第三章 紺碧の都マリーネ
ファンヴィーノ山脈を越え、太陽が南天を通って西へわずかに傾きはじめたころ、リュナンたちはマリーネに到着した。
海神の両の
海流の影響で、パレリア沿岸の大多数の都市は夏は涼しく、冬は南からの温暖な空気で極寒とは程遠い。マリーネは特にその恩恵が大きく、海産物の水揚げ量はいうに及ばず、肥沃な土地でつくられる農産物も豊かすぎるほどだった。海産物・農産物にくわえ、作物から醸造される酒、その酒を注ぐためのグラス、さらにはグラスを並べるための芸術的な飾り棚……と、雪だるま式にのびる需要がマリーネの輸出量を膨れさせていく。
はるかな昔から交通の要所であり流通の中心地、かつ気温気候にもめぐまれた土地とあっては、ときの権力者が手に入れたいと望まぬはずがない。マリーネはその土地柄、幾度となく戦火にさらされることになった。
何度も支配者の名が変わり、遠く離れた大国の侵略に屈しかけたことも数え切れないほどあるが、それでもこの土地が完全に潰えなかったのは、皮肉にもまさにここが交通の要であったためだった。
海への出発点であり、陸への入り口であるマリーネは、当然のことながら、空への玄関口でもある。
「おーい、こっちこっちー!」
地上で大きく手旗を振っているのは誘導役の少年だ。
マリーネはパレリア内海をまるく囲む沿岸にある都市だが、土地自体がゆるい丘陵になっており、道のほとんどは坂になっている。なかでもアンファール飛行場はマリーネを一望できる一番高い丘につくられ、見下ろせば海の青と街の白のコントラストを目の当たりにできた。
海岸線のやや北、はるか下方に港を臨むここは、アースライト商会をふくめた各商会がそれぞれおかかえの飛行機、もしくは飛翔獣を離着陸させるための飛行場であり、どこまでも続くみどりの丘には、つねに何十機もの色鮮やかな飛行機が待機している。
「は、離れてて、ファッジ! わたしまだ着地に慣れてないから!」
吹流しを見て風向きを確認しつつ、リュナンは地上に向かって声を張りあげた。
慎重に手綱とあぶみをあやつって、フューに着地の指示を出す。離陸するよりも着地するほうがはるかに緊張を強いられる。
地上に人間がいる場合などはなおさら、小さなミスが大事故につながることもある。だがそれは飛翔獣も心得ているので、フューはリュナンよりもよほど余裕をもって地上に足を踏みおろした。着地した瞬間すぐに翼をたたみ、わずかもふらつくことはない。
「あー……、よかった」
無事に着地できたことで、リュナンはほっと安堵の息を吐いた。じゅうぶん距離をおいたその隣に、遅れてアマネアが危なげなく着地した。手綱をあやつるのはもちろんレイノルドだ。
「前半は無事終了だ。よくがんばったな」
シオンが言い、リュナンの背中をねぎらうようにポンとたたいた。そのたったひと言が何よりのご褒美だ。
(うれしい。……よかった)
我ながら単純だなあと思いながら、赤くなった頬を隠すようにうつむいていると、下方から見上げてくる視線とぶつかった。着地を見はからって、誘導役の少年がフューの脇にまで駆けよってきたのだ。
「リュナン姉ちゃん、どうかしたの? 顔紅いよ」
手に木の桶を提げ、ふしぎそうにしているのは、茶髪にはしばみ色の瞳をした少年だった。鼻の頭に散ったそばかすが見るものにあどけない印象を与える。
「ファ、ファッジ!」
うろたえたリュナンの声が不自然に裏返る。少年はきょとんとして首を傾げた。
ファッジはアンファール飛行場で誘導役兼、飛翔獣の世話をまかされている十二歳の少年だ。まだ見習いだが、まじめでよく働くので、多くのおとなたちから信頼を寄せられている。
「顔赤いよ、風邪でもひいたの?」
「な、なんでもないよ、大丈夫。気にしないで!」
叫んでごまかすと、ファッジはふうんとつぶやいて、すぐに視線をリュナンの背後の対象にうつした。
「こんにちは、シオン兄ちゃん。今日もおれがフューの面倒みてもいいですか?」
「ああ、まかせる」
すでに命綱をはずし、フューからおりようとしていたシオンがあっさり承諾したので、ファッジはやった、と歓声を上げる。少年が木桶に入った水をフューに飲ませているあいだ、シオンとリュナンは協力して荷を地面におろした。
「わあ、今日もフューの毛さらさらしてる。さわってもいいですか?」
「いいぜ。ああ、わかってるとは思うが、鞍と手綱にはさわるなよ。噛みついたりはしないが、機嫌が悪いと尾で叩かれることもあるからな」
「大丈夫です! フューの嫌がることはしません」
嬉しそうにフューの体をなでるファッジに、シオンは苦笑している。
ファッジはいまどき珍しい飛翔獣好きの子どもだ。目下のお気に入りはフューで、いつも自分から世話を志願してくる。
開発技術の進歩にともない、飛行機に憧れを抱く少年は増える一方だが、飛翔獣に興味をしめす子どもは少なくなった。現役を退いた祖父や、商会の現・頭取である父レックスは気にも留めていないが、アースライト商会でさえ時代おくれだと揶揄されることもある。だが、飛行士たちの英雄として称えられているホークも、リュナンと同じ年齢のころは飛翔獣乗りだったのだ。
「フューもおまえのことは気に入っているみたいだな。俺たち以外ではいちばん懐いてるんじゃないか」
「ええっ、本当っ? わあ、嬉しいなあ」
少年はぱっと顔を輝かせると、いっそう上機嫌にフューの面倒を見はじめた。それをほほ笑ましく眺めながら、リュナンはシオンにこそっと耳打ちする。
(フューって、エサくれる人には大抵なつくよね?)
(まあそうなんだがな。ファッジには言うなよ)
(言わないよ)
釘をさされ、リュナンは肩をすくめた。ご機嫌で働く少年に、わざわざ水をさすことなどしない。
「あ、そうだ、忘れるところだった。リュナン姉ちゃん、これあげる」
ファッジはふいに思い出したかのようにつぶやき、はい、と何かをさし出した。ちいさな手のひらには、丸いものがふたつ乗っている。
大きさが同じなので最初はクルミかと思ったが、クルミよりもさらに硬いラッカという実の殻だった。彩色してあるので細工物だとわかる。
「なあに、また何か面白いものつくったの?」
聞くと、ファッジはへへっと嬉しそうに笑った。
親が工房の職人頭をしているためか、息子であるファッジも手先が器用で、いつも時間を見つけては何かしら変わったものを制作している。たとえば小さな工芸品だったり、玩具だったり。
「中には染料に使う染粉とか、コショウとかトウガラシの粉をいろいろ混ぜて捏ねたものが詰めてあるんだ。外側の殻は接着してあるけど、どこかに強くぶつければふたつに割れるようになってるよ。武器に使えるかなって」
「あ、そっか! これはスリングショットの弾なのね」
リュナンが言うと、ファッジはにっこり笑った。
「前に姉ちゃんが得意だって言ってたからさ、作ってみたんだ。鉛よりは威力が低いから護身用にはならないかも。でも、たとえばチカン撃退用には使えると思うよ」
「なるほど」
言いながらリュナンがアマネアから荷物をおろし終えたレイノルドを見ると、横目でこちらを気にしていた彼は「待て」と叫んだ。聞こえていたらしい。
「誰がチカンだよ! 女好きは否定しねえけど!」
「なるほど、変態撃退用か」
得心のいった顔で深くうなずくのはシオンである。
「シオンまでうなずくな、誤解をまねくだろ! 言っとくがオレはリュナンちゃんにはセクハラまがいのことはしたことねえぞ。言うことはあるが!」
「……墓穴掘ってんな」
「えーと。と、とにかく、ありがとうファッジ。活用するね」
「うん。まだ試作品だからふたつしかないけど、うまくいったらまた作っておくね。色も青とか黄色とかいろいろ増やしてみるよ」
「ありがとう。楽しみにしてるね」
お礼の代わりに髪の毛を柔らかく撫でれば、ファッジは嬉しそうにえへへと笑った。かわいいなあ、とリュナンは思う。弟がいたらこんな感じなのだろうか。
フューの世話を彼にまかせ、アマネアを別の世話係にあずけたレイノルドとともに、リュナンたちは運んできた積荷を荷馬車に載せた。
マリーネでは街中に大型の馬車や自動車での乗り入れが禁止されているため、飛行場からアースライト商会支部のある商用区画までは小さな荷馬車で向かう。荷台に荷物とリュナン、御者台にはシオンとレイノルドが座り、三人は一路商会を目指して坂を下っていった。
マリーネの市街地の主な移動手段はあちこちに張り巡らされた移動用の運河、それに水路だ。そこを積荷やひとを乗せた小船が行き来する。
マリーネの最大のにぎわいは港側にある。内海を通ってきた品々は港で陸揚げされ、逆に内陸から来たものはここから海へと運ばれるため、名のある商会ほどマリーネの港から近い位置に門をかまえ、馬車や人足を頻繁に往復させることができる。
道の両側に商家や商会がひしめくように建ちならぶ商用区画は、荷馬車が何台も道に並べるように幅を広く作られ、石畳で舗装されている。がたがたとかるい振動に体を揺られながら、手綱をにぎるレイノルドが背後をふりむいた。
「えっ、あの暴走馬車に乗ってたやつから荷物をあずかったのか?」
「うん。ムール商会のフェラーさんって人に渡してって」
へえ、とレイノルドはうなずき、隣に顔をむけた。
「おい、シオン」
「……あ? 呼んだか」
「呼んだかじゃねえだろ、話聞いてろよ。さっきから辛気くさい顔でむっつり黙りこみやがって、昼間っからなんかヤラしいことでも考えてやがんの……がッ」
即座に肘鉄を食らい、レイノルドは左手で脇を押さえて悶絶した。
「誰がだ。馬を見て、ちょっと思い出したことがあっただけだ」
御者台に座るふたりのやりとりに、リュナンは荷台からひょいっと身を乗り出す。
「ねえシオン。それってもしかして、マルクさんの馬のこと?」
「気づいていたのか?」
目をみはるシオンに、リュナンはううん、と首をふった。
「気づいたのはシオンが何か考えごとしてるなーってことだけ」
「もしかして、あの馬が暴走した原因が気になんの?」
レイノルドの問いに、シオンはうなずく。
「ああ。白目むいて泡ふいてたろ。あれ、もしかしたら毒のせいなんじゃないかと思って」
「「毒っ?」」
異口同音に声をそろえたふたりに、シオンは「声がでけえよ」と釘をさす。
「ふつうは驚くだろ、そんな物騒な単語が出てきたら」
「だよね。シオンがそう思ったのは、なにか根拠があるの?」
シオンは気難しそうに眉をよせた。
「……むかしな、フューのやつが間違って毒草を食べちまった症状と似てたんだよ。馬と飛翔獣じゃ体の大きさも腸の長さも違うし、耐性がどうかも知らねえから断言できねえけど」
だが、地上の哺乳類のなかで飛翔獣に一番近い生物は馬だといわれている。リュナンとレイノルドは顔を見合わせた。
「麓の町で昼飯食ったときはなんともなかったって、マルクさんが言っただろ。そこがちょっとひっかかってな」
「つまり、水か飼葉に盛られたんじゃないかって?」
「あくまで可能性の話だ。俺は本職の獣医じゃねえし」
「うーん。そりゃそうだが……」
レイノルドは渋い顔だ。素人といえども、何年も大型動物と暮らしてきたシオンの知識と経験にはそれなりの説得力がある。
「オレはそのマルクって人のことは遠目にしか見てないけど、どんな人だったんだ?」
「うーん、なんか年齢不詳な感じだったよ。おじさんってほどではないけど、二十代後半から三十代くらいかな、たぶん」
「言葉にも訛りはなかったから、どこの人間かもよくわからなかったな。服装は……羽振りはよさそうには見えなかった。かといって貧しい感じでもなかったし」
リュナンとシオンの言葉に、レイノルドは「人物像が曖昧だな」と眉をよせる。
「顔は?」
「はっきりとした特徴はなかったよ。どこにでもいる普通のひとって感じ」
「じゃ、職業」
「それもよくわからん。手に胼胝がなかったから飛行士や飛翔士じゃないことだけはたしかだが、商人にも見えなかったんだよな」
レイノルドはいよいよ渋面になり、「はっきりしねえなあ」とため息をついた。
「それで、その男から一体何をあずかったんだよ?」
「ああ、これだ」
シオンが上着の下に隠した黒い筒をとりだすと、それを見たレイノルドはぎょっと目を見張り、唐突に手綱を強くひいた。
ヒィン、と馬がいななき、跳ねる。ガタンと激しく揺れる荷馬車にシオンとリュナンは体勢を崩し、前のめりに倒れそうになった。
「ちょっと、レイくん!?」
「何すんだレイ、危ないだろ!」
抗議の声をあげるふたりには構わず、レイノルドはシオンが手にした黒い文書筒をつかんだ。まじまじと筒を眺め、低く呻く。
「お、おい。これ……」
「どうした?」
「まずいぜ。よく見てみろよ、ここ」
そう言って彼が指さしたのは筒を封印してある紅い封蝋だった。オリーブの葉で飾られた楕円の中に意匠化した二つの塔、そして砦冠。どこかで見たことがあるような気がしたが、リュナンはそれがなんなのか思い出せなかった。
「この模様がなに?」
きょとんとするリュナンに、レイノルドはがくっと首をうなだれた。
「あのなあ、おまえも見たことくらいあるだろ!? たとえばタマラの市旗とか!」
「市旗?」
「
幾分か渋い顔になったシオンが答える。
「って……市が掲げてる紋章のことだよね」
独自に法と政治形態を持つパレリア沿岸都市群では、それぞれに定められた紋章と旗を持っている。都市をあげての式典や祭礼の際には、紋章入りの市旗が市庁舎や公共施設に掲げられるため、一般市民でも一度や二度は目にしたことがある。たとえばパニッツアなら翼のある盾、マリーネなら帆船と櫂を象徴した意匠だ。そして二つの塔といえば、まちがいなくタマラの掲げる紋章だった。
「え? ということことはつまり、これって何か重要な書――」
言いかけたリュナンの口を、左右から同時に伸びたシオンとレイノルドの手が慌ててふさぐ。もごご、と呻くリュナンの口をおさえたまま、ふたりは気まずそうな顔を見合わせた。
タマラ市の紋章で封じられた筒。その中に入っていると思しき文書が、まさか私的なものであるはずがない。
「おいシオン、どうすんだよ! こんなややこしいモンあずかって! というか、なんでもっとよく確認しなかったんだよ!」
「し、仕方ねえだろ。俺だってまさかこんなもんあずけられるとは思わねえよ!」
「むがが」
「コレがその手の重要なんちゃらだったとしたら、おまえの言った毒の話も洒落にならねえことになるんですけど!?」
「そんなこと言われてもなあ! ふつう、そんな大事なものを運び屋にホイホイ渡すとか考えねえだろ!」
「なんかあっても賠償どころの話じゃねーぞ!」
「まだ何も起きてねえのにそんな不吉な言葉を口にすんじゃねえよ!」
「胃が痛えよオレぁ!」
「俺だって痛いわ!」
「うぐぐ」
リュナンが抗議の声をあげるも、ふたりには無視される。しばしにらみ合いを続けていたシオンとレイノルドだったが、彼らは同時に深いため息をつき、結論を下した。
「よし、わかったこうしよう。――オレたちは何も見なかった」
「それがいいな」
とわずかに疲れた顔でシオンも同意する。ふたり同時にリュナンの口から手をはなし、ようやく解放されたリュナンはぷあっと息を吸いこんだ。
「……何するのよふたりとも!」
「いいかリュナン、おまえもよけいなこと口にするなよ」
「待って、そういう問題じゃ――」
「さて、そろそろ出発するぜー。早く荷物届けに行かねーと、日が暮れちまうもんな」
「ちょっと、話を聞いてよ!」
リュナンの叫びもむなしく、男ふたりは黙秘を決めこみ、走り出した馬車はほどなくしてアースライト商会に到着したのだった。
「ほーい、到着っと」
アースライト商会は大店が建ちならぶ商用区画のちょうど中ほどにある。レイノルドが入り口に馬車を横づけさせると、すぐに商会から荷物をはこぶ人足たちがわらわらと集まってきた。
そのなかで、褐色の肌をした人物がよっ、と気さくに手をあげる。
「来たな、幼なじみ
リュナンたちを最初に出迎えたのは、栗色の長い髪をうしろでしばった女性だった。女性にしてはかなりの長身で、体つきも男たちにひけをとらないほどがっしりしている。
「ジュディス!」
三十代なかばでアースライト商会の荷役たちを束ねる女傑の名を呼び、リュナンは荷台からぴょんと飛びおりた。うれしさに駆けよると、ジュディスは目を細めて労をねぎらった。
「おつかれさん、リュナン。たしか今日ははじめて全行程を操獣できる日だったね。どうだった?」
「緊張したけど、すっごく楽しかった! でも失敗しちゃって、途中でシオンに助けてもらったけど」
「ま、最初はだれでも新人だからね。はじめからうまくやれるわけじゃないって」
さばさばとした物言いで励ましてくれる。剛毅だが姐御肌のジュディスは、リュナンが同性として尊敬する人間のひとりである。
「あの朴念仁も、ちゃんと先輩やってんだね。よかったじゃないか、リュナン」
馬車から降りて人足たちに指示を出しているシオンにちらりと視線をやり、ジュディスはこっそりとリュナンにささやいた。彼女はリュナンの気持ちを知っているのだ。
「う、うん」
リュナンが顔を赤らめながらうなずくと、背後から「なになに、なんの話?」と御者台に座るレイノルドが声をかけてきた。
「お兄さんもまーぜて」
「バカ、女同士の話に首つっこむんじゃないよ。それよりさっさとおりて仕事手伝いな、レイ」
たちまち追いたてられ、レイノルドは悲鳴をあげた。
「ひっでえなジュディス! オレが御者してたんだぞ。ちょっとくらい休んだっていいだろ」
「うるさい。いいからとっとと荷物を運んだ運んだ」
蹴り落とされそうになり、レイノルドはおっかねえ、と慌てて馬車から退散する。リュナンはジュディスと顔を見合わせ、くすくすと笑った。
人足たちが商会の倉庫に運びこまれた積荷を帳簿と照らし合わせ、荷の数が合っているか、届け先に不備はないかなどの確認をおこなっているあいだ、リュナンたちは山間飛行用の分厚い飛行服から内海飛行用の通気性の高い飛行服に着替えを済ませる。
「ひの、ふの、み……よし、合ってるな。そっちはどうだ?」
「こっちも合ってたよ。ご苦労さん、これで午前の南まわり分は完了だ」
ジュディスのねぎらいに、リュナンはようやくほっと安堵の息をついた。午前の飛行ではイレギュラーな事態が続いたため、不備があったらどうしようとずっと心配していたのだ。
シオンとレイノルドは専属の運び屋としてアースライト商会と雇用契約を結んでいるが、彼らは通称「南まわり」と呼ばれる空路を飛ぶ。
パニッツアを基点とし、まず南にむかって出発し(このために「南まわり」と呼ばれる)、スフルを経由してマリーネへ。マリーネからパレリアの上空を飛び、タマラで荷物をおろす。タマラで一泊したのち再びパニッツアにむけて飛行、今度はパニッツアで荷をおろす。この行程をまる三日間かけてくりかえし、翌一日は休日となる。簡単に言えば、シオンたちは三都市を時計の針と同じ方向にぐるぐると交代でめぐっているわけだ。
ちなみにその逆――つまり反時計まわりで飛ぶ運び屋は通称「西まわり」と呼ばれている。
「すぐにタマラ行きの荷を馬車にのせておくよ。すぐに発つ? それとも先に軽く昼食を食べておくかい?」
「ありがと、ジュディス。でも、ちょっと行くところがあるんだ」
「行くところ?」
首をかしげるジュディスに、リュナンはファンヴィーノ崖道での一件を手短に話した。
「それで、届け物をあずかることになっちゃったの。ムール商会にいるひとに」
「へえ、ムール商会」
「知ってるの?」
「まあ、いちおう同じマリーネの組合同業者だからね。たしかにカルボ通りにあるよ。規模は、そうだねえ、うちより少し小さいぐらいかな。扱ってるのは、おもにガラス工芸とか陶器だったと思うけど」
「ガラス工芸と陶器……、そこにフェラーさんってひともいる?」
「さあ、わたしもさすがにそこまでは知らないな」
首をすくめるジュディスに、「まあ行ってみりゃわかるだろ」とレイノルドが横から口をはさんだ。そういえば見なかったことにする、とシオンたちと口裏を合わせたんだったっけ、と思い出してリュナンは口をつぐんだ。
「あ、そうだ。話は変わるけど、さっきホーク会頭が顔を出しに来たよ」
ジュディスの言葉に、リュナンのみならずシオンとレイノルドまでがえ、と飛び上がった。
「おじいちゃんが!?」
「ホークの大将が!?」
「本物だよな?」
三人の驚きを気にも留めず、ジュディスはあっさりとうなずいた。
「そりゃあ本物に決まってるだろう。偽者だったら驚くよ!」
「なんでおじいちゃんがマリーネに?」
「オレはぎっくり腰になったからしばらく休むって聞いてたぜ」
「俺も聞いた。大丈夫なのか、じいさん」
「あっはっは、あの豪傑じいさんがぎっくり腰ごときでくたばるもんかい」
「いや、誰もくたばったとは……」
言ってないが、と続けようとするシオンの言葉をさえぎり、ジュディスはぱたぱたと手をふって否定した。
「腰ならもう治ったんだってさ。なんでも、古いなじみに呼ばれたとか言ってたよ。家で療養してても退屈なだけだから、ついでにあちこち陣中見舞いに顔出しするって」
「顔出しって、まさかパニッツアから〈テンペスタ〉で飛んできたのか?」
テンペスタ、とはホークの愛機であるレモンイエローの単葉機の名前だ。
「そうらしいね。ベッドで寝てるのも飛行機飛ばすのも同じことだって言ってたから」
「いや、全然ちげーだろ」
あっけらかんとうなずくジュディスに、レイノルドが思わずツッコミを入れる。リュナンは頭を抱えて盛大に呻いた。
「もおお、病みあがりなのにどうしておとなしくしてないのよ!」
「あのじいさんの辞書に『おとなしい』なんて単語があるとは思えねーけどな」
「会頭は風みたいなひとだからねえ」
「風じゃなくて嵐だろ、どう考えても」
三者三葉の人物評に、リュナンはますます頭を抱えてしまう。身内としてまったく否定できないところが辛いところである。
「うちの支部をまわってりゃ会うこともあるだろうから、会頭に伝えておいてよ。あんまり無茶ばっかりしてると、そのうち婿さんの胃にも穴が開くよってね」
婿さんとはリュナンの父であり、ホークとは舅と婿養子の関係にあたるレックス・アースライトのことだ。現在、商会の全頭指揮をとっているのはレックスだが、彼はホークとはちがって頭のかたい常識人である。家庭内では口論が絶えないものの、入り婿レックスはホークを人間として尊敬しているので、大きな争いにはいまのところ発展していない。
「……わかった、伝えとく」
肩を落とし、ため息をつくリュナンの肩をぽんと叩き、ジュディスはひらひらと手をふって商会の奥の扉へ去っていった。
「まあ、大将の無茶は今にはじまったことじゃねえしな。本人が大丈夫っつーんなら大丈夫なんだろ。あんまり心配すんな」
レイノルドに頭をぐりぐりと撫でられ、リュナンは小さくうなずいた。
「うん」
「とりあえず、さっさとムール商会にあずかりものを渡しに行ってくるか。じゃねえとタマラに飛ぶのが遅くなっちまう」
くるりと踵を返して倉庫から出ようとするシオンに、レイノルドが慌てて声をかける。
「え、休憩は?」
「そんなもん、あとだあと。仕事終わらすのが先だ」
ずっと持ってんのも落ちつかねえ、とつぶやいたのが、おそらく本音だろう。
「あっ、ちょっと待ってよシオン、わたしも行く!」
慌ててシオンのあとを追うリュナンのうしろで、レイノルドが仕方ねえなあ、と大仰なため息をつくのが聞こえた。
「まったく、仕事馬鹿め」
結局いつものように、三人はつれだってアースライト商会の門をくぐった。
*
「別について来なくてよかったんだぞ」
運河をまたぐ橋をわたり、水路わきの細い小路をぬけ、比較的人通りが多い主要路に出る。ムール商会へ向かう道すがら、シオンのあとをわずかに遅れて歩きながらリュナンは言い返した。
「だってマルクさんに頼まれたとき、わたしもいたもん」
「あ、オレはそのつき添いね」
頬をふくらませるリュナンの隣で、レイノルドが笑いながらひょいと片手をあげる。子どものおつかいかよ、とシオンは眉間にしわをよせた。
「商会で休んでりゃいいのに」
シオンは荷物をあずかったのは自分だし、ひとりで行くと言い張ったのだが、それにはふたりともそろって異を唱えたのだ。
「オレだけくつろいでんのも妙な話だろ」
と、レイノルド。
「それに、最近ではマリーネもスリや強盗が増えたっていうし」
「治安の悪化なら、別に最近の話でもないと思うけどな」
シオンは肩をすくめる。マリーネは商業が盛んであると同時に、観光業で栄えている都市でもある。多種多様な人間が大陸のあちこちから集まり、ひとの流れと物流を活発にしている。当然比例するように軽犯罪も増える。置きびき、スリは当たり前。刃物をちらつかせた恐喝や強盗なども横行し、油断すれば身ぐるみはがれることも昨今では珍しくない。
「でも、わたしたちだって別に観光しに来たわけじゃないよ」
シオンとレイノルドは仕事上何度も足をはこんでいるし、リュナンにとってもマリーネはなじみの街だ。そもそも運び屋稼業自体、荒事に巻きこまれる可能性は低くない。護身用武器の携帯が許されているのもそのためだ。
レイノルドはそうなんだけどよ、と頭をかいた。
「あずかったものがものだしな。念を入れてだよ」
「――あ、看板に天秤のしるし発見。あれじゃないか?」
ふいに、前を歩いていたシオンがこちらをふり向いた。彼の示すほうにリュナンも目を凝らす。似かよった石造りの建物がならぶ中で、ひときわ大きな看板を吊り下げた店がある。そこにはたしかに交易をしめす秤の象徴と〈ムール商会〉の文字が記されている。
ムール商会は大店が軒をつらねる商業区画からはややはずれた位置にあった。港から遠くはないものの、隣に建つのは観光客目当てのみやげもの屋やガラス細工の工房だ。
大通りに面しているため通行人は多く、立地自体はそれほど悪くないが周囲の店からは少し浮いている。そういう意味ではたしかに目につくたたずまいをしていた。
「なあ、なんて名前だっけ? 渡す相手」
「フェラーさんだよ、レイくん」
レイノルドにリュナンが答えた、そのとき――。
よほど急いでいるのか、前方から男がひとり、目を瞠るような速度でこちらに突進してきた。やや背を丸めた前傾姿勢で、帽子を目深にかぶっているため、顔もよく見えない。
「きゃあっ」
慌てて身をかわし、そのはずみでよろめいたリュナンをレイノルドが支える。
「おっと」
男はそのままの勢いでシオンにもぶつかったが、謝罪の言葉もなしに、逃げるように去っていった。
「なんっだよ、今の。あぶねえなあ」
「シオン、大丈夫?」
訊ねるリュナンの目の前でシオンが顔色を変え、体のあちこちを叩いた。
「……やられた」
――スリだ。
彼がつぶやいた瞬間、リュナンは反射的にふりむいた。
動体視力には抜群の自信がある。即座にリュナンの瞳は彼らにぶつかった男の背中を見つけ出した。スリは人通りにまぎれるようにして、足早に進んでいく。
まずい、見失う――そう思うと同時に、腰のベルトから
「おい!」
レイノルドが制止する間もなくリュナンは左手にグリップをにぎり、弾をホルダーに装填すると、躊躇なく撃った。弾――ファッジからもらったラッカの殻――は人々の間を危ういところですり抜け、一直線にスリの頭めがけて飛来する。
果たして弾はものの見事に男の後頭部に命中し、衝撃でふたつに割れた。ファッジの言葉通り、ばっと色鮮やかな粉が噴き出し、スリの頭を帽子ごとまだらに染める。予想外の攻撃を受けて男はふらついたが、賢明にもふり返ることはせず、色のついた頭をおさえて一目散に駆け出した。
あ、と思う間もなく、まろぶような足どりで横の小路へ飛びこむ。
「脇道に入った! 追うよ、ふたりとも!」
「ちょっと待て、リュナンっ」
急に走り出したリュナンをひき止めようとシオンが声をあげたが、当人の耳には届かない。なんだなんだ、と驚く通行人のあいだをすりぬけ、リュナンは男を追って小路へとびこんだ。人間ふたりがすれちがうのがやっと、という細い石畳の路地の先に、逃走する男の背中が見える。
「待ちなさいっ!」
叫んだものの、待てといわれて素直に従う犯罪者などいない。運のいいことに、ファッジお手製による弾のおかげで男の頭は非常に目立つ目印になっていた。まだらに赤く染まった頭は人ごみにまぎれても見失うことはない。
(逃がすもんですか!)
帽子の男は路地をぬけ、リュナンもその後に続こうとした。だがその寸前、薄汚れた身なりの男がふたり、行く手をさえぎるかのようにリュナンの前に立ちふさがる。
「お、どこに行くんだ? お嬢ちゃん」
ひとりは髭面で、もうひとりはぼろきれのようなスカーフを首に巻いている。いやらしい笑みを浮かべ、通せんぼをする男たちは、どう見ても真っ当なマリーネ市民ではなかった。思わず立ちどまるリュナンとの距離を、彼らはじわじわとせばめてくる。
「ああっ」
その間にスリと思しき男が視界から姿を消した。焦ったリュナンはどいて、と男たちを強引に押しのけようとした。だが、
「おっと」
リュナンの腕を髭面の男がつかんだ。腕をつかまれた恐怖よりも、生来の負けん気が勝る。リュナンはキッと目元を鋭くし、彼らを睨みあげた。
「なにすんのよ!? 通して!」
「悪いな、お嬢ちゃん。こっから先には通すわけにはいかねえんだ」
「あんたたち、あのスリの仲間なの?」
「スリ? さあなあ」
スカーフの男がせせら笑ったその瞬間、リュナンはふうっと息を吐いた。腕をつかまれたまま身を沈め、その場で勢いよく伸び上がる。
「ぅがっ!」
ガッ、と顎の下に強烈な頭突きを食らった男はのけぞって、リュナンから手を離した。間髪いれず鳩尾に肘をたたきこむと、髭面は体を折って悶絶する。
「こっ、このガキ、なにしやがる!」
スカーフの男がつかみかかってきたのを頭を低くしてかわし、背後にまわるや背中を思いきり蹴り飛ばした。狭い路地でのことだ、男は民家の壁に顔面から激突し、つぶれたカエルのようなうめきを上げてずるずるとその場に沈みこむ。
「リュナン! まだ無事か――」
そこへ、ようやく追いついたレイノルドが路地の角に姿をあらわし、状況を瞬時に把握すると、あちゃあ、と天を仰いだ。
「――相手のほうが」
「もうっ、見失ったじゃない! どうしてくれんのよ!」
騒ぐリュナンをうしろから羽交いじめにし、レイノルドはどうどうと宥めにかかる。
すぐ後からやってきたシオンがさっさと行け、とチンピラたちに顎をしゃくると、数の上でも不利を悟った彼らは這うようにして逃げていった。
「レイくん、離してよ! なんで逃がすの!」
「いいからおちつけって。あんまり事をおおきくして目ェつけられたらどうすんだ」
「でも……!」
「――リュナン」
空気がびしりと凍るような低い声音に、リュナンはようやく暴れるのをやめ、シオンをうかがった。
「ばか野郎、無茶すんのも大概にしろ!」
腹の底からの一喝に、空気までもがびりびりとふるえるようだ。リュナンは首をすくめておとなしくなった。
「勝手にひとりでつっ走るな! 相手が刃物でも持ってたらどうするつもりだったんだ!」
「それはちゃんと考えてたよ! 刃物出される前に気絶させちゃえばと思っ――」
思わず言い訳しかけたリュナンを、シオンはひとにらみで黙らせる。
「いくらじいさんたちに護身術習ってるからって、おまえは女なんだぞ! 慢心するな!」
自分の身は自分で護れること。それが飛翔士を目指すために祖父とかわした約束だった。みっちり半年以上かけて祖父やジュディスに体術を習い、ふたりからこれならいいだろう、と太鼓判を押されるまでになった。それを慢心といわれてはリュナンの立つ瀬がない。
「でも、だって……」
なんとかしなければ、と思ったのだ。自分にできることならなんでも。お荷物にならないためには。
リュナンがくちびるを噛んで黙ると、いつものようにレイノルドが仲裁役を買ってでた。
「もうそんな怒鳴ってやんなよ。リュナンはスリを逃がしたくなかっただけだろ」
「レイ! おまえがそうやって甘やかすからこいつは――」
「別に甘やかしてるつもりはないぜ。叱る役をおまえが率先してひき受けてくれっから、お兄さんが宥め役に回らざるをえないんだろ。というか、そもそもおまえが油断してっからこんなことになったんじゃねえのか?」
レイノルドの指摘はシオンの痛いところをついたらしい。何か言い返そうとした彼は、あきらめたように口を閉ざした。
「……そうだな、もとはといえば俺の油断が招いた事態だ。悪かった、リュナン」
あっさりと認め、シオンは文字通り頭をさげた。ううん、とリュナンは困惑して首をふる。
彼らはリュナンの先輩であり、指導役である。ひとりで勝手な行動に走ったのなら、叱責されるのも当たり前だ。リュナンも慌てて頭を下げた。
「わたしもごめんなさい。軽率な行動は慎みます」
「はいはーい、両方反省してるからこのお話はここまでね。あとくされナシ!」
パンと手をたたき、軽い口調で言いはなったレイノルドが、気まずくなりかけた空気をたちまち霧散させる。
リュナンは内心ほっとした。三人の中でいちばん年長なだけあって、レイノルドは場をとりなすことがとても巧い。人づき合いは得意でないと自覚しているシオンも、彼のこういった面には一目おいているらしく、あえて逆らうこともしない。
「で、結局肝心のスリは逃げちゃったわけだけど。シオン、おまえ何をスられたの、財布?」
「ちがう」
シオンはきっぱり首をふり、なかば予測されていた事態を淡々と認めた。
「やられたのは例のあれだ。――あずかった文書筒だ」
そのまま三人はすぐにムール商会へむかった。
運び屋があずかった荷物を盗まれるなど言語道断だが、責任逃れをするわけにもいかない。とにかく事情を説明し、相手方の判断を仰ごうとしたのだ――が、ここで話が思いがけない方向へ転がった。
「えっ、フェラーなんて人はいない!?」
驚愕の声をあげたのはリュナンだ。ムール商会の窓口にいた男は、はあ、と困惑したように同じ答えをくり返した。
「そのような名前の人間はおりません。うちの商会にいるのは二十人程度なので、全員の顔と名前は把握しています。人足から小間使いにいたるまで、フェラーという名の人間には心当たりがありません。どこか別の商会とお間違えなのでは?」
「そ、そんなはずないよ。だってムール商会って、マリーネではここだけでしょ?」
ええ、と男はうなずいた。
「現在のところ、同名の店は他にないはずですが」
「じゃあ、ここで合ってるはずだよ。わたしたち、マル……」
「リュナン」
興奮のために声を荒げるリュナンをさえぎったのは、シオンだった。
「失礼しました。どうやら俺たちの勘違いだったようです」
「シオン!?」
窓口の男にむかって謝罪を述べる。どうして、とふりむいたリュナンに、レイノルドがくちびるに指を一本当て、黙ってろと指示を出した。
「おさわがせしました、それでは」
シオンがきびすを返し、レイノルドがあとに続く。行くぞと腕をひかれ、リュナンもしぶしぶふたりを追って商会をあとにした。
ムール商会からそろって出たあとも、先頭を行くシオンは足を止めなかった。
何か明確な目的があるらしく、すたすたと迷いのない歩調で道を進んでいく。
「ねえ、ちょっとシオン、どういうこと!」
「それを話す前に、ひとつ確認したいことがある」
ふりむきもせずに答えられる。とりつく島もない様子に、リュナンはかたわらを歩くレイノルドを見上げたが、彼も首をふって肩をすくめただけだった。
「せめてどこに行くのかくらい教えて」
「サントリエ通り三一番地。ここから近い、歩いていける距離だ」
シオンが口にした住所はさっぱり覚えのないものだった。もう一度レイノルドと視線をかわして、リュナンは早足で前に追いついた。
逆にレイノルドは歩調をゆるめ、ふたりの背後を守るように一歩遅れてついてくる。
「その住所がなんなの?」
隣にならぶと、シオンは逆に訊きかえしてきた。
「あれを預かったとき、俺が帳簿を渡したのを覚えているか?」
「マルクさんに? あっ、もしかして、あずかりのサイン?」
「そうだ。連絡先もあのときに書いてもらった」
「あ、じゃあ今から行くのはマルクさんの家? でもマルクさん、時間的にまだ戻ってないんじゃ……」
見当はずれなことを口にして首をかしげるリュナンに、シオンはそれ以上答えることなく、十字路の角で立ちどまった。正面の建物を見上げ、ぽつりとつぶやく。
「――やっぱりな」
わけがわからないまま、リュナンも彼の視線の先を追った。
大小の道が複雑にいりくんだマリーネでは、多くの民家に通りの名と番地を刻んだ表札が掲げられている。十字路の角にある建物の番地は『サントリエ通り三〇番地』だ。十字路をはさんで向かい側は通りの名が変わっている。――つまり。
「ど、どうして……?」
「『サントリエ通り三一番地』ってのは実際にはない架空の住所ってことか」
あとから追いついてきたレイノルドが言い、前髪をかきあげて唸った。
「なるほど。こりゃどうやら……いよいよややこしいことに巻きこまれたかもしれねえな」
そのつぶやきに、リュナンもただならない事態が起こっているのを察し、こくりと小さく喉を鳴らした。
「状況を整理しよう」
なるべくひとの通りかからない裏路地に入るなり、シオンが切り出した。
「俺たちはマルクさんからタマラ市章の入った何かの文書――中身を確認してないから憶測だが――をあずかり、ムール商会のフェラーという人物を訪ねた。だが、商会に入る寸前で俺はスリに遭い、文書筒を盗まれた」
「相手は単独犯じゃない可能性があるよ。やっぱりあいつら、つかまえて締めあげたほうがよかったんじゃ……」
物騒な発言をするリュナンに、レイノルドは肩をすくめた。
「んー、あのヒゲ面と首巻のことならわかんねーぞ。スリっつっても単独で動いてるのと、複数で組んでる場合があるからな。さっきのあいつらだって、もしかしたら本当に関係のないたんなる脅し役だったのかもしれねえし」
「そっかぁ」
「いまはとりあえずスリのことは横に置いておく。ムール商会を訪ねると、フェラーなる人物はいないという。しかも、荷物をあずけた当事者であるマルクさんの住所は架空のものだ。もしかしたら、『マルカート・レバノン』という名前も本名じゃないかもしれない。これは確認する方法がねえけどな」
「まだあるぜ。そのマルクって男の馬に毒が盛られてた可能性だ」
レイノルドの指摘に、シオンは渋面になった。
「そっちはさらに確証がない」
「ただ、もし本当にそうだったんなら、マルクってひとは何者かに命を狙われてる可能性があったってことになる。そしてその男はタマラ市章が入った謎の文書筒をおまえにあずけた。が、ブツはムール商会に入る前に盗まれ、しかもムール商会に受取人は存在していないときてる。――これが全部無関係ってことがあるのか?」
「…………」
リュナンはシオンと目線をかわし、ふたりは同時に重いため息をついた。
「まずないな」
「だよね」
「……あーあーあーもう、だからヤな予感がしたんだよなああ!」
突如レイノルドは頭を抱え、民家の塀にガンガンとうちつけるような仕草をした。
「うろたえんな。まだ厄介な事態になると決まったわけじゃねえだろ」
「いやいやいやいや、じゅーぶん厄介な事態だろ! オレたちが巻きこまれてるってこともほぼまちがいねえし!」
「まあ、そこは否定できない」
「否定してくれ頼むから!」
あくまで冷静なシオンに、胸倉をつかみかからんばかりの勢いでレイノルドが迫る。
「いいからおちつけって、レイ」
「これがおちついていられるかっての! おまえこそなんでそう平然としてんだよ! ああ、せめてあの文書筒の中身がわかっていれば……」
「あずかりものの中を勝手に見るのはご法度だろ」
「そりゃわかってる。だからせめてっつってんじゃねーか」
「どっちにしろ、受けとった時点でまずい代物だと気づいてなかったんだからどうしようもねえよ」
「おまえは空では注意力あるくせに、陸だとどうしてそうツメが甘いんだよ!」
「ツメが甘くて悪かったな」
「……もう、いいかげんにしてよふたりとも! 今はそんなこと言い合ってる場合じゃないでしょ!」
リュナンの一喝に、男たちは首をすくめて不毛な言い争いを終えた。
「どっちにしろ仕事を請け負った以上、荷をあずかっておいて届けられませんでしたってわけにはいかない。弁償うんぬんより運び屋としての沽券に関わる」
「真面目だねえ。依頼主がまっとうな人間かどうかすらわかんねえのによ」
「仕方ねえよ。押しつけられたものとはいえ、断らなかった俺が悪い」
「待って、ひとりで責任を負わないでよ、シオン! わたしもあの場にいたんだから」
慌てて口をはさむと、シオンはまあな、と苦笑した。勝手にのけ者にされては困る。
「タマラの役所にでもあたってみるさ。市章が使われてたってことは無関係じゃねえだろうし」
仕方ねえなあ、とレイノルドは嘆息した。
「ま、毒を食らわば皿までって言うしな。オレもつき合う」
「とりあえずいったん商会に戻るぞ。こうしてるあいだにも時間がどんどん経っちまうしな」
だよね、とリュナンが同意する。
「はやく出立しないと、タマラに着くのが夜になっちゃうもん」
「待て待て、シオン。その前に軽食だ。こんなすきっ腹でパレリア越えられねえよ」
「おまえさっきレーナおばさんの弁当食っただろうが」
「えー、あれだけじゃ全然足りねえよ。それにありゃ、オレのなかじゃ遅い朝食なの。だってオレ、今日朝飯ぬいて来たもんね」
「遅刻しといて自慢になるか!」
「はいはい、シオン先輩ー。わたしレンズ豆の煮込み料理でいいです」
「あ、じゃあオレ海鮮の雑炊ね」
「……あーもう、食べさせてない子どもかおまえらは! わかったわかった、いつもの〈六分儀亭〉でいいだろ、行くぞ」
大通りに向かって歩き出すシオンとレイノルドに続こうとして、リュナンはふとうしろをふり向いた。
「……?」
首筋のあたりに視線を感じたのだが、路地の角には猫の仔いっぴきの姿もない。
(気のせい?)
「おい、リュナン。なにやってんだ、おいてくぞ」
「あ、はーい。待って待って」
リュナンは急いでふたりのあとを追い、違和感のことはそれきり忘れてしまった。このとき彼らの様子をじっとうかがう存在があったことを、リュナンたちが知るのはもっとずっと後のことだった。
*
休憩ののち商会に戻ったリュナンたちは、今度はマリーネからタマラに運ぶ荷物を荷馬車につみこみ、すぐにアンファール飛行場へとって返した。
「――ファッジー!」
名を呼ぶと、アマネアとフューの二頭に水を飲ませていた少年がこちらをふり向いた。
「あ、おかえりなさい」
嬉しそうに笑って、ファッジが馬車のほうへ駆けよってくる。
「あの子たちの面倒を見てくれてありがとうね。あと、ファッジのくれた弾、さっそくだけど役に立ったよ」
「え、本当に? まさか」
ちらりとファッジがリュナンの隣を見、視線をむけられたレイノルドは半眼になった。
「待て。なんでそこでオレを見る」
「レイくんじゃないよ。シオンがスリの被害に遭ったの。結局逃げられちゃったんだけど」
「ええっ、スリ!? 財布を?」
ファッジが痛ましそうな目をシオンにむける。大食いのフューを養うために、彼がいつも家計に苦労していることをファッジも知っているのだ。
「いや、盗られたのは財布じゃなかったんだが……」
言葉をにごしたシオンに、ファッジは子どもらしい敏感さで何かに気づき、それ以上は追及しなかった。
「でも、姉ちゃんの役に立ったんなら嬉しいよ。また作っておくね」
「ありがと。それで、ねえファッジ、うちのおじいちゃん飛行場に来なかった?」
「ホークさんなら見たよ。顔だけ見せてすぐに行っちゃったけど。昔なじみに呼び出されたとかなんとか言ってた」
そういえばジュディスもそんなことを言っていた。
「元気だった?」
「うん、いつもどおりだった。夕飯はバルでしこたま飲んでやるって笑ってたし」
ほっとしながら、リュナンはそう、とうなずいた。
「ってことは、じいさん、タマラに向かったんだな」
バルとは、タマラ市で伝統的な皿料理を出してくれる大衆酒場のことだ。店によって用意してくれる料理に特色がある。ホークのお気に入りの店を何軒かあたれば、見つけることもできるかもしれない。
「オレたちもさっさとタマラへ向かおうぜ。すぐに飛べばあっちで会えるかも知れねえ」
「そうね」
そうと決まれば、と三人は馬車をおり、慌しく荷物を運び上げた。レイノルドは手綱をファッジの手に渡し、すまんと頭を下げる。
「頼む、厩舎のほうに馬車を預けておいてくれ。アマネアたちの世話、いつもありがとな」
「うん」
素直にうなずくファッジの頭をレイノルドがぐりぐり撫でると、少年は嬉しそうに笑って、厩舎のほうへ駆けていった。
「じゃあね、みんな!」
「うん、またね、ファッジ!」
リュナンの声に、ファッジはふり向いて一度だけ大きく手をふり返す。少年の小さな背中を見送り、リュナンたちはふたたび騎乗の人となった。
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