第五章 同盟の黒き主



 中継地トリナエスト島から飛び立ったリュナンたちは、その後何事もなくタマラ市に到着した。

 目前に海を臨むマリーネやパニッツアとは違い、タマラはパレリア内海から川を少し北上した平地に位置している。

 タマラの特徴をひと言であらわすなら「レンガ色」だ。かつて城塞都市であったタマラは、ほとんどの建造物が赤レンガでつくられている。白い家屋の壁に海の碧が照りはえるマリーネとは対照的に、タマラの象徴は朱色とも紅とも橙ともちがう赤土の色だった。

 タマラはエウラダ大陸の西の果てに位置している。強い日差しの太陽のもと、かわいた風の吹くこの土地は、交通の要所ながら三都市のなかではもっとも資源に乏しい。土地がやや痩せているため、小麦などの作物があまり育たず、食卓の中心となるのももっぱら芋である。

 そんなタマラが特に力を入れているのが、観光業および都市景観の保持だ。

 かつて大きな戦乱に巻きこまれたタマラは塔や砦を多く増築し、それらは現在もほとんどが当時の外観を保ったまま残されている。その一方で、建築史に名をのこす優れた建築家や芸術家を幾人も輩出し、タマラという箱庭のなかにたくさんの遊び心にあふれたおもちゃのような建築物をおさめた。

 ひとつひとつの建物はさまざまな特徴をもちつつも、上空から見たタマラはあくまで整然としたイメージだ。平野の真ん中に広がる、巨大な円形のレンガ色の街。

そういった土地柄であるために、街中は特に乗り物の制限が厳しい。当然のことながら、飛行機や飛翔獣がおりることのできる飛行場はタマラの都心からははずれた位置にある。

 郊外の飛行場におりたリュナンたちは、フューたちを専用の厩舎にあずけ、アースライト商会のタマラ支部に大急ぎで荷物を運び終えたあと、どうにか日が傾きはじめる前にはタマラの市庁舎に駆けこむことができた。


        *


「なんなんだ、おまえたち。いたずらか?」

 マルカートからあずかった荷物についての手がかりを探そうとしたのだが、事はそう簡単にははこばなかった。

「いたずらじゃありません!」

 タマラ市庁舎の窓口で必死に事情を説明したものの、市庁職員と思われる男はまともにとりあおうとしなかった。リュナンは必死で言い募る。

「だから、わたしたちはマルカートさんという人に頼まれてタマラ市章の入った文書筒を……」

「はあ? タマラの市章だと? そんなもの、運び屋風情にほいほいあずけるわけがないだろう!」

 なぜかわからないが、職員はリュナンたちが市庁舎に入ってきたときからぴりぴりしていた。はじめから喧嘩腰では、話がまともに通じるはずもない。

(せめて最後まで事情を聞いたらどうなの!)

 リュナンは憤慨し、ついに声を荒げようとした。だが、

「いったいなんの騒ぎなの?」

 凛とした女性の声があたりに響く。職員の背後にあらわれたのは、見事な赤がね色の髪をした女性だった。

(わぁ、きれいなひと)

 リュナンは思わず息をのむ。レイノルドなど思わずといったようにピュウと口笛を吹き、横にいたシオンに足を踏まれている。

 年齢は二十代なかばほどだろうか。ぴんと伸びた背筋や立ち姿に気品が感じられる。高い鼻筋に薄い緑の瞳をし、ゆるく波うった豪奢な赤がねの髪を束ねずに流している。身に着けているのが乗馬服なため、一見男装しているように見えた。だが、この女性を男と見間違えることはまずないだろう。容姿の美しさもさることながら、何より存在感で人目をひく麗人だった。

「どうしたの、大声を出して」

「オルビアさん。す、すみません」

 市庁職員がばつの悪そうな顔で頭をさげる。

「それが、このものたちがおかしなことを――」

「わたしたち、アースライト商会の飛翔士です!」

 オルビアの顔色をうかがうようにしながら職員が視線をよこしたので、妙なことを吹聴されてはたまらない、とリュナンはあわてて言葉をねじこんだ。

「アースライト商会? ……ああ、あの」

 さすがにタマラでは商会の名も通じないかと不安になったが、オルビアと呼ばれた女性はかすかに反応を見せた。

「名前は知っているわ。それで、その運び屋さんたちが、タマラ市庁舎になんのご用かしら。落とし物か、それとも事故現場にあった遺留物のお届けもの?」

 たしかに、運び屋が市庁舎に用があるとすれば、そのどちらかがまず思い浮かぶところだ。

 毎日空から地上を見下ろして飛んでいれば、山崩れや飛行機の墜落事故、遭難の被害にあった人間の遺留物を偶然発見することがある。あまり考えたくはないが、死体もだ。万が一それらを見つけたら、発見者の責務として当然どこかの市庁舎に届け出をしなければならない。

(あ、そうか。あの文書筒を落とし物ってことにすれば……)

 発見者の義務を利用して、一瞬はったりを口にしようかと迷う。だが、リュナンが口を開く前に、続きをひきとったのはシオンだった。

「俺たちがあずかった荷物の件でお訊ねしたいことがあります。ただ、俺たちにも職業上の守秘義務がありますので」

 ここでは、と場所をはばかるように声を落としたシオンに、オルビアはかすかにうなずいた。

「わかったわ。ここで込みいった話もなんだから、ついてきてくれるかしら? 奥にわたしの私室があるの」

「オルビアさん! そ、そんな素性の怪しいものたちを通すなど、絶対にいけません」

 オルビアの申し出に、血相を変えたのは職員だった。不審人物を招き入れるなどとんでもない、というのが彼の言い分だったが、オルビアはあっさり一蹴した。

「怪しいですって、なぜ? 彼らはアースライト商会の人間だと名乗ったでしょう」

「し、しかし、本当にそうだという保証がどこにあるんです! それに、運び屋なら武器を所持しているはずです。もしオルビアさんに害意があれば」

「保証も何も、そんなことは調べればすぐにわかることでしょう。それに、正体を疑いながら運び屋なら武器を所持しているはずだなんて、発言が矛盾しているわよ。口答えするひまがあったら、さっさと裏でもなんでもとりに行きなさい」

 手厳しい言葉に、職員は顔を紅潮させ、ぐっと悔しげに黙りこんだ。

 目前で展開される彼らのやりとりに、リュナンたちは口出しできるはずもなく、ただ固唾をのんで見守るしかない。

「じゃあ、そういうことだから。あなたたち、ついていらっしゃい」

「……オルビアさん!」

 オルビアはさっさときびすを返し、リュナンたちに来るよう手招いた。リュナンはこっそりシオンたちに話しかける。

(い、いいのかな?)

(いいんじゃねえの。あの美人がおいでって言ってるんだし。ここでさからってもまずいだろ)

(というより、逃げたら逆に怪しまれると思うぞ)

 三人でひそひそと言葉をかわし、リュナンたちはおとなしく彼女のあとに従った。

 やりこめられた職員の視線が背中に痛いほど突き刺さってきたが、ふり向くのも怖かったので無視に徹する。

「ごめんなさいね、あなたたちには失礼なことをしたわ。いつもはこんな対応はしないんだけど、今日はとても大事なお客さまをお迎えしているから、彼もちょっといらいらしているみたいなの」

「いえあの、お気になさらず……」

 オルビアの謝罪になんと答えてよいかわからず、リュナンは首をふる。「大事なお客さま」とやらも気にかかったが、追及するのはやめておいた。

「こっちよ」

 オルビアはすたすたと迷いのない足どりで、市庁舎のさらに奥へと進む。彼女のあとにリュナン、さらにそのうしろにシオンとレイノルドがつづく。

 四人は市庁舎の裏口から渡り廊下を通り、別の建物へと入った。重厚な扉のわきにはひと目で守衛とわかる男がふたり、しごく真面目な顔つきで立っている。やけにものものしい。

「ごくろうさま」

 オルビアがねぎらいの言葉をかけると、守衛たちは答えるように無言で目礼した。

 片側の扉だけ開かれた通用口は、市庁舎とはまったく雰囲気の異なった別の棟に繋がっていた。

 つくりが豪奢なのは、緋毛氈や大理石の壁を見るまでもなく明らかだ。リュナンは気後れするばかりだが、うしろのふたり――シオンとレイノルドは、守衛の立つ扉を見たときから明らかに緊張していた。否、むしろ警戒、と言い換えてもいい。

(なんだろうここ……、都市警邏隊の建物ってわけでもないみたいだし)

 まさか市庁舎と獄舎がつながっているわけでもないだろうし。それに、こんな豪華な内装の警邏隊舎があるとも思えない。

 だが、こちらの困惑にはおかまいなしにオルビアは階段をのぼり、どう見ても執務室のような部屋にリュナンたちを案内した。ざっと見わたしただけでも、壁紙や室内装飾ひとつに至るまで万全に手入れが行き届いている。調度の数こそ少ないが、執務机に本棚、テーブルにソファと、機能性を重視した高級品がそろっている。どことなしに威圧感を与える内装だが、大きな花瓶には白い花が飾られ、女性的なやわらかさと気づかいも見てとれた。

しかし、少なくとも一介の平職員に与えられた部屋でないことはたしかだ。

「せまい部屋だけど、まあ、掛けてちょうだい」

 オルビアが来客用のソファをすすめる。三人とも緊張した面持ちで、シオン、リュナン、レイノルドの順に彼女と対面する形で腰をおろした。

「まず自己紹介をしましょうか。さっき名前は聞いたと思うけれど、わたしの名前はオルビア。オルビア・スカーレットよ」

 無言のままレイノルドがぴくりと小さく反応したのが、隣に座るリュナンにはわかった。

(もしかして有名なひと?)

 訊ねたかったが、さすがに今ここでは聞けない。

「それで、あなたたちは?」

 オルビアの問いにまず答えたのはシオンだった。

「俺はシオンといいます。シオン・フリューデン」

「あなたたちはタマラの市民?」

「いいえ。パニッツアの人間です」

「三人とも?」

 シオンがうなずくと、オルビアは「そう」とつぶやいて、今度はリュナンに視線をうつした。

「じゃあ、あなたは?」

「あっ、は、はじめまして。リュナン・アースライトです」

 しゃちこばって名乗るリュナンに、オルビアがまあ、とわずかに眉を動かして驚きをしめした。

「アースライト! じゃあ、あなたは……」

「はい。ホーク・アースライトはわたしの祖父です」

「そう、あの有名な空の英雄のお孫さんなのね。もしかして、あなたもおじいさまと同じ道を目指しているの?」

「はい。まだ見習いですが」

「そう、すてきね」

 オルビアは目を細めた。その物言いには単なる追従ではないあたたかみがあったので、リュナンは彼女に好感をもった。運び屋で、かつ飛翔士など、同じ女性ならなおさら眉をひそめられることもあるからだ。

「最後になったけれど、あなたのお名前は?」

「オレはレイノルド・シーブスです。お会いできて光栄です、オルビア・スカーレット議員秘書官」

 え、と声をもらしたのはリュナンだけで、当のオルビアはただ目を細めただけだった。レイノルドがわざと芝居ぶったわざとらしい言い方をしたのは、彼女が何者なのかをリュナンにも教えるためだろう。

(議員秘書官? ってことは、このひとタマラ市議会の関係者ってこと?)

 いや、しかしそれ以前に。

(ま、まさか。ここって市議会の建物なの!?)

 この建物に入ったとたん、シオンたちの態度が硬化した理由がわかった。タマラの政治中枢に案内されたら、そりゃ緊張もする。

(というか、もしかしなくても気づいてなかったの、わたしだけ、だよね……)

 右隣のシオンも、レイノルドの言葉には特に反応をしめさなかった。平然としているということは、彼も気づいていたのだろう。

「よくご存知ね」

 とオルビアは感心した様子でレイノルドを褒めた。

「有名ですからね」

「母はもちろん有名人だけれど、さすがにわたしの名前まで知っている人は少ないわよ。タマラ市民ならともかく」

「美人の名前を記憶するのは得意なので」

ようやく肩の力をぬいたレイノルドの返答を、光栄だわ、とオルビアはさらりと流す。

(オルビアさんのお母さま?)

 誰だろう、とリュナンが内心で首をかしげていると、それが顔に出ていたのだろう、オルビアが苦笑した。

「わたしの母の名はアンナ・コルティスよ」

 リュナンは今度こそ、あんぐりと口を開いた。――アンナ・コルティス! 有名どころの話ではない、それはタマラ市議会長の名前だ。つまりオルビアは市長の娘ということになる。

(あれ? でも苗字がちがう?)

「姓が違うのはわたしがスカーレット家に養女に出されたからよ。ついでに言うけど、わたしがコルティス市長の実の娘だということは、タマラではふつうに知られていることなの。特に秘密にしているわけではないから」

 先回りして疑問に答えるオルビアに、リュナンは顔を赤らめた。もしかして、ぜんぶ顔に出でいたのだろうか?

「ああでも、そんなに堅苦しくならないで。市長といっても、母は権力をかさにきる性質たちの人間じゃないから。いちおう、わたしもそうするように心がけているけれど」

「オルビアさんも、偉ぶっているようには見えません」

 勢いこんで言うと、オルビアはふわりとほほ笑んだ。

「ありがとう。あなたはとてもいいひとね」

 リュナンはますます赤くなり、身をちいさく縮めた。

「さて、自己紹介もすんだことだし、そろそろ本題にうつりましょうか。アースライト商会専属の飛翔士であるあなたたちが、タマラ市庁舎にやってきた理由。話してもらえる?」

 オルビアの問いに、三人は目線をかわしあい、うなずいた。代表してシオンが経緯を説明し、リュナンとレイノルドが話を補足する。

 ファンヴィーノ山道での事故、マルカート・レバノンと名乗る男からタマラ市章の入った文書筒をあずかったこと、だがその筒を奪われ、ムール商会を訪ねても届け先の人物はおらず、マルカート本人の住所も偽りであったこと……。

 すべてを聞き終えると、オルビアは難しい顔になった。

「残念だけど、わたしには思い当たることがないわ。その文書のことだけじゃなく、マルカート・レバノンなる人物にも」

「そうですか……」

「でも、これはわたしたちにとっても由々しき事態ね。その封蝋か、あるいは中身の文書は偽造かもしれないわ」

「ぎ、偽造?」

「ええ。当たり前だけど、市章が入った書類や封蝋なんてそうそう使えないのよ。それこそ都市間でのやりとりや市令の発布ぐらいにしかね。当然のことながら市章印をもっている、あるいはそれを扱える人間もかなり限られてくる。そして、わたしはその文書が誰によって書かれたものなのか思い当たる節がない。コルティス市長の第二秘書であるわたしがね」

 あ、とリュナンは声をあげた。

「秘書官とはいえ、すべての文書に目を通す権限があるわけではないから、わたし以上の身分の人間が極秘裏に作ったものなら話は別。ただし、とても限られているわね。それで、あなたたちに確認したいのだけど、その文書筒、中身がなんの文書だったのかはわからないのよね? もしくは、本当にその中身が文書だったのかどうかも」

 オルビアの追及にはっきりとうなずいたのはシオンだ。

「はい。俺たちは荷物を勝手にあけて見ることはできないので」

「ええ、もちろんそうよね。ごめんなさい、あなたたちの誠実さを疑ったわけではないの」

 たしかにそこを疑われては、運び屋としての信用がまず成り立たなくなる。

「けれど、困ったわね。タマラ市章の入った文書筒だなんて。本物だったとしても、仮に市章の蝋印が贋物だったとしても、大問題だわ」

 厄介なことになった、とオルビアは嘆息まじりにつぶやいた。物憂げな様子が、いっそ艶かしく見えるのは美人の特権だろうか。

「あ、あの……」

 リュナンがおそるおそる手を挙げると、オルビアの視線がこちらを向いた。

「なにかしら、リュナンさん?」

「え、えっと……、その、オルビアさんは、わたしたちのことは信じてくださるんですか。たとえば嘘だとかいたずらだとか思ったりは」

「あら、まさか冗談なの?」

 軽く睨まれて、リュナンは座ったまま飛び上がる。シオンとレイノルドが横で呆れたように額を押さえているのがわかった。

「ち、違います! 本当の話です!」

 慌てて否定すると、オルビアは苦笑した。

「わかっているわ。パニッツア市民のあなたたちが、アースライト商会の名前を使ってまでわたしをかつぐ理由がわからないもの。ましてや冗談で、こんな議会堂の奥にまでほいほいついてくるわけがない」

 オルビアの指摘は公平かつ冷静だった。リュナンたちを信用できないのなら、そもそも最初に市庁舎から追い出していたはずだ。

「うちの職員にも言ったけど、あなたたちが本当にアースライト商会の人間かどうか照合するのはたやすいわ。それに、もし騙るにしてもホーク・アースライトなんて有名人の名前は出さないでしょう。ばれる公算が高くなるだけだもの」

「たしかに」

 とうなずいたのはレイノルドだ。

「立場上、あなたたちを全面的に信用するとはわたしも言えないわ。けれど、タマラにまで関わりが出てくると言うのなら話は別よ。もし市章印が偽造されているならそれも大問題だし。……ともかく、わたしのほうでも調べておくわ。その、レバノンと言ったかしら、男のほうもね」

「ありがとうございます。助かります」

 頭をさげるシオンに、リュナンもレイノルドも慌ててならう。

「あなたたちもこのことは内密にお願いね」

「はい」

 ――どうしよう、話がオオゴトになった。

 おそらく三人とも、思いは同じだっただろう。神妙な顔のリュナンは隣のふたりと合わせ、しっかりとうなずいた。



「……そう、あなたたちは三都市を巡回しているのね。じゃあ、どの商会の支部に連絡を入れてもかならずあなたたちに届くことになるのかしら」

 ええ、とレイノルドがうなずいた。

「オレたちは南……いえ、時計の針と同じ動きで移動してますね。休みをはさんでも三日に一度は同じ都市におりることになります」

「そう、わかったわ」

 新しい情報が手に入ったら、オルビアはアースライト商会宛に、リュナンたちはタマラ市議会のオルビア宛に一報を入れることを約束し、三人はオルビアの執務室から暇を告げることにした。

「お茶も出さずに、失礼したわね」

「いいえ。こちらこそ公務中にお時間をさいていただいてありがとうございました」

 オルビアが扉をあけ、三人は執務室から退室する。

 廊下に出たところで、奥から歩いてきた三人の人影とはちあわせした。先頭の人物――年齢は五十代ぐらいだろうか、上品で優しげな面立ちをした婦人が最初に気づき、声をあげる。

「あら、オルビア?」

「お母さま!」

 反射的にオルビアが呼び、彼女は周囲の目に気づいてばつの悪い顔になった。

「……失礼しました、コルティス市長」

「いいのよ、もう会談は終わったわ。お客さまをお見送りに来ただけだから、今は私用(プライベート)の時間」

 オルビアとのやりとりで、この婦人がタマラの市長であるアンナ・コルティスだということがわかった。

 彼女がお客さまと呼んだのは、背後にいる対照的なふたりの男性のことだ。ひとりは三十代なかばと見られる、端正な顔立ちの男だった。長い黒髪に黒灰色の瞳をしており、痩せぎすというわけではないのにどことなく鋭角的な印象を受ける。ひと目で高価だとわかる仕立てのスーツが、高い身分であることを示していた。

 そして、もうひとり――老人にしては見事な体格をした、獅子のたてがみを思わせる白髪の男に、リュナンは見覚えがあった。というより、その強烈な存在感は一度見たら忘れない。

「ルキウスおじさま!?」

 思わずあげた声に、リュナン以外の全員がこちらに注目した。

 名前を呼ばれ、怪訝な顔をした老人は、はっと気づいてたちまち相好を崩す。

「ん? おお、まさかその顔、ホークの孫か!」

 認めるなり彼が一直線に突進してきたので、シオンとレイノルドは迫力に圧されたようにそろって壁際へ後退した。リュナンは逃げる前にがっしと両肩をつかまれ、ばしばしと叩かれる。かなり痛い。

「なんと、久しいな! 髪が短くなっておったから、一瞬だれかわからんかったぞ。ますます男の子らしくなりおって」

「……おじさま」

「わはは、そう目くじらをたてるな。おまえさんも、相変わらずおてんばばっかりやっておるそうじゃないか。このまえ婿殿に会ったが、ひどく嘆いておったぞ。飛翔士なんぞを目指して、ますます義理の父(ホーク)に似てきた、とな」

 うっ、と言葉につまるリュナンである。リュナンが女飛翔士を目指すことを、もっとも強固に反対したのは父だったのだ。

「ホークはホークで『娘の人生くらい好きにさせてやれ』と相変わらずの放任ぶりだそうだな。おまえさんの希望を後押ししたのはホークのやつだったんだろう?」

「はい」

 リュナンはうなずいた。家族中の反対にあったのに、祖父だけがリュナンを応援してくれたのだ。結局祖父のひと声が決め手となり、アースライト商会の運び屋として修行できるよう、話もすすめられた。甘えているという自覚は、もちろんある。

「本当のことを言うと、おじいちゃんが一番反対するんじゃないかと思ってました」

「現実を知っとるからだな」

 ふたたびリュナンはうなずいた。

「ホークからしてみれば、女飛翔士なぞ珍しいものじゃなかったからだろう。わしが若いころは軍属してたやつもおったぐらいだ」

「ルキウスおじさまの若いころですか?」

「そう、戦時中の話さ。まだ野生の飛翔獣がたくさんいたころのことでもある」

 目元をほそめ、ルキウスはかつての記憶を懐かしむような表情になる。

「それで、うしろのふたりがおまえさんの教官か? はじめて見る顔だが」

 彼の視線がリュナンの背後にいるシオンとレイノルドにむけられる。リュナンはうなずいた。

「はい。シオンとレイノルドです」

 ふたりを紹介しようとしたとき、オルビアと話していたアンナ・コルティスが急にこちらに注意をむけ、まあ、と目を丸くした。

「ルキウス、あなたがこんなかわいらしいお嬢さんとお知りあいだなんて、わたくしちっとも存じ上げませんでしたよ」

「いやなに、誤解せんでくれアンナ。この娘は私のふるい友人、ホーク・アースライトの孫でな。ホークが目に入れても痛くないほど猫かわいがりしておる、じゃじゃ馬のお嬢さんさ」

 ルキウスの返答にはよけいな修飾語がたくさんくっついていたが、アンナは少女のように目を輝かせた。

「まあ、あの有名な空の英雄のお孫さん! お名前はなんと仰るの?」

「は、はい。リュナン・アースライトといいます」

「すてき! 古代の言葉でいう、南方から吹く気流のことね。わたくしはアンナ・コルティス。タマラの現市長です」

「ぞ、存じあげております……」

リュナンは緊張でかちこちに固くなりながらうなずいた。

「あなたのおじいさまが偉業を達成されたとき、わたくしもまだ若い娘だったのよ。あのころの女の子たちはみんな、『空の英雄』に憧れたものだったわ」

 ふふ、と笑うアンナの瞳は完全に夢見る少女のそれである。祖父は若いころずいぶんと女性に騒がれたとよく吹聴していたが、本当だったんだなあ、とちょっと感心した。

「ぜひおじいさまのお話を聞かせて頂きたいわ。ねえ、よければ今からうちにいらっしゃらない?」

「え、ええっ?」

 うち、とはまさかコルティス市長の邸宅だろうか。目を白黒させているリュナンに、またはじまったわ、とルキウスは面白がるようににやにやと笑う。

 助けを求めてふり返ると、なぜかシオンとレイノルドは壁際で一同を静観していた。シオンは我関せずとばかりに肩をすくめ(ひどい)、レイノルドはあさってのほうに目をそらして口笛なぞを吹きはじめる(何もごまかせていない)。

(ちょっと、なんで他人のふりなの!?)

 あとで覚えてなさいよ、と思いながらリュナンは顔をひきつらせた。

「た、大変光栄なのですが……すみません、まだ仕事中なので」

「そう。残念だわ」

 しゅん、とあからさまに肩を落とされ、リュナンの良心が激しく疼いた。商会にはもう荷物を届けてあるので、仕事中というのは半分嘘だ。だが、さすがにタマラ市長の邸宅にお邪魔する度胸は持ちあわせがない。

 隣にいたルキウスが耳元に顔を近づけ、こっそりとリュナンにささやく。

「騙されるんじゃないぞ、お嬢。これがこの上品なご婦人のいつもの手でな。なかなかしたたかなのさ、タマラの女ギツ……もとい、市長殿は」

「まあ、ルキウス! 聞こえていてよ」

 どうやらパニッツアの現市長とタマラの現市長はずいぶんと気心の知れた仲のようだ。リュナンはふたりの最高権力者にはさまれ、ひきつった愛想笑いを浮かべることしかできない。

 男たちは頼りにならない、とリュナンは視線をオルビアにうつした。さきほどから視界の片隅でとらえていたのだが、彼女は彼女で厄介な窮地に立たされているようだった。



 アンナ・コルティスがリュナンたちとの会話に移るなり、黒髪の男がいかにもさりげなくオルビアに近づき、その手をとったのが見えた。

「おひさしぶりです、オルビア嬢」

「……おひさしぶりです、ベルリーニ市長」

 オルビアは眉間にしわをよせ、相手――マリーネ市の代表である、カルロ・ベルリーニにこたえた。困惑などというものではなく、あからさまに嫌がっている顔だ。

「そんな他人行儀な。カルロとお呼びください、と以前申し上げましたのに」

「失礼しました。カルロ」

 謝罪もおざなりで、あまり誠意は感じられなかった。

 やりとりだけ聞けば、カルロが熱心にオルビアを口説こうとしているように思える。だが彼らのあいだにはどこか白々しい空気が漂い、まるで芝居でも演じているかのような印象だった。

「お元気そうで何よりです。……ところでオルビア、先ほどから気になっていたのですが、あちらにいる彼らは?」

 彼ら、とは壁際にいるシオンとレイノルド、そしておそらく自分もふくまれているのだろう。

 カルロのさぐるような黒灰色の瞳がこちらにむけられたとき、リュナンは体をこわばらせた。視線が合うと、なだめるように目を細め、鋭い目つきをやわらげる。彼のような男性にほほ笑まれれば、多くの女性は浮き足立つのかもしれない。だが、ほんの一瞬――そこにおそろしくひややかで遠慮のないものが宿っていた気がして、リュナンはのぼせあがる気にはなれなかった。

 カルロの視線をさえぎるようにしてオルビアは前に出ると、場をとりなすようにほほ笑んだ。

「招いたのはわたくしです。彼らは……、わたくしの友人です」

「ご友人。そうですか」

 カルロは本当に納得がいったのかわからないような口調で、なるほど、と目を眇める。

「オルビア、再三申し上げておりますが、近いうちにぜひマリーネにいらっしゃって下さい。いつでもわが屋敷にご招待いたします。もちろん、

「……光栄ですわ。またいずれ」

 こたえるオルビアの声は、むしろ決闘にでも応じるように挑戦的に聞こえた。彼女は警戒心を隠そうともしていないし、カルロはカルロでどこか芝居がかったわざとらしさがある。オルビアがあからさまに嫌がるそぶりを見せても、彼はまったく引き退がる気はないようだ。

「……あれはね、一種のかけひきなの。政治的な意味もあるけれど」

「え?」

 突然アンナに耳元でささやかれ、リュナンは驚いて彼女を見かえした。婦人はいたずらっぽく笑って、

「マリーネ市長とタマラ市長の娘のロマンスなんて、ちょっと気になるものね?」

 と訊く。

 下世話な話だが、たしかに興味はある。タブロイド誌ならまず放っておかない題材ゴシップだろう。時代がもっと古ければ、敵同士のラブロマンスとしてもてはやされたに違いない。そんなリュナンの内心が額面にもあらわれたのか、アンナはにっこりと笑った。

「カルロではないけれど、いつでもわが家に遊びにいらっしゃいな、リュナンさん。おいしいお茶と興味のある話題で、いつでもおもてなしさせていただくわ」

「は、はい」

 リュナンはどうにかこうにかうなずいた。ルキウスのいうとおり、このご婦人、見た目に反してかりしたたかな女性かもしれなかった。



(なんか妙なことになっちまってるな)

 一方、リュナンと同じくカルロ・ベルリーニを壁際で眺めていたレイノルドは、内心で面白がっていた。

(あれがうわさのマリーネ元首か……)

 顔写真は新聞で見たことはあるが、本人を実際に目にするのは、もちろんはじめてだ。

 たしかに若い。だが若いからと侮ってかかれば、巧妙に隠された爪で引き裂かれるのだろう。そんな酷薄さがあの男にはある。

(あーあ、厄介な男に顔を覚えられちまったかもしれねえなあ)

 しくじった、という気がする。本来ならば、一生出会うこともない身分の人間だったはずだ。

 同じく一歩下がったところにいる隣のシオンに視線をやれば、いつもと変わらぬ表情である。特に面白がっているわけでも、緊張しているふうでもない。

 なんにでも興味を覚える自分とは違い、シオンは基本、赤の他人への興味が薄い。しかしそれはまったくの無関心というのではなく、たんに野次馬的な意識が極端に薄いのだろうとレイノルドは思っている。いつも平然としているため愛想もないと誤解されがちだが、それなりにつき合いのある人間には喜怒哀楽もわかりやすい。

「……なあ、どう思う」

 訊ねると、「なにがだ?」と即座に返された。ちゃんと話は聞いているのだ。

「三都市同盟の頭が一堂に介してるんだ、めったにない幸運だと思わねえの?」

「まあ、珍しい機会だとは思う」

「相変わらず淡白だな。もっとこう、すげえ、とかおもしれえ、とか気持ちが盛り上がることはねえのかよ。この三人に何かあったら同盟自体がどうなっちまうかわかんねえんだぞ。たとえば今、ここに爆弾一個でも投げ入れられたらどうなる? 即座に三都市あげての戦争になりかねねえってのに」

「それを考えてた」

 シオンは顔を俯かせ、唐突に声を低めた。おそらくレイノルド以外に彼の言葉は聞こえないはずだ。口元を下へむけたのは、万が一にでもくちびるを読まれないためか。

 物騒な発言に、レイノルドはぎょっとなる。

「はあ? 今なんつった?」

「カーウェイが話していただろう。水面下のうわさの話」

「……あー」

 あれね、とレイノルドは相槌をうった。もちろん声量を落として、だ。

三都市同盟トライアンスは文字通りみっつの都市でかわされたものだ。タマラ、マリーネ、パニッツア。仮にそのうちの二都市が諍いをはじめたら、残りの一都市は中立の立場から仲裁にあたることになっている。仲裁都市が目を光らせているかぎり、二都市間で争いを続けるのは難しい。うがった言い方をすれば、漁夫の利を狙われるのはどこも嫌なはずだからだ」

「……おう」

「仲裁に当たる都市に相手方につかれればおしまいだ。敵に回さず、よしんば味方につかせるには」

 淡々としたシオンの言葉に、レイノルドは顔をひきつらせた。

「お、おい」

「簡単な話だ、先に疑心暗鬼をうえつけておけばいい。敵方の都市へのな」

「……おまえ、むっつり黙りこんでそんなこと考えてたのかよ」

「ひまだからな」

 返答も人を食っている。本気なのかどうか、いまいちわからない。

 ともあれ、シオンの冷静な観察眼にはレイノルドも一目おいている。それは飛翔士の重要な資質でもあるからだ。「空気を読む」という点においては、ある意味で地上も空中もそれほどかわらない。

(そのくせ、あいつの気持ちにだけは全然気づかないのがふしぎなんだが)

 いや、だが、もしかしたら気づいている、という可能性も無きにしも非ず、か。

(余裕こいて、他の男に横からかっさらわれても知らねえぞ)

 やれやれと思いながら、レイノルドはもう一度シオンに話をふった。

「それはともかく、あいつ助けてやんねえの? えらくあのご婦人に気に入られたみたいだぜ」

 後日かならずお訪ねします、と約束させられているリュナン――大事な妹分をレイノルドは示す。

 ホークとパニッツア市長が旧知の間柄だということは知っていたが、孫娘とまであれほど懇意にしているとは知らなかった。つねづね思っているのだが、リュナンは自分が有名人の孫だという自覚が薄すぎる。幼少のころ、金品目当てに何度か誘拐されかけたこともあったのだが。

(英雄の身内だからと驕ったり、家を利用するところがないのはあいつの長所だが、あんまり無自覚すぎるのもなあ……)

 シオンともども探検ごっこだの海賊ごっこだのにひっぱりまわしていた自分が言うのもおかしいが、リュナンもあれでいちおうは箱入り娘だったのだ。幼なじみ兼、兄貴分の立場としてレイノルドは純粋に心配なのだが、シオンは「別にいいんじゃないか」とあっさり肩をすくめただけだった。

「いいのか?」

「ああ。マリーネの市長に気に入られるよりははるかにな」


        *


 アンナやオルビアに見送られ、市議会堂から外に出たとき、日はすでにとっぷりと暮れていた。

 今回の三市長会談は極秘のものだったという話なので、ルキウスやカルロとなりゆきで一緒になったリュナンたちは、裏門からひっそりと、かつ迅速に抜け出した。

「それでは盟主殿。また後日」

 どこからともなく現れたおつきの人間を従え、マリーネ市長であるカルロ・ベルリーニはかるく頭をさげて会釈した。

「お気をつけて」

「おう、おまえさんもな」

 ルキウスが気安く手をあげ、別れを告げる。

「――きみたちも」

 と、カルロが突然こちらに笑みをむけた。

空路の無事を祈るファーレス・フォトゥナ

「ありがとうございます。そちらも」

 決まり文句にシオンが礼を返すと、彼はひとつうなずいて、悠然ときびすを返した。

「絵になる男だなあ」

 レイノルドがぽつりとそんなことをつぶやいたのが、いつまでもリュナンの耳に残った。

 マリーネの若き権力者と別々の方向へ歩き出した彼らは、ルキウスとともにこっそりと裏通りから表通りに移動した。

 三都市の中でもっとも西にあり、気温が高いタマラは、むしろ夕方ごろから人の出が多くなる。あちこちの大衆食堂やレストランには煌々とあかりが灯り、陽気に笑う人間の喧騒がどこからともなく聞こえてくる。議会堂の前は噴水のある広場になっているため、すでにできあがっている酔漢の騒ぐ姿もちらほらと目についた。

「嬢たちはこれから夕飯か? 仕事はもう終わっておるんだろう」

「はい。今日はバルで夕飯をとってから、商会の宿舎に戻ってやすみます」

 ルキウスの問いにリュナンは答えた。フューたちも飛行場に隣接した厩舎にあずけてあるので、今日一日の仕事はこれで終わり。タマラで一泊し、明日の朝一番にパニッツアへ戻る。これでようやく南回りの一巡だ。

 ルキウスはちょうどいい、と手を打った。

「なら、夕飯につき合え。タマラにはなじみの店がある。奢ってやろう」

 リュナンはシオンたちと顔を見合わせた。

「つ、つき合うって……、というか市長、今気づいたけど、まさかおつきのひともつれずに単独でここへ来たんですか?」

 今さらのように驚くレイノルドに、ルキウスはこともなげに言った。

「極秘というか、今回は非公式の訪問だったからな。供は先に帰らせたんだ。かわりに電信を打って『迎え』を呼んである」

 にやりと悪童のように笑うルキウスに、リュナンたちは同時に首をかしげたのだった。

「……迎え?」



 ルキウスのいうなじみの店は、議会堂から比較的近い距離にある老舗のバルだった。

 酒樽のかたちをした看板が軒先にぶら下がるその店は、〈陽気な笛吹き亭〉という名である。

 開けはなたれた店先からは、軽快な楽曲と客達の朗らかな笑い声が漏れ聞こえてきた。酒とビール、焼けたハムとオリーブオイルの香り、あたたかいスープのにおいが鼻腔をくすぐり、リュナンは危うく鳴りかけたお腹をおさえるはめになった。

「昔からある店だ。店主の腕もいいし、何よりツケもきくしな」

 パニッツアの市長がツケとは……、と三人は複雑な表情で店内に入る。ルキウスの身分を考えればずいぶんと庶民的だが、逆に言えば三都市同盟の長がこんなところで食事をするとは誰も考えないのかもしれない。

「おお、いらっしゃい。奥でもう待っとるよ」

 カウンターの向こうにいる店主らしき男がルキウスに手をふる。やはり旧知の関係なのだろう。

 店内は大変な盛況で、夜だというのに人いきれで暑いぐらいだった。みな親しい顔なじみばかりらしく、そこここで男たちが酒を酌み交わし、卓上にはカードや賽子がころがっている。

 ルキウスに導かれて広い店内を奥へ奥へとすすむと、すみの一角にある人物が腰かけていた。テーブルの上にはすでに空になった酒瓶が数本と、つまみ料理の皿が適当に並んでいる。

「おむかえご苦労」

ルキウスのねぎらいに顔をあげ、その男はグラスを手に掲げてにやりと笑った。

「まったく、人づかいの荒い男だ」

 白髪に髭をたくわえた初老の男である。体つきはどちらかというと小柄で、決して筋肉質ではない。だが、たとえば瞳を見ただけでも、老年という域に達しながら彼が活力に満ちあふれ、溌剌としているのがわかるだろう。

 身につけているのはお世辞にもきれいとはいえない着古したフライトジャケットとくたびれた防寒用ズボンだが、それすらも粋に見えるのが彼のふしぎなところだった。

「お、おじいちゃん!?」

「ホークの大将!」

 リュナンたちは一斉に声をあげた。

「迎えって、じいさんのことだったのか」

「古い顔なじみに呼び出されたってジュディスたちが言ってたの、ルキウスおじさまのことだったの?」

「そうだ」

 ルキウスはうなずき、ホークはよう、と気さくに手をあげる。

「おまえたちもいっしょとは驚いたな。さっき海上で見かけたが、久しぶりだな小僧ども。それにリュナン、元気にしてたか?」

「うん、いやわたしは元気だけど……あ、そうだった! さっきは助けてくれてありがとう、おじいちゃん」

「じいさん、あいつらどうなったんだ?」

 交互に訊ねるリュナンたちに、老人ふたりはまあ座れ、と一同をイスに落ちつかせた。給仕の娘に声をかけ、適当に飲み物を注文してからホークはリュナンたちに向きあった。

「あのヘボ飛行士どもなら適当に遊んでから撒いてやったぞ。途中で操縦桿が折れたらしくてな。大騒ぎしとったが、まあ大丈夫だろ。有人島の近くだったからな」

 あっけらかんと笑い、ホークはグラスの中身を一気にあおる。

 すでにかなりの量を飲んでいるはずだが、酔いのかげりすらうかがえない。顔はやや赤みを帯びているが、ろれつも記憶もしっかりしている。リュナンは感心するべきか呆れるべきか判断に迷った。

「なんだ、その『ヘボ飛行士ども』というのは」

 横からルキウスが疑問をはさんだので、シオンたちは悪名高い黒い兄弟のことを話して聞かせた。

「なんと、近ごろはそんな不逞のやからもいるのか。パニッツアにもどるのにおまえを呼んで正解だったな」

 何気ないひと言に、えっと声をあげたのは、今度はリュナンたちのほうだった。

「まさかタマラからパニッツアまで大将の飛行機(テンペスタ)で帰るんですか? 陸路じゃなく?」

 そうだ、とルキウスはうなずいた。

「私の知るかぎり、この男はパレリア沿岸随一の飛行士だからな。これ以上安全で、かつ速い移動手段はあるまいよ」

「そ、それは認めざるをえないところですが……」

「心配いらんよ。私も飛行機のことなら素人ではない。かつてはおまえさんたちのように飛翔士だったこともある」

 それは初耳だった。ルキウス・バルトリードは戦時中は飛行士として活躍していたと聞くが、もとは商家の跡取り息子だったはずだ。

「本当ですか、市長?」

「ああ。腕はこの男にはまるで及ばんかったが。飛翔獣から飛行機に乗りかえた以降も、差はひらく一方だった」

「そのかわり、ケンカでは一度も勝てんかったがなぁ」

 ホークが苦笑しながら横から茶々をいれる。おそらくルキウスに面と向かって褒められ、照れているのだろうとリュナンは思った。

「ホークの空での技量は当時から抜きんでていたぞ。仲間うちでは、『翼と風の神に愛された男』なぞと呼ばれておったしな。そのほかのことはからっきしだったが」

「なんか、だれかさんを彷彿とさせるな……」

「だね」

 レイノルドがぼそりとつぶやき、リュナンもその横でうなずいた。なんだよ、とシオンがこちらをにらむ。

「そうやって持ちあげてもむだだぞ、ルキウス。わしは乗合馬車じゃない、都合よくつかわれても困る」

「まあそう言うな。おまえも隠居してからは退屈で仕方ないんだろう。身内にいらん心配ばかりかけおって。聞いたぞ、病みあがりだったそうじゃないか」

「……その病みあがりの老体をタマラまで呼び出しておいてよく言う」

「そうだよ、病みあがりなんだからね、おじいちゃん!」

 テーブルの表面をバンとたたいてリュナンが叫ぶと、ホークは「うおっ」と、イスから腰を浮かせた。

「しまった、薮蛇だったか」

「もういいかげんいい歳なんだから、もっと体を大事にしてよ!」

「誰がトシだ! わしゃまだまだ現役だぞ。おまえこそ腕はちったああがったのか、はねっかえりめ」

 思わぬ反撃に、孫はうっと返答につまる。

「そ、それは……鋭意努力中だけど……」

「リュナン。おまえ、わしとなんと言って約束したんだった? どうせ目指すなら、パレリア沿岸一の女飛翔士になってや――」

「ぎゃああああっ!」

 ホークの言葉をさえぎるように、リュナンは絶叫しながらイスを蹴って立ち上がった。

「目標は! どうせなら高いほうが! いいに決まってるでしょ!」

 顔を真っ赤にし、必死でごまかそうとこころみるリュナンだったが、男たちはにやにやしながらこちらの反応を面白がっていた。

「ほほう」と、ルキウス。

「へえええ。パレリア一の。女飛翔士。パレリア一のね」

 しつこくくりかえすレイノルドに、ホークもまた念をおすようにうなずいた。

「そうだとも。パレリア一だ」

「なっ、なによおおおお!」

「まあまあ落ちつきなさい、嬢」

「なによ、目標高くてなんか悪いの!?」

 慌てて諌めにかかるルキウスに、リュナンはギッと鋭い目を向けた。死ぬほど恥ずかしいが、完全に八つ当たりである。

「悪くない悪くない。おまえさん、自分では気づいとらんかもしれんが声がでかいぞ」

 必死になだめにかかるルキウスの横で、それまで黙っていたシオンが唐突にふうん、とつぶやいた。

「パレリア一の女飛翔士か。いいんじゃねえの」

「――――」

 さらりと放たれたシオンのひと言に、癇癪をおこす寸前だったリュナンは言葉を失った。こぶしをにぎりしめたまま、ぽかんと口を開く。

「シ、シオン、おまえ……」

 ホークとルキウス、それにレイノルドまでもが驚いた様子でシオンを見、彼はふしぎそうに首をかしげた。

「だって女飛翔士だろ? リュナンならなれると思うぜ。はじめてのわりに勘は悪くねえし」

 こういうとき、彼が絶対に冗談を言わないことをリュナンは知っている。それに、場をとりなすような気のきいたことも。つまりこれは純粋に、掛け値なしの、本心からシオンが思っていること――のはずだ。

(こっ……!)

 体中の熱という熱が、血液という血液が一気に心臓に集中し、破裂でもするのかと思うほどに驚喜で跳ねまわる。何もいえず、ただぱくぱくと口をまぬけに開閉させているリュナンに、シオンはさらにひと言つけ加えた。

「でも、男女問わず一番なら譲る気はねえけどな」

 その瞬間、ぷしゅう、と耳から空気がぬけていく音がした。

(この男は、わたしを殺す気だ)

 へたへたと、文字通り腰を砕かれてイスに座りこんだリュナンに、シオンをのぞいた一同が同情めいたまなざしをおくる。

「ううむ、なんぞひどい茶番を見た気がするわ」

「ホーク。放任主義もいいが、おまえさん孫の将来をもう少し案じてやったほうがいいんじゃないかね?」

「オレはいま、天然ものの恐ろしさをはじめて知りましたよ……」

「なんだよ? 俺、何かおかしなこと言ったか?」

 シオンをのぞく男衆三人が顔をよせ、ぼそぼそと声をひそめてつっこみあっている。テーブルにつっぷしたリュナンはもう、つっこみ返す気力さえわかなかった。



「それで、なんでおまえさんたちがいっしょにここへ入って来たんだ? ルキウスは外交でタマラに出向いたんだとばかり思っていたが」

 タマラの特産であるオリーブオイルとバターで炙ったキノコをフォークで一突きにし、口元へはこびながらホークが訊ねた。

「もちろん公用だとも」

グラスをあおって、答えたのはルキウスである。

「なんでも妙なうわさを耳にしたとかで、タマラの市長に呼び出されてな。各都市代表の真意をいま一度確認したかったらしい」

「――うわさ?」

 ホークが反応し、じろりとルキウスに目をやる。ルキウスは煩わしげに手をふった。

「根も葉もない類のものだ。あまりつっこんで訊くな」

「…………」

 リュナンたちは食事の手をとめ、一瞬だけ互いに目線をかわしあった。考えていたことは、確認するまでもなく三人同じだっただろう。

 すなわち、カーウェイの言っていた同盟が危ういという話だ。

「そういえば、私もあえてあの場では訊かなかったが、おまえさんたちはどうしてタマラの議会堂に入りこんどったんだ? オルビア嬢は友人だと言っておったが、あれはおまえさんたちをかばうための方便だろう」

 リュナンたちは今度は気まずげに互いの顔を見合わせた。三人を議会堂に招き入れたのはオルビアだ。だがその経緯を話すには、事の発端から説明せねばならなくなる。しかし、他ならぬその理由を内密にする、とオルビアに約束したのだ。タマラの市章印についてもリュナンたちが軽々しく触れていい話題ではなかった。

 誰も口をきくことができないでいると、こちらの顔色を察したらしいホークが訊ねた。

「仕事がらみか?」

「うん」

 リュナンが肯定すると、そうか、とホークはうなずく。

「ルキウス、おまえも知っていると思うが、わしら運び屋の仕事には守秘義務というものがある。だれからどんな荷を請け負ったのか、ことによると家族にすら明かすことはできん」

「それはわかっとる。しかしな……」

 ルキウスはむずかしい顔つきになった。

一般人がおいそれとは立ち入れない場所に、一介の運び屋が入りこんでいたのだ。ましてや中で三都市の長による極秘会談が行われていたとなれば、ルキウスが危ぶむのも当然だろう。

「こいつらの行いが原因で不測の事態が起こった場合、わしが全面的に責任をとる。それでどうだ」

 むう、とルキウスは唸り、リュナンは思わずイスから腰を浮かせた。

「おじいちゃん!?」

「待ってください、俺たちのことは――」

 シオンを手で制し、ホークはいいか、と言った。

「おまえたちはアースライト商会の人間だ。頭たるわしが商会の人間を保証するのは当然のことだろう。もちろん、個人としても信用している。若いもんはときに無鉄砲なふるまいをすることもあるが、おまえたちは仕事に対して恥じるようなまねはせんとな」

「おじいちゃん……」

 ふむ、とルキウスはうなずき、顎を撫でた。

「私もおまえの身内が信用できんと言っておるわけではない。ただ、都市同士の情勢などは、個人の思惑とは関係なく変化するものだからな」

「それは三都市同盟についてですか?」

 恐れ知らずにもレイノルドが問うと、ルキウスはじろりと彼をにらんだ。

「一般論としての話だ。あえて今ここで言わせてもらうが、私自身、恒久平和なるものを信じてはいない。為政者にできることなど、せいぜいが『かりそめの平和』をどれだけ長く保てるか、その程度にすぎん」

 盟主と呼ばれる男の言葉には重みがあった。リュナンたちが何も言えず口を閉ざしてしまうなか、ホークは皮肉げな笑みをくちびるの端にのぼらせた。

「かりそめの平和、か」

「そうだ。だが盟主と呼ばれる者の責任として、せめて私の生きているあいだ、同盟は破られるわけにはいかん」

 たっぷりと時間をおいてから、「だからこそ」とルキウスは続けた。

「パニッツアに仇なすものは、誰であろうと容赦はせんぞ」

 三都市の盟主たる男は、ここですっと目を眇めた。濃茶色の瞳が酷薄さを帯びて、じろりと鋭く一同を見わたす。

 肚の底までを探るような視線に射抜かれ、リュナンは思わず背筋を伸ばした。うしろめたいことがある人間は、彼の眼前で平静ではいられないだろう。これがルキウス・バルトリードという、一都市を統治する男の恐ろしさだ。彼がひとたび睨みをきかせれば、みな百獣の王を前にした小動物のように、自然と身を伏せるしかなくなる。

 ――こわい。だが、逃げるわけにはいかない。

(わたしにだって、譲れないものはある)

 リュナンはぐっとくちびるを引き結び、瞳に力をこめてルキウスを見返した。恥じることなどなにひとつない、と大声で宣言するかわりに。

 シオンもレイノルドも同じだった。誰も視線をそらしたり、目を伏せたりはしなかった。ルキウスはころあいを見てふっと視線をはずし、酒の入ったグラスを掲げもった。

「わかった。……私もおまえさんたちを信用しよう」

 肩を揺らし、ホークがくつくつと笑う。

「おまえさんの負けだ、ルキウス。こいつらが若いからといって、あんまりなめてかからんほうがいいぞ。窮鼠が猫を……、いや、獅子を噛むことさえあるかもしれんからな」

 ルキウスは鼻を鳴らした。老獪さをにじませ、仕返しのようににやりと笑う。

「だが、きっちり言質はとったぞホーク。何かあったらおまえには私の専属飛行士になってもらおう」

「そうならんように祈っておこう。公務のたびに呼び出されてはかなわんからな」

 盛大に顔をしかめ、ホークはそう返したのだった。


        *


「じゃあな、おまえたち」

 店を出たところで、ホークが陽気な声でリュナンたちに別れを告げた。

「わしらはもう一杯やるから」

「だ、大丈夫、おじいちゃん? ふたりとも千鳥足なんだけど……」

 リュナンははらはらしながら、なぜか肩をがっちりと組んでいるホークとルキウスを交互に見る。

「ぬかせ。足どりは多少ふらついとるが、頭はしっかりしとるわ。なあ、ルキウス?」

「うむ。年よりあつかいは不要」

「オレたちも市長の泊まってるホテルの入り口までおくって――」

 レイノルドの提案にも、いらんいらん、と老人ふたりは邪険に手をふるのみだった。

「すぐそこの宿だ、心配されるような距離でもない。おまえたちも気をつけて帰れよ」

 はい、とリュナンはうなずいた。

「わたしたちは大丈夫です。三人いっしょですから」

「またな。明日も空の上で会うかもしれんが」

「はい。おやすみなさい、おじいちゃん。ルキウスおじさまも」

「おう、おやすみ」

 なにがおかしいのか、がはははと笑い声をあたりに響かせながら、ルキウスとホークはよたよたと道を歩いていく。表通りにはまだあちこちに明かりがともり、彼らのような酔っぱらいの姿は特に目立ちもしない。

 リュナンたちは彼らの背中が見えなくなるまで見送ってから、ようやくきびすを返した。

「なんかいいよねえ、ああいうの」

 ぽつりと言うと、レイノルドがからかうように笑った。

「ああいう人騒がせなじいさんたちが?」

「ひとさわ……いやそれは否定できないけど、そこじゃなくて」

「わかってるって。ああやって身分や立場が変わっても、いっしょに酒が飲める仲がってことだろ?」

 うん、とリュナンはうなずいた。

「じいさんたち、あんな大層な身分なのに少しも威張りちらしたところがないもんな」

第一線からは退いたとはいえ、ホークはシオンたちの立派な雇用主だ。だが、いつまでたってもホーク自身が「顔なじみのおじいさん」の態をくずさない。不遜に思えるような態度も笑って受けいれる。そうでありながら、彼自身が軽んじられることはない。それは、一目置くべき人物だと誰もが自然と感じるからだ。

「ま、羨ましいならオレたちもそうなりゃいいんじゃねえの。おまえがどんな身分になっても、酒ぐらいはつきあってやるよ。飲める年齢になったらな」

 レイノルドが腕をのばし、リュナンの頭をぐしゃぐしゃとかき回した。

 その仕草に、なぜか急に鼻の奥がつんとした。リュナンは一滴も飲んでいないが、アルコールの匂いをかいだせいで感傷的な気分になっているのかもしれない。

 うん、と鼻声でうなずくと、レイノルドは笑った。

「それまでに、おまえももう少し色気つけとけ。それこそあのオルビアさんみたいに、いっしょに酒飲んで楽しいと思えるようなイイ女にさ。なあ、シオン」

「こいつに色気つくの待ってたら、何年かかるかわかんねえぞ」

 ひどい、とリュナンは肩を怒らせる。

「何よう、ふたりして! レイくんなんか、オルビアさんに袖にされてたくせに!」

「やだぁリュナンちゃんたら辛辣! お兄さん傷ついた、なぐさめろおまえら!」

 レイノルドはリュナンとシオンの肩を両腕でがっしと抱き、大声で宣言した。

「よーし、それじゃオレたちも肩組んでなかよく宿舎に戻ろうぜ」

「もー、レイくんお酒くさい!」

 ホークやルキウスにつきあってしこたま飲んでいたレイノルドからは、強いアルコールのにおいがした。押しのけようとするが、なんだよこのくらいで、とますます顔を近づけてくる。

「オレたちと飲みくらべするんだったら、今から慣れとかないとな。それに、こうしてくっついてたらあったかいだろー? さみしさも吹き飛んじまうくらいに」

「…………」

 まったく、かなわないなあ。と笑うしかない。久しぶりにホークと会って、ふだんは考えないようにしている家族恋しさが、ほんの少しだけ顔を出した。自分でも気づいていなかったのに、レイノルドにはお見通しだったらしい。

「さあて、さっさと帰ってとっとと寝ようぜ。明日も早いんだしよー」

「うぅう」

 リュナンは唸ったが、結局腕をふりほどくのをやめて、されるがままにしておいた。

 いつもなら確実に肘鉄を食らわせているシオンでさえ、このときばかりは文句も言わず、むっつりと黙って歩き出しただけだった。たんに逆らうのが面倒だっただけかもしれない。

 レイノルドのいったとおり、身をよせあっているとあたたかい。肩をがっちりと組んで、並んで帰ったホークとルキウスの姿を思い出す。誰からも一目置かれる彼らも、もしかしたらさみしいと感じることがあるのかもしれない。そう思ったら、なんだかよけいに泣きそうになった。

 ぐすっと気づかれないように洟をすすると、頭を乱暴に撫でられた。

「なんだよ、この泣き虫め」

「うるさぁい、この酔っ払い!」

「……近所迷惑だろ。いいからさっさと帰るぞ」

 月明かりに照らされて、デコボコの高さをした影がみっつ、石畳のうえでゆらゆらとなかよく揺れていた。


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