第4話 鈴木は朝起きて異変に気がつく ②

 時間が経てば足の束縛から解放されると思ったが、そんな兆しは一切ない。そこで、仕事の前に病院にいくことにした。

 筋肉の硬直だとか、関節が吹き飛んだとか、何でもいいから理由が欲しい。理由もなく膝が動かないことほど不気味なことはない。

 さすがに理由がないなんてことはないだろう。現代の医学の偉大さを想像してみよう。俺が知らない足の病気やけがの一つや二つそこら中に転がっているはずだ。

 スーツを着ることに手間取った後(スーツ以前に靴下を履くことにかなり手間取った)、鈴木は家を出た。

 鈴木一家はマンションの八階に住んでいる。都会からは少し離れたマンションなので家賃はそこまで高くなく、周りに際立って高い建物もないので見晴らしもよい。まさしく穴場だ。

 鈴木は八階から街並みを見下ろす。

 住宅街と森とが混在した、落ち着いた雰囲気の世界が眼下に広がった。天気は良好、爽やかな風が強く顔に吹き付け、眼球にまで染み込む。

 我ながらいい場所を見つけたと思う。仕事場までが遠いのが難点といえば難点だが、この景色を見ればそんな不満は消え失せる。

 膝によって漣を立てていた心が静かになってゆくのを感じた。

 鈴木は息を一つ吐き、ぎこちない歩みでエレベーターまで向かい、一階に到達した。 よし、奇跡が起きた。いつもは誰かが必ずエレベーターに乗ってくるが、今日はこなかった。変な動きを誰にも見られずに病院にいけるぞ。

 しかし、車に乗り込もうとした瞬間にあることに気がついた。

「おっと?」

  もしかして俺、車が運転できない?

 膝が曲がらないと、アクセルが踏めないだけでなく、運転席に入ることすら困難なのだ。

 鈴木は絶句した。

 駅まで歩くしかない。

 家から駅までがこれほど遠いと感じたことはない。明らかに周りは不審な目で鈴木を見ている。早くこの場から立ち去りたかったが、そう思えば思うほど、膝が彼の邪魔をするのだ。上半身と下半身がバラバラに動いてしまい、疲れる割に進まない。スーツには汗が染み、息が上がる。すさまじい疲労と羞恥だった。

 駅に着き、電車が到着しても羞恥が続いた。

 電車とホームのわずかな隙間を跨ぐごとさえ苦しいのだ。歯を食いしばって腰から足を上げ、片足を電車の中に踏み込む。エアコンの風が頬にあたり一瞬喜びかけたが、後ろの客たちが鈴木のあまりの遅さに腹を立てたのか、乱暴に彼を押した。

 不意の出来事に対応できなかった。鈴木は電車の中で大転倒した。早く立ち上がらなければと思うものの、膝が曲がらないと普通に立つことができない。しかたなく手すりまで這っていき、腕の力で体を持ち上げる。

 立ち上がると鈴木はすぐに窓の外を眺めた。他の乗客の目線が怖くてしかたがなかったからだ。

 背中に人々の冷たい目線が次々と刺さる。痛い。果物ナイフで背中を刺されたような痛み。

 優しい誰かが落ちたカバンを拾って差し出してきたが、鈴木はまともに感謝を伝える勇気も出ない。俯きながらカバンを受け取った。

 あまりの羞恥で意識が朦朧とし、体が浮き出ていく感覚に陥った。地面を踏んでいる感じが全くしない。

 十分という時間が八時間くらいに感じた。乗客はもう鈴木のことを見ていなかったかもしれないが、いつまでもたっても体に視線が刺さっている痛みは消えなかった。

 なんなんだよ、この膝は。

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