激しい向かい風がばたばたと耳元で鳴りひびく。
シオンはフューの速度を遠慮なく上げていく。積み荷を載せていないので、いつもよりは身が軽い。多少の無茶はできると判断したのだ。
前に座るリュナンは双眼鏡を手に、彼にかわって周囲を見わたしていた。視界をさえぎるものがないといっても、空は広い。三六〇度、視野の上下左右すべてが探索領域になるのだ。空での捜索対象が簡単に見つかることは、むしろまれである。
だが、このときは幸運が味方してくれた。
「……いた!」
追いつけるかどうか微妙なところだったが、ほどなくして前方に黄色と黒の点が見え、リュナンはほっとした。というより。
(なんか、島のまわりをぐるぐる飛んでる?)
ホークが操縦する〈テンペスタ〉は何度も鋭い旋回をくりかえしつつ、ディエス島とその近辺にある小島の周りをじぐざぐに飛んでいた。
直線飛行を避けているのは機関銃の照準からはずれるためだとわかる。だが、海のほうへ飛んだかと思えば島のほうへ引き返し、かといって島の真上は通ることなくその周辺を何度も迂回しているのは、ホークの意図がまったく見えない。双眼鏡越しに見えた状況を伝えると、シオンはしばし考え、そうか、とうなずいた。
「推測だが、墜落したときに誰かの目にとまりやすくするためだ」
「どういうこと?」
顔だけをふり向かせて聞き返すと、ほとんど真後ろに体をくっつけるようにしているシオンが早口で言う。
「もし本当に撃墜させられそうになったら、じいさんは陸より海へ落ちるほうを選ぶはずだ。だが目撃者がゼロだった場合、救助される率も格段に低くなる。墜落させた犯人をのちのち見つけることも困難だ。だからじいさんは島の近くから離れすぎないようにしているんだろう」
つまり、ある意味でホークがしているのは時間稼ぎなのだ。そして、おそらく〈テンペスタ〉を狙う飛行機もそのことに気づいている。だから、なんとかして〈テンペスタ〉を海のほうへ追いたてようとしているのだ。
紺の機体がやや鈍重そうに見えるのは、外見の印象だけではなく、おそらく重火器を積んでいるためだ。対して〈テンペスタ〉は、機体の軽さと速さこそが強みだった。たとえ敵が飛び道具を搭載していようと、当たらなければ墜落の恐れはない。
ホークは鋭い旋回を飛行に組みこみ、紺色のをもぎ離そうとしているが、敵も粘り強い。その入り乱れるような黄色と紺の二機の様子は、さながら蜂のダンスのようだ。
「気のせいか? あの飛行のクセ――」
紺の単葉機の動きをずっと目で追いながら、シオンが独白のように口にしたのが耳に届いた。だがリュナンは〈テンペスタ〉の動きに意識を奪われ、それどころではない。
「どうしよう、シオン」
焦燥がぬぐいきれず、リュナンはシオンをふり返った。
「おじいちゃんもだけど、あんな無茶な飛行を続けてたら、ルキウスおじさまの体力がもたない!」
シオンは答えなかった。操縦している者より、相乗りしている人間のほうがはるかに負担を強いられる。そしてそれを、ホークがわかっていないはずがない。
「おじいちゃんがふりきれないなんて……」
ショックを受けたリュナンがつぶやくと、シオンは首をふった。
「いや、腕の差とは言いきれない。エンジンの馬力が違いすぎる。機体の性能の差もある」
きっぱりとした声で言う。慰めではなく、歴然とした事実であるというように。
「たぶん最新の飛行機だ。どこがつくったものかはわからないが」
そのとき、
「――シオン、リュナン!」
レイノルドの叫びとともに、滑りこむようにしてフューの隣にアマネアがならんだ。こちらのあとを追って飛び立ち、ようやく追いついてきたらしい。
「レイくん!」
レイノルドはハンドライトを使って信号を送り、それを読んだシオンは「むりはするなよ!」と叫び返す。アマネアは翼をひろげ、下降しながら速度をあげて飛び去った。彼は自分が先に近づいて様子をうかがう――つまり斥候をつとめる、という合図を送ってきたのだ。
しかし、この状態であの二機に近づいたところで、リュナンたちにいったい何ができるのか。
(どうしよう、どうしたらいい?)
焦りばかりが先立って、ひとつも解決策が浮かばない。敵――と、この際断定してしまうが――をどうにかしようにも、こちらにあるのは護身用の武器だけ。心中覚悟で〈テンペスタ〉と敵のあいだに割って入ったところで、機関銃の餌食になるだけだ。
(武器……武器になるもの……、そうだ!)
リュナンは自分の腰元に目をやった。そのとき同時に、視界の下方で何かがチカッとまぶしく光った。
フューよりずっと高度を低くし、ぎりぎりまで紺の単葉機にアマネアを接近させたレイノルドが、すばやく離脱しながらハンドライトを使って信号を送って来た。
『敵、機体側面、オイル漏れ』
「……? どういう意味?」
信号を読みとったリュナンが怪訝に思った瞬間、シオンがそうか、と叫んだ。
「新型だから燃費が悪いんだ」
エンジンがそれだけ燃料を食うということだ。持久戦に持ちこめば、相手があきらめる公算は高くなる。シオンが簡潔に説明し、リュナンはうなずいた。
「時間稼ぎなら、わたしもひとつ思いついた。だけど、それにはシオンの力が必要だし、シオンも危険にさらすことになる」
シオンはまったく躊躇せず、「言え」と答えた。
「どんなことだ?」
「なるべくわたしの体がぶれないように、支えて固定してて。ファッジからもらった弾丸がまだ残ってるの。試してみる!」
早口で訴えたリュナンに、シオンは目をみはった。無理もない。
「試してみるって、おまえ、まさかその弾、操縦士にでもあてようってんじゃ……?」
「ちがう! でも一瞬でもひるませられたら、おじいちゃんなら逃げきれる」
「いや、ちょっと待て。それは」
シオンはかぶりをふった。彼が無理だと口にする前に、リュナンは言葉をねじこんだ。
「無茶はわかってる! でも、何もしないでいるよりずっとましだよ!」
触れた体越しに、シオンが返答につまったのがつたわった。だが、逡巡は一瞬だった。
「――わかった」
その策がうまくいくと彼も思ったわけではないだろう。だが他に代案がないのなら、やるだけやってみるしかない。
了承の返事とともに、シオンは右手で手綱をにぎり、左手をリュナンの腹にまわして強くひきよせた。身体をぴったり密着させることになったが、羞恥など覚えている場合ではない。
「シオン、ぎりぎりまで近づける?」
「やるしかねえんだろ」
うなずきひとつ、シオンはすぐさまフューに指示を出した。ばさっとフューの翼の筋肉が力強く動いたのが、鞍越しにも伝わってくる。
――キューッ!
気分の高揚か、それともこれから無茶をやるという緊張からか、フューが今までになかったような鋭さでひと声嘶いた。
ななめ前方への急下降に、ぐうんという浮遊感がリュナンを襲う。せりあがる不快感をこらえ、意識を飛ばさないように、リュナンはきつくくちびるをかみしめた。
俯瞰の状態で眺めていた黄色と紺の二機に、フューはななめ上方から近づいていく。
高度が下がるにつれ、海の青がぐんぐん視界にせまってきた。
〈テンペスタ〉とそれを追尾する飛行機のあいだに割りこむのは、考えるまでもなく至難の業だ。二つの機体の外側からまわりこむように近づき、直線飛行になったところを一気にすり抜けるしかない。だがその際に敵の銃弾を食らえば、リュナンたちは一巻の終わりだ。
鼓動の音が、あたり一面にひびくエンジン音などよりもよほど耳に聞こえる。じっとりとした汗が背中に噴き出すのを感じたが、無理やり意識の外に閉め出した。
「距離をつめる」
シオンの言葉にうなずきを返し、リュナンは彼にもたれかかるようにしてぴたりと背中をあずける。反動をなるべく殺すためだ。
からだを支えられた状態でリュナンはできるかぎり姿勢をただし、スリングショットのベルトにファッジの弾丸を装填した。弾はひとしかない。つまり、機会はたった一度きりだ。
ごくんと喉が鳴る。――やるしかない。
「行くぞ!」
リュナンの腹が据わったのを感じとり、シオンは手綱とあぶみをつかって巧みにフューを操った。
多くの飛翔獣は爆音を轟かせる飛行機に近づくことを、まず本能的に嫌がる。だがフューは少しも怯む様子を見せず、向かい風をつかまえ、緩やかなカーブを描くように二体の機影を目指して滑空した。
滑らかでいて、しかも素晴らしく速い。
シオンの操獣技術をまさに肌で感じながら、なんて鮮やかなのだろう、とリュナンは鼓動が高鳴るのを感じた。こんな場合なのに、否、こんな場合だからこそ、シオンがまるで体の一部のようにフューをあやつっていることに心を揺さぶられる。
フューも、シオンの細かな指示に対し、それがまるで自分の意思であるかのように即座に反応する。それは絶対の信頼を主人によせているからだ。
(わたしだって信頼してる)
リュナンはきゅっとくちびるをひきむすんだ。意識を自分自身ではなく、的となる敵の飛行機に集中させた。正面から来る風の勢いに体の芯がぶれないよう、シオンにぴったりと背中をくっつけながら、飛行眼鏡ごしにひたすら機体の動きを目で追いかける。左手ににぎったスリングショットのベルトを掲げ、限界まで引き絞った。手が風圧でぶれそうになるのをこらえ、単葉機に狙いをさだめる。
そのとき、〈テンペスタ〉が空中で鮮やかな急反転を決め、ななめから一気にこちらに向かってきた。そのすぐあとを、紺の単葉機が追いすがる。
ホークはリュナンたちの存在に気づいていたはずだ。アマネアが急接近したことで、加勢の意思があるとわかったのだろう。だが、まっすぐこちらを目指してくるのは、ホーク自身にも相当な賭けだったに違いない。下手をすれば自機のみならず、こちらも巻き添えにする可能性がある。
(おじいちゃんも信じてくれてる!)
恐ろしい速度で飛来した〈テンペスタ〉が、フューのやや下を、飛行機と飛翔獣が互いに影響を受けないぎりぎりの距離をあけてすれちがう。空中での、一瞬の交差。
その刹那にも満たない間、操縦席に座ったホークが腕を掲げたのが見えた気がした。行け、と。
リュナンは次の瞬間、透明な風防(キャノピー)と、そのむこうに飛行眼鏡を装着した飛行士の顔を見た。ばちりと視線が合う。
「!」
操縦席の前には風防があるため、操縦者を狙ったとしても、大口径の銃弾でもなければ貫通することはできない。リュナンの狙いは最初から、風防そのものだった。
(――ふんばれ!)
両手のブレを、歯を食いしばって押さえようとしたその瞬間、
――キュイィイ――ッ……!
フューが咆哮をあげた。
唐突に風圧がやむ。風の抵抗でぶれそうになった手が、しっかりと定まった。
「今だっ!」
叫んだのはリュナンとシオン、どちらであったのか。翼をはためかせたフューが、なにもない宙を蹴るように後方へと上昇する。シオンにぴたりと背中をあずけ、リュナンは指を離し、弾丸を宙へ解き放った。
放たれた弾は風防の少し手前、機首の装甲上に当たってカコンと弾かれた。
はずした、と見えた寸前、それは前方からのすさまじい風圧に押され、風防の表面でぐしゃりと潰れる。
割れた殻の中からぶわっと噴出した真っ赤な粉末は、そのままガラスの表面を覆うように張りついた。飛行士は視界を遮られただけではなく、目前で炎でも上がったかのように錯覚したかもしれない。
反射的に
つんざくようなエンジン音が鈍くなり、機体はほぼ自由落下に近いかたちで急激に下降していく。機体側面から汗のように噴出する黒いオイルが、尾をひいて後方へ流れていく。
「――シオン!」
シオンは即座にフューを旋回させたが、墜落していく飛行機にできる手立てがあるはずもなく、上空から行く末を見守るしかなかった。海面に着水するかと思われたとき、エンジンが急に息を吹きかえし、単葉機はそのまま海面すれすれを逃げるように飛び去っていった。
どうするのかとシオンをふり返ったが、彼は追わなかった。言葉を口にしようとして、ぐっとくちびるを噛む。こちらは丸腰だが、相手は銃火器を持っているのだ。深追いはできなかった。
あの機体が無事だったことを残念に思うべきなのか、それとも安堵すればいいのかリュナンにもわからなかった。紺の単葉機は祖父やルキウスの命を脅かしたのに、だからといって殺したいほど憎いかと自問すれば、こころが答えを拒否してしまう。
もしも、あの銃弾を受け、〈テンペスタ〉が墜落していたら――自分は今頃どう感じていただろうか。
「……おじいちゃん」
リュナンは首をめぐらせて、〈テンペスタ〉が去って行ったであろう方角を見た。だが空のどこにも、あの目立つレモン色の機影は見えなかった。
「ホークのじいさんなら心配いらねえよ」
視線に気づき、背後のシオンが言う。
「じいさんは孫娘が開いた活路をむだにする男じゃない」
リュナンはうなずいた。
「うん、そうだね。……ルキウスおじさまも無事だといいけど」
「市長ももと飛行機乗りだって言ってたから、多少は大丈夫だろ。ともかく、これで借りは返せたな」
「借り?」
「昨日じいさんに助けてもらった分。うまくいってよかったけど、正直成功するかは半信半疑だった。無茶なこと考えたなあ、おまえ」
「スリにむけて撃ったとき、中の粉がばっと飛び散ったから、風防にあてることができれば視界を遮られるんじゃないかと思ったの」
うまくいくかどうかは、本当に賭けだったが。
「なるほど。けど、護身用の武器でも役に立つって、ちゃんと証明してみせたじゃないか」
「うん……、でもファッジがあれを作ってくれなかったら、きっと思いつかなかったよ」
ぽつりとつぶやく。意を決したリュナンがぐるんと首を回してふりむくと、シオンは驚いたように目をみはった。
「ごめん、シオン!」
「な、なにが?」
「だって、シオンが操獣してなかったらあいつに近づけもしなかった! わたしの無茶な作戦にシオンまでまきこんじゃって――」
興奮して言い募ると、シオンは「待て待て待て」と慌てて押しとどめる。
「おちつけ。まきこんだとか、そんなふうには思うな。話が逆だ」
「逆って、だって!」
「今回はたまたま運がよかったが、おまえの計画に乗っかる判断を下したのは俺だ。そもそも俺はおまえの先輩で指導する立場にあるんだからな。おまえの命や安全に対しての責任も俺にあるんだ」
「でもっ……」
なおも言い募ろうとしたリュナンをシオンは首をふってさえぎった。
「それ以上は言うな。いいか、ここから俺も本音を話す」
真剣な顔で、リュナンは戸惑いながらうなずいた。
「え、う、うん」
「せめて責任ぐらい持たせろ。でないとおまえにお株を奪われて、こっちは格好がつかねえんだよ」
「そ……」
格好がつかないなんて、一度も思ったことはない。
リュナンが口をひらきかけたまさにその瞬間、「おーい」と下方から呼びかける声があった。
「レイ! 無事だったか」
シオンはすぐにフューを下降させ、アマネアの隣にならんだ。
「大将から伝言。『協力に感謝する。これからパニッツアにむかう、おまえらは通常仕事に戻れ』だとさ。〈テンペスタ〉はもう心配いらない」
レイノルドとアマネアはホークたちの無事を確認するために、〈テンペスタ〉を追っていったのだ。〈テンペスタ〉は片翼に何発か被弾していたが、さいわい飛行には支障ないようだとレイノルドは言った。
「さすがに顔色は悪そうだったが、市長も無事だったぜ。だから安心しろよ、リュナン」
「よかった! ありがとう、レイくん」
おうとレイノルドは笑顔でうなずいた。
「おまえ、さっきあの機に近づいただろ? 飛行士の顔は見たか?」
わずかな沈黙があった。レイノルドは考えこむような様子で顎を撫でると、首を横にふった。
「……いや。近くにはよったが、一瞬のことだったしな。顔は――飛行士は特に、オレたちもだが飛行帽と眼鏡のせいで判別が難しいし」
「そうか」
「はじめて見る機体だったのはたしかだ。相手がだれであっても判断は難しいさ。然るべきところに届け出して、オレたちは様子を見ようぜ」
「ああ」
彼らはそう結論を出して、ふたたび通常の仕事に戻るべく、積み荷を残してきたディエス島へ翼の進路を向ける。
不穏な嵐は過ぎさった。エンジンの爆音のない空を、穏やかな風に乗って飛びながら、だがしかしリュナンの心は晴れなかった。
なぜならリュナンはあの一瞬、風防のむこうの飛行士と、真っ向から目が合ったのだ。相手はこちらを見て、かすかに皮肉まじりの笑みを浮かべた。まるで、
――おまえに俺が撃てるのか?
と、そう問うかのように。見間違いならよかった。だが、敵機が飛び去っていく直前、シオンのくちびるが音をともなわずに動いたことに、リュナンは気づいた。くちびるの動きを読むのは飛翔士としての必須能力である。
〈あんたは、それでいいのか〉
悔しげな顔が、そう虚空に向かって問いかける。リュナンも心のなかで、去っていった相手に向かって呼びかけた。
手を汚す覚悟ができたかどうか、まだわからない。
(でも、自分だけ手を汚さずに大事なものを失うのは、もっといやだってわかったよ。――カーウェイ)
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