第二章 水面下の灰煙


「リュナン、体を低くしろ!」

 真後ろで、鼓膜が破れそうになるほどの大声でシオンが叫ぶ。

「えっ、なに!?」

 焦ったリュナンがふりむこうとした瞬間、前方からの強風に、命綱によって鞍につながれた体が一瞬浮きかける。

「ばか、まともに風受けんな!」

 背後からリュナンを抱くようにして回された腕が腹部をぐっと押さえつけ、上半身が折れる。なかば強制的に伏せさせられると同時に、声の主も体勢を低くし、意図せずリュナンの背中に密着する形になった。

「ぎゃあ、ちょっとシオン!」

「フュー、風にさからおうとするな!」

 リュナンに覆いかぶさりながらシオンが指示を出す。甲高い鳴き声が応え、フューがむりに翼をたたもうとするのをやめたことがわかった。

「おちつけ、リュナン。おまえが焦るとフューが混乱する」

「そっ、そんなこと言われても!」

リュナンは内心大いに慌てながら悲鳴を上げた。

(しっかりしなきゃ。今は手綱を握ってるのはわたしなんだから!)

 飛行眼鏡ゴーグルごしに見る視界は白一色だ。ファンヴィーノ山脈にさしかかったとたんエアポケットにはまり、ふたりを乗せたフューは一気に高度を下げた。眼下にあった山肌も、今は濃密な霧と雲に覆い隠され、まったく見えない。

 湿った風が強さを増し、轟々と唸りをあげて襲いかかってくる。飛行帽で覆われた耳の奥でピーンという耳鳴りがした。機密性に優れた飛行服に身をつつみ、体温の高い飛翔獣の背に乗っていても、なお沁みこんでくるような冷たい空気に歯の根がカチカチと鳴る。それが寒さによるものか、あるいは恐怖なのか、感覚もだんだん麻痺していくようだった。

「雲の足が早いな」

 冷たく重く、湿りを帯びた濃密な大気の塊。空気が緊張をはらみ、息苦しいほどだ。遠くにかすかに、ゴロゴロという不穏な音も聞こえる。

「色の違う雲には絶対に近づくな。雷が発生する可能性が高いからな」

 シオンの忠告に、リュナンは無言でうなずいた。雷の巣に入れば飛翔獣も乗り手もただではすまない。冷たい汗が背筋を流れる。

「アマネアがいない……レイくんの姿も」

 つぶやく声に不安がにじむ。リュナンたちの少し前を先行していたアマネアのうしろ姿は、もう視界のどこにもない。

「心配いらねえよ、あいつは一人前だからな。うまいことよけて飛んでるはずだ」

「荷物も無事、だよね?」

 視界は白いばかりで、鞍からさげた積み荷さえもよく見えない。万にひとつもあってはならないが、積み荷を失えば商会全体の信用にも関わる。リュナンの不安は増すばかりだ。

「心配ない。そうそう落ちねえように固定してある。というか今は積み荷のことは忘れろ」

「でも、もし落としたら乗り手の信用にだって関わ……」

「あー、いいから。今そのことは考えなくていい。とにかくこの危機を脱出することが最優先だ。わかったな?」

「は、はい」

 いろんな要因で心臓が痛い。リュナンはとにかく心のなかで落ちつけ、とくり返した。

(シオンがうしろにいてくれるから、絶対に大丈夫)

 くちびるをすぼめて息を静かに何度もすいこむと、冷気で肺がすっと冴えるのを感じた。肩から余分な力がぬけ、手綱をにぎる手の震えが徐々におさまる。

 シオンはリュナンが冷静さをとり戻したことを察すると、リュナンが体勢をたてなおせるように、押さえつけるようにしていた体を少し浮かせた。そうするあいだも彼が全身で「」いるのがわかる。こっちは動揺したり怖がったりと忙しいのに、恐ろしいほどの冷静さだった。

「いいか、おちついて雲の切れ目を探せ。風の流れがちがうところだ」

「風の流れがちがうところ……」

 リュナンは言われたとおり、乳白色の視界の中で必死に目を凝らした。視力だけは抜群に良いのがリュナンの自慢だが、視覚だけではなく、耳と鼻、皮膚、産毛にいたるまであらゆる感覚を駆使し、流れを読む。

 リュナンははっとして首をめぐらせた。前方のやや右下――そこだけが、他とはちがって明るい。真っ白なのは同じなのに、光っているように見える。理屈よりも先に、あそこだ、と思った。手綱を握る手に力がこもる。

「よし、見つけたな」

肩を軽く叩かれ、正解の判をおされた。

「出口だ、怖がらずに行け」

「はいっ!」

 力いっぱい返事をして、リュナンは手綱を操った。同時に足であぶみも操作して、フューに意思を伝える。なめらかにひるがえった翼に、自分の意図が通じたことを知ってうれしくなった。

「ひゃぅっ」

「大丈夫だ」

 遠心力でぐんっと浮きそうになる体を、背後から回された腕がしっかりと支えてくれる。リュナンはどきどきしながらも、手綱を強くにぎりしめた。

「よしっ、行こうフュー!」

 どこまでも続く白い回廊。そのなかを、人馬一体ならぬ人獣一体となって、リュナンたちはつきすすむ。目指すは雲の回廊の出口であり、空への入口だ。

「ぬけるぞ。見ろ!」

 明るく力強い声にはげまされ、リュナンは目を眇める。風を真正面から受け、一瞬息がつまるかと思った。だが、ぼひゅっと空気をはじくような音がして、視界が一気に鮮明になった。

 リュナンは息をのむ。目の前に、まぶしいほどの空色、頭の芯までしびれるようなまっ青の快晴が広がっていた。

「……わ、あ」

 声がもれる。もう何度眼にしたかわからない色なのに、見るたびに胸がふるえるのがふしぎな気がする。

「お疲れさん。よくのりきったな」

 大声ではないが、よく通る声音に労われる。リュナンは胸がいっぱいになり、肩越しにふりむいて、感動を伝えようとした。

「シオ――」

「まだ早い。ちゃんと前むいてろ」

 が、すぐに注意を受け、あわてて顔をもどした。よそ見などして、また気流に流されたら目もあてられない。

 シオンは腕の力をゆるめ、ごく自然に体を離した。フューの鞍は相乗り用の特別製だが、長時間密着して座るのは落ちつかない。ほんの少しあいた距離にほっとすると同時に、心細い気持ちになった。

(だめだめ、今は集中しなきゃ)

 雑念を必死でふりはらおうとするリュナンの耳に、ピュゥーィ、と甲高い笛の音が聞こえた。鳥の声にも似た独特の音色は、仲間同士で合図をおくるときに使う竜笛特有のものだ。

 首をめぐらせば、ばさっと力強い羽ばたきの音がして、一頭の飛翔獣がななめ上から急降下してきた。

「おーい、無事だったか!」

 翼が接触しない距離をあけ、アマネアが隣にならんだ。

 職業柄、古来より飛翔士は声に指向性をもたせ、離れたところからでも相手に届けられるよう訓練を受けている。レイノルドの声はよく聞こえたが、まだまだ一人前とは言えないリュナンは、口に手を当てて叫ぶように訊きかえした。

「レイくんこそ大丈夫だったー?」

 レイノルドは大仰に肩をすくめ、片手を宙にかざし、連続していくつかの仕草をしてみせた。飛翔士間でのみ意思疎通が出来る、身ぶり手ぶりを使った信号だ。リュナンはそれを正確に読みとった。

『あいにく一人前なもので』

 むっとして口を開きかける寸前、レイノルドはにやりと笑い、アマネアの速度をあげた。

「今度はドジふむなよー」

 からかうような笑い声が風とともに前方へと流れていく。リュナンはかっと赤面した。

「ちょっと!」

「こら、ムキになるな。集中してないと、またさっきみたいになるぞ」

 背後からいさめられ、体を浮かしそうになったリュナンはぐっとこらえた。

「ごめんなさい」

「ファンヴィーノには地形のせいでできたエアポケットがあちこちにあるから覚えておけよ。ちゃんと自力で脱出できたから、今回は差し引きゼロってことにしてやる」

「……うん。さっそくシオンに迷惑かけちゃったね」

「迷惑とは思ってねえよ。俺はおまえの先輩で指導係だからな、気にするな」

「でも」

 くよくよしたいわけではない。だが、はりきってしょっぱなからこれでは、あまりに格好がつかないではないか。女にだって、見栄ぐらいはりたいことはあるのだ。

「実技はじめてまだ三ヶ月ならこんなもんだろ。焦る必要はない」

「わ、わかった」

「だが確認は怠るなよ。ほれ、最初から作業やり直し」

 きっちりと釘を刺された。リュナンはくちびるをひき結び、仕事への集中力を高める。

(これ以上シオンに失望されたくない)

 まずはじめに、鞍に固定された気圧計を確認。さきほど雲につっこんだとき急激にさがった水銀が、今は正常な値に戻っている。

 次に腕に巻いた小型のコンパスを見て位置を把握。現在地はおそらくファンヴィーノの中心から少し東へずれたあたりだ。ファンヴィーノは頂上に雪をいただく高山の連なる山脈だが、比較的標高の低い谷を選んで飛んでいるため、最短距離ではなく、やや迂回したかたちになる。

 翼の神が棲むという伝説のあるファンヴィーノは、かつては野生の飛翔獣たちの楽園だった。だがいまやその飛翔獣も数が激減し、絶滅の危機に瀕している。今ではパレリア沿岸都市群すべてをあわせても、人間の手で飼育された百数頭が残るのみだ。

いまリュナンのあやつっている(本来の主人はシオンだが)ファニール――愛称をフューという、まさしく翼の神の名を与えられた飛翔獣も貴重なその一頭だ。

「……きゅー!」

 突如、そのフューが鋭い嘶き声をあげたので、リュナンは驚きで身をすくませた。

「えっ、なに。どうしたの?」

「下だ。フューが何か見つけたらしい」

(――した?)

 足元を見下ろすと、ファンヴィーノの山肌と、山脈をぬけて麓へと続く谷の道が細いリボンのように続いている。道は二頭立ての馬車、もしくは小型のガソリンエンジン車がなんとか二台通れるという程度の幅しかない。道のすぐわきは断崖絶壁になっており、その下は木々の生い茂る常緑樹の森だった。

 その崖道をおそろしい速さで駆けていく馬車に気づき、リュナンは目をみはった。

「な、何あれっ?」

 遠目に見えるのは黒塗りの箱型馬車だ。しかし、様子がおかしい。あきらかに崖道を走る速度ではない。

「まさか、馬が暴走してる?」

 リュナンがもっとよく見ようと双眼鏡に手をのばしたとき、鋭い竜笛の音が空に響いた。音の高さから緊急事態の合図だとわかる。と同時に、先導するように飛んでいたアマネアが翼をたたんで降下に入った。

「レイくん!?」

「あいつらのあとを追え!」

 即座に背後からシオンの指示が飛ぶ。慌ててリュナンはあぶみでフューの横腹を蹴った。

「あ、うん! フュー、アマネアを追って!」

 お願い、と声をかけると、フューはすぐさま意図を汲んで下降の体勢にうつる。ななめに滑るように高度を落とし、崖道が真下に見える距離まで近づいた。

「う、うわあ、あああっ」

 聞こえてきたのは御者台に座る男の悲鳴だ。爆走する馬の手綱をにぎりしめたまま、激しい振動に体を大きく跳ねさせている。

 よく見ると、馬は白目をむき、口から泡を吹いていた。かなり危険な兆候だとすぐにわかる。

(やっぱり暴走してる!)

「――シオン!」

「わかってる!」

 止めなければ遠からず馬がつぶれるか、もしくは蛇行した道で車ごと崖下に転落するかのどちらかだ。馬も御者も、おそらくただではすまない。

(なんとかしなくちゃ! ……でも、どうすればいい?)

 そのとき、フューの右ななめ下を飛んでいたアマネアが速度をあげた。暴走馬車を追いぬいて、ひき離したと見るやぐるりと大きく旋回した。滑空しつつ、一気に高度を落とす。

「レイくん!?」

 それはたとえるなら、水中の魚を狙って急降下するカモメのような動きだった。アマネアはボウルの底のような半円を描き、上方から馬車すれすれをかすめると、長い尾を鞭のようにぶんと振った。

 突如目の前を飛翔獣の尾がかすめ、驚いた馬は棹立ちになった。

 ヒィイイン、と甲高い悲鳴にも似たいななきをあげ、横倒しに倒れる。その衝撃で車体も大きく跳ね、御者台に座っていた男が地面に放り出された。

「うわああっ!」

 彼が手綱を離さなかったのは幸運としか言いようがなかった。もし手を離していれば、崖の下へ転落した可能性もあっただろう。

「あいつ、無茶しやがる!」

 リュナンの背後でシオンがいらだたしげに叫んだのが聞こえ、同時に、

「手綱貸せっ!」

 しびれをきらしたらしいシオンの腕がリュナンの腰に回される。体をうしろに引かれ、リュナンの手から手綱が奪われた。

「え――」

「フュー、降りるぞ!」

 驚く暇もなく、急激な落下感が全身を襲った。ぐうん、と強くひっぱられ、リュナンは体を無理やりひねるようにして無我夢中でシオンの首っ玉にしがみつく。焦りや恥じらいなど、微塵も感じている余裕はなかった。

「舌噛むなよ!」

 シオンの叫びにリュナンが歯を食いしばった刹那、滑空の体勢にはいっていたフューが、突然宙で翼をたたんだ。失速落下するなか、上から見たときはまるでリボンのように思えた崖道が視界のなかでみるみるうちに大きくなる。

(うそっ――!)

 みぞおちに強烈な不快感。腹から何かのかたまりが喉元までせりあがる。絶壁がすぐ目前にまでに迫り、リュナンは声にならない悲鳴をあげた。

「……――っっ!」

 そのあとに起こったことは、リュナンの寿命を確実に一年は縮めた。だがしがみついていた相手がシオンでなければ、十年は縮んでいただろう。

 崖道に着地――というより激突する寸前、フューはたたんだ翼の下に磁界を発生させ、重力と慣性を同時に相殺した。フューが四肢を踏んばると、ずん、という振動が、鞍ごしにリュナンの全身にまで伝わってくる。

 自分の目でじかに見ていたにもかかわらず、何が起こったのか理解できなかった。わかるのは、車が二台やっと通れるほどの幅の道に、フューが無事着地したということだけだ。

(うそ……着地、した?)

 リュナンは呆然と細い崖の上に立つフューを見下ろした。その四本の脚は、たしかに地面を踏みしめている。

 背後のシオンが平静な声で「よし、うまくいった」などとつぶやいたのが耳に届いた。

「シ、シオン」

「ああ、悪かったな。手綱奪っちまって」

「え、いや、あの……ううん」

 そうじゃなくて。手荒とかそういう次元の問題ではない気がしたが、リュナンは首を横にふった。

「すまんが、手、はなせるか?」

 しがみついている体がふるえていることに気づき、さすがのシオンも気遣わしげな表情になる。いまさらのように、恐怖がどっと襲いかかってきた。

「へ、平気平気。だいじょうぶ」

 だがこんな醜態をいつまでも晒すわけにはいかないと歯を食いしばり、どうにかシオンから身をもぎ離した。彼は時間をむだにせず、手袋を脱いで命綱をすべて取りはずした。

 フューから飛びおり、シオンは鞍の側面にぶら下がる道具袋から水の入った水筒をとり出すと、下から声をかけてきた。

「命に関わるかもしれねえから、俺は先に行くぞ。むりならおまえはそこで待機してろ」

「ま、待って、わたしも!」

 だが、リュナンを待つことなく、シオンはきびすを返して走っていってしまった。後を追おうと、リュナンも手袋を脱ぎ、ふるえる手でフューと自分をつなぐベルトを外す。もたもたしていると、命じてもいないのに察したフューが身をかがめ、リュナンを下におろしてくれた。

「あ、ありが……、っとと」

 地面の硬い感触がかえってなじめず、リュナンは体をふらつかせる。まるで全力疾走したあとのように心臓がおちつかず、膝が激しく笑っていた。エアポケットにはまったときですら、こんなことにはならなかったのに。今度のは、また次元の違う恐怖なのだろう。

「うう、気持ち悪……」

 酸っぱいものが口内に広がり、リュナンは口元を手で押さえた。

 空をあおぐと、はるか頭上をゆっくりと旋回するアマネアの姿が見える。馬を煽ってその暴走をとめたレイノルドは、体勢をととのえるために一度高く上昇したようだ。山間のこのあたりでは、地形による上下の気流をつかまえるのはそれほど難しいことではない。

「きゅー」

 胸をおさえて唸っていると、フューが大丈夫か、というように首をめぐらせた。飛翔獣は基本的に気性の優しい生きものだ。気遣いの礼に、リュナンは鼻の頭をかるく撫でてやる。

「うん。ありがとう、大丈夫。しばらくここで待っててね、フュー」

 声をかけ、リュナンはふらつく足を叱咤して、先行したシオンのあとを追った。



 フューの降りた位置から五十フィートと離れていない場所で、御者があお向けに倒れていた。そのかたわらに座ったシオンが、男の容態を確認している。

「うう……」

 頭でも打っていれば危険だったが、意識はあるようだった。リュナンが合流すると、シオンに背中を支えられ、慎重に上半身を起こしたところだった。どうやら命に別状はなさそうだ。

「大丈夫ですか?」

 うめきながら、彼はしばし額をおさえてうつむいていた。やがて目の焦点が定まったらしく、男は顔をあげ、リュナンとシオンを交互に見つめた。

「あ……?」

「意識はありますね? 頭は痛みませんか? 耳鳴りは?」

「いえ、ちょっとくらくらしますが頭は打ってません……」

 思ったより冷静な口調で男は答えた。訛りのないパレリア沿岸都市群の公用語だ。

「よかった。あんな勢いでふり落とされたのに、まだ幸いでしたね」

「……辛うじて受身はとれたので、なんとか。すみません、助かりました」

「こちらこそ、仲間が手荒なまねをして申し訳ない」

 頭を下げるシオンに、男はとんでもない、と慌てて首をふる。

「いや、僕ひとりでは、おそらく馬を落ち着かせることもできずに崖下に転落していたでしょう。動転して何も思いつきませんでしたし」

 男は先刻のことを思い出したのか、ぶるっと体をふるわせた。

「峠の道に入ってしばらくしてから、どうも馬の様子がおかしくなりまして。それまでは快調に走ってたんですが。麓で昼食をとったときはなんともなかったし、水にあたりでもしたのかな」

 しきりに首をひねっている。隣でシオンが何かを考えこんでいることに、リュナンは気づいた。

「……それは災難でしたね。ほかに体に異常はありませんか?」

「右腕が痛む気がしますが、利き手ではないので。この程度ですんだのが奇跡ですよ。お気づかいありがとうございます」

 男の言葉にシオンはうなずく。

 彼の無事を確認すると、シオンは肩に水筒をさげたまま「ちょっと馬をみてくる」と言い置いて場をはなれた。獣医の心得こそないが、シオンはフューが幼獣のころから世話をしていただけあって、少なくともリュナンよりは動物のあつかいに長けている。信頼して、そちらは任せることにした。

「うん、わかった。いってらっしゃい」

ふたりきりで残されたリュナンは、男の顔を失礼にならない程度に観察した。

 茶色の髪にはしばみ色の瞳をした三十歳ぐらいの男性だ。おそらく後半には達していまい。ベストに薄手のコートを羽織り、身なりはそれほど悪くない。生地の質から少なくとも中産階級以上の人間であることがうかがえる。体つきはひょろりとして、商人というよりは神経質そうな学者という感じがする。顔立ちは平凡でこれといった特徴がなく、そのために、もしかしたら実年齢よりも若く見えるのかもしれなかった。

「助けてくださってありがとうございました。えーと……お嬢さん?」

 男が困ったように眉根をよせたので、リュナンはうなずいた。いくら中性的な容姿をしているといっても、さすがに男と間違われたことはない。

「リュナンです。リュナン・アースライト。彼はシオンです」

「アースライト……というと、まさか、アースライト商会の?」

(あっ、しまった)

 男が驚いたように目をみはったことで、リュナンは自分の失言に気づいた。「アースライト」は三都市をまたにかける大商会の名であり、そして何より――希代の英雄であった祖父を示す名である。

「あっ、ええ……はい、そうです。祖父、が」

「なんと! ということは、あなたはかの有名なホーク・アースライト氏のお孫さんですか! 三十年前、ご自身で開発された飛行機でブリギオン外海を単独横断飛行されたという!」

 男は興奮に満ちた声で言い、目をきらきらと輝かせた。感激のあまり、リュナンの手をにぎりしめかねない勢いだ。

(ああ、おじいちゃんが今も昔も有名人だってこと、すっかり忘れてたああ)

「え、ええ……はい。ホークはわたしの祖父です」

「やはり! あの『空の英雄』のお孫さんとこんなところで出会えるとは! あ、握手して頂いてもよろしいですか?」

 興奮しきって迫る男の態度に、リュナンは顔をひきつらせ、ぶんぶんと首をふった。

「でっ、でもわたしはもう家を出てますし……、祖父も現在は商会のことは父にまかせて隠居してますから、その」

 焦ってごまかそうとするリュナンに何かを察したのか、男は態度をあらため、照れたように笑った。

「ああっ、失礼しました。つい興奮してしまって。僕が若い――といってもごく幼少のころですが、アースライト氏の挑戦にはずいぶん憧れたんですよ。まるで架空の冒険小説のように、彼のなした偉業の数々に胸を躍らせたものです。特に、単独飛行の莫大な賞金でパニッツアの土地をどーんと買い上げたときなんて痛快で!」

「は、はあ」

 身内を褒められて悪い気はしないが、こうまでまつりあげられてしまうと、一体どこの誰の話かと戸惑ってしまう。

 六十を過ぎたなった今でも矍鑠として、周囲の若者にひけをとらないほど精力的に活動しているところは尊敬しているが、リュナンにとってのホークはあくまで「ただの祖父」だ。身内にとっては行動が派手で元気なおじいさん、という印象しかないホークが、こうしてふとした折に特別な価値をもって、広く一般に浸透している存在であることを思い知らされる。

(家族といるときは、ごくふつうのおじいちゃんなんだけど)

 正直に言えば、そのたびにリュナンは身のおきどころがないような錯覚を覚える。祖父の知名度に対して、自分の身の丈が合っていないような。

「おっと、申し遅れました。僕の名前はマルカート・レノバンといいます。マルクとお呼びください」

「はい。じゃあ、わたしのこともリュナンと」

「ではリュナンさんで」

 お互いに名乗りあっていると、馬の具合を診てきたシオンが戻ってきた。

「馬の命に別状はないようでした。水を多めに飲ませて吐かせましたから、休ませれば回復すると思います。ただ、もしかしたら足を少し痛めているかもしれません」

「そうですか、……よかった。最悪ここで見捨てていかねばならないかと危惧していたので。なにからなにまですみません」

 いえ、とシオンは手をふる。

「ご無事でなによりです。人命救助は運び屋にとっても最優先事項ですから」

「運び屋、というと――」

 マルカートが何か言いかけた寸前、「おおーい」と間延びした声が頭上から降ってきた。三人がいっせいに声のしたほうへ顔をむけると、アマネアが大きく旋回しながら徐々に高度を下げてきた。

「うわあ……!」

 と、マルカートが子どものような歓声をあげた。恐怖ではなく、純粋に驚きと喜びに満ちた声だった。リュナンは手をふって呼びかけにこたえる。

「レイくん、アマネア、無事でよかった!」

「すっげー、おまえらよくそんなとこに降りられたなあ」

 感心するというよりは呆れたような言葉がふってきた。

「レイくんは降りてこないの?」

 と訊ねると、「できるかっ!」と即座に怒られた。

「そんなほっせー幅しかねーとこにアマネア降ろすなんて、燕の巣に大鷲を着地させるようなもんだぞ! んなトンデモ技シオンみてーにほいほいできるわけねえだろ!」

「誰がトンデモ技だ」

 と、シオン。

「おまえがさっきやった曲芸だって相当な無茶だろ! アマネアに危ねえ真似させやがって!」

「うちのお姫さんはどっかの大食いとは違って身が軽いんだよ!」

「なんだと!」

「もう、なんなの、ふたりとも!」

 なぜか言い合いをはじめた男たちに、ああもう、とリュナンは頭をかかえた。どうしてこんなときにこんな小さいことで張り合いだすのだ。

「とにかく! オレの腕じゃおりられねーし、先にスフルへ向かってるぜ」

「わかった。谷の山道で事故があったことを伝えてくれ。誰か手が空いてたら、荷馬車でもよこしてくれるかもしれない」

 シオンが頭上に向かって叫ぶ。レイノルドは了解の合図を送り、アマネアをふたたび宙で旋回させた。クリーム色の獣が悠然と空を舞っていくのを見送り、マルカートははあ、と感嘆のため息をもらした。

「いやあ、近くで見ると本当にきれいな生きものなんですねえ。飛翔獣」

 その言葉は世辞ではなかった。羨望や憧憬、そういったきらきらした響きにリュナンは我がことのようにうれしくなる。

「そうですよね! わたしもそう思います!」

「ええ。見慣れているあなたがたには大げさに聞こえるかもしれませんが、こんなに心を打たれたのは久しぶりです。特に、翼をひろげて飛んでいる姿が素晴らしい。ここに写真機があればおさめたかったぐらいですよ」

「マルクさんは飛翔獣を見るのは初めてですか?」

「いいえ。けれど、子どものころに一度、高台から空に舞う飛翔獣の姿を見たおぼえがあるくらいですねえ。特に街中ではまず見かけませんから。近ごろはめっきり数も減ったとか」

「はい。俺たちも、商会の飛翔獣以外はあと数頭ぐらいしかしりません。今では野生もほとんど見かけませんし、全体で百頭程度まで減少したと聞いています」

「そうですか。もうそんなに……」

 シオンが答えると、マルカートは残念だ、と表情をくもらせた。

「自然淘汰というやつですかねえ。近所にけっこうお年を召された老人が暮らしていたんですが、そのおじいさんが子どものころは、飛翔獣が群れをなして空を飛んでいたそうですよ。それが今じゃすっかりお株を飛行機に奪われ……」

 そこまで言いかけ、マルカートはあっと口を手でおおった。

「す、すみません。つい失礼なことを」

 いかにも口をすべらせてしまったという様子でマルカートは謝罪の言葉を口にした。たしかに現役の飛翔士を前にしていう台詞ではなかったが、シオンは特に気にした風もなくいいえと首をふった。

 飛行機が進化の黎明期をむかえているとすれば、飛翔獣は斜陽の時代にさしかかっていると言っていい。空輸の手段としても、生物の個体数としてもだ。

 飛行機が現在も改良を重ねている段階で、まだ安全性において完璧ではないことと、飛翔獣にしかできない飛行技術があるために、「飛翔士」という存在も辛うじて生き残っているにすぎない。先ほどシオンがやってのけたのもそれで――もちろん誰にでもできる技ではないが――、空中での急停止など現段階で飛行機には絶対できない芸当だ。

「それで、マルクさんはこれからどうしますか? 仲間にはここからいちばん近い中継町に事故があったことを伝えるよう頼んでおきましたが」

「いや本当に、なにからなにまで申し訳なく」

 と、マルカートは恐縮した。

「ここで待ってればそのうち誰か通りかかるでしょうし、なければないで、まあ、なんとかのんびり歩いていきますよ。……このぶんじゃ夜までにマリーネ市にたどり着くのは難しそうですが」

「マリーネへ行かれるご予定だったんですか?」

「あ、ええはい、そうなんです。商談相手に渡さなければならないものがあっ――」

 マルカートは言葉を切り、はっとした表情でシオンたちを見た。

「そうだ! おふたりは運び屋だと仰いましたね。もしや、これから向かわれるのはマリーネなのでは?」

「え、ええ。あたしたち、アースライト商会のマリーネ支店にむかう途中で……」

 リュナンがうなずくと、「それはいい!」とマルカートは手をたたいた。

「迷惑をかけついでに悪いんですが、これを――」

 言いつつマルカートは上着を脱ぎ、腰のベルトに縦にくくりつけてあった小さな黒い筒をこちらにさし出した。細長い円筒で、中心には切れ目があり、おそらく書類を入れるための文書筒だろう。

「ムール商会のフェラーという者に渡してくださいませんか? こう言ってはなんですが、お仕事のついでで結構です。もちろん荷運び料はお支払いしますが」

「え、しかし……」

 リュナンとシオンは困惑した態でマルカートを見た。

「商会を通さず、という無礼は承知で、どうかお願いします。あなたがたが信頼にたる人物だということは、これまでの件でも明らかですし」

 たたみかける勢いでマルカートは言った。おそらくその信頼に、祖父ホークの名もひと役買っているのだろうと、リュナンは心中でひそかに思う。

「日没までであれば、時間は急ぎません。ムール商会はカルボ通りの北にあります。大きな商社ではありませんが、同業者の方に知られていないというほどでもないでしょう。目につきやすい位置にあるのですぐにわかるかと思います。――お願いします、どうか」

 とうとう頭を下げたマルカートに、シオンは観念したように「……わかりました」とうなずいた。

「そこまで言われるのでしたらおひき受けいたします。荷運び料も頂きません」

「なんと、ありがたい! では、これを」

 マルカートはうれしそうに言って、シオンの腰のベルトに、彼がしていたのと同じように手早くくくりつけた。

「荷物に関する守秘義務についてもご安心ください。依頼人の素性なども詮索しません」

「それはもちろん信用しておりますよ」

 マルカートは上機嫌でうなずいた。

「では、あずかりの署名をお願いします。連絡のとれる住所も」

「連絡先もですか?」

「はい。荷をお預かりする以上、必ず書いていただいています。そういう規定なので。念のために」

 シオンは運び屋がかならず身につけている小さな帳簿と携帯用の筆記具をさし出し、マルカートに記入を頼んだ。不測の事態が起こった場合、あずけた本人と連絡がとれないと非常に厄介なことになるからだ。

 マルカートはさらさらと帳簿に筆を走らせ、シオンに返した。

「ではこれで。よろしく頼みます」

「おまかせください。あ、正式に商会を通したものではないので、巨額の賠償金などはお支払いたしかねますが――」

「ああ、それは結構です。おつかいを頼まれただけとでも思ってください」

 シオンがほっとした顔になったので、リュナンはこっそり吹き出しそうになった。

「わたしたちはここからいちばん近い中継……いえ、スフルという町に向かいます。なんとか人をよこしてもらえないか頼んできますね」

 リュナンがそう言うと、マルカートは人のよさそうな顔で恩に着ます、と微笑した。

「あなたがたとはまたどこかでお会いできそうな気がします。そのときはぜひ今日のお礼をさせてください」



 崖道で手をふっているマルカートをひとり残し、ふたたび空へと舞いもどったリュナンたちは、一路ファンヴィーノ谷あいの「中継地」スフルを目指して飛んだ。

 中継地とは、はるか昔から飛翔士たちが物資輸送をおこなう際に補給や休憩をとっていた、空路上にある小さな町ないし集落のことだ。エウラダ大陸を縦横に分断する山脈や、あるいはパレリア内海の群島にも、そういった拠点がいくつかある。そこには緊急連絡をおこなうための狼煙台や伝書鳩の小屋もあり、有事の際には各所にある中継地がまさしく情報の生命線になる。

 スフルもそのうちのひとつで、東西に走るファンヴィーノ山脈のやや西よりに位置している。谷間にあるものの、気流の関係でそこだけは比較的風が穏やかで、夏などは特にファンヴィーノの峰々を攻略する登山家たちの休憩場所ともなっている。

 また、ファンヴィーノ山脈のうちもっとも形状が美しいとされる高峰ルピアンをのぞめるとあって、規模自体は小さいがつねに人足の絶えない、活気のある拠点として有名だった。

 空から飛行機や飛翔獣でたどりつくのは少し骨が折れるのだが、一度スフルの谷間に入ってしまえばあとは楽だ。ふたたびシオンからフューの手綱をまかされたリュナンは、四苦八苦しながらフューをスフルの草地に着地させた。

 そこは通称「牧場」と呼ばれる飛翔獣用の休憩場で、どこの中継地にもかならずひとつは設けられている。大昔――ファンヴィーノにまだ野生の飛翔獣がたくさんいたころ、山間の村では必ず伝令用に一頭以上の飛翔獣が飼育されていた。牧場と呼ばれているのはその名残だ。

 着地するとすぐにリュナンたちは積み荷をおろし、牧場の一時あずかり人にフューの世話を頼んだ。丸太で柵を仕切られただけの簡易的な草地には、ひと足早く到着していたアマネアの姿もある。

 アマネアはシオンの姿を認めると、嬉しそうに近づくフューを軽くあしらい、顔をすりよせてきた。

「本当、つくづくシオンって飛翔獣に好かれる体質だよね」

 しみじみとため息をついたリュナンに、シオンは「そうか?」とふしぎそうな表情で訊きかえす。

「たんに扱いに慣れてるからだろ。ご苦労さんだったな、アマネア。さっきの件で羽でも痛めてなきゃいいんだが……レイの野郎、乱暴に扱いやがって」

 シオンが気づかうようにアマネアの翼に触れると、アマネアは甘えるようにキュー、とひと声鳴いた。

 素直に甘えられてうらやましい、とリュナンはひそかにため息をついた。

「というか、その主人の姿がどこにも見えないんだけど。もー、レイくんてばどこに行ったんだろ」

 八つ当たりぎみに口調を荒げると、シオンは肩をすくめた。

「伝言を頼んだからな、先に〈大鷲亭〉に行ってるんだろ。俺たちも行くぞ」



 大鷲亭とはスフルにいくつかある、大衆食堂兼酒場のことである。

 名前のとおり大鷲を象った看板を掲げたその酒場は、スフルの中でも特に歴史が古く、昔から飛翔士、あるいは飛行士たちが集う店としても有名だった。町の寄合所もかねているそこは、まだ正午にもなっていないというのに、すでに結構なにぎわいを見せている。一日中ほぼ客足のたえない店にリュナンたちが入っていくと、すぐに気づいたレイノルドが「ここだ」と手をあげた。

「おつかれ。どうだった?」

「よう、シオン。谷道で事故だって?」

 レイノルドとおなじテーブルに見知らぬ男が座っていることに気づき、リュナンはなんとなく気後れして、こっそりシオンの背中に隠れた。

「カーウェイか! 久しぶりだな」

 シオンが名を呼ぶ。そしてリュナンをふり返り、小さな声でささやいた。

「ビル・カーウェイだ。何度か仕事を手伝ってもらったことがある」

「う、うん。名前は知ってる」

 リュナンはうなずいた。迷彩色の複葉機を駆って、頼まれればなんでもやるという彼のうわさは聞いたことがある。

 カーウェイはシオンやレイノルドのように特定の商会と専属契約を結んでいるわけではなく、依頼を請けて運送の仕事をしたり、各地で曲芸飛行などの見世物をおこなったり、あるいは賞金首をつかまえたりする、いわゆるなんでも屋(フリーランス)の飛行士だ。

 人手が足りなくなると、アースライト商会でも彼のような飛行士たちに荷運びの応援を依頼することがある。シオンやレイノルドと顔見知りなのはそのためだろう。

「聞いてたよりも年上だね」

「ふけてるように見えるが、二十四、五ぐらいだぞ」

 小声でリュナンが訊ねると、シオンは首をふって答えた。顔の下半分が黒いひげに覆われているため、もっと年をくっているように見える。

 そのカーウェイが早く来いとばかりに手招きしたので、シオンとリュナンはあわててテーブルに近寄った。

「事故にあったっていう男は無事だったのか?」

「無事だよ。レイ、手配のほうはどうだ?」

「しておいたぜ。ちょうど手のあいてたやつがいたから頼んでおいた。荷馬車出してすぐに拾いに行ってくれるってさ」

「そうか、よかった」

 シオンがごく自然にカーウェイの隣に腰かけたので、リュナンはわずかに躊躇したあと、シオンの正面、かつレイノルドの隣にちょこんとおさまった。手に持ったバスケットは膝のうえにのせる。

「んで、この小さいお嬢ちゃんがおまえらの新しい後輩か」

 カーウェイが突然指を突きつけて訊いたので、リュナンは内心でむっとなった。

ホーク・アースライトの孫娘なんだって? 女だてらに飛翔士目指そうなんて、やっぱり空の英雄の孫はちがうってこったな」

 女だてらに、と言われることは覚悟の上だ。祖父の名前が空を飛ぶ人間たちにどういう印象を与えているか、マルカートとの一件で思い出しもした。だが、いざこうして面と向かって皮肉を言われると、胸のあたりに嫌なもやもやを感じずにはいられなかった。

「リュナンだ、カーウェイ。今日から本格的にオレたちの指導下に入って、いっしょに三都市をまわることになる」

 レイノルドが間に入り、笑顔でとりなそうとしたが、カーウェイはわかってる、とうるさげに手をふっただけだった。

「身内が英雄扱いされてるからって、たんなる憧れだけで飛翔士目指すんならやめとけよ、お嬢ちゃん? 女の子が十代の若さで死にたくねえだろ」

 ――たんなる憧れ。

 その言葉に、リュナンは頬をかっと紅潮させた。

「そ、そんなつもりはありません」

 思わず強めの口調で言い返したが、カーウェイはにやにやと笑うだけだった。

「へえ、そうかい。まあ、せいぜいお荷物にならないようにがんばんなよ」

 お荷物、という言葉がふたたび胸元に黒ずんだもやもやを滲ませる。ぐっと唇を噛んだリュナンのことにはそれ以上かまわず、カーウェイは近くにいた給仕を呼んだ。

「シオンにはエール。で、嬢ちゃんは何を飲むんだ? ヤギの乳か?」

 よっぽどエールと答えてやろうかと思ったが、リュナンは耐えた。表情をかたくしたままうなずくと、カーウェイは「じゃあそれひとつ」と注文を伝える。

「いくつだ、英雄のお孫さんは?」

「……十六です」

「そうか。ま、あと二年たったらエール頼んでやっからよ。それまでがまんしな」

 祖父の名を持ち出されるのも、ことさら子ども扱いされるのも、あまり気分の良いことではない。わざとこちらを煽っていることはわかっていたので、リュナンはテーブルの下でこぶしを握りしめて耐えた。

(なんか苦手だ、このひと)

 言い返せないのが悔しい。年齢も、ホークの孫であることもリュナンに否定できることではない。だからこそ堪えていると、ぽんと軽く背中をたたかれた。

声には出さず、焦るな、と言われた気がした。こころがふっとほどけていくのを感じ、リュナンは肩から力をぬいた。

「そういや、カーウェイ」

 場の空気を変えるように、さりげなくシオンが話題を変えた。

「あんた、最近あの悪名高い兄弟に襲われたんだって? うわさに聞いたが」

「ああ、あのタッブとデニーの賞金首どもな」

 カーウェイは渋面でうなずいた。

 中継地は貴重な休憩所であるとともに、同業者のあいだでの重要な情報交換の場でもある。彼らは同盟都市間に点在する中継地でこまめに休息と補給をとりながら、それぞれに各地をめぐっている。そのため、うわさ話も陸・海にくらべ格段に足が早い。

「海上で襲いかかってきやがったから、翼に一発お見舞いしてやった」

「えぇ、撃ったのか! パレリアの海上で?」

 驚いたようにレイノルドが目をみはる。パレリア上空においての武器の使用は、パニッツア・マリーネ・タマラの〈三都市同盟〉および沿岸都市群共通の航空法で固く禁じられている。リュナンたちも護身用の武器は持っているが、それはあくまで自衛の域を出ないものだ。

「いちおう正当防衛だが、海に落としただけだ。殺してはいないぜ。ま、やつらもこれでしばらくはおとなしくなるだろ」

「ふうん。さすがだな」

 さらりと言ったのはシオンだった。彼はこういうということで世辞は絶対に言わない。してみると、カーウェイは本当に腕がいいのだろう。

「で、そっちでは最近、きなくさい話は聞かないのか?」

「きなくさい話、というのは?」

 運ばれてきたエール――仕事中なのでアルコールの入ってないもの――でのどを湿らせ、シオンは首をかしげる。カーウェイは大げさにあごをのけぞらせた。

「なんだよ、まだウワサにもなってないのかよ! パニッツアじゃあ」

 リュナンたち三人は同時に顔を見合わせる。

「……なにか起こりそうなのか?」

「おうよ。それもとびっきりやばいのがな」

 カーウェイは身を乗り出し、声のトーンを急に落とした。

「マリーネじゃいろいろ言われてるぜ。もっとも、ぜんぶ水面下だけどな」

「うわさなんてものは、ふつう水面下でされるもんじゃないのかねぇ」

「茶々入れんな、レイ。あんまりおめでたい話じゃないんだからよ」

「へえ。ぜひ聞きたいな、そのおめでたくない話」

 それかけた話をシオンが強引に軌道修正すると、カーウェイは酒をあおり、ぽつりと言った。

三都市同盟トライアンスの失効」

「しっ……!?」

 ガタン、と思わず腰を浮かせかけたリュナンの口を、隣のレイノルドが慌てておさえにかかる。

「このバカ!」

「声がでかい!」

「むぐぐ」

 口をふさがれた状態でモゴモゴと謝ると、レイノルドはすぐにリュナンを解放した。

「おい、カーウェイ。うわさにしても、そりゃずいぶん穏やかじゃねえぞ」

「まあな。三都市で同盟結んでからこっち、四十年ばかしは平和だったからな。本当に同盟がダメになるとなりゃ、パニッツアのも黙ってちゃいねえだろうよ」

 それが誰を指すのか、この場でわからないものはなかった。

 古だぬきとは、通称「盟主」と呼ばれるパニッツア現市長ルキウス・バルトリードのことだ。御年六十五にして壮健、知能も体力もいまだ衰え知らずと称えられる傑物である。パニッツアでは五歳の子どもでも彼の名を知っている。

 特にリュナンは祖父ホークが市長と旧知の間柄であるため、個人的にも彼と面識がある。じかに会ったのは数えるほどしかないが、とにかく存在感のある人物だった。「空の英雄」と謳われるホークですら、知名度において彼にはかなわない。

(うちのおじいちゃんと口で張れるのはルキウスおじさまくらいだものね)

 経済や流通の中心地であり、つねに戦の火種でもあったパニッツア市が現在かりそめにでも平和なのは、この男あってこそだという声もある。彼の目の黒いうちは、三都市間の同盟が破られることはない、とも言われている。否、言われていた――というべきか。

「念をおすが、まだうわさだからな。だが覚悟はしておいたほうがいいぜ。もし今後、都市間で戦なんてことになったら、おれたちは一番に駆りだされちまう。愛機や愛獣といっしょにな」

 しかも運ぶのは商品や積み荷ではなく、爆薬や焼夷弾だ。

「嬢ちゃん、もちろんあんたもだぜ。前の戦争じゃ、女であっても飛翔獣を操れるってだけで戦地に送られたんだからよ、知ってるか?」

 カーウェイの指摘に、リュナンは強ばった表情でうなずいた。

「知ってます。歴史の時間で習いましたし、祖父からも聞きました。以前は今のような『自警団』じゃなく、はっきりと『軍隊』と呼ばれるものを各都市が抱えていたって」

 平静を装ったが、声にはどうしても不安が滲む。カーウェイはそうだ、と小さく鼻を鳴らした。

「もっとも、商会と専属契約を結んでいるおまえさんたちとちがって、おれみたいな流しの飛行機乗りはいっそ戦になったほうが得かもしれねえんだがな」

「……得?」

「そうだ。空中戦となりゃ、自分の腕だけが頼りだろ? 敵の飛行機をばんばん撃ち落とせば、懸賞金だってわんさと稼げる。武勲を立てられりゃたちまち英雄あつかいだ。おまえのじいさんだって、四十年前の沿岸戦ではずいぶん活躍したそうじゃねえか。敵を大勢撃ち殺してよ」

 その言葉はさすがに無視できなかった。英雄などと呼ばれても、ホークが驕った言動に出たことは、リュナンの知るかぎり一度もない。かっ、と腹が熱くなり、リュナンは怒りにまかせて腰を浮かせた。

「――っ」

「おいおいカーウェイ、あんまり先走るとまずいんじゃねえのー?」

 ふざけないで、と怒鳴り返す前に、レイノルドがいかにも軽薄な調子でわりこんで来た。カーウェイは舌打ちし、隣に視線を移す。

「別に先走ってねえよ。あくまで可能性の話をしてるだけだろ」

「わかってるって。だが、まだうわさの段階だってあんたも言ったじゃないか。英雄だの功名だのは、実際に戦争になってからの話だろ」

 レイノルドは軽く肩をすくめ、「なあ?」とシオンにふった。シオンは無言でエールを口元へ運び、喉を湿らせる。間をおいてからぼそりと答えた。

「第一、同盟がなくなっても戦になるとは限らないしな」

 カーウェイは小さく顔をゆがめた。

「もっともだな。別におれもむやみに戦がしたいわけじゃねえよ。ただ不安定な情勢になればそういう可能性もありうるってことが言いたかっただけだ。なァ、嬢ちゃん」

 納得はいかなかったが、リュナンはしぶしぶうなずいておいた。せっかくふたりが仲裁にはいってくれたのに、ここでへそを曲げられては台無しだ。

「仮定の話としてだがな。もし無事に飛翔士になれたとして、嬢ちゃんには手を汚す覚悟なんてあるか?」

「手を汚す?」

「そう。敵機を撃ち落して、人を殺す――そういう覚悟が、だ」

「…………」

 あまりに予想外の質問で、こたえられなかった。だが、もし仮に猶予を与えられていたとしても、リュナンはやはり何も言えなかっただろう。

 あると答えれば嘘になる。だがないと答えれば負ける気がする。結局何も言えず、はくりと口を開閉させるしかないリュナンに気がすんだのか、カーウェイは唐突に「そういや」とシオンに向きなおった。

「シオン、おまえさんにも聞きたいことがあったんだけどよ。おまえはいつまで飛翔士でいるつもりだ?」

「? どういう意味だ」

「相棒が死んだら、おまえももちろん飛行機に乗りかえるんだろ?」

 その問いに目をみはったのは、質問された本人ではなく、リュナンだった。

「……!」

 ふたたび腰を浮かせかけるリュナンを、レイノルドが腰をつかんで押しとどめる。当のシオンの答えはあっさりしたものだ。

「さあな。あいつが飛べなくなったら考えるよ」

 飛翔獣の平均寿命は三十年から三十五年、第一線で働きつづけるとなれば長生きは難しい。事故や病気で命を落とさなかったとしても、運び屋稼業を続けるなら、いずれシオンはフューの背から降りなければならない日が来る。それをカーウェイは指摘しているのだ。

「もったいねえなあ、いつまでも時代遅れの飛翔士になんざしがみついてよ。おまえさん、目も技術も確かだし、いますぐにでも飛行士に鞍替えできるだろうに」

「どのみち機体を買う金なんてない。俺には扶養家族もいるし、なによりフューのやつ、ふつうの飛翔獣の倍は食うんだぞ! 今月の飼葉代だってばかになんねえし、少しは痩せる努力をしろって話だ」

「……まあ、おまえもいろいろ大変だよな」

 首をふりつつ大仰に嘆息するシオンに、カーウェイは同情めいたまなざしを送り、今度はレイノルドに水をむけた。

「レイはどうなんだ? おまえは商家の人間だから金の心配はねえだろ?」

「んー、オレ? オレんちは姉貴たちか、もしくはその婿さんの誰かが継ぐだろうしなあ。オレ個人にはそう金があるわけでもねえのよ。それに、現状に不満もねえしな。うちのお姫さん(アマネア)かわいいし。あと二年もすりゃフューとのあいだに子どもができんじゃねえのって期待してっけど」

 なるほど、とカーウェイはうなずいた。「おまえらの飛翔獣、つがいだったな、そういや」

「だが、いずれは飛行機に乗りかえる日が来るだろ?」

「かもなー。オレもそんときがきてから考えるわー」

 へらへらと笑うレイノルドに、カーウェイは当てがはずれたというように、小さく失望のため息を漏らした。

「そうかよ」

 ふところから共通銀貨を一枚とりだし、テーブルの上において席を立つ。

「じゃ、おれはそろそろ仕事にもどるわ」

「おう。またな、カーウェイ」

空路の無事を祈るファーレス・フォトゥナ

 ひらひらと手をふるレイノルドに、シオンも奢られたエールのグラスを掲げた。空路の無事を祈る、とは飛翔士や飛行士のあいだで交わす決まり文句である。リュナンだけは何も言わず、くちびるをぎゅっとひき結んだ。

 カーウェイが店から去るのを待って、はあ、と大きく息を吐いたのはレイノルドだった。

 表面には出さなかったが、おそらく裏でいちばん気をもんでいたのは彼だったのだろう。あえて遊び人めいた軽薄そうな態度をとることが多々あるレイノルドだが、この三人の中ではおそらくもっとも人間関係に気を配る性質だ。

「あー、カーウェイも悪いやつじゃないんだがなあ。ただちょーっと無神経で舌が滑りやすいっつーか口が悪いっつーか」

「…………」

 肩をすくめるレイノルドを、リュナンは不機嫌な顔でキッとにらみつけた。

「きゃー、こわい顔。――じゃなくて、おまえも気づいてたろ、リュナン。ありゃ、空の領域に女が立ちいるのが気に入らないって煽って、おまえが尻尾出すのを窺ってたんだよ。でも、それはおまえが嫌いだとか、問題があるからじゃなくて……」

「わたしのことはどうでもいい!」

 バン、とリュナンは卓上に手をたたきつけた。店内の注目を集めそうになり、レイノルドが「お、おいリュナン」と慌てていさめにかかる。

「だって、なんであんなにひどいことシオンに言えるの! フューが死んだらなんてそんな、シオンがどれだけフューのこと大事にしてるか知りもしないで!」

「ごめん、リュナン。兄ちゃんが悪かった。いいからおちつけって」

「ぜんっぜんよくない! だってフューはシオンの家族なんだよ!」

 声を荒げるリュナンに、なんとも名状しがたい表情でシオンが「あのな」と言った。

「カーウェイのは仮定の話だろ。別にそんな怒ることじゃねえよ」

 困ったような、どこか気まずげな顔だが、気が昂ったリュナンは気づかなかった。

「怒ることでしょ! 家族が死んだらなんて言われて、絶対にいい気分なんかならない。シオンこそ、どうしてもっと言い返さなかったの?」

「わかったわかった。おまえの気持ちはよっくわかった。それよりリュナン、いつまでそのバスケットかかえてるつもりだ?」

「え? ……あっ!」

「おまえがそうやってずっと膝に乗せてたら中身も熱くなっちまうだろ。そろそろレーナおばさんの心遣いを頂こうぜ」

 レイノルドの指摘に、リュナンはごめん、と素直に謝る。ビル・カーウェイとのやりとりで、すっかりその存在が頭から飛んでしまっていた。食堂に食べ物を持ちこむのは本来礼儀違反だが、大鷲亭は大勢の寄合所もかねているため、そのあたりにはいろいろと融通がきくのである。

「あんまり大事に隠してるから、よっぽどカーウェイにやりたくないのかと思ったぜ」

「ち、ちがうよ、そんなんじゃない!」

 さすがにそこまで意地汚くはない。否定しながら、リュナンはバスケットをテーブルに置きなおし、蓋をひらいた。

「はい、レーナおばさんのお弁当。おばさんに感謝して食べてね」

「おお、うまそう!」

 現金なもので、ふたを開けた途端、男たちは歓声をあげる。いただきます、と感謝の言葉をそろえ、彼らはさっそくお弁当にありつきはじめた。


「あっ! シオン、またピクルスだけ残して!」

「……苦手なんだよな、これだけは」

「なんでも食わねーと、おおきくなれねえぞ」

「そういうレイくんだって、ピーマンきらいなくせに」

「いいんだよ、オレは! これ以上でかくならなくても!」

 三人でわいわいバスケットに手をのばし、あっという間にその中身がなくなると、エールを一気にあおりながらレイノルドが言った。

「――で、さっきの話だけどさ」

「ん?」

「さっきの話?」

 視線をむける二人に、レイノルドはテーブルの中央に身を乗り出すようにして、声をひそめた。

「あれ、どう思った?」

 首を傾げるリュナンの隣で、シオンが答えた。「同盟の話か」

 周囲の耳を警戒してか、彼も声を低くする。

「まだなんとも言えねーだろ。うわさの段階じゃ」

「だけど、火のないところに煙は立たないともいうぜ」

「さっきも言ったが、仮に同盟が解消されたとしても、すぐに戦争になるわけじゃねえだろ。パニッツアの市長だって何も対策を講じないわけねえし」

「まあ、そうなんだがな。おまえら、マリーネの現市長は知ってるか?」

「……カルロ・ベルリーニ、だっけ?」

 政治のことは新聞で大見出しになる程度の話題しかわからないリュナンだが、市長の名前ともなればさすがに知っている。史上類を見ない早さで都市国家を代表する元首になったとき、パニッツアでも大変な騒ぎになったのだ。

「俺も名前しか知らねえ。三十五って異例の若さで市長になった男だろ」

「そう、その男」

 レイノルドは膝をたたいた。

「オレはしばらく前まではマリーネの寄宿学校暮らしだったからな、大層なやり手らしいってのは見聞きしてた。あの古だぬきが『南の若造』と呼んで警戒してるらしいってのもな」

 へえ、と珍しく興味をひかれたようにシオンが相槌をうつ。

「やり手なら、なおさら野心もあるんじゃないか」

「そう、まさにそれなんだよ」

 わが意を得たりとばかりにレイノルドはパチンと指を鳴らした。

「三十なかばでマリーネの頂点にのぼりつめた男が、そこで満足するのかって話だ」

 シオンはちらりと視線を上げ、レイノルドを一瞥する。

「なるほどな。それで火のないところに煙はたたないってわけか」

 そのとおり、とレイノルドはうなずく。

「どっちにしろ、まだ早計だろ。仮にマリーネとパニッツアの関係が悪化したとしても、『三都市同盟』なんだ。タマラだって黙っちゃいない」

「まあたしかに。しかし、あそこはなあ。パニッツアやマリーネとくらべると、気性がのんびりしてて穏やかそうだからな。市長もおばさんだし、どうも頼りなさそうで……」

 言いかけたレイノルドはふいに何かに気づいたようにこちらをふり返り、唐突にリュナンの頬を両手でばちっとはさんだ。

「い、いたあ! え、な、なにレイくん?」

「なにって、えらく不安そうにしてっからさあ。大丈夫、そうそう簡単に戦争になったりはしねえって」

 リュナンは驚きに目を瞬いた。彼らの話を聞くうちに暗い気持ちになったのはたしかだが、傍目にもわかるような顔をしていたのだろうか。

「そりゃ、むかしは女飛翔士でも戦場に駆りだされることもあったかもしれないけど、今とじゃ時代が違うしな」

 カーウェイの忠告を気にしているのだと思ったのだろう、レイノルドは微妙にずれたことを言ってリュナンの頬から手を離した。

「心配しなくても、オレたちはおまえを戦場になんか絶対行かせねえよ」

「…………」

 リュナンは返答につまった。ちがう、と言いかけて口にするのをやめた。心配なのは、自分のことだけではないのだ。

 レイノルドの気づかいは素直にうれしい。だが一方で、ごく自然に使われた「オレたち」という複数形がリュナンには苦しい。なぜなら、いつだってそこに自分はふくまれていないからだ。

(わたしも男だったらよかった)

 そうすれば、カーウェイにからかわれることも、こうやって必要以上に守られたりかばわれたりすることもなかった。こんな疎外感を覚えることもなかったのに。

「安心しろ、おまえの腕前じゃまだまだ当分ひとりで飛翔獣には乗れねえよ」

 黙りこんだリュナンに何を感じたのか、シオンまでもがよけいなひと言でなぐさめようとする。

「えーえー、どうせわたしは半人前ですよ」

 軽口で応じながら、リュナンは内心で深いため息をついた。

 戦争は怖い。戦火に巻きこまれることなど、たとえ想像だってしたくない。自分の手で人を殺す覚悟など、何年経とうができるとは思えない。悔しいが、カーウェイの指摘は正しい。

 だがもし本当に、世界がのっぴきならない状況に陥ったとき、自分だけが安全な場所でとり残され、大切な彼らを戦地へ送ることになったとしたら――。

(それこそ……)

 煤けた空と、赤く染まる雲の映像。鳴り響く警報の音。大地にひとりだけとり残され、去って行くものたちを見送るしかない。一度も見たことがないそんなまぼろしに、心臓がぎゅうっと締めつけられるような思いがする。

「……っ」

 ふいにリュナンは手をのばして、テーブルの上に置かれたシオンとレイノルドの手首を同時につかんだ。

「うおっ、なんだ?」

「どうした、急に」

「……ごめん。なんでもない」

 面食らった様子で同時にこちらを見た彼らに、リュナンははっとして手を離す。反射的な行為の意味を、曖昧な表情で笑ってごまかした。シオンとレイノルドはリュナンの手がかすかにふるえていることに気づいたはずだが、示しあわせたように何も言わなかった。

 ――もし無事に飛翔士になれたとして、嬢ちゃんには手を汚す覚悟なんてあるか?

 脳裏にカーウェイの言葉がよみがえる。リュナンはふたたびくちびるを噛みしめ、膝の上で手を強くにぎりしめた。

(大丈夫。戦争になんか、絶対ならない)

だが、黒いしみのような嫌な不安は、胸の中から消えることはなかった。



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