第四章 黄金の嵐来たる
風がばたばたと飛行帽からはみ出た髪をたたく。
眼下にどこまでもつづく青の平原、大小の島をその腕のなかにおさめたパレリア海を見下ろし、リュナンは歓声をあげた。
「きゃあ、すっごくいい風ー!」
ファンヴィーノ山脈をななめに横ぎり、主に陸地を飛ぶパニッツア‐マリーネ間の空路とは違い、マリーネ‐タマラ間は主に海上を飛ぶ。
緑の平地を飛ぶのも、雄々しい峰々のつらなる山脈を飛ぶのも、程度のむずかしさはあれリュナンは好きだが、やはり海上飛行の爽快感は格別だ。フューもこころなしか、陸上にいるより海上を飛んでいるときのほうがのびのびとしているように見える。
「楽しむのはいいが、油断しすぎるなよ。山間より海上のほうが安全ってわけじゃないんだからな」
「はーい」
すかさず背後から釘をさされる。リュナンは素直に返事しておいた。
海上でもエアポケットや乱気流は発生する。楽しんではいるが、先導するアマネアから距離を開けすぎないよう、気を配っているつもりだ。手綱をにぎっているのが自分となると、景色を楽しんでばかりはいられない。
(午前中と同じ失敗だけはしないようにしなきゃ)
パレリアは
全部で三十をこえる島があちこちに散らばっているため、補給にはこと欠かない。真水の出ない小さな無人島も多いが、ある程度の面積を持つ島ではたいてい人間が生活しており、空の運び屋たちにも協力的だ。
砂地の白、島の緑、薄水、青、藍、紺碧、濃紺と、深さによってその色を変える海の鮮やかな色を眺めているだけでも心がはずむ。景観が非常に美しいのだ。技術が進歩し、大きな輸送用の飛行機がつくられるようになれば、大人数を乗せた遊覧飛行も可能だろうといわれている。
(いつか、観光のためだけに飛行機がつくられるような時代が来るのかな)
女性や子ども、たくさんの乗客を乗せた飛行機が、景色を楽しむために空を飛ぶ。だれもがこの美しい空と海を眺め、感嘆の声をあげるだろう。飛行機が戦や争いごとに使われるようになるよりは、何倍もいい。
(飛行機や飛翔獣に人を傷つけるための兵器なんか、絶対乗せたくない)
リュナンはそう思う。積むのは品物や人間だけでじゅうぶんだ。こんなに澄みきった自由な空を、戦火の煙や爆弾などで黒く染め上げるなど絶対にしたくない。空はただ、ここにこうしてあるだけで尊いのに。
(カーウェイには甘いって笑われるんだろうな)
ふっと脳裏の片隅に、赤黒く汚れた空が像として浮かんだ。一度も見たことのない空の色。吹き上がる火の粉と煙で染めあげられ、まるで血の色のようだった。
(あんな空は、見たくない)
リュナンは自分の想像に寒気をおぼえ、無意識に身震いした。
「……い。おい、リュナン!」
「へぁっ! え、な、なに!?」
突然、耳のすぐうしろでシオンの声がしたので、リュナンは飛び上がった。ばくばくと跳ねる心臓をおさえてふり向くと、シオンが「そんなに驚くか?」と訝しげな顔になった。
「もうすぐ小群島が見えてくるころだから、足下にも気を配っておけよ」
「あ、うん。わかった」
素直にうなずき、下方にも意識して視線を向ける。
あたりの島々にはオリーブの木が群生しており、上空から見下ろすと、もこもこした大きなブロッコリーが海に整列しているように見える。その無数のブロッコリーのうちのひとつで、何かがキラリと太陽の光を反射したのがリュナンには見えた。
(――金属の照り返し?)
なんだろうと首をかしげた瞬間、背後でシオンが声を荒げた。
「まずい! リュナン、手綱貸せ!」
彼にもあの光が見えたのだ。やはり見間違いではなかったらしい。
シオンはリュナンの手から手綱を奪いとり、指示を出した。
「アマネアに緊急の合図!」
「はい!」
動揺しているひまはない。リュナンはすぐさま首にかけた竜笛を飛行服の下からひっぱり出し、口にくわえて思いきり吹いた。ピ――ッという甲高い音にアマネアは即反応し、フューから距離を大きくとった。反応が音よりもやや早かったのは、レイノルドも異変に気づいたからだ。
シオンに背中をくっつけた状態でリュナンは目を凝らし、島影に一機の機影を確認した。二葉の翼をもつ、黒の飛行機。それが島を旋回し、見る間に大きくなってきた。まちがいない、こちらにまっすぐ向かってきている。
「わーはははははは!」
遠くかすかにエンジンの爆音と、それすらも凌駕する男の笑い声が聞こえてくる。機体の側面に描かれているのは、ひと昔前の海賊旗をまねしたようなへたくそな髑髏マークだった。
「あの下品な笑い声は! それに、あの髑髏のペイント!」
「〈ブラックボーン〉、タッブとデニーか!」
髑髏マークに黒の複葉機といえば、乗っているのはタッブとデニーという悪名高いチンピラ兄弟である。払いさげのポンコツ飛行機を駆って、空で追いはぎまがいのことをしているため、賞金首として手配書にも名が記されている。シオンは舌打ちした。
「あいつら、カーウェイに病院送りにされたんじゃなかったのかよ!」
「シオン、来る!」
「くそ、懲りねえやつらだな!」
叫びつつ、シオンはあぶみにかけた足でフューの体側面を強く蹴って指示を出す。同時に、
「避けろよ、レイ!」
シオンの叫びと同時に、ぐんっと体が強く引っぱられる感覚があった。遠心分離機のごとく外側へむかう力に、リュナンは慌てて鞍の端を強くつかむ。
フューが横すべりするようにななめに急降下し、ほんの数秒前まで彼らのいた空間をつらぬくように機体が急上昇してきた。
前とうしろ、ふたつ縦に並んだ単座式に人間がひとりずつ。とっさに見えたうちのひとりはかなりの大柄で、窮屈な単座にむりやり体を押しこめているような印象を受けた。
「なんなの、あのひとたち! わたしたちと心中する気!?」
ぶつかるところだった、とリュナンは悲鳴のような声をあげる。
「やつら、あんまり腕は良くないんだ」
シオンが嘆息しながらつぶやき、リュナンは「そうなの?」と聞き返した。
「ああ。腕がどうとかいう以前に、何も考えてないみたいなんだが」
フューとアマネアが場所をあけたところに突っこんできた複葉機は、お世辞にも華麗とは言えない歪な旋回を見せ、こちらを追って高度を下げてきた。
「……ほんとだ、おりてきちゃった」
上から狙うほうが有利なのに、と思いながらリュナンはつぶやく。
「聞いた話じゃ、武器らしい武器も持ってないらしい。とりあえず追突して、あっちがポンコツ飛行機なのを盾に、治療費を請求してくるんだと」
「あたり屋じゃない!」
なにそれタチ悪い、とリュナンは思った。
そもそも、パレリア海ふくめ沿岸都市上空での盗賊行為、銃火器などによる襲撃は法で禁止されている。その法に触れれば立派な空賊だが、ぎりぎり法に触れないやり口で運び屋を狙う汚い連中もいるのだ。
あたり屋とはいうものの翼に接触されれば墜落は免れないし、飛翔士のみならず飛翔獣も無事ではすまない。最悪海に落ちて即死か、そうでなくても溺死だ。有人島周辺に落ちればわずかながら生存率はあがるかもしれないが、よほどの強運でなければ無理だろう。そこまで考えたところで、リュナンはあれ、と首をかしげた。
「でも、飛行機と飛翔獣が接触した場合って、飛行士側に非があることになるんじゃなかったっけ? 航空法でそう定められてたと思うけど」
その理由は簡単である、飛行機は無機物だが、飛翔獣は生物だからだ。どちらも人間が操っているのは同じだが、受ける損害を考慮され、飛行士側の負担がより大きいものになっている。飛行機は場合によっては修理も可能だが、飛翔獣が翼をもがれれば一巻の終わりである。
リュナンが指摘すると、「おお、ちゃんと勉強してるな」とシオンがめずらしく感心したように褒めた。
「そう、ここで正面からぶつかっても被害者はこっちだ。だから言っただろ、あいつら何も考えてないみたいだって」
答えながら、シオンはフューを旋回させ、ふたたび高度を下げた。たとえ治療費を請求されなくても、墜落は願い下げである。
声も届かない距離で、レイノルドもアマネアの高度を下げつつこちらに向かってくる。一瞬の平行で、互いの無事を確認しあった。
「とりあえず接触されないようにひたすら逃げるしかねえ。――つーわけで、撒くぞ!」
「了解!」
事前の打ち合わせなしで交錯し、レイノルドが左方、シオンが右方へおおきく散開する。
そのまま、ほぼ同じタイミングで速度を上げた。
「なるべく姿勢を低くして、フューの首にしがみついとけ。あと舌は噛むな」
散開と同時に頭を押さえつけられ、リュナンは命令通りひたすらそうしていた。
小さな島がぽつぽつと並ぶあいだを、島影に沿うようにじぐざぐに蛇行する。白と青と緑が形を捉えられないほどの速さで視界を流れていき、リュナンは胃の縮み上がるような思いがした。
経験したことのない速度と体にかかる重圧に、恐怖を覚える余裕もない。おそらく
(はやく、あのひとたちの手の届かないところへ)
鞍にしがみつくようにしてリュナンが必死で祈っていると、ふいに前方の島影から、弾丸のようになにかが飛び出してきた。
「!」
リュナンは目をみはった。紺碧の海にあざやかに照り映える、派手なレモンイエローの単葉機。一瞬新手かと思ったのだが、その見覚えのある機体に別の意味で仰天した。
「――〈テンペスタ〉!?」
「がーははははは! ぶーじーかー、小僧どもー!」
「げっ、あの血圧があがるのをものともしねえ笑い声は!」
風に乗って聞こえてくるかすかな声に、背後でシオンの狼狽した叫びがあがった。まちがいない、とリュナンは頭をかかえる。
(おじいちゃんだ)
航空界では知らぬものがいないほどの著名人にして、嵐の異名を持つ元気なご老体。その名をホーク・アースライト。リュナンの実の祖父である。
ホークの操るレモン色の単葉機、愛称〈テンペスタ〉は、無人の島をするどく迂回し、こちらの肝が冷えるような速度でフューの真下を通りすぎていった。
通りすがる一瞬、「トリナエスト!」とホークが叫んだのが聞こえた。トリナエストは中継地でもある島の名前だ。そちらへ逃げろ、ということらしい。
「了解!」
シオンは迷わずその指示に従った。速度をやや落としたのは、やはりフューの翼を気づかってのことだろう。
リュナンは急いで身を起こし、体をひねってうしろを見た。〈テンペスタ〉は白い煙幕をもくもくと噴きだしながら、〈ブラックボーン〉に急接近していく。
わずかに高度をあげ、相手機のぎりぎり上をかすめるように一瞬で通過する。文字通り煙に巻かれた黒い飛行機が操作を誤ったらしく、がくんと急激に高度を落とすのが見えた。
その瞬間、フューが別の島影に入り、視界はオリーブの緑にさえぎられ、あとのことはわからなくなった。
*
パレリアに浮かぶブロッコリーのひとつ、トリナエスト島は群島のなかにある中程度の島だ。島の住人は三百人程度だが真水が豊富で、飛行場兼飛翔獣用の牧場も大きなものが設けられている。
リュナンたちは無事トリナエスト島で合流をはたすと、すぐさま牧場に飛翔獣たちをおろし、たっぷりと水をあたえて休養をとらせた。
「アマネア、痛いところはないか?」
翼のつけ根を検分しながら訊ねるシオンに、アマネアがキューと鳴いて答える。
相当な無茶をさせたため、翼を傷めていてもおかしくなかったが、二頭とも特に異常はないようだった。
「フューも本当に大丈夫? 無茶してない?」
「きゅる、きゅー、きゅるる」
「ごめんシオン、フューはなんて言ってるの?」
「メシ食わせろってさ。アマネアもだ」
体は平気だが、お腹がすいた、たくさん食わせろ、と燃料をしきりに要求しているらしい。牧場に設えられた小屋から飼葉の山と真水をはこび、レイノルドは嘆息した。
「おーまーえーらーなー。こっちは体を心配してんだってのに」
「でも二頭とも無事で本当によかった。ぶつかられてたら骨折じゃすまなかったもの」
「……あいつらなあ。まったく、性根が腐ってる」
柵にもたれたリュナンが言うと、牧場のわきに生えたオリーブに背中をあずけ、レイノルドが顔をしかめる。このあたりの島はみんなそうだが、トリナエスト島にもオリーブの木があちこちに生えているのだ。
「飛行士の風上にも風下にもおけねえよ。あいつらの腕がたいしたことないってことだけが救いだが」
「そうだね。おじいちゃんみたいな凄腕だったら、わたしたち今ごろ海の藻屑だもん」
「まったくだ。というか大将、あれのどこがぎっくり腰なんだよ。ピンピンしてんじゃねーか」
「いろんな意味ですげえよな、あのじいさんは」
二頭の具合を診おわったシオンまでもが呆れたように言う。
そもそも、ホークは飛行士として第一線で活躍できる限界年齢をとっくに超えている。どれだけ飛行をくり返していようと、視力や筋力の衰えだけはどうにもならない。ホークはほとんど長年の経験と勘だけを頼りに空を飛んでいるのだ。
「ありゃあ絶対、化け物だ。まちがって人間に生まれてきちまった別のなんかだ」
「なんかってなんだ?」
「知らねえよ。嵐とか竜巻とか台風とかそんなんだろ」
「天災ばっかだな。まあ、あのじいさんの存在自体が天変地異みたいなもんだが」
「……え、えーっと、わたしフューたち見てくるね」
男ふたりのやりとりに、身内として肩身がせまいリュナンはそそくさと彼らのそばを離れ、フューとアマネアをかまいに行く。
二頭に飼葉をやりすぎないよう注意しながら、こっそりとシオンたちの会話に耳をそばだてる。
「でもなあ、遠目に見ても大将やっぱりウデいいわー。見惚れちゃったもん、オレ」
感嘆のため息をつくのはレイノルドだ。
「大将の
「ぎりぎりまで引きつけていきなり機体浮かすとかな。どんな胆力してんだよ」
「何より、状況把握と判断が早くて正確だ。迷いがねえから機体がぶれないんだよな」
「そう。人馬一体じゃねえが、自分の体みたいに機体使うよな」
「あと風読みの早さな! 大将、パレリア海上の風の動き、全部色でもついて見えてんじゃねーかと思うわ」
「色ついて見えてるかは知らねえが、じいさん、前にファンヴィーノの気流なら朝に目が覚めた瞬間にわかる、って言ってたぜ」
「うわ、なんだそれ。そら完敗だわ」
シオンとレイノルドはぽんぽんと言葉をかさね、ついにはふたり声をそろえて、
「「あー、ちくしょう」」
と、唸った。
「なかなか追いつけねえな、あの怪物には」
「……悔しいー。まだまだ経験が足りてねえって思っちまった」
「俺も」
彼らのやりとりに耳を傾けながら、リュナンはフューとアマネアのあいだにどすっと飼葉の束をおいた。
「……ねえ。フュー、アマネア」
ぽつりと呼びかけるリュナンに、どうしたのかと首をもたげて飛翔獣たちが反応する。
「わたしね、今すっごいかなわないなあって思っちゃった」
「きゅるる?」
「わたしにとってはおじいちゃんなんか、もう『かなう、かなわない』とかではかれるような存在じゃないんだ。次元が違いすぎるから。でも、シオンとレイくんはちゃんと『悔しい』って思うんだよ。それって、すごいことだと思わない?」
「きゅー?」
「『悔しい』って、負けたくないって気持ちでしょ。それでね、わたしはいま、悔しいとさえ思わなかった自分に悔しくなったの。……わかる?」
「キュゥ」
答えたのは、意外にもアマネアのほうだった。うんうんわかるーと、まるで酸いも甘いも噛みわけたような仕草で首を上下にふる。反対に、まるでわからないと首をかしげているのはフューだった。
リュナンはくすりと笑う。疑問のかたちではあったが、リュナンは決して彼らに回答を求めたわけではない。二頭に向けて話しているのは、あくまで自分の気持ちを言葉にしてまとめるためだ。
(さっきだって、わたしはフューにしがみついていただけだった)
フューの手綱に触れようとして、寸前で思いとどまる。避けられる前に自分から手を下ろした。いま拒絶されたら、心が折れてしまいそうな気がして怖かった。
「……フューも、わたしに手綱をあずけるの不安だよね。ごめんね」
悔しい。悔しさに泣きたくなる。
涙をこらえていると、フューはなぐさめるように頭をすりよせてきた。手綱や鞍は触らせなくても、歩みよってはくれる。わからないなりに、わかろうと努力してくれるのが伝わって、リュナンは声をつまらせた。それが飛翔獣の純粋な優しい気性だと知っていても、救われる。
「……ありがと、フュー。大好きだよ。わたし、もっともっと努力するからね」
負けず嫌いの心も、腕をあげたいと願う意思も。リュナンがシオンたちから学べるのは、何も操獣の技術ばかりではない。
さいわいなことに、優れた師となる人間は自分のまわりにたくさんいる。追いかけたい背中もひとりやふたりではない。だから、自分はとても恵まれているのだろうと思う。
脳裏にちらついたのは、ビル・カーウェイの嘲弄するような顔だ。
――たんなる憧れだけで飛翔士目指すんならやめとけよ、お嬢ちゃん?
よみがえった声を、首を横にふって振り落とす。はやく追いつかなきゃ。もっと、もっと貪欲に。教えられるだけじゃなく、盗んでいかなきゃ。お荷物だなんて、絶対思われないように。
リュナンはぐっとくちびるを噛み、フューのふさふさとした毛に頬をすりよせる。すぐそばにあるフューとアマネアのあたたかな体温が何よりのなぐさめだった。
そんなひとりと二頭の飛翔獣を、頭上のオリーヴの葉がかすかにこずえを揺らしながら、静かに見下ろしていた。
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