第13話 如月華蓮と天木十八 その2

 秋も深まりつつある十月の昼下がり。

 研修医の仕事が思うようにこなせず、指導医や同期から白い目で見られ、かなりふさぎ込んでいた。

 売店で買った昼食のパンを抱えたまま、大学構内の敷地に設置されたベンチに座ってため息をつく。買ってはみたが、気が滅入ってあまり食欲がない。

 食べないまま午後の仕事に入るのもマズいと思い、とりあえず飲み物だけはと野菜ジュースを飲んでいた。

 すると、

「お姉さん、お姉さん」

 エ?と驚いて、声の方を見ると、いつの間にか隣のベンチに、一人の男性が座っていた。

 年の頃は自分と同じぐらいに見える。

 ヨレヨレのジーパンを履き、ヨレヨレのTシャツの上に、ヨレヨレの白黒チェック柄の長袖シャツを、前ボタンを止めないで羽織っていた。

 髪はボサボサでろくにセットされておらず、アゴや口元にも無精髭が生えている。履いてる靴もボロボロのスニーカーで、あちこちがすり切れていた。

 一瞬ホームレスかと思ったが、自分から見て向こう側の右腕が、ギプスで固定された上に包帯でグルグル巻きにされ、首から三角巾で吊られていたのだ。

 ナリは悪いが、どうやらウチの患者さんだと気付く。

 それでも華蓮かれんは、うさん臭い目でその男を見ながら、とりあえず返事をした。

「はい?なんですか?」

 すると男は、空いた左手で、ボサボサの頭をかきながら、照れくさそうに聞いてくる。

「そのパン、食べないの?」

 エ?と一瞬、あっけにとられた。

 パン?と思って、膝の上に抱えたポリ袋を見た。食べるつもりがなかったので、持っていることも半分忘れていた。

 とっさのことで動揺していたのか、あまり考えもせず、スルリと本音を言ってしまう。

「ええ、食べないわよ。あまり食欲もないし……」

 そのとたん、男は、ニヘラ、と笑うと、臆面もなく言ってきた。

「食べないなら、もらえない?昨日から何も食べてなくて」

 再び、エ?とあっけにとられる。

 イイ歳をした大の男から突然、腹が減ったから持ってる食べ物を恵んでくれ、と言われたのだ。

 難民があふれる政情不安定な外国ならいざ知らず、法治国家の日本の、それも政令指定都市の真ん中で言われるとは思ってもみなかったのだ。

 少し動揺していた上に、さらなるカルチャーショックを受けた華蓮は、逆に警戒心というものがスッポリと抜け落ちたのか、特に何も考えないまま「あー、ウン、どうぞ」と言って、持っていたポリ袋を差し出していた。

 ただ、不思議と、その男のことを、怖いとは思わなかった。

 男は満面に笑みを浮かべると、素早く立ち上がって袋を受け取り、まるで小さな子供がお菓子をもらったときのように喜んだ。

「マジで?!ホントに?ありがと―ッ!いや~もう腹が減って腹が減って、診察は終わったけど、帰る気力もなくて、どうしようかと思ってたのよ~」

 一人で賑やかに話しながらベンチに戻ると、一度袋を膝の上に乗せる。そして、左手を袋の中に入れると、中から一つをつかみだした。

「オオッ、クリームパンだッ」

 どこにでもある、ありきたりな菓子パンなのに、男は変わらずうれしそうに言う。

「ところで、お姉さんもどっか具合が悪いのか?食欲がない、って言ってたけど」

 カルチャーショックから抜け出したばかりの華蓮は、この不意の質問にも、あまり警戒心を持たず答えていた。

「ああ、いえ、エッと…なんていうのか…仕事がうまくいかなくて、ね。それでちょっと気が滅入ってただけよ。体調が悪いわけじゃないわ」

 少し自嘲も込めて言ってみた。すると、何の前触れもなく、目の端がジワっとにじんだ。

 エ?あっ、あれ?と思いながら、あわてて手の甲で目尻をぬぐう。泣くつもりなんて1ミリも無かったのに、と気恥ずかしさがこみ上げてくる。

 男は左手でクリームパンを持ちながら、少し気まずそうに、ハハッ、と笑った。

「まあ、あれだねェ、研修医さんは忙しいそうだから、うまくいかないこともあるって~」

 これまた不意打ちのように、なぐさめの言葉をかけられて、華蓮は再び気恥ずかしくなる。見ず知らずの男性に仕事のグチをこぼし、見ず知らずの男性になぐさめられて、それが泣くほどうれしいと思っている。それがスゴく気恥ずかしく、て、…って、あれ?

「なんで私が研修医だって分かったの?」

 今さらのように驚いて声を上げる。

 男は左手でパンの本体を持ち、袋の端を歯でかもうとしていたが、一旦止めて華蓮を見た。

「エーと、確信はなかったけど、白衣を着てても医学生さんなら『仕事』って言葉は使わないだろうし、正規の医者センセにしては若い気がしたから、たぶん研修医さんなんだろうなァ、と思って」

 アハハハ、と笑いながら、スゴいことを言ってくる。あれだけの会話でそこまで推測していたとは。

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