第一章 銀の風に舞う

 暮れどきの陽光は、激しく勢いを増す黒煙に覆われていた。

 彼方から、警戒を呼びかける鐘の音がしきりに鳴り響いている。どこかで火の手があがったのか、逃げ惑う人々の悲鳴や怨嗟の叫びが、遠く耳に聞こえてくる。彼女が、そして彼らがあれほど愛した青空は、もはや見る影もない。そのことに、止め処もなくあふれる涙が頬をつたい、こぼれ落ちていく。

 なぜ、こんなにも無力なのだろう。ここに残されたのは自分ひとりだけ。彼らは行ってしまった。とうの昔からわかっていた。彼らにある翼が、自分にはないと。それが理解できるほど、彼らの背中をずっと追いつづけていたのだ。

 おいて行かないで、と子どものように大声で喚き散らしたい衝動を必死でこらえる。こうしてひとり取り残されること以上に怖いことなどなかった。たとえそこが戦場であろうと、彼らとともに肩を並べていられるなら。

 こらえきれず嗚咽が漏れ、彼女は口を両手で覆い、地上に膝をついた。地に身を伏せ、体の芯からわきあがるような慟哭を喉の奥で押し殺す。

どうか、わたしもつれて行って。

 だが、声なき叫びは、彼らには届かない。自分にできることは、これから先、彼らが生きて戻ることを祈りながら、ただ待つよりほかはないのだ。この戦が終わるまで、あるいは自分の命の終わりまで、ずっと――



「……だ、そんなの!」

 叫びをあげ、リュナンはがばりと身を起こした。

 自分の声で目を覚ましたリュナンは、一瞬自分がどこにいるかわからず、周囲を見渡した。夜明けにはまだ早いのか、視界はぼんやりと薄暗い。

「あれ、……夢?」

 木目の見える天井に、クリーム色の壁紙の張られた壁。安物だが、毛足の長い織り絨毯が敷かれた床。小さなチェストと箪笥がひとつずつに、書き物机と椅子が一脚。見慣れた宿舎の部屋だ。

 ふだんの寝覚めは良いほうだし、寝相も悪くないはずだが、飛び起きるほどの夢とはいったいどんなものだったのだろう。幸か不幸か、叫んだ衝撃で夢の破片はきれいに吹き飛んでしまった。

 首をひねって棚の時計を確認すると、いつもよりほんの少し早いぐらいだった。寝坊したわけでもないらしい。

「なによ、もう」

 自分に呆れるやら安堵するやらで笑ってしまう。ベッドから床に足を下ろし、寝ぐせのついた髪を手櫛でとかしながら、壁にかけられた鏡をのぞきこむ。短い小麦色の髪は鳥の巣さながらになっていた。

「わぁ、すっごいアタマ」

 まだ眠そうなはしばみ色の目がおおきくひらかれ、苦笑するかのように細められた。腰まであった髪をばっさり切ってから、気をつけないとすぐに頭がとんでもないこといになってしまう。

 今年で十六になるというのに、痩せているというよりは平べったく、女性らしい兆候のまだない体つきをしているせいで、少女というよりは少年に見える。

伸びない背丈と成長しない体つきにため息をつきながら、リュナンは裸足で窓辺に近づいた。

 目覚めて最初にすることは部屋の空気をいれかえることだ。夏でも冬でもそれは変わらない。カーテンを開き、ガタンと音をさせてたてつけの悪い窓をひらく。と、同時に新鮮な風が、かすかな潮のにおいとともに部屋の中に流れこんできた。

 窓の外に広がるのは、南西に内海パレリアを臨むパニッツア市の街並みである。

 パレリア沿岸都市群の中でも屈指の商業都市であるパニッツアの朝は非常に早い。霧につつまれ、景色がうす青にけぶって見える時間帯でも、勤勉な町の人々はすでに起き出して、港や市場でそれぞれの仕事に携わっている。

 わずかに湿った塩辛い海風を吸いこむと、水揚げされた魚を競り合う様子や、あるいは新鮮な農作物を荷台に並べるひとびとの姿が目に浮かんでくるようだ。

「ううーん、今日は絶好の飛行びよりになりそう!」

 リュナンは窓際に置いた小さなチェストの上に並ぶダーツの矢を一本手にとった。何気ない仕草で手首をふり、壁にむかって矢を放つ。

 タン、と小気味いい音がして、矢は壁の的につきささった。赤と黒の輪が幾重にもつらなる、まさにその中心に。

「よーし、絶好調!」

 笑うリュナンの脳裏には、目覚める直前まで見ていた夢の破片など、もはや何ひとつ残っていなかった。



「じゃあ、行ってきます!」

「ああ、お待ちよ、お嬢」

 アースライト商会宿舎から元気よく出ていこうとしたリュナンを、うしろから呼び止める声があった。振り向けば、女性用宿舎の管理を任された女中頭のマグダレーナ――愛称をレーナおばさん――がひと抱えもあるバスケットを突きつけてくる。

「お、おばさん、これは?」

 大きなそれをなんとか両腕で受けとると、マグダレーナはにこにこと笑いながらバスケットの蓋を開けて見せてくれた。

 茹でたジャガイモ、野菜と分厚い燻製肉を挟んだ白パン、山羊のチーズとミルク、器に入った蜂蜜いりのヨーグルトまである。目を瞠るリュナンに、マグダレーナは「お弁当だよ」と答えた。

「えっ、すごい量なんだけど、何かあったの?」

「そりゃあ、気合入れたもの。お嬢は今日から実技で飛ぶんでしょう? いままでの練習の成果を出すためにも、精のつくもの食べてがんばってもらわなきゃと思って」

「レーナおばさん……」

 照れくさそうに笑うマグダレーナに、リュナンはじんと体を震わせた。

「……ありがと。こんなにたくさんのお弁当」

「あら。もちろん、あなたの分だけじゃなくあなたの『教官』たちの分も入ってるのよ」

「そうだよねえ。なーんだぁ」

 道理でひとりでは食べきれない量だと思った。

「ふふ、当たり前でしょう。さあさ、はやく行った行った。こわーい先生たちに遅刻だって叱られるわよ」

「あ、そうだった、行ってきまーす!」

 バスケットの取っ手を握りしめ、リュナンは隣接したホーク飛行場へ大慌てでむかう。隣接した、というより飛行場の端に宿舎があるため遅刻も何もないのだが、なにせ飛行場は広大だ。

 アースライト商会付属のホーク飛行場は、起伏の少ない数百エーカーもの土地だ。そこには、ここ数十年のうちに目をみはる速度で進化した「飛行機」の格納庫が並んでいる。ひと昔前――空輸のほとんどが「飛翔獣グランテイル」によって賄われていた名残は、飛行場のすみにぽつんとある小さな厩舎のみである。厩舎をちらりと覗いていこうかとも思ったが、今は一分でも時間が惜しい。

 リュナンの指導役は職務にはきわめてまじめだし、容赦もない。初の長距離飛行日に遅刻などすれば、たるんでいる、と手綱自体をとりあげられてもおかしくなかった。

(それだけは絶対やだ!)

 リュナンは歯を食いしばり、脇腹が痛むほど速度を上げた。朝つゆをたっぷりふくんで濡れている草地を全力疾走で駆けぬける。ズボンの腰回りがきつく感じられるのは、気密性の高い飛行用だからであって、断じて太ったわけではない。

 そんな言い訳をしながら走っていると、単葉機の下から顔を出したなじみの整備士がおおい、とリュナンに向けて声を張った。

「おはようさん、お嬢。そんなに急いで、寝坊でもしたのか?」

 ふと、以前もこんなことがあったような既視感を覚える。振り向きながら

「寝坊じゃないよ! ねえ、シオンとレイくん……じゃない、フューかアマネアのどっちか、もう見た?」

「シオンならもう通った。フューも一緒だったぞ」

「そう、ありがと! あと言い忘れてたけど、おはよう!」

 礼と朝の挨拶をひとまとめにしてきびすを返そうとしたリュナンに、整備士は苦笑した。

「おう。というかお嬢、いくらガキのころからのつきあいたって、『シオン先輩』と『レイノルド先輩』じゃないのか?」

「だってそう呼ばれるの、ふたりとも嫌がるんだもん。わたしたちはこれでいいの!」

「はあ、そんなもんかねえ」

 首を傾げる彼に手をふって、リュナンはふたたび走り出した。はあはあと息をきらしてほんのわずか小高くなった丘を越える。

「……シオン!」

 巨大な獣の背に専用の鞍をベルトで括り付けていた青年が、名を呼ばれてふりむいた。

「遅い」

 こちらの姿をみとめるなり厳しい叱咤が飛んだ。焦茶色の山間用飛行服をきっちりと着こみ、黒髪はすでに飛行帽に覆われて見えない。だが、飛行眼鏡ゴーグルはまだ首にさげられていたため、シオンの空のような青い瞳がはっきりと眇められるのがわかった。リュナンは即座に謝る。

「ご、ごめんなさい! おはよう!」

 おはよう、とそっけなく返される。シオンの愛想がないのはいつものことなので、内心でほっとした。特に機嫌が悪いようでもない。よかった、と安堵しつつ飛翔獣のもとに駆け寄った。

「フューもおはよう。今朝の調子はどう?」

 訊ねると、黙々と草を食んでいたフューが顔をあげ、きゅるる、と図体に似合わず愛らしい声でのどを鳴らした。耳をあおぐように上下に動かすのは、機嫌の良い証拠だ。

 そばに近よると、全身を長い毛におおわれたフューからは獣臭さにまじって、かすかに陽にあたためられた草のにおいがする。これは好機、とばかりにリュナンがその背に据えられた鞍に触れようとすると、意外な俊敏さを見せてさっと避けた。

「ちぇ、だめかぁ」

 リュナンはがっくりと肩を落とした。飛翔獣は基本的には穏やかでひとにもよく慣れるが、その一方で非常に忠義心にあつい。一度あるじと定めたら、その人間の許可なしには背に他者を乗せず、鞍や手綱に触れられることも嫌がる。

(まだわたしは「背中を許してもらってる」わけじゃないんだよね)

 ため息をついて目を伏せると、ふいにフューが首を曲げ、こちらにむけて鼻をひくひくと動かした。

「きゅー」

 顔を近づけられたリュナンは驚き、どこかおかしなところでもあるのだろうか、と焦って自分の体を見回した。

「え、な、なに、どうしたの。どこか気になる?」

「きゅーる」

「うまそうなにおいがするって言ってる。おまえが提げてるバスケットのことじゃないか?」

 シオンが横から口をはさみ、リュナンは、ああ、と納得した。

「さっすが。本当にフューは食べ物のことには鼻がきくね」

 バスケットを掲げると、フューはさらに顔を近づけ、ふんふんと盛んに鼻を鳴らした。

「きゅきゅ、きゅー、きゅっ」

「卵、チーズ、ジャガイモのにおいだってよ。当たったか?」

「げ、原材料まで?」

 シオンのに、リュナンはうめく。

「賢い獣」という異名があるほど知能が高く、人間の感情を読むことにも長けた飛翔獣だが、人語は解さないと言われている。もちろんその逆もしかりで、飛翔獣の鳴き声だけで感情のこまやかな機微を判断するのは非常に難しい。

 リュナンも、はじめは何度聞いても飛翔獣の「きゅー」という声にちがいがあるようには思えず、耳が悪いのだろうかと落ちこんだものだ。だがどんな人間に訊ねても、シオンのような同時通訳はとても無理だと言うので、このひとりと一頭がいささか常識はずれなのだと認識を改めて久しい。

「あ、あー……うん、すごいね。さすが。全部当たってるよ」

「朝飯の残りか? それにしてはずいぶん豪華だな」

「お弁当なんだって! 今日はわたしの実地試験だから、はりきって用意してくれたみたいなの」

 なるほど、とやはり特に愛想を見せることもなく彼はうなずいた。

「今日からいよいよ三都市全部まわるからな。期待に応えられるよう、気を引き締めろよ」

 言いながら、シオンは地面にまとめ置かれた一抱えもある荷物を持ち上げた。フューの背中の鞍のベルトに結びつけ、しっかりと固定する。リュナンもバスケットをいったん下に置き、慌ててその仕事を手伝った。

「う、うん、もちろん」

「わかってるだろうとは思うが、今回の飛行はおまえが手綱を握るんだからな。もし中途半端な気持ちで仕事をするようなら、フューには二度と乗せねえぞ」

「は、はんぱな気持ちなんかじゃないよ!」

 シオンの言葉をさえぎり、リュナンは焦って叫んだ。

「わたしはほんとのほんとに、飛翔士フライヤーになりたいの! 今日の実地飛行だって何日も前から楽しみにしてたし、昨日もちゃんと早めに寝たよ!」

「……おちつけよ」

「精いっぱいやるから、お願い、乗せないなんて言わないで!」

 思わず必死になって言い募ると、シオンは「わかったわかった」といささか苦笑気味にうなずいた。

「その気迫で頼んだぞ」

 手のひらで、ぽん、と軽く頭をたたかれ、よかったと安堵すると同時に頬に熱が集まる。なんて単純なんだろうと自分でも呆れるが、つくづくシオンはリュナンのやる気を起こす方法を心得ている。しかもそれを、計算ではなくごく自然にやるのだ。

 それを性質が悪い、と評して言ったのは、もうひとりの幼なじみであるレイノルドだ。

「あいつは風や天気を読むのは得意なくせに、女心となるとからっきしだからな」と。

 シオン直属の見習いになって三ヶ月。気づかれても困るが、幼なじみ兼見習いのままでずっといるのもつらい。いつか、ひとりの飛翔士として恥ずかしくないと、彼に対して胸をはれるようになった、そのときこそ――

「よーし、これ載せるね!」

 気合を入れなおし、リュナンは大きな皮袋をよいしょと抱えた。

「おい。積み荷はくれぐれも慎重に扱えよ」

「大丈夫だってば。落とさないよ、大事なあずかりものだもん」

「当たり前だ。落として壊しでもしたら、賠償金を払うことになるんだからな」

「もー、わかってるってば。ちょっとは信用してよ」

 リュナンは渋面になる。

「シオンてば、ふだんはどっちかっていうと大雑把なのに、こういうときだけすっごい神経質だよね」

「保証問題なんだから当然だろうが。積荷乗せる前にちゃんと数を確認しろよ」

「はーい」

地面にならべられた積み荷は計六つで、内訳は大きな布袋が四つ、トランクが二つ。これらが今日の分の「配送品」である。

 通常、空輸は速さを求められるものがほとんどだ。割れ物など、特に慎重さを求められる品は海路あるいは陸路で運ばれるため、空の運び屋があずかるのは壊れにくいものにかぎられる。外側に油を塗った丈夫なカンバス布の袋には、速達の封書をふくめ比較的軽い商品が入っており、騎乗する人間ふたりの体重とあわせても、飛翔獣が疲れない総量になるよう計算されている。

 アースライト商会から委託されたそれらの荷を、パニッツアからファンヴィーノ山脈をまたいで南にあるマリーネという港湾都市へ、さらには内海であるパレリアをななめに北上してタマラという西端都市まで届けるのが、シオンたちのおもな仕事である。

 ――ここで、パレリア内海沿岸の地理を記しておこう。エウラダ大陸は、パレリアと呼ばれる内海に大きく抉られている。海は丸めた左のこぶしを横から見た形に似ており、そのため大陸は外海にむけて大きくあぎとを開いているようにも見える。

 パレリア沿岸都市群は共通の言語を話し、共通の貨幣を使用。互いに密な行き来はあるが、各都市はみな独立した一種の都市国家を形成している。トルマ、ムサヤ、クロアザンといった無数にある都市の中でも、特に貿易路として古代から重要な拠点を担っていたパニッツア、マリーネ、タマラが「三都市」という俗称で呼ばれている。

 三都市は地図で見ると、パレリアを跨ぎ、ちょうど直線で三角形を描ける位置関係にある。世界情勢が微妙だった時期はにらみ合いが続いていたが、現在は都市間で同盟が結ばれ、ここ数十年は平穏が続いている。

 アースライト商会はパニッツア市に本部をかまえ、残るふたつの同盟都市にも支部を置き、商品取引において業界最速を誇っていた。その大商会と専属契約をむすぶシオンたち飛翔士は、まさに「花形エース」といったところだ。とはいえ「飛行機」の発明、発展により、そのお株も奪われつつあるのだが。

「それにしても、レイくん遅いね。もうすぐ出発時間なのに」

「……うわさをすればだな。来たようだ」

 あらかた荷物を積み終えたころ、フューより黄みの強い色をした飛翔獣・アマネアとともに二十歳ほどの青年がのんびりとした足どりで丘をのぼってきた。

 シオンよりもさらに背の高い彼は、その端正な顔立ちのせいもあって、どこにいても人目をひく。うしろでひとつに束ねた金髪を風に遊ばせ、彼は手に持った飛行帽をかるくふって挨拶した。

「おう、はえーな、ふたりとも。お仕事ごくろうさん」

「おせーよ、何がご苦労だ」

「まあまあ」

「「まあまあじゃない!」」

 挨拶もそっちのけで声をそろえたシオンとリュナンに、青年はあら、と面白そうに片方の眉をはねあげる。

「朝っぱらから息ピッタリじゃないの。こりゃ今日の試験飛行も安心だね」

 からかい口調でそう言ったのは、シオンより遅れて三か月後にアースライト商会の専属飛翔士となったレイノルド・シーブスだ。

 リュナンとシオン、そしてレイノルドの三人は、おなじパニッツアの商業区画で生まれ育った、いわゆる「幼なじみ」である。三人とも商家の子であったため、幼いころから互いに交流があった。

 だが、リュナンが十二の年、シオンの両親が事故に遭ったことで状況はかがらりと変わる。シオンとそのたったひとりの妹は親族を頼ってファンデラという山間の田舎町へ移住、同時期にレイノルドがマリーネ市の学校へ寄宿するようになったため、彼らとはすっかり疎遠になっていたのだ。

「寝坊でもしたのかよ」

 眉根にしわをよせるシオンに、レイノルドはへらりとしまりのない笑みを見せた。

 シオンの瞳が空の青だとすれば、彼のそれは海の碧である。レイノルドは碧眼を細め、とぼけたように肩をすくめた。

「いやあ、それがさ。久しぶりの長期休暇だったろ? だから最近ご無沙汰してた花街のおねえさんたちに会いに行ったら、これがなっかなか離してもらえなくてさあ」

 ほんとモテる男はつらいわー、などと嘯く彼に、今度はリュナンが半眼をむけた。

「それはそれは。たいそうお疲れサマでした、レイノルド『先輩』」

「おう、本当にお疲れだよ。おまえはちゃんと寝て食って休養しっかりとったか? 相変わらず成長が見られないけど」

「うるっさい! 一晩や二晩でいきなり大きくなってたまるか!」

「成長期なのになぁ」

 苦笑するレイノルドに、リュナンは肩を怒らせる。年齢も経験もずっと上の先輩とはいえ、互いに気心も知れた仲とあっては遠慮もない。頬をふくらませると、「お子様だなー」と笑いながらレイノルドはのんびり出立の準備を始めだした。

「おはよう、アマネア。今日もきれいな毛並みだね」

「キュー」

 フューよりもわずかに甲高い声で、アマネアはこたえた。

 シオン個人を主とするフューとは違い、アマネアはアースライト商会の所有する飛翔獣だ。現在は商会からの貸し出し、というかたちでレイノルドが操手となっている。

 メスであるアマネアはフューよりわずかに体が小さく、毛並みも濃い色をしている。飛翔獣の毛色は飼い葉の種類によって個体差が出るが、体格はオスとメスにそれほど大きな差異はない。細かいことをいえば耳の形や尻尾に特徴があるのだが、素人が見分けるのは困難である。シオンは声を聞いただけで性別がわかるらしいが、レイノルドでさえ見知らぬ飛翔獣の雌雄を見分けろと言われたら無理だと答えるそうだ。

「きゅーる」

 アマネアに近づき、フューがふさふさとしたしっぽをふって好意をしめすが、アマネアは無反応だ。ツンとあごをそびやかし、まったく興味がないようにふるまう。

「ほんっと気位が高いよねえ、アマネアは」

 飛翔獣の個体数は近年どんどん減っているので、貴重なメスであるアマネアはすでにフューとになることが決まっている。人間風に喩えるなら年上の許嫁だ。だが、フューが満更でもないのに対しアマネアにその気はないようで、そっけない態度をとることがつねなのだった。

 つれなくされたフューはすっかりしょげてしまい、肩を落として足元の草をはむはむと食べはじめる。フューを応援したい気持ちもあるが、こればかりは理屈じゃないものね、とリュナンはアマネアの毛並みを撫でた。

「こらフュー、やけ食いすんな」

 シオンが愛獣にむかって声をあげ、しかりつけるようにその首元をぽんぽんとたたく。

「出発前に腹をふくらませるな。重くなるだろ」

「きゅるる……」

 フューはしぶしぶ顔を上げ、草を食むのをやめた。未練がましく地面に視線をさまよわせるフューに、シオンは深々とため息をつく。

「メシは中継地に着いてからだ。それ以上胃を重くしたらもたねえぞ」

「きゅうぅ」

 飛翔獣は草食で、基本的には馬と同じく飼葉を食べさせる。だがその摂取量は馬のほぼ二倍である。大食漢のフューは平均的な飛翔獣のさらに一・五倍は食べるので、主人のシオンはいつも彼の食費代に頭を悩ませているのだ。

「あんまり落ちこむなよ、フュー。うちのおひいさんはちょっとばかり素直じゃないけど、別におまえを嫌ってるわけじゃねえからな」

 レイノルドがからからと笑って、アマネアが背に乗せて運んできた荷物を下におろす。その内訳を帳簿とひとつひとつ照らし合わせながら、リュナンは首をかしげた。

「レイくん、アマネアの荷物、全部でこれだけなの?」

「おう、そんだけ」

「……今日、数が少なくない?」

 積み荷はトランクがひとつに皮袋がふたつの、計みっつだ。帳尻は合うが、フューの担当する量とくらべると少ない。アマネアがメスということを考慮してもだ。アマネアの背に乗せた鞍を調節しながらレイノルドは答えた。

「うん。だからフューの荷物、少しこっちで預かる。今日は操手がリュナンだしな」

 えっ、とリュナンはふり返る。

「それって、どういうこと。フューの荷物を減らして、アマネアの負担を増やすの? わたしが手綱をもつから?」

「まあ、そういうことだな」

 と、横でうなずいたのはシオンである。

「フューからすれば馴れない人間に手綱を握られるんだ。普段と勝手が違ってとまどうこともある。だから少しでも負担を減らしておくんだ」

「それって、わたし自身がお荷物だって意味だよね……」

「おお、わかってんじゃん。ま、悔しかったら今日の試験飛行、無事成功させてみな」

 リュナンは唸った。腹いせにレーナおばさんの持たせてくれた弁当はひとりじめしてやろうか、とこっそり思う。何食わぬ顔で鞍のうしろのベルトにバスケットを固定していると、レイノルドがにやにやしながら指摘してきた。

「ところでリュナン、そっちのバスケットなーんだ?」

「ああもう!」

 まったく、本当にこういうときばっかり目ざといんだから!


         ◇


「よし、じゃあ各自持ち物の最終確認を行う」

「はーい」

班長であるシオンの号令のもと、リュナンとレイノルドはそれぞれの持ち場につき、持ち物の点検をする。

「航空地図」

「ありまーす」

「ハンドライト」

「問題なーし」

「発炎筒」

「二本ばっちり」

 飛行時の必需品にくわえ、水銀計・高度計など諸々の器材をひとつひとつ点検し、確認をとっていく。面倒だが、これをやっておかないと誰かが必ず「うっかり」をやらかしてしまうのだ。

「あ。そういえばリュナン、護身用の武器はどうした?」

「あるよ、ほらここ」

 リュナンは上着の裾をめくり、腰のベルトを指さした。ベルトにさしこまれているのは、Y型のグリップを持つ投石器スリングショットだ。

「なんだ、結局そのパチンコにしたのかよ」

 呆れたようなレイノルドの口調に、失礼な、とリュナンはむっとした。

「パチンコじゃなくてスリングショット! 言っとくけど、これ、おじいちゃんから譲ってもらった由緒あるものなんだからね。弾を石とか鉛玉にすれば、結構ばかにできない威力があるんだから!」

 殺傷能力は低いが、それも使いかた次第だとリュナンは思っている。

 運び屋の仕事は危険を伴うので、最低限自分の身を護れるよう、特別に市議会から武器の携帯が許されている。もちろん非常時以外の使用は禁止で、街中での使用や私闘・犯罪に使われた場合、厳しい処分を受けることもある。

 リュナンが知るかぎり仕事中に一度も使われたことはないが、シオンとレイノルドも小型の銃を所持している。シオンは銃を苦手に思っているようだが、レイノルドの射撃の腕前はすこぶるいい――らしい。実際に見たことはないので伝聞だ。

「でもそれ、あてられたらの話だろ?」

「ばかにしないでよ、レイくん。飛翔士プロになるって決めてから、ずっと練習してきたんだから。走りながらだって的に当てられるよ」

〝自分の身は自分で護る〟

 リュナンが飛翔士を目指すと宣言したとき、祖父の出した最低条件がそれだった。

 護身用にスリングショットを持つよう、リュナンにすすめたのも祖父だ。銃や刃物などの殺傷能力が高い武器を孫にあたえなかったのは、おそらく苦肉の策だっただろう。

「それに、わたしの動体視力のよさはおじいちゃん譲りなんだから!」

 上目遣いににらむと、彼はかるく肩をすくめ、それ以上は何も言わなかった。

「ふたりとも、そろそろ出発するぞ。――かがめ、フュー」

 シオンがその巨大な臀部をぽんぽんとたたくと、心得たフューは即座に後脚をおりまげ、可能な限り姿勢を低くした。騎乗用の鞍に手をかけ、地面を蹴ったシオンが身軽に飛び乗る。

 すぐに手が伸ばされ、リュナンは彼の助けを借りながら鞍上にのぼった。有事の際もふりおとされないよう、鞍と飛行服をベルトで手早く繋ぎあわせ、命綱もあちこちに結びつける。

 座る位置はリュナンが前、シオンがその後ろだ。

「いいか、フュー。何度も言うが、今日手綱を持つのは俺じゃなくリュナンだからな。勝手が違ってとまどうだろうが、いつものように落ちついて飛べよ」

「きゅー」

「わかってる。飛び方を教えてやってくれ」

 なだめるようにシオンが相棒の尻を軽くたたき、フューがひと鳴きしてそれにこたえる。なんと返事したのかわからないリュナンは、緊張した面持ちで身を縮めた。

「フュー、お願いね」

 練習のために何度もこの位置に座ったことはあるが、本番となるとまた違う。後方なら何かあってもシオンの背にしがみつくことができるが、前方で掴むことができるのは手綱だけだ。

 頭上の飛行眼鏡を目の位置までおろし、ふるえる手で手袋をはめる。手綱を握ると、背後からシオンが手をかさねてきたので、リュナンは思わずびくりとした。

「そんなに力入れるな。練習どおりにしろ、ちゃんとついててやるから」

「は、はい」

 耳元でささやかれ、熱が頬に集中する。せっかくの気遣いだが、これでは逆効果だ。リュナンは二重の意味で跳ねまわる心臓をなだめるのに必死になった。深呼吸して気持ちをおちつけ、もう一度手綱を握りなおすと、シオンの手が離れた。

冷静にならなければ。こんなことで動揺しているようでは、とても一人前になどなれない。

「準備できたか、レイ」

「おう、オレはいつでも出れるよ」

「じゃあ打ち合わせどおり、今日はおまえが先行してくれ。俺たちはアマネアのうしろにつくからな」

「了解、班長殿。不肖レイノルド・シーブス、後輩殿の水先案内人をつとめさせていただきますよ」

 おどけて言うと、びっと片手をあげて敬礼する。レイノルドはアマネアの手綱を鮮やかな手さばきでひきしめた。

「ちゃんとついてこいよ、リュナン!」

「は、はいっ!」

 うなずくリュナンの前髪がふわりと風にあおられた。はっとして格納庫の上にある吹流しを確認する。――風向きが変わった。

あたりの空気がきりりと張りつめ、緊張が高まっていくのを肌で感じる。リュナンは息をつめてそのときを見守った。

 跳躍するためのエネルギーをたくわえるため、アマネアは後ろ脚をひらき、体をやや屈めるようにした。まるで感電でもしたかのように全身の毛をぶるっとおおきく震わせ、たたんでいた翼をおおきくひろげる。

上昇気流をつかまえろファン・ルーブル!」

 レイノルドの離陸の合図とともに、アマネアが強く翼を羽ばたかせる。瞬間、バチッという鋭い音がして、飛翔獣の足元から波紋状に草がなぎ倒された。ぶわりと吹き上がる風にアマネアは後脚のばねを解き放ち、一気に空へと駆け上がる。

「……っ!」

 長い尾が、鮮やかな軌跡を描いて風になびく。跳躍を成功させ、空へと駆け上がっていく獣の姿を、リュナンは息をのんで見守った。やはり飛翔獣は離陸する瞬間が一番うつくしいと、何度目にしても思う。

 飛翔獣はほかのどんな生物も持たない特殊能力をもっている。ひろげた翼の下に一時的に特殊な磁場を発生させ、磁力の反発によって自らを宙へときはなつ――それが飛翔獣だけに与えられた、特別な力だった。

「よし、俺たちも行くぞ。リュナン!」

「はいっ!」

 大きくうなずく。リュナンはこの瞬間が好きだった。走り出す前の高揚感に似た感覚が、ぞくぞくと背筋を駆け上がる。

「行くよ! ファンルーブル!」

 フューの首を叩いてブーツであぶみを軽くひき、飛び立つ合図をつたえる。即座に応じたフューが、天にむかって大きくひと声鳴いた。

――キュー……!

 巻き起こる風に、草の海はざあっとその身をふるわせる。上昇する力と巻き起こる風をつかまえて、彼らは一気に蒼穹へと飛翔した。



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