南海の翼 グランテイル物語
朝羽
序章
緑の草原に風が吹く。
空から舞いおりた風に、ざあっ、と草の葉が潮の音にも似た歓声をあげた。
商隊都市パニッツアからほど近いホーク飛行場は、ゆるやかな丘陵がどこまでもつづく緑の平野である。パニッツアから伸びるいくつかの街道のうち、南へ向かう道を、山のように藁をのせた荷馬車が進む。
その荷台の上からひとりの少女が身軽に飛びおり、御者台に座る農夫に手をふった。
「おじさん、送ってくれてありがとう!」
礼の言葉を叫ぶと、親切な農夫はかぶっていた帽子を脱ぎ、いいってことよ、とでも言うように左右にふった。
明るいとび色の瞳で去っていく馬車を見送ると、少女はむきだしの土の道からわずかに傾斜した坂を駆けあがった。
年齢は十五、六ほどだろう。背はずいぶん小柄で、ゆるく三つあみにまとめた小麦色の髪が、走る拍子に合わせて左右に跳ねる。
草原のあちこちでは、目にも鮮やかなオレンジ色をしたフランベルの花が風に揺れていた。フランベルは気候があたたかくなりはじめるとつぼみが開く。春を告げる花に目をとめ、少女はかすかにくちびるをほころばせた。
この地に、ようやく春が来た。
飛行場には大きな格納庫が三つと、十台以上の単葉機や複葉機が並んでいる。パニッツアでも指折りの商社として名を馳せる、アースライト商会が直接運営・管理している格納庫と、その翼たちだ。
「おーい、リュナン嬢ちゃん!」
ふいに自分の名を呼ばれ、少女はふり向いた。
赤い屋根の格納庫の前に停めた複葉機の下で、点検作業をしていたらしい整備士の男が大きく手をふっている。顔や作業着が機械油まみれだったが、見知った顔だったので、リュナンはほっとしてそちらに駆けよった。
「珍しいな、お嬢がこんなところまで来るなんてよ。大将を迎えに来たのか?」
リュナンはううん、と首を横にふる。
「おじいちゃんじゃないわ。今日は友達を迎えに来たの」
「友達?」
「うん。友達というか、幼なじみ。五年前まではパニッツアに住んでたんだけど、いろいろあって家族みんな引っ越したの。今日、こっちに帰ってくるって聞いて……」
説明しかけたとき、春一番を思わせるような強い風が、ざあっと飛行場を駆け抜けた。
リュナンは小さく悲鳴をあげ、風に遊ばれる小麦色の髪を手で押さえた。一瞬、日の光を反射して何かがきらりと輝くのが見え、手を庇にしてまぶしい空を仰ぐ。目をよく凝らしてみると、はるか彼方、空の一点に何かが見えた。視力だけは――動体視力もあわせ――抜群にいいことがリュナンの自慢だ。
「ん? おいおい、もしかしてありゃ……」
整備士も驚いたように瞳を眇める。彼の言葉をみなまで聞かず、リュナンは走り出した。
「お嬢!?」
「帰ってきた!」
鳥や猛禽と見紛うはずもないほど大きな白い翼。だがそれは、リュナンにも見慣れた飛行機ではない。いまや飛行機よりも珍しくなってしまった、絶滅危惧種の希少な獣だ。
ばさっという、巨大な羽ばたきの音を耳にして、リュナンはふしぎと予感めいたものを感じた。はじめてその生きものを目にしたとき、心臓がどきどきと高鳴ったことを、いまもよく覚えている。風に追い立てられるような感覚に背中を押され、翼の影を追って、彼女は広い飛行場をひた走った。
「……っ」
早鐘のように鼓動が鳴る。
久しぶりに全力疾走したせいか、わき腹に急な痛みを覚え、リュナンは立ちどまった。はあはあと肩で息をしながら、額に浮いた玉の汗をぬぐう。ふっと頭上が翳り、高鳴る胸を押さえて見あげた瞬間、青い空を背景に白い翼が視界いっぱいに広がっていた。
「わっ……!」
感嘆にもれた悲鳴は、だがすぐに、風の音にかき消されてしまう。
煽られ、とっさの強風で閉じてしまった瞳をおそるおそる開けてみると、一頭の獣が目の前の草地に悠然と降り立ったところだった。
鷲にも似た頭部、獅子を思わせる体、ふさふさした長い尾と、象牙色の毛におおわれた翼を有する〈賢い獣〉――
短い黒髪を風になびかせ、青年は獣をあやつる手綱をなだめるようにゆっくりと引く。文字通り、古い宮廷物語に登場する騎士のようだった。
よう、と厚い手袋につつまれた片手を気さくにあげ、青年は言った。
「背がのびたな、リュナン」
脱いだ飛行帽を腕に抱え、山間飛行用の厚手の飛行服を身にまとった彼は、瞳を細めて笑った。昔と変わらない、空の色をそっくりそのままうつしたあおい瞳。
「シ、シオン……?」
リュナンはぽかんとして彼を見上げる。ふたつしか違わないはずの幼なじみがとても大きく、ふしぎなほどによそよそしく見えた。たしかに五年以上ぶりの再会だったが、まるではじめて出会った見知らぬ人間のようだ。
顔に熱があつまり、血が恐ろしいはやさで全身を駆けめぐるのがわかる。ドッドッドッと早足で駆け出した心臓に、リュナンはひどく戸惑った。
これは、どうしたのだろう。いったい何がはじまったのだろう、――自分のなかで。
「なんだ、そんなふしぎそうな顔して。俺のこと、もう忘れちまったか?」
リュナンは首を横にふった。忘れていない。忘れるわけがない。ただとっさのことで、言葉につまっただけだ。
「ひ、ひさしぶり。今日はシオンが帰ってくるってレイくんから聞いて、迎えに来たんだよ! 元気だった?」
心臓の音をつとめて意識しないように、リュナンは早口で訊ねた。共通の幼なじみの名前を聞いたシオンは、目を細めてうなずく。
「おう、田舎暮らしで風邪もひかねえ。レイノルドは元気か?」
「うん。ぴんぴんしてるし、相変わらずだよ。またパニッツアで暮らすんだよね?」
「ああ。おまえのじいさんのところで世話になることが決まったから、しばらくはパニッツア暮らしだな。休みの日には帰るつもりでいるけど」
「妹さんも元気?」
「ああ。カリンも元気にしてる」
彼が言うのにうなずき、リュナンはおとなしくしている飛翔獣に視線をうつした。
「その子、フューだよね。すっかり成獣になっててびっくりした」
「ああ。よく憶えてたな」
「忘れるわけないよ。野生の飛翔獣の卵を拾うなんて、そうそうない大事件だもん」
「まあ、そりゃそうか」
一歩近づこうとして、リュナンはためらう。ふわふわとした毛をもつ、優しい目をした獣に触れてみたい、と強く思ったが、勇気が出なかった。
鼓動は、いまだに落ちついてくれない。
「ね、ねえ、シオン。お願いがあるんだけど……」
「ん?」
首をかしげる彼に、リュナンは思いきって頼んでみた。
「ええと、その……フューの翼をひろげて見せてくれる?」
「なんだ、そんなことか。いいぜ、――フュー」
シオンが名を呼び、ぽんと軽く飛翔獣の首もとを手でたたいた。それだけで彼の意図を汲んだ獣が、たたんでいた両翼をゆっくりと動かした。
象牙色のやわらかな羽毛に覆われた翼がばさっとひらかれる。その大きさに、リュナンは息をのんだ。
「どうだ、立派になっただろ?」
かつて少年だった幼なじみが、青年の顔をして笑う。
リュナンは声もないままにうなずいた。飛翔獣の翼は大きいだけでなく、息をのむほどにうつくしかった。美に圧倒されて声も出なくなるなんてことが、本当にあるとは思っていなかった。
(なんて、きれいなんだろう)
強い風が吹き、足元のフランベルの花を巻きあげて、空へと駆けあがる。
はるかかなたに見える、雪を頂いたファンヴィーノの青くかすんだ稜線と、風に舞うオレンジの花弁が、まるで額縁のように世界を彩っている。夢でも見ているかのような光景に、その瞬間見たもののすべてが一枚絵となって、あざやかにリュナンのこころに焼きついた。
――それが、一生かけて追いかけるに足る、文字通りうつくしく困難な〈夢〉のはじまりとなった。
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