第3話 通勤路にて その1 火浦家の人々

 気取った感傷にふけっていると、十八とおや自身の出勤時間も迫っていた。

 急いで自分の鞄も用意し、弁当と水筒と着替えを詰め、台所のガスの元栓を締め、居間のテレビも消して、各部屋の電気と戸締まりも確認すると、本日金曜日のプラゴミをプラゴミ用の袋に集めて、玄関を出る。

 通勤用のカバン、四角いリュックを背負い、玄関に鍵をかけ、ゴミ袋を持って門扉を出た。

 家を出て少し歩いた所に、地域指定のゴミ集積所がある。

 その前で立ち止まり、害獣避けのネットを持ち上げてゴミを置き、再びネットを、と思ったとき、不意に「おはようございます」と声をかけられた。

 声の方を振り向くと、先ほど柱基よしき春花はるかを迎えに来てくれたりんだいのお母さん、火浦ひうら家の愛恵かなえさんが、ちょうどゴミを出しに来るところだった。

「ああ、愛恵さん、おはようございます」

 愛恵さんは色白でショートヘアの小柄な女性だった。歳は十八の妻と同じ三十八歳のはずだが、パッと見は三十過ぎでも通るような若々しさを感じる。

 仕事着である看護師の白い制服の上から、割烹着型のエプロンを着けていた。

 十八は彼女が持っていたゴミ袋を置くのを見てから、持ち上げていたネットを下ろす。

「ありがとうございます。十八さんは今から御出勤ですか」

「ええ、駅まで歩いて、満員電車です。こういう時は自営の火浦さんがうらやましくなります」

 少しおどけて言ってみる。

 工場勤務の十八は、九時に出社して六時に退社する、典型的なサラリーマンだが、火浦家は愛恵の夫、つまり凛や大のお父さん、火浦けんが師範を務める空手道場を開いていた。

 家が空手道場ということもあり、火浦兄弟は三人とも、子供の頃から空手を習っており、その影響で柱基や春花も幼稚園の頃から週一で通っていた。

 家族ぐるみで仲が良いのも、そのためだ。

 また道場と併設で火浦接骨院という個人経営の病院がある。

 これは愛恵の父である火浦完治かんじが経営していた。

 もともと完治が道場師範兼接骨院院長で、二十二年ほど前に病気で亡くなられているが、生前は妻の信恵のぶえがその看護師をやっていた。愛恵も母に倣って看護学校を卒業し、今は彼女が接骨院の看護師をやっているのだ。

 そして、当時道場の門下生の一人だった健を愛恵が見初め、入婿として来てもらい、完治は師範を譲って、今は病院に専念している。

「そんなことないです、自営も浮き沈みがあるから大変なんですよ~道場も病院も信用の商売ですし、不祥事一つでたちまち傾くんですから」

 頬に片手を当てて苦笑する愛恵。看護師という仕事柄か、生まれ持った性格なのか、誰に対しても人当たりが良い。

 十八も人づてに聞いた話だが、若い頃の愛恵には大勢のファンがいて、彼女の心を射とめんとする若者も数多いたらしい。

 愛恵が高校の頃に、母の信恵が病気で亡くなり、それ以来家事の一切を愛恵が引き受けていたそうだ。

 家庭的で人当たりのよい愛恵は、学校の男子生徒からも、道場に通う門下生からも、とても慕われていたとか。

 だが、道場師範で病院院長の完治は、軟弱な者や不誠実な者は一人娘に近寄らせんと、ことごとく蹴散らしていたそうだ。世はすでに平成だったが、それこそ昭和のドラマに出てくる堅物オヤジのように。

 多くの勇者がその試練に挑み、あえなく散っていく中、ついに現れたのが健であった。

 だが、当初健が火浦道場に来たのは、純粋に空手の修業をするためで、愛恵ではなく完治の方に興味を持ってのことだった。なんでも若い頃は日本中の道場を巡って武者修行の旅などという、こちらもまた時代錯誤なことをする人物だったそうだ。

 その後、紆余曲折色々あり、いつしか愛恵の方が健に好意を持ち、やがて健の方も応える形で結ばれたと聞いている。

「ハハハ、やっぱり、楽な仕事はないってことですね。と……スミマセン、そろそろ行きます」

 左腕のGショックをチラリと確認すると、片手を上げながら苦笑する。

「あ、スミマセン、こちらこそ引き止めて。気をつけて行ってらっしゃい」

 立ち去る十八を、愛恵はにこやかな笑みで見送った。

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