裏庭日記/孤独のわけまえ

中田満帆

第3話 ベティ・ブルー



 どこにもいけない。槇原は英知大学を奨め、情報処理の山田から奨められたのは京都建築大学校だった。父とふたりポンコツに乗って京都までいった。ひとのいない森のなかにそいつはあった。父は建築士をさせたがってた。けれどもおれは数字に弱い。体験授業でバリアフリーを撰んだ。インテリア・デザイナーのほうがよかったかも知れない。3年すれば、だれにでも製図ができると教員はいった。おれにはできそうになかった。むしろ隣にある伝統工芸の学校で壺でもつくっていたかった。教室をまわり、しまいに寮を見学した。小奇麗な室だった。ここなら安心して創作ができそうだった。父の監視もない。ここにいこう。おれはまたポンコツに乗って帰路についた。

   この距離なら原付きで通えるな。

 やっとこの男から離れられるはずだのに。けっきょく、なにもいえなかった。ろくでもない筋書き。灰色のなにか。大学受験はいまさらなにもできない。おれは酒場にいって荒木田さんに話しをした。

   サンダヴィンチって知ってる?

  いいえ、知りません。

   三田でやってる美術学校やねんけど、そことか、ミツホに合いそうやとおもうで。

   いっぺん資料請求してみぃな。

 やっぱりおれは美術をやるべきだ。ズブロッカを呑み、ゴロワーズを喫んだ。なんとしてでもあの家からぬけだしてやる、そうおもって家路に就く。eastern youth を聴きながら、カブに跨った。その夜、資料を取り寄せた。サンダヴィンチも含めて美術やデザイン、音楽もだ。まともな世界がだめだということをわかってた。だれにも受け入れてくれないのも。けれども父がいった。「金のむだだ、ものになるかわからない」って。

 たったそれだけで終わった。吝嗇家の父は冒険はしない。しかたなく英知大学を受けた。落ちた。3万かかった。なにひとつ勉強はしなかった。仕事を探さねばなるまい。そういったことはやりたくなかった。やればやればじぶんの底が見えるだけで、ちっとも幸せになんかならないことは想像できた。春だ。卒業だ。おれはまともな服もなく、薄汚れたシャツで迎えた。帰ってきて父が来ていたのを知った。

   どうしてもっとまともな格好をしないんだ!

 服を買う金がないからだ。おれには仕事を探すつもりも、自身がまっとうであるとうそをつく気もない。それでも父はしつこく仕事を探せといった。とりあえず、おれは三田で職を探した。永易が働いてたクリスタルの面接が募集してた。歯並びのひどい小男とコーヒーを呑んだ。落ちた。あたりまえだった。失業者は溢れて世界の縁から零れそうだった。ややあって工員の職をみつけた。面接は職安でやった。まさかそんなところに人足寄せがいるとはおもわなかった。アクティスの津地というでぶが担当者だ。作業服から腹が迫りだしてた。仕事は朝から、自動車部品のシリコンを、その飛沫を拭き取るだけ。残業は3時間もあった。上役は金髪のでぶ眼鏡、顎髭つき。なにもかもに憤然として、おまえの態度が気に入らねえといった。おれはあたまをさげ、それらしい態度を演じた。やつは満足して破顔した。豚野郎、くたばれ──とおもった。

 工場で人間のままでいるにはどうしたらいいものか、おれにはわからなかった。だれが教えてくれるのかもわからなかった。翌日の昼休み、上履きのまんまおれは脱走した。カブに跨って永遠におさらばしたということだ。立ったままの仕事は合わなかった。おれは給与を取りに津地に会いにいった。タイヤがバーストしたために約束の時間は過ぎてた。

   おれをなめるんじゃねえと津地は仰った。

   おれは中卒でいちからやってきたんや、いまは家族もいる!

 だからどうしたんだでぶ公さま。あんな仕事をやらせやがって。

  すみません。

  どうしてもできなかったんです。

   きみはほんとうにやりたい仕事はないんか?

 なにも浮かばなかったから、短歌をやりたいと答えておいた。

   それは師匠とかについて、景色とかを眺めながらするんやろう?──仕事といえるのか?

  いまのぼくにはそれぐらいしかおもい浮かびません。すみません。

   まあ、ええやろう。また仕事を紹介するから、そんときは電話をくれ。

 電話なぞするものか。おれは酒を買った。6千と半分があった。あれだけの立ち仕事をしたのにこれっぽっちしか入らない。世界は儚い。貧しいひとびとにおれが加わるときが来た。愛しいものはどこにもいない。村上も北甫も幸せにやってるだろう。どっかのやろうどもと。今宿まことでマスを掻いてるときだ。電話が鳴った。クリスタルからだった。もういちど面接したいという。三ノ宮でだ。補欠要員になれたんだ。ペーパーテストを経て合格が決まった。でも気分はちっともよくなかった。溶接、測量、塗装、どれもみんな親父がおれにやらせたいものでしかない。いつになったらおれは絵を学べるのか、バンドを組めるのか、文学をやれるのか、女の子とつきあえるのか。なにも見えない。持ち時間はもうない。工場のなかで老いていくしかない。合格を母に伝えた。じぶんを苛んできたあらゆるものを呪った。父、母、姉、妹、たちのわるい同級生、たちのわるい女ども、くそでばかな教師ども、ひとの機微を知ろうとしない、すべての世界のひとびとを。おれはそこの研修所で1週間ちかくいた。毎晩呑み歩いた。どの店も人間味があった。新入社員はみな年下だった。女の子も数人いて、山本という娘が気になった。ロッカー室の狭い廊下で、おれは今東光の「悪太郎」を読んでた。

   ぶ厚い本!

 そういってかの女は笑った。かわいい。見習いはアーク溶接、電気溶接、グラインダー、それから測量になった。数字を扱うようになって、おれはまちがいばかりしでかすようになった。じぶんにはできない。日報にうしろむきなことばかり書きつづった。じぶんは不要な人間だとか、消えるべきだとか。いつも座学で机を蹴っ飛ばす教官もそれには堪えたらしい。朝鮮人の講師とともにおれを懐柔にかかった。かれらの声にうんざりだ。もうやめよう、そうおもうと早かった。おれは家に帰り、そして会社に電話した。

  東京にいって作家の弟子になります!

   やめたほうがいい、いまの会社がどれだけいいか、きみはわからってないんだよ。

  いいえ、ぼくは詩人になります!

   きびしいぞ。

  それでもかまいません!

 泣きながらいった。母が聞いてた。朝になっておれは父から7万を借りた。やつは喜んだ。これから会社の寮に入るといい、荷物をまとめた。そして駅へいき、梅田で降りた。夜行バスなんてはじめてだった。



 新宿の朝。大きな鴉たちが地上に降り立つ。おれは小壜のウィスキーを買ってやりながら西武あたりを歩いた。やがて地下へ。山手線のホームに立ってド・ルーベの音楽を聴いた。ベルモンドの映画「オー!」が入ってる。ひとびとがひっきりなしに来る。列車もまたそうだ。場が静かになるまで待てなかった。おれは神田を目差して乗った。

 あたりまえながら、どの古本屋も閉まってる。喫茶店で売却するつもりの本を読んだ。「ドキュメンタリー家出」、「地平線のパロール」、「暴力としての言語──詩論まで時速100キロ」、「さあさあお立ち会い──天井棧敷紙上公演」、芳賀書店版「書を捨てよ町へ出よう」やなんか。旅草の足しにするつもりだった。おれは詩人になるんだ。去年のはじめまりから、おれは森忠明という詩人と文通してた。作品を送り、助言を受けてた。きょうはかれに会いにいく。本を売ってから立川を目指した。夜。森氏の家をみつけた。呼び鈴がない。しかたなく大声で呼んだ。返事はない。ちかくの居酒屋「たつの」で休んだ。冷酒を頼む。女将がとてもやさしかった。おれが神戸から来たのを知ると勘定はいいといった。おれは立川ホテルに室をとった。7階の室。森家のポストに「立川ホテルにいます」とだけ書いて託を入れた。やがてフロントから電話が来た。

   友達というひとが来ています。

 階下へいくと、とても大きなからだの男がいた。かれが詩人、森忠明だった。180以上はゆうにあった。ふたりで「たつの」に挨拶にいった。女将と旦那が畏まってあたまを下げた。そしてかれの家にあがった。日本酒を呑みながら話す。

   つまりこれから弟子としてやっていくということだね。

 おれにもやっと居場所ができた。生きる縁が見つかった。翌日からいろんなところをまわった。高島屋の寿司屋や、谷川俊太郎の自宅、寺山修司が10代のころ入院してた川野病院やなんか。その裏手には墓場があった。《秋風や人さし指はたれの墓》──詩人のことばはちからに溢れてた。でもおれは棲むところを探せなかった。都下の物件をひとつ見ただけだ。風呂なしので月3万の物件に20万の入居費用がかかる。話にならなかった。金もなくなっていくなか、焦りだけが大きくなってる。そんなとき、渋谷の園田英樹を紹介された。かれは演出家で、アニメの脚本も書いてた。桜でいっぱいの公園で対面した。

   神戸から来たって聞いたから、きみが少年Aかとおもったよ。──森忠明は関東医療少年院でかれと対面してた。

  まさかそんな。

 おれの戸惑いを関せず、桜の咲き誇ったあたりいちめんへとかれは導いた。

   よく見てごらん、ここにはきみを知ってるひとなんかいないだろう。

 かれのアパートメントに泊めてもらい、芝居の稽古を見学した。オリンピック記念青少年育成センター。踊りやら即興芝居やらをやった。お寒い代物だ。学生の馴れ合いと見分けがつかない。そいつが終わればバーミヤンで若い女の子たちを侍らかし、いい気分で飯を喰う。羨ましくもおもったが、こんなものはおれの目指すところじゃなかった。かの女たちはいった、森先生に似て面長だと。都心で室を探すべきだと。金丸さんというきれいな女のひとが、おれを舞台に参加させようとしてくれた。詩の朗読でだ。かたちだけのオーディションの日、おれは偶然見つけた林檎ビールを呑んだ。食堂へ入ってきた園田はいった。「酒呑んでやるつもりか?」──うっかりしてた。こんなときに酒を呑んでしまう。けっきょくオーディションには落とされた。環状線に乗って立川を目指した。かれから電話があった。おれはでなかった。森先生に起ったことをいった。

   園田のわるいところはさ、──森先生が語った。

   馴れ合いばっかりでわるいところをいわないことさ。

   もうずいぶんまえになるけど、芝居が終わってやつは懇親会なんかやるわけ。

   駄目だししねえんだよ。

   おれはすぐに懇親会やめさせてさ、ひとりひとりだめだししたよ。

   あいつ、泣きそうになっててさぁ。

 おれは実家へ電話を入れた。父はかんかんだった。おれは東京に棲むんだ!──なにをいってもだめだった。母はいった。せっかく就職で喜ばしたのになんということをしたんだと。ふたたび立川ホテルに泊まった。急な高熱と腹痛でたまらなかった。朝、医者にいった。急性胃腸炎だった。おれは金を使い果たした。

 それでも「たつの」にいくとただで酒が呑めた。女将さんは店屋物まで注文してくれた。カツ丼を持って来た老父は森先生の姉君を憶えてた。かの女について語った。すごく礼儀正しい子だったらしい。旦那さんはおれを「このひとは文学ばかなんだ。投資するよ」といって2万くれた。でもおれはむだづかいをした。中国人マッサージで足の長い美人と過ごした。森先生の秘書、高橋恵子に荷物を預かってもらう手はずだったけど、いけなかった。かの女や、園田氏はおれを破門すべきだとつよく主張したらしい。当然。

 けっきょく残った本も売ることにした。旅行鞄をロッカーにおき、リュックサックを担いで、新宿から神保町まで歩く。陽が落ちたころ、法政大学のまえを通った。学生たちが愉しそうだった。なのにおれは21歳で、どこにも居所がない。頼るものも、守ってくれるものもない。なんていうざまだ。歩けるまで歩き、公園で寝た。そして信濃町を通り、カソリック教会で水をもらった。着いたときには夜だった。そして翌日は土曜日。どこの本屋も軒を閉めてた。なんとか売れるところを探し、それでも、たった2千円にしかならなかった。負け戦をずっとやってるみたいなもんだ。暑くなった街区をいきつもどりつして、おれは母に電話した。金を無心した。1万円をせしめ、バーでビールを呑み、ゴロワーズを喫んだ。大阪行きのバスを待ってるあいだに金はなくなった。旅行鞄も盗まれてしまった。また無心した。おれはゴールデン街をぶらついた。スメナ・エイトを抱えながら行きつ戻りつしてたら、女のひとが声をかけてきた。

   あなた、なにしてるの?

  写真を撮ってるんです。

   どっから来たの?

  神戸です、家出したんですよ。

   まあ、そうなの?

   一杯呑ませてあげるわ。

 街の案内板によればそこは新宿初のゲイ・ボーイの店らしい。でもかの女はとても男には見えない。ふたりで静かに話す。

   あなたはなにになるたいの?

  詩人です。

   あら、わたしの知り合いにも詩集をだしたひとがいるのよ。

 かの女はウィスキーのハーフロックをだし、閉店後にもういちど来るようにいった。おれはそのあと、バラックみたいなスナックで女将と話した。かの女は帰って地元に働くべきだといった。でもウーロンハイ1杯で5千円もぼられてしまった。帰りの金がない。おれはふたたびゴールデン街のあの店へいった。ふたたびハーフロック。あたらしいことはなにもない。

   唇の厚いひとって、情にも篤いのよ。

 かの女はいう。おれはまたしても1万円、母からせびった。夜は路上で本を読む。そのとき、地面の新聞に眼がいった。「高田渡死去」。生きてるうちに見たかった。どうすることもできない。高架下で眠る。朝、激しい怒鳴り声がした。老人がおれに蹴りを入れる。──おらあ!──ここから失せろ、このやろう!──おれは起きあがってやつを蹴り返した。

  おれはバスを待ってるだけなんだよ、なんで蹴るんだ!

   おい、おれはヤクザだぞ、おまえなんか殺せるんだ!──おれは頭に来て警察を呼んだ。しばらくすると老人は拾いものらしい雑誌を二束三文で売ってる。やつの場所のためにどうしてこんな眼に遭わなくちゃならねえんだ。おれはバスに乗った。どうすればひとりで生活ができるのか、わからなかった。悔しいおもいで車窓を見つめ、遠ざかる町を少し憾んだ。





















 フルーツ・フラワーパークでの話が流れたあと、神明工場が米の投入役を求めてた。脱穀機に重い米を流し込む。採用された。ミラーの「梯子の下の微笑」を持ってった。ふたりの若い男が退職をひかえて嬉しそうだった。仕事は単純だった。いやなやつがひとりいるらしい。そいつはリフトを運転してた。リフトが運んだ米袋を開封し、脱穀機へながした。父が勝手におれの鞄をあけた。ミラーを見て激怒した。職場に本などもっていくな!──というのが新しい訓示だった。理由を聞いても答えない。従わないことでおれは、その謎を解こうとした。しばらく経って、やつは気に入らないことに怒ってるだけなんだと合点した。福知山の脱線事故のあとだった、「たつの」の女将から電話があった。おれが巻き込まれたのか、心配してくれてた。あの事故で亡くなったひとで知ってるのは、小学生のときに通った床屋の女将だけだ。

 仕事は粉塵による鼻炎がひどく、2週間でやめた。米の粉が吹きあがって来る。マスクをすればよかったんだ。でもそんなやつはいない。三田の駅前で電話をかけた。やめますといい、途中で切ってしまった。それでも金は入って来た。おれはもういちど東京へむかった。とりあえず路上に坐った。老いたルンペンがよってきた。

   よお、あんた、どっから来たんだ?

  神戸からです。

   なにしてる?

  いまはなにも。仕事を探してます。

   おれはきょう金が入るんだよ。そのまえに飲みもの、奢ってくんねえか。あとで返すから。

 痩せたからだに半袖を着てて、金はなさそうだった。それでも、おれは老人を信じて飲みものを買った。見返りのためじゃない。かれは亢奮ぎみに「おまえに11万やるよ!」といった。11万は来なかったが、かれがよくしてくれた。もとはやくざで、移民2世、妻が死んでから路上に入ったといった。菓子パンやスピリタスをわけてくれた。2日たっておれはいった。

  なにか仕事はありませんか?

   ホストなんてどうだ?

   あんた、いい顔してるしなあ。

   あるいはシンナーでも売るかだな。

   しかし最近じゃあ警察がうるせえからなあ。

  飯場とかないですか?

  倉庫とか?

   そういうのならいっぱいあるよ。

 翌朝、地下道でかれは手配師にひきあわせた。話はすぐ決まった。小さな路線をひきつぎして飯場、加藤組へ来た。そこは八王子の住宅地のなかにあってトタンで覆われてた。まずは食堂に招かれ、ひさしぶりに飯を喰う。つぎに湯に浴みだ。「東京流れ者」を口にしていると、湯加減はどうかと声がする。

  問題なしです。

 室は大部屋で数十人との共同だった。莨に黄ばんだ壁をながめてると、男らが帰ってきた。かるく挨拶をすます。あとはなんにもできることがない。10時の消灯までうごけずにいた。ノートを広げて発想を待つ。観察されてるようなさわりがあった。たしかにだ。ここのまえにも所沢の中村組という飯場にいた。室が決まるまでコンテナハウスのなかに入れられた。室は、3人組の相部屋で、室の入り口にはアニメキャラクタの等身大パネルがあった。初日、中目黒のアパートメントに行かされた。基礎工事の手元作業。コンクリートの打設のため、鉄骨をブラシで洗った。地上へは仮設階段がある。昇り降りするたびに揺れ、怖かった。昼食、おれは弁当を忘れてしまってた。それを察したのか、老人が菓子パンをくれた。夜、仕事から帰って来ると、室の長らしいのが凄んだ。──おまえ、挨拶もできねえのかよ!──ぶっ飛ばされたいのか!──こんなところにはいられない。あたまのいかれたおたくやろうなんざごめんだった。おれはさっさとでた。

 やつに出会ったのは、翌々日だった。やつはワゴンの窓際でけだるそうにしてた。現場は大日本印刷・事務所ビル。黒い鉄骨をむきだしにした陰茎のようにみえる。からだがまるでうごかなかった。足場を組むのを手伝ったり、ガラだしをやってるあいま、倒れそうになる。不安定な仮設階段はめもくらむ揺れをくれた。

   そこのおまえ、足場を組め!──おまえ、おれより喰ってるんだろうが!──もっと動け!

 ひょろ長の男が罵声を浴みせるのを黙って聴いてた。こいつを叩きのめして、スコップの味見をさせてやりたい。休憩のとき、おれは氷をタオルに包み、頭にあててた。雨季をまえにして夏は来てる。地下の詰め所に降り、じぶんの飯場の卓を探す。そこにはあのちびっこがいた。

 「大丈夫か、あんた?」──じぶんでもわかるほど顔が青くなってた。坐って相手をみた。160センチ、あるかないかのちびだった。でもこいつだって要領よくやってるんだろう。涼しい顔をしてる。どんなことでも抜かりなしといった様子だった。おれは自身を憐れみ、ただ腰を降ろした。

   歳は?

  今年で21だよ。

   おれとおなじじゃないか!

  やつは笑って莨をさしだした。いっぽんとって喫む。つまらねえ代物だ。酒を呑みたかった。やつは村下渉と名乗った。

 「おれはじつはやくざなんだよ」とやつはいった。14歳からかずかずの非行を重ねて来たとか、もとは金髪だったとか、年上の女と実家で暮らしてるとか、医者にハルシオンを要求して拒否されたとか、そんな与太を喋った。じぶんには別に仕事があって、そこは高給で楽ちんだ、おまえも来ないかといった。声。

  なんでこんなところにいるんだ?

   しくじりをやらかしてよ、組長の命令で来たんだ。どうだい、こっちをでたらいい仕事がある。──のらないか?──おれは警戒して遮った。いや、おれもでたら用事があるんだ。わるかったな。──こんなやろうとは離れるべきだとおもった。それでもだんだん。ふたりで話すようになった。晩酌のビールをやつとわけあい、やつが仕事についておれをフォローしてくれることもあった。しかし飯場にも労働にもあきあきしてた。とてもおれのからだに合わない。詰め所でぼやいた。

  もうやめるよ。

   やめてどうする?

  地元に帰って工場にでももどるよ。

   もどれないだろ。

  さあな。

   おれの仕事についてこいよ。来週の金曜日に満期なんだ。

  どんな仕事だ?

   それはいえない。でもあんたのことが心配なんだよ。

 ある晩、どぎつい仕事を終え、公園にいった。やつがおれを待ってた。──とりあえず、組長に話しをつけてきた。月20万はかたいぜといった。──それでどうすればいい?──まずは組長のまえで手品をしてもらう。──仕事の内容は?

   電話をかけるだけでいい。多重債務者にだ。

   それでおれたちが肩代わりして利子を儲ける。

   あんたなら、ひと月はなにもしなくてもいい。

 いい出会いに恵まれてる。うれしくおもった。やつの満期で飯場からずらかることにして室へもどった。盆休みになった。8月12日、金曜日。やつは満期。おれは酒壜を鞄にしまいこみ、やつのあとを追った。やつは遅いといった。手元には盆休みの5千円あった。まずはバスに乗って駅をめざした。やつがさえずる。聴くに耐えなかった。

  おれはまえにいちどバスの運転手をしめてやったよ。

  おれが1万しかもってねえっていったらよ、

  そいつ、そんなじゃ支払いにならねえと抜かしやがった。

  おれはバスからやろうをひっぱりだして、

  停留所の看板でぼこってやったよ!──あれは傑作だったなあ。

  土下座もおまけだ。

 そんなことがやつにできようとはおもえなかった。おれはやつから見えないように酒を口にした。──おれたちは環状線に乗りこんだ。雨脚はつよくなり、やつは落ちつかず、いらだちをもろだしにしてた。そして目的とはちがう飯田橋駅で降りてしまった。おれたちはパチンコ屋にいくことになった。雨が降りだした。帰ろうかとおもった。どこへ? やつがいうに金を作るという。おれが店内をうろちょろしてるとやつがおれの肩を小突いた。──おい、来る気ないだろ!──いや、あるよ。──手品の道具がいる。ビニール紐とばかちょんカメラを買って来い!──やつが千円札を1まいきり渡した。追い立てられるようにおもてへでた。商店街をみつけ、紐とカメラを用意した。やつが喰わせものとはわかってた。それでも20万のきらめきは、なかなか消えてくれなかった。パチンコ屋のまえで2時間待ていたらやつがあらわれた。黙ったままだ。換金の列にはくわわり、なにがしかを受けとった。いずれおれはこのことを書くんだ。やつをしっかり見る必要がある。でも、おれのほうも焦ってた。ようやくにしてやつの地元にきた。上野だった。

   ここじゃあ、おれもそれなりの顔だ。敬語で話せよな。

  ああ。

   ああ、じゃねえよ。わかりましただ。

  わかりましたよ。

 観月荘の4階に室をとった。古い宿だ。寝台がふたつ、姿鏡が1枚、冷房、テレビ、便所、廊下にはビールの自販機。室に入ろうとしたとき、やつは「バイバイ」と手をふった。

  どうすんの?

 やるよ。

  なんでおまえのホテル代まで払わなきゃならねえんだよ!──どうすんだよ。──やり場を喪って、シャワーを浴びた。──その態度じゃ、うちの組長も切れんべ。金が欲しいだけなんだろう?──うちの会社、入ったからには、それなりの働きをしてもらわねえといけねえんだよ。おめえから金貰いたいぐれえなんだよ。おまえ、甜めてるだろう、こっちはやくざなんだよ。おまえなんてすぐに殺せるんだからな。すぐ、ふてくされるしよ。──耐えかねて、やめるとおれはいった。

  それじゃあ、おれの面子はどうなんの?──ホテル代は払います。──兄貴や彫り師は呼んであんの。払わなかったらどうすんだよ。怒られるのはおれなんだぜ。室の頭金も払ってんの。払えよ。身分証なんかなくたって探せるんだぜ、てめえの家族に取り立てるぞ!──やつは激昂して捲し立てた。うんざりだ、おれはおまえを信じてたんだ。しばらくしてやつも大人しくなった。たがいにビールを流し込む。やつが話した。組長が今夜これないという。かわりにここで手品をやって写真にとるといった。

   おまえまず、裸になるんだ。

   裸で手品をやるんだよ。

 戸惑っておれが脱ぐ。やつがおれをビニール紐でしばりつける。しかしそれだけだった。あとは要領を得ず、紐はけっきょく切られてしまった。おれの全裸をやつが写真に収める。いったい、こいつはなんなんだ? 問いかけのしようもない。おまえ、そこでせんずりしろ!──おい、手品はどうしたんだ?──裏切らせないためだ。

 テレビが光りを放つ。ポルノだ。いつまでも勃たなかった。いやものを浮かべて勃たないようにした。父の顔や、クラスでいちばんの醜女をおもい浮かべた。やつは痺れを切らし、おれのうしろに立った。やつはズボンを降ろして態勢をつくった。

   おれが入れてやる。

   痛くはない。

  それだけはやめてくれ!──あわやぶちこまれそうになった。やつはしぶしぶ、じぶんの寝台へもどった。おれを睨む。坊主頭で、やせぎすで、しかし態度と声だけはでかい。いっぱしのちんぴらやくざにふさわしい声色じゃないか。おれは怒声を浴びてるしかなかった。けつを奪われかけて寝台のうえで正座した。

   まぢめにやれよ!

  すみません。

   まぢめに働く気もないんだろう!──(その通り!)

   楽して金が欲しいっておもってるだろ?──(その通り!)

   もう仕事の話しはなしだ!

 聞きながらおれはじぶんがなぜこんなことになったのかをおもいめぐらした。たしかにおれは楽がしたかった。大金を得たかった。まぢめでもない。でも、おれはじぶんの居場所が欲しかった。

   だからっておまえ、逃げるんじゃねえぞ、おれには調べがつく!

   逃げればおまえの家族だってただじゃおかねえからな。

   おれが紹介するから、おまえそこで働け。

   それとも金持ちババアのヒモにしてやろうか?──(喜んで!)

  金はいいです。とにかく帰してください。

   このホテル代だっておれが払ってるんだぜ、そうはいくかよ。

 やつはおれの鞄からノートを引き抜き、なにやら店やひとのなまえを書きだした。ひどい悪筆かとおもえば、きちがいみたいにきれいな楷書だ。地階の電話で、飲食店だかの番号を調べた。104に何度もダイアルし、そいつを書きとめた。見つからない店のほうが多かった。わずかな答えをたずさえて戻った。──おれの先輩がやってる店がある。おまえ、そこいけよ。ボーイの仕事だ。一生懸命働いて母親に仕送りでもしてやれ。そうしたら前に仲が悪いっていってた親父ともよくなるだろうしな。休むときはちゃんと連絡してこういうんだ、明日はがんばりますのでお願いしますってな。そうすりゃ認めてくれる。──さっきまでけつの穴にぶちこもうとした相手にいう科白か?──おまえには夢とかないのかよ?──詩人だ。──なんだそれ、小説とどうちがうんだ?──なにも思いつかなかった。──まあ、おれも駅前で酔って買ったことがあるけどな。いいちゃいいし、よくわからん。──ただただ時間が過ぎるのを待つ。──明日は早いんだ、もう寝ろ。

 やつは灯りを消した。肛門が痛みだした。やつは眠ってる。おれはまたしても急性胃腸炎にやられた。便所で嘔吐し、いきんでもいきんでも腹はおさまらず、夜通し便所にいた。肛門がただれるように温く、それはきっと紫をしていたにちがいない。逃げだすこともならず、紫色、それだけがあった。朝、ホテルをでる。具合はまだわるい。やつもまだ不機嫌そうだ。──これ、おまえが処分しろ。おれの裸を撮ったカメラだった。やつはやくざでもちんぴらでもなく、ただのおかまやろうかも知れない。──その鞄、ロッカーに入れろよ。

   まるで家出してきましたっていってるようにみえる。

  でも。──おれはためらった。

   でもじゃねえよ。

   ロッカーの金あるか?

 金はない。くそ。やつは朝餉を喰いに蕎麦屋に入った。おれは自由になったというわけだ。でもやつの裏切りは淋しかった。とりあえず駅の商店や古本屋を見てまわった。飯島耕一の「アメリカ」という救いようもなく、つまらない詩集があった。そのあと、もしものときをおもって交番へいった。とんでもないでぶの警官がいた。不機嫌な顔して立ってた。女房や子供に豚呼ばわりされたせいかも知れない。おれは話した。けつの穴と手淫のほかを。──それであなた、裸の写真を撮られたんだね?──なんの抵抗もしなかったのか?──仕事が手に入るならと。──カメラは?──返してもらいました。──ちょっと署のほうで、もういちど話してくれるかな?

 ふたりしてちかくの警察署へいった。若い刑事は軽装で、半袖のボタンシャツにジーパンだった。おれは取り調べのせまい室に入れられた。かれは20代らしかった。おれはもういちど説明した。飯場でのこと、やつの素性、仕事のことやなんか。犯された女のような気分だった。恥ずかしく、そしてけつの穴がむずむずする。警官は諭すようにいった。田舎に帰って仕事を探せ。でぶと一緒におもてへでた。

   高校はどこ?

  有馬高校です。

   名門じゃないか。──定時制であることはいわなかった。おれは高架下のルンペンたちに会いにいった。かれらは眠ってた。おれに気づかないふりをしてた。立川で森先生と会い、3千円を借りた。立川基地の跡を歩き、かれはおれの俳句についていった。──《帰らぬといえぬわが身の母捨記》、これ季語ないけど秋だよな。──おれは終夜営業のレストランで夜を明かした。金なんかすぐになくなった。母から金を無心しながら2日、3日を路上で過ごしたあと、夜行バスに乗った。窓をながめ、去っていく町をみる。そのまま夏は終わりかけてた。おれは、またしても失敗した。どうにもできなかった。夢、そして救い。なにかもかもが安普請の書割みたいにくずれていった。舞台くずし。陽炎座、あるいは。これからまた家での生活が待ってる。そして父も。光り。昏がり。《栄光への欲望はきみを捨て去るだろうか。それがきみを捨て去れば、それとともに、かつてきみを駆り立て、きみをして製作するように、自己実現するように、自分自身の外にでるように強いていたあのもろもろの責苦も姿を消し去るだろう。それらが消え失せれば、きみはじぶんの存在に満足し》──満足するわけがない。シオランはつづける。《自分の限界のなかに戻り、そして覇権と法外なものへの意志は克服され》ない。《廃絶されてしまうだろう。蛇の支配から逃れたきみは、もはや昔の誘惑のいかなる痕跡も、きみをほかの被造物から分かっていた烙印の痕跡もとどめはしまい》、いいや痕跡は残りつづけるだろう。それほど栄光の引力は強く、おれを呼ぶ。くそ。《それでもきみが人間であることは確かなのか。せいぜい意識を持った植物なのだ》──おれが植物なら、あんたはなんなんだ?──おれは蕪か、それとも馬鈴薯か、それとも豚草なのか。バスはやがて西日本に入った。滋賀のサービスエリアで尿(いばり)しながら、古い書についておもいめぐらす。夜、光り、そしてやはり夜。

 緑色の王国

 きみとファックしたいがためにぼくの死が準備される

 だってきみはこの世にはいないんだもの

 最后のインターチェンジ

 サービスエリアで使いを待ってるあいだ、

 ずっときみのことを考えてる

 

 使者は緑色のマントを来て

 はるばるテキサスから生田川まで

 ほら、高速の出口でさ迷ってる

 あの亡霊がそうだ


 ぼくがきっときみをファックするころ、

 あたらしい王国がダック・アウトにされちまう

 じゃあ、みんなレインコートを着な

 そいつでパーティにでかけようぜ


13/04/05



 帰ってからというもの、おれは小説を書こうとしてた。じぶんの体験したすべてを書こうと藻掻いた。父はそいつをやめさせようと、おれのノートを検閲した。なにが書いてあるか。じぶんが侮辱されてないかと探った。いちばんめの妹は、おれの詩をきれいごとと罵った。家族みんなが教養を持たず、他者の領域を侵すことしかできなかった。しかも質のわるいことに、それを正しいとしてる。おれはだれにも本心を見せず、抗った。夜の公園でヘッセは「荒野のおおかみ」を読み、ウィルソンの「アウト・サイダー」を読んだ。なにを書いてもものにはならなかった。題名や着想だけが浮かんでは消えた。11月の朝、おれは油罐に炭を入れ、火をつけた。そして横たわった。室に煙が充ちただけで死ねなかった。今度は殺虫剤を呑み込んだ。けっきょく何時間も嘔吐し、頭痛のなかで起き上がった。死ぬのはむりだった。1週間ほど頭が痛かった。

 もう詩を手放したいとおもった。そしてはじめから音楽を学びたい。ことばなんていうちいさなものにはかまってられなかった。詩は不毛でありつづけた。おれをひとから遠ざけ、人生から遠ざけた。こんなことやるべきじゃなかった。ヤマト運輸の求人を見つけて面接にいった。なまえを書くだけでよかった。おれは冷蔵倉庫で働くことになった。寒いなか、カブの鍵を失くした。おれは兵庫ベースまで歩くことになった。3日歩いて、それっきりだ。こんな僻地で歩いていけるわけがなかった。おれはひきだしをひらいて原稿用紙を取りだす。村下渉のことを小説に書いた。「おかまややろう」という短いのができあがった。おれはそいつを森先生へ送った。かれはいった、

   棄てろとはいわない、いまはしまっておけ。

   いま書くことじゃない。

 それじゃあ、いったいいまのおれになにが書けるというんだ?──まったくわからなかった。



 年があけ、まだ3ヶ日もあけてはなかった。いきなり父はおれの室に入って、給与明細をだせとわめいた。おれは働いてなかった。そんなものがあるはずもない。寝台や背中を蹴りあげ、暴君さながらに吠える父は醜かった。賞味期限の切れたパテみたいだ。おれはあてもなくカブに跨って倉庫街をまわった。うそでもいい、かたちだけでも明細をだしてくれるところはないか。あるはずもない。古買い屋や古本屋で時間をつぶし、ニッカ・ウィスキーを呑んだ。夜は早く、陸はしずかに暮れてる。ふと中学校にいってみた。夜。校門を登ってなかに侵入すると、消化器を見つけてあたりに噴射した。涙で眼のまえがいっぱいになる。

 それから酒を片手に丘を登った。小学校が見えた。そこからすぐ西へ折れれば友衣子の家がある。品があってきれいだった。世界でいちばんの大切な秘密、かの女を好きだということ。かの女を好きだったころの、その淋しさのすべてが溢れた。おれはなんのために生きて来たのか。どうしてこうも劣っていて、いまも何者にもなれずにいるか。友人?──恋人?──家族?──そんなものはどこにもない。くそ。つながれた、囚われものの自由しかない。くそったれ。みんなでおれをばかにしてなにが愉しんだ?──暗がりのなかでアクセルをかけ、一気に家まで帰った。親父なんか、殺されたって文句はいえまい。誕生は災厄でしかなかった。だれからも愛されない、やさしさのない世界なんかけつくらえ。道。泣きながら走り、家にもどった

 なにごとかを父は叫ぶ。もはや人語ではなかった。おれはそのおもづらを右の拳で撲り飛ばした。そして転がってた鉄の棒を持ち、暴君に挑んでった。──親を撲ったな、おまえ親を撲ったな! どうなるかわかってるんやろうな!──棒を奪われ、おれは靴のまま家のなかに入った。父のコンピュータを床に叩きつけた。そして食卓を蹴りあげる。女どもは白痴みたいに立ってるだけだ。おれはもういっぽん、「無頼」をあけて呑んだ。父がそいつを奪い取ろうとする。酒が零れてしまった。ちくしょう。このくそやろうめ。

  なにをする!

   酒呑んで暴れる、おれの親父にそっくりだ!

   親撲ったらどうなるか、よく憶えておけ!

 けっきょく父が怖かった。おれは蒲団を持ちだすと、森のなかへ入った。段ボールを柩みたいにかたちづくって、なかに蒲団を敷く。しかし雨が降ってきた。慌てて自治会館で雨宿りした。明けてから家にもどった。母だけがいる、──お姉ちゃんですら出て行け!──いわれてるのに。ちゃんとしな、あかんで。そう一方的にいわれて、どうにかなるやつがあるのか、おれには疑わしい。少なくとも姉は金と機会を与えられ、神戸大学じゃないか。おれには人格否定と暴力しかない。おれがつくった室のなかで、おれのつけた暖房を浴びてる。求人をひたすら捲った。救い主を求めて毎日めくった。おれが義務を果たすまで権利はないということだ。落ちこぼれには相応の罰を味わってもらう。憲法にある《勤労の義務》を果たしてない。でも《基本的人権》や《職業選択の自由》、《最低の文化的生活》はどこにいったのか? 《生存権》は?──2時に三田ボウルへいった。故買屋でパワァコミックス版「ルパン三世」全巻と映画「殺しの烙印」を売っ払った。

 夜のスーパーで時間を潰す。まえから薄々気づいてたけれど、アルコール中毒かも知れない。なにかあるたびに呑んでしまう。いまだってウィスキーを呑んでる。金がなくなっていく。どうしたらいいんだろう。あしたには面接があった。大阪だ。蔵書の処分も兼ねてた。不安だった。どこにいってもだめな気がした。おれは拗ねてた。物心ついたころからだ。ひとにかまってもらおうと必死だった。カブで帰り、公園に停めた。塒を求めて森を歩いた。雪が降り始めた。しかたなく自治会館の庇の下で横たわった。浅い眠りのなか、7時まえに起きた。室に本をとりにいった。でも面接先の控えを台所へ忘れてしまった。そとへでると雪が降り積もってた。カブは坂でスリップ。足を傷めた。使いものにならない。丘のうえまで押し、林道へ隠した。歩きだすも雪で転んだ。なんども、なんどもだ。バスに乗って駅に着いたときには午前10時をまわってた。あきらめて阪急ルートに決める。女の子がふたり話してるのを盗み聞いた。知り合いの男について陰口をやってた。

   原付きしか持ってない。

   派遣なんかやってる。

   就職をちゃんと考えてない。

 耳が痛かった。畜生。11時にやっと大阪。本の売れそうな店を探す。ひとつの店に入るも、店長が5時にならないと来ないといわれた。12時、おれは歩道橋をぶらついてた。女がやって来て、アンケートだといった。ファッションについての。おれは製薬工場の社員といううそでもって答えた。でも実際に面接を受けてる。雪の日だった。眼鏡を失ってその話は抵当流れとなってた。やがて日暮れ、本を売りにいった。けっきょく「映画評論シナリオ」も寺山修司も藤森安和もギンズバーグもパゾリーニもあわせて千円だった。200円でコーヒーを呑んだ。100円でチキンバーガーを喰った。面接先もわからないまま、それらしいとおもう街区を歩き、夜の列車で帰った。森の塒でじっと夜をあかした。おれはひとと話しがしたかった。少しでも語りたかった。おれに友人はない。自己を再認識し、相互理解を得ることもない。人生をちゃんとしたところへ移したい。手っ取り早く話し合い手を得るには仕事が必要だった。どうにもならなかった。わたしは作曲法を片手に曲をつくりはじめた。あるとき、祖父がおれの室に入ってきた。酒壜まみれの室を見ていった。

   呑むなとはいわんが、ちぃとは控え。

   それに働いてから呑め。

   働きもせんで呑むもんやらへんがな。

 1月19日、映画「探偵事務所23」の続編を見た。カブはおじゃんだ。父に見つかって後輪に細工がされてある。エンジンをかけても走れない。──疲れた。なにもかもがどうにもならなくなってきた。父のやる報復処置は、おれからやる気を奪い取った。不毛のなかの不毛。また雨が降りだしたとき、おれは空き家へ忍びこんだ。車庫だけはあいてて、自由だった。さっそく宿が決まり、蒲団やら本を運び入れた。金は母の財布から抜いた。小銭ならなにもいわない。1週間にいちどチキンガーガーをまとめて買う。夜になってミラーを読み、蝋燭の火で、日記を書いた。ものごとはわるくなるばっかりだった。当然。

 朝、家にもどった。母だけがいる、──またもお姉ちゃんですら出て行けいわれてるのに、だ。どっかにおれの聖家族がいるにちがいない。おれのための暖かな家庭があるにちがいない。そうおもって押し入れのなかで祷った。もちろんそんなものはなかった。母の金を1万くすね、父が帰るまえにおれは塒へもどった。蝋燭に火をつけ、腹這いになって本を読む。「北回帰線」だ。おれは半年までそこにいた。椎名麟三を読み、主要作品を読み終えた。雪も寒さもなくなって夏になってた。そんなときに家の主が家族とともに来た。シャッターがひらく。老人と娘と孫。弁解をして室のものを片づけた。

   あんた、何班なんだ?

  3班の中田です。

 ものはひどくたまってた。ウィスキーのポケット壜を山に棄てた。本とノート以外のものはほとんど棄てた。つぎの塒を探した。廃屋のガレージに決めた。そこなら30年放置されてるし、なかにはごみが棄てられ、寝転んでいれば表から見えない。でもすぐに父に見つかった。おれはガレージから引きずりだされた。

  ここはおれの家だ!

   おまえの家じゃない!

   まず家の掃除をしろ、飯ぐらい喰わせてやる!

 くたばりやがれとおもった。こんな美しくない世界なんかいつ滅んでもかまわない。

   おまえはどうするつもりや?

 まえにじいさんがいったように寺に入るよ。おれは根負けしていった。もう疲れ切ってた。だれでもいい、どこでもかまわない。おれの存在を認めてくれる、やさしさのあるところへいきたかった。祖父がさまざまな寺へおれを連れてった。信仰を学びたいとおれはいった。どっかの山奥の寺がおれを受け入れた。車の免許を取りなさいと住職がいった。おれは2ヶ月近くかけて免許をとった。ちゃらちゃらした若者でいっぱいだった。おれに勝手な渾名をつけて呼ぶものもいた。あいからわず、最悪なやつが寄って来る。最后に指導員から「おまえは免許を取っても1年は運転するな」といわれた。たしかに憶えはわるかった。寺に入っても飲酒と文学が問題になった。おれはジョゼ・ジョヴァンニ、ギャビン・ライアルやドナルド・E・ウエストレイク、リチャード・スタークに夢中だった。犯罪小説を企て、ノートいっぱいに草稿を書いた。そして隠れてはウィスキーを呑み、森のなかで惰眠を貪った。住職の娘がとびきりの美人だった。大学院生で、性格は辛辣だった。1度だけ腹の立つことがあった。住職の弟子が来て、おれに蒲団を畳めといった。おれはでたらめに畳んだ。

   ちゃんと畳め!

 男が叫んだ。くそ。その鍛えあげられたからだは土方のほうが向いてる。

   おまえ、お母ちゃんから教わらなかったか、畳み方ぐらい?

  いいえ。

   憐れな女だな。

 そう吐き棄てた。畜生。たしかにおれはそういった所作をまったく教えられずに生きてきた。母について擁護できない。けれどもそのいい草はなんだ?──おまえのなにがすぐれてるというんだ。三田で腥坊主やってるだけじゃねえか。くそったれ。1ヶ月しておれは寺を辞めた。どうしても作家になりたかった。父と祖父がやって来た。

  ぼくは作家になりたいんです。

   そうか、──と住職は頷いた。

   水上勉という作家が晴れた日は耕し、雨の日は本を読むといった生活をしていた。

   かれはいま幾つだったかな?

  少しまえに死にました。

 坊主が顔を顰めた。蝗でも呑みこんだみたいな顔だ。おれは父の車でうちに帰った。尋問がはじまった。父がこれからどうすると訊く。おれは、日雇い派遣にいくといった。祖父は、それから何年も寺へ詫び状を書きつづけた。どちらも、まだ生きてるのか、知らない。もちろんのこと。








 高度何メートルかで魂しいを見下ろす

      ひとのかたちをしたものや

      さそりのかたちをしたもの

        猫のかたちをしたもの

    かたちを失った多くのひとびと

   こいつは公共空間の夢に過ぎない


 さようなら日本、さようならアメリカ

      また逢うことのないように

    ぼくはぼくの魂しいを呑みこむ


         きみが失ったものを

        ぼくが見つけることは

         できるかもしれない

       でもぼくが失ったものを

    きみが見つけることはできない


12/07/08



 目醒めるとレッドネックが立っていた。もうひとり知らない白人も。白人は金というより銅色の髪をして、明るいテーラード・ジャケットだ。かれらに連れられて映画館のなかで話があった。かれらはそれぞれちがった電話で、ロージーに薬を売っているという、Yことイェーガーに連絡をとった。毀れた映写機からとつぜん、映画が流れる。「ポイント・ブランク」だ。ウォーカーが撃たれ、物語りが始まるところだ。そしてフィルムが静止する。知らない男が入ってきて、スーツケースをあけた。一見して紳士風のその男は細身のからだをねじるようにして椅子に坐った。

   ここいらの元締めはわたしだ。fiveと呼ばれている。

 fiveはいい医者だよとYがいった。いい精神科医だといった。Yは黒い髪をうしろになでつけてる。ボクサーくずれといった感じだ。──fiveがいった。「わたしは組織が欲しい。わたしの命令で殺しをやれば硬いだろう。この田舎だ。掃除はたやすいもんだ、日本人。──ひとひとり最高300までだ」。

 おれはロージーを助けたいだけだ。

 殺しはしたくない。

   そうはいかない、きみはもう立派な内通者だ。──話は決まったね、Y。──もちろんだ、five。──わたしの手に回転式と、自動式とが握られた。わたしには殺すつもりはなかった。だが、あきらかにあやしいのはYであって、ほかじゃない。わたしはいった。見せ金は?──ロージーの薬は?

   ばかをいうなよ。

   わたしはまっとうな医者なんだ。

   アンプルだってきれいなものさ。

 わたしはなにもいえず、かれの指示を聞いた。この映画館に関わる人間を消していった。ひとりひとりと。どいつもこいつもなぬけだった。平気なつらで地下鉄にいたり、競馬場で両足を伸ばしたり、死体になるか、Yの餌食になるかは、ほんとうにかれらの自由だった。このあたらしい生活にロージーは馴染んだ。じぶんのきらいなやつがぜんぶ殺されるって昂ぶった。たしかに1週間もすれば、らりらりのロージーを知る、淫売野郎がいっきに消えた。わたしは報酬を片手にロージーを抱いた。眠りそうになった。Yに狙われてる気がしてカウチから落ち、ラジオをつけた。モダン・ジャズ専門局で不安を掻き消した。わたしはかれを殺さないといけないのか。

 眼がさめるとからだがうごかなかった。ロージーが笑ってる。わたしに薬をやらせたらしい。床に縛りつけたれたみたいだ。わたしはカフカの虫を連想した。ロージーが林檎をもってる。やめるんだ!──やめろ!──声がでないのに叫ぼうとした。ロージーは仲間になって欲しいみたいだ。わたしのからだにぴったりとからだをくっつけて、酩酊のなかで一緒になった。気分がよくなってきた。10時間も経って薬は切れ始めた。シャワーを浴び、炭酸水をあけた。ロージーが口づけをし、わたしはわるい気分じゃなかった。電話だ。次の仕事がやって来た。

   ビルを殺れ。

 わたしは戸惑った。ロージーに話をした。──ええ、ビル伯父さんを殺してよ。──なにがあったんだ。──あいつらと一緒にわたしを嬲りものにした。──確かなのか?──わたしを疑るの?──おれにはわからない。──Yが手はずを整えるはずだった。しかし映画館へいったとき、そのビルしかいなかった。

   きみはまだいるのかね?

  Yがあなたを殺せといってます。

   きみは正気とはいえないな。薬で洗脳されてるんだ。わたしはだれの敵でもない。ただの予備役で、銃砲店の主なんだ。──そういったせつな、かれはわたしの首に両の手を突っ込んで来た。首をロックして、扉へ叩き込む。どうすることもできない。わたしははかれの足を蹴ってあいだをつくる。そして空砲を撃った。

   きみがおれを殺す理由は?

  Yしかそれを知らない。

   なぜだ?

 わたしはきっと連続する殺人であたまがおかしくなってるんだ。Yを呼ぶべく電話をとった。──いったいどういうつもりがあって、ビルを殺さなきゃならない。やつはロージーを監視してる。この町からでられないようにだ。

  あなたがやったらどうだ?

   そんなにその老いぼいれが大事か?

  そうじゃない。おれの目的とはちがうんだ。

   目的なんか必要ではない。──待ってろ、おれが殺してやる。

おれはビルにいった。逃げるならいまのうちだと。──おれは保安官だ。やつらには負けん。だがおれがやったことは赦されないだろう。ロージーに眼をつけたのはおれだ。かの女に電話してハンクが危険だといったのもおれだ。いまさら逃げてどうなるんだ。──ビルは映画館へ失せた。わたしはホテルに帰った。ロージーは、グラスをやりながらわたしを待ってた。わたしもグラスをやり、ふたりで一緒になってしまった。これでいい。これでいいんだとじぶんにいった。いまごろビルは処刑されてるだろう。知ったことじゃない。でもわたしは殺人には飽き飽きだった。ロージーを連れだして逃げたい。でも村はやつらでいっぱいだ。five、Y、もしかして全員殺さねばならないのか。またも電話があった。なまえの知らない声のあと、また知らない声がした。

   きみが殺し屋の日本人か?

  ああ、そうだろうな。

   きょうはビルが死んだ。

  あれはおれじゃない。Yとfiveが殺った。

   連中が?──どうして?

  かれらに聞いてやってくれ。

 日本人、かれらを殺す気はあるか?──でないとこの映画館がもたない。のっとられる。

  fiveはそのつもりだ。──とりあえず主要人物をぜんぶ映画館にあつめてくれ。──いちど話しをしよう。おれはホテルの地階に降りてビールを買いにいった。帰ってきてエレベータを待っているときだ。だれかがちかよってきた。ロビーの年老いた黒人だった。わたしの肩に片手を乗せ、苦い笑みをみせた。またか、とわたしはおもい、身を躱す心づもりをした。かれはいった。

  あんたがどういうつもりかは知らない、知りたくもない。

  あいつらは、──組織といえばいいのか、

  もとはといえばおれたちを私刑し、

  奪いとってきたやつらだ。

  その果てが組織だ。役人やら警官を抱き込んでる。

  あの映画館だってもとは、おれのダチ公がやってたんだ。

  いいかい、日本人。

  おまえが組織につくんなら、碌な死に方はしないだろう。

  やつらを潰したいなら、いつでも相談してくれ。

  じゃあ、愉しい旅をせいぜいやっておくれ。

 一方的に喋ってでていった。かれの顔の片面には、ふるい火傷の痕があった。いったい、どうすればいい。助けを乞うのはたやすい。でも、それがだめだったら。失敗に終わったら。ロージーもわたしも生きてはないだろう。黒人たちだって無事では済まない。わたしはエレベータに乗り、そいつが成層圏に達するまで待つ。生憎、最上階は8階だった。なにも考えたくはない。ビールをあけ、ひとり呑んだ。 









 雪は11匹の

 うなり

 宝ものみたいな足音といっしょ


 もしくぼくに息子がいたら

 馬をあげる


 もし娘がぼくにいたら

 猫をあげる


 飛び上がる声が

 知らない近所の娘をしてる


 もう少しで

 何もかもが家庭という墓場に吸い込まれ

 見えなくなっていくのだから

 ぼくは幸せさ

18/02/39



 フルキャスト三田支店で登録した。最初にあてがわれたのは神明倉庫のピッキングだった。雨のなか、傘もなく、岡場から流通センターまでバスでいった。雨は激しい。伝票通りに米袋を台車に積み、おもてに並べる。たったそれだけだったが、荷崩れしないように積むのはむずかしかった。最后に台車をラップに巻いて終わりだった。みんな疲れ切ってた。ひとりの30男がラップの巻き方ができてない!──そうわめき、地面にあったラップを蹴りあげた。どうしてこんなくそ仕事で怒るのか、わからない。

 ヤマトでのメール便仕分けや、冷蔵倉庫、食品工場、チョコレート工場、ミネラルウォーターの箱詰め、日用品の仕分け、だいたいそんなところにいった。でもけつをわることも多かった。朝、集合場所にいっても合流しなかったり、途中で帰ったり。支店長からあと1度でもやったら出禁にするといわれた。おれは半年、我慢した。大晦日、コンビニ商品の仕分けをあてがわれた。夜勤だ。おれが仮眠をとろうとすると父が喚いた。いちどきりの夜勤に仮眠はいらないということだった。意味がわからない。おれは森のなかで眠った。40分と半分かけてテクノパークの「ウエダ」という倉庫にいった。仕事は簡単だった。コンビニ商品の仕分けだ。店舗ごとに品物をふりわける。時間は長かったが、なんとか熟した。途中で帰った男がいた。仕事のやり方で注意され、いなくなった。おれは8千円を手に入れ、はじめてカティ・サークを呑んだ。金が尽きた。

 夏になってフルキャストには飽きてきた。Tシャツの購入を強要されるのにもうんざりだった。あるとき、ヤマト運輸へいった。みんながフルキャストから買った1枚500円のシャツを着てた。老人がいった。

   なんでおまえはシャツを着てないんや?

  洗濯にだしてるんですよ。

   ここではフルキャストのシャツを着る、

   それがフルキャストのルールや!

 老いぼれは支店に電話をし、おれが働けるか問い合わせた。目立たない格好であればということだった。けれども卑怯なことに半年後、やつらはシャツの購入や保険料を強要したことはない、事前に説明もした、同意のうえだとほざきやがった。ちくしょう。──男妾どもめ!

 おれはシステム管理業務とやらに手をだした。8時間と16時間の交代制だった。倉庫で知り合った相馬という中年には「やめておけ」といわれた。でも倉庫で稼げないのがわかってた。長い研修のあいだ、おれは隠れて「雨季の象形」、「光りについての短詩篇」というふたつの詩を書いた。業務はきつかった。郵便事業の下請け。時間通りにくそ長いコマンドを入力し、ふたりで確かめてエンター・キーを押す。8時間はなんとかもった。16時間はどうしようもなかった。はじめは休憩ばかりだった。それが朝方になると、みんな大忙しで、媒体投入やコマンド入力をやった。脳みそが羽根を生やして、そのまま飛んでいきそうだった。疲労と眠気でおかしくなる。それでも週払いで10万近く入った。でもおれにはむりだった。そのあと2日働いてやめた。父が金を入れろとうるさかった。おれは有り金の3万をくれてやった。いったいなにに遣ったのか、いまでもわからない。おれは大阪野音でエレファントカシマシの20周年記念特別公演を見た。音響がいまいちだった。息継ぎもひどい。特に「うつらうつら」はひどかった。

 秋になっておれはへルキャストにもどった。カタログの仕分けや、ハム倉庫の仕分けがあった。前者では破損品の酒を、後者では展示用の塩漬け肉を戴いた。それから長期の案件で照明器具の倉庫にいくことになった。オーデリックの下請け、OSS西宮物流センター。いまはもうない。おれはスポットで1回来ていたが、へぼな運営のせいで遅れてしまった。経験者のやろうがけつをわり、道案内がいなかった。それに元請けのなまえすら教えてくれない。運営は電話で道案内を試みた。おそらく地図を見ながらだったんだ。第3公園の手前だといった。でも実際にはヤマト運輸の斜向いだ。おれは賃金を減らされた。支店の人間は調べるといったが、答えは永遠になかった。

 おれは2階に配属された。いちばんきついところだった。入庫も出庫も数が凄まじい。フロア・リーダーの東はおれを憶えてた。遅れてやってきたくずだと知ってた。やつは一見にこやかに見える。しかし青白い肌と濃い髭の剃り跡が不気味だ。しばしば冷たい顔でおれをなじった。あとは女3人。中年女がふたり、そして中窪由里というおなじ23歳の女の子がいる。かの女はうつくしかった。かの女はいつもつらそうだった。おれは早く仕事を憶えてかの女を支えようとした。それでもおれもかの女も週に2日は休んだ。出庫はどうってことはない。でも朝の入庫と棚づけはどうしようもなかった。やがて中年女はひとりに減った。激烈な数の品物が入ってくる。どこの棚につければいいか、それもわからない。品番も順番もでたらめだらけだった。それでも東は「早く、速く」と急かす。そしてつまらない冗談をいってたり、おどけたり、その度におれに同調を強いた。それでも眼鏡のなかの細い目は笑ってない。雨の日、カブが動かなくなった。雨の日はかならずだ。それでも父はこれに乗れとうるさかった。おれは中古でジョルノを買った。こいつはよく走った。代金は母に払わせた。おれは笑いを強要された。うんざりだ。東はほかの連中の陰口をいい、同調をうながした。うんざりだ。帰りに赤坂峠の居酒屋に寄った。店主は口髭を生やした老夫で、かつては生野に棲んでたという。かれによれば、表の駄菓子屋の主人は数年前に自裁したという。ちいさいころ、よくいってた。

 1月。雪が積もった。父はおれに姉の車のタイヤ交換を命じた。おれにだって仕事があるのにだ。ジャッキで車体をあげ、ボルトを外す。そして、ひとつづつタイヤを外し、冬用に換えた。そしてボルトを締める。おれはどうやって仕事にいこう?──スクーターじゃだめだ。もしかすれば姉が乗せてくれるかも知れない。そう願った。しかし姉と父は走り去り、おれは歩くことになった。遅刻は決定だ。おれは1時間かけて職場にいった。その夜、父はかんかんだった。ボルトの締めが甘いとわめいた。事故になったらどうする!──もちろん、姉から感謝すらなかった。

 夜、室のむかいの小屋で父はずっとなにかをやってる。大きな窓のせいで光りはもろに入るし、気になって眠れない。深夜になっても終わらない。当然、あしたも仕事だ。おれはthe Doorsを聴きながら、そいつが終わるのを待ってた。父が怒鳴る、──その変な音楽をやめろ!──おれはやめなかった。さらに音量をあげた。やつはおれの室まで突っ走り、怒鳴る。やつは呑みかけのかけの紙カップを投げた。おれは立ちむかって、やつを罵る。拳をふりあげる。母が降りてきた。ふたりのあいだをわって入って来る。翌る日、室にはカーテンがかけられてた。

 あるとき、中窪さんがおなじ道場町に棲んでるのがわかった。かの女は宮崎からひとりで働きに来たらしい。最初はキャディをやり、それからアパートを借りたという。おなじ世界にこんなかわいい娘がいるんだ。おれは熱くなった。年があけて外部から男がやって来た。フロアの改善のためだという。やつは歩き回り、ひとりごとをぶつくさやって消えってった。なんのために来たのかはわからなかった。そんななか中窪さんが辞めるという話しをひとづてに聞いた。おれはジョニー・ウォーカーの緑を買って、涙とともに呑んだ。好きなラジオ番組「真夜中ラジオ・ユアーズ」も終わりだった。翌日、かの女は来なかった。おれは荒れた。入庫の品を潰してまわった。出庫場で、福山通運担当の童顔ちびにからんだ。調子乗んなや!──やつは声を荒らげた。酒量は日毎に増える。ロッカーに清酒を入れた。東のやろうから圧力がかかって来る。かの女がやめるという日、おれはかの女にいった。

  寝不足なんだよ。

   わたしも夜明けまでゲームしちゃって。

  夜通しギターの練習をしてたんだ。

  Doorsってバンドの曲だよ。

   洋楽?

  そうだよ。

   むつかしそう。

   わたしも高校のとき、バンドやってたよ。

   ベースとギターまだ持ってる。

   最近ゲームばっかりだけど。

 おれはそのとき、ひどい肥満体だった。でもかまうもんかだ。その日、さまざまところでかの女と話した。どうせ最后なんだ。なんだってありじゃないか?──ちがうか? おれはだす予定もない本のゲラを渡し、かの女とわかれた。最後の頁に「好きでした」と書き殴った。かの女は「またね」といってくれた。もうこの仕事ともおわかれだった。翌る日、福知山線に乗ってどっかの無人駅までいった。雨が降ってた。翌日、東はおれをちびとともに嘲笑った。仕事がはじまってすぐ、やつが追いかけて来た。

   おまえ帰れよ!

   やる気がないんやったら帰れ!

  知らねえよ。

   おれ、年上やぞ!

  知るかよ。

   中窪さんが辞めたんや、休まれたら迷惑や!

   おまえ、次の仕事じゃちゃんとせえよ。

 おれは定時にあがらされた。まだまだ仕事はあった。帰って電話が来た。支店長からだった。おれは馘首になった。ハーパーを呑みながら、さっそく会社に乗り込んで、ありったけを喋った。おれは中窪さんが好きだといった。東がほかの連中をわるしざまにいってるとも。最期に本をだすといった。金城という上司が「でたら絶対に買う」といった。酒に酔ったままジョルノに乗った。グリーンハイツへの登る坂で、転んでしまった。星。まえの車が停まってひとが降りてきた。

   さやちゃんのお兄さんですか?

  どうしてそれが?

   顔が似てるから。

 ライトの縁が割れた。おれは帰ってみずからを慰めた。仕事を喪ったのを父にいうつもりは、はなからなかった。いつも通り。隠して、ばれるまで黙ってた。あるとき、酒を買いにでた。量販店のちかくに飯場があった。まさかこんなところに。おれはさっそく話をしにいった。仕事が決まった。けち臭いところだった。室の暖房もテレビも1時間につき、100円だ。原付きを置くのでさえ金をとられる。2月の寒さのなか、おれは耐えた。仕事は三田で、古い側溝の表面をモールドで削る作業だ。一緒になった池田老人と岡野さんと打ち解けた。でも1週間しか持たなかった。無断で寮をでて、かつてスーパーマーケットだった廃屋に入った。塵箱のなかに塒をつくった。ビールケースと段ボール、毛布を持ち込んだ。寒くて眠れなかった。ちかくの量販店で、ほとんど毎日酒や罐詰をくすねた。岡野さんがときどきやって来て、飯を喰わせてくれた。でっぷりとした50過ぎの男だ。ずっとこの手の仕事をやって来たのか、そいつはわからない。

   ええ仕事があるんや。──かれは播州訛でいった。

  どんなんです?

   造船や。

   とにかくきみのことが心配なんや。   

 紙になまえと住所を書かされ、かれはファックスでそいつをどっかに送った。あやしかった。そんなとき、ほかの派遣屋にもいった。頼みの冷蔵倉庫の案件はすぐに終わって、喰い扶持がなくなった。加古川にある印刷工場ぐらいだった。おれは何度も母に無心した。3千円、あと2千円。母がもうださないといったとき、おれは怒り、厨の鍋を床にぶちまけた。夕餉がむちゃくちゃになった。いちばん下の妹は泣き叫んだ。それ以来おれを憎悪してる。

 またしてもおれはヘルキャストへ仕事を乞うた。6日経って、あたらしい仕事が決まった。キムラユニティーの倉庫は鹿の子台にある。10日契約だ。ひろくて、きれいな倉庫だ。まえにもきたことがあるのに気づいた。そのときは稼働前で、物流レーンの動作確認をしてた。おれは入ってきた荷物を台車で運んだ。そして種類別にパートタイムの女たちへ渡した。ときにはエレベータに乗って冷蔵室に入れることもある。楽ちんなものだった。みんないいひとたちばかりだった。はじめて気持ちよく、仕事ができた。冗談をいいあったり、時間があいたときには倉庫内の清掃もじぶんからやった。朝7時半から16時半までの仕事だ。

   ナカタくん、うちに直接雇用で来ない?

 フロア・リーダーの岩嵜さんがいった。うれしかった。でもおれには家がない。父に家賃を払うのも癪だった。そしてヘルキャストの規定では、派遣先との直接雇用は背信行為として禁じられてた。おれは断ってしまった。これこそ人生最大の愚策だ。食堂へいって飯を喰う。高校の後輩がひとり働いてる。堀井という陽気なやつだったけど、いまでは物静かな男に変わってた。おれがだれかということも気づいてないらしかった。やがて契約を満了した。フルキャストの営業におれは感謝をされた。会社のイメージをよくしたと。だからどうだっていうんだ?──職場のひとびとにもう会えないのがさみしかった。金を受け取って、虚無を感じた。雨が降ってた。おれは綴木智恵美と再会した。

   ナカタくん?

  ああ。

   なにやってんの?

   派遣?

   わたしも派遣で働いてんの。

   ナカタくん、肥った?

  ああ、そうだよ。

 おれはものを盗んだ。ミチコ・ロンドンの革財布だ。しばらく捕まるかどうかで怯えた。それから神戸市立図書館の分室で、おれは本を漁った。なにかおれの心にあったもの、よく似た魂しいを探した。そのとき、ブコウスキーという作家を見つけた。数ページを捲ってみた。わるくない。「町でいちばんの美女」、「勝手に生きろ!」、「ポストオフィス」──どれもがおれにむかって語りかけてる。そのとき岡野さんから電話がかかった。おれは渥美組という飯場にいたことにしてた。2万入ったというと、たったそれだけかといった。おれはこの金でまっとうに仕事を探すべきだった。しかし甘言に従い、岡野さんとともに、芦原橋まで来た。あたりはずっと雨で、仕事はない。呑み代で2万は消えてった。真鍋呉夫を読みながら、俳句をつくった。1週間、仕事はなにもない。あるとき、社長がおれを呼んだ。

   京都にいってくれるものを探してるんや。

 京都ですか?

   茶畑の仕事や。

 もう入ってから7日が経ってた。寮費も溜まってる。おれは高槻支店へ移った。丘のうえでまたしても仕事を待った。なにもない。酒を呑み、本を読んだ。犯罪小説のあらすじを書いた。世界におれの居所なんざない。落ち着ける場所は、おれのなかにしかなかった。おれは丘を降り、図書館をみつけた。ブコウスキー、あの作家が待ってた。「パルプ」を持ちだして読む。おもしろい。主人公ニック・ビレーンの無軌道ぶりが素晴らしかった。酒場やオフィスでのいざこざが、その言葉づかいがおもしろい。でもおもった。こんなものを読んでてなんになるのか。2週間仕事がなかった。やっとあてがわれたのは住宅のコンパネ外しだった。汚らしい男と電車で現場まで。炎天のなか、家の土台からバネルを剥がしつづけた。暑さであたまが膨れそうになる。水を何度もあたまにかけた。

 岡野のやろうから電話はなかった。ようやく来たときやつはべつの現場でずぶ濡れになったとか、どうでもいいことを喋った。仕事はどこにある?──それから幾日経って、茶畑の仕事が来た。田村という若い男と一緒だった。かれとの話は気分がよかった。昔バンドをやってたことや、自動車工場で働いてたことなんかを聞いた。うまくうちとけた。そのいっぽうで畑仕事はきつかった。傾斜をあがったりさがったり。これじゃあ、腰を痛める。2日めが終わったころにはおれを外す話しができてた。寮費の滞納で日払いも貰えず、おれは怒って農家に電話した。働いたぶんの金を貸せといった。すると今度は営業から苦情が来た。振り込め詐欺と呼ばれ、仕事あるある詐欺だと返した。あらんかぎりの悪態で答え、おれは室の荷物を持って三ノ宮までいった。どうやったら居宅保護を得られるか。市役所にいくと、灘までの切符を渡された。無料宿泊所があるという。おれはいった。施設はふたつにわかれてて、その日泊まるだけのものと、死ぬまで過ごすだろう老人たちがいた。朝8時、おれは実家に帰った。家の仕事をさせようと父が待ってた。うんざりさせられるばかりだ。おれはスポーツ新聞を買って、求人を見た。岡野に電話した。やつは仕事の紹介を露骨にいやがった。愛媛にいるらしい。おれはやつから1万円をせしめた。そいつとはそれっきり。なんとも湿気た話だ。



 ひさしぶりに北六甲台に来てみた。スーパーマーケットで数回、葡萄酒を盗んだ。おれは小学校のまえをうろつき、塀のむこうを見た。学童たちがわいわいやってる。課外授業かなにかだった。もうとっくに20歳の年を過ぎてる。タイムカプセルや同窓会といったあつまりにも呼ばれてない。気分がわるかった。悲しみがこみ上げてくる。たまらない。だれもかれもおれをきらってる。葡萄酒をもういっぽん盗み、公園のベンチに横たわった。子を連れた母親たちが眼につく。起きあがって壜を干す。坂をあがった。酒屋のまえで買ったビールを呑んでた。そのとき、パトカーが来て、眼のまえで停まった。降りた警官どもが慌ただしくおれを囲む。なんなんだ、いったい。

   通報があって来た。あたりをうろつく不審者やと。──こういうとき、モリエールならどう考えるだろう。

  おれには関係ない。

   関係ないことないやろう。

   子供をじろじろ見とって。

  憶えがないですね。

   とにかく話聞くから、車に乗れや。

   おまえ、どっから来たんや?

  あれで。──おれはジョルノを指差した。けれどすぐにごまかした。車に乗って山口幼稚園にほどちかい交番へ連行された。──おれはビールを呑みつづけた。やつらはおれの鞄のなかを調べた。あるのはノートと点鼻薬のみだ。背の高い、がっしりとした警官がニタニタしながら尋問にかける。──おまえ、あそこでなにしてたんや?

  母校のそばを散歩してなにがわるい?

   ふざけんなや、おまえが子供をじろじろ見てたって聞いとるんや、

   ほんまはおまえ、小さい女の子が好きなんやろ?

 やつが顔をぎりぎりまでちかづけていった。おれはかぶりをふった。怒りと辱めでなにもいえなかった。──ええ加減にせえや、おれらは手加減せえへんぞ!──やつがおれの実家について訊く。おれはでたらめな住所をいう。やつらはおれのビールを奪い、屑入れに叩き込んだ。20分ほど経っておれは観念した。住所と電話番号をやつらに伝えた。さらに30分して母が来た。母はおれに放浪癖があると宣った。こんなことがまかり通っていいのか。おれはジョルノを停めた歩道に向かわせ、降りてそのまま跨った。ふり返りもせずに去った。当然のことながら行き場はない。数日しておれは家に帰った。金もなく、盗みをやる気にもなれなかった。またしても父が命令を下す。

 きつい家の仕事が終わっても勞ってくれるものはない。おれは夕餉に着いた。食べ終わると妹がわめいた。「皿を洗え!」。うるせえ。じぶんでやればいいんだ。父は姉妹にも仕事を与えるといったが、それは永遠になかった。姉妹の室をつくり、空調をつけ、窓ガラスを嵌めても、ありがとうのひとこともない。おれはそんなことがあたりまえのところになんかいたくなかった。おれだって生きてて存在がある。だのになぜここまで追いつめられなければならないのか。1度落ちたものは1生そのままなのか。

 あるとき、おれはジョルノを廃車にしてしまった。丸坊主でブレーキが効かず、そのままフェンスに突っ込み、フレームを曲げてしまったんだ。せっかくの足もなくなってしまった。田舎暮らしは楽じゃない。名塩駅まえの公園で夜を明かした。また大阪で仕事を探すことにした。新聞の求人があまりあてにならないことはわかってる。大阪駅前ビルの地下でそれをおもった。「アシスト・パワー」の人足寄場から多くのひとがでていった。ここに仕事なんかねえと。でもおれはしがみついてた。これ以上どっかにいくのに疲れてたし、金がなかったからだ。軽作業の名目で門真まで連れてかれた。せまい室のなかにマットレスのない寝台、テレビがある。扉には覗き窓があった。寝台におれは坐ってモリエールを読んだ。「いやいやながら医者にされ」だ。あるいはシェリダンの「悪口学校」を。夕暮れ、食堂へ降りた。事務所にはおれの仕事が来てた。トラックの運転、それも相野まで。面接でいったはずだ。運転は不得意だと。ちゃちな耳輪をした男がほかにやれるのがいないといった。なんの保険もなしに他人の車を乗るほどおれもばかじゃない。朝になって断りにいった。それが恨みを買った。まったく仕事をもらえなくなった。おれは服を着て夏帽をかぶり、階下へと降りた。セメントづくりの小屋で老人夫がシャワーを浴びてる。窓ガラスもない。丸見えだ。

   あんたも仕事なしかい?

  ええ、入ってひと月もね。

   おれは3回だ。これじゃあ、どうにもならん。

 寮の無料期間がきりぎりに迫ったころ、ガラス工場の仕事が入った。機械の移転前に、手作業で材料を運ぶ。室内は暑く、休憩は20分ごとだ。分煙用の仕切りがある小屋のなかで休んだ。休憩室のテレビジョンは子殺しを報せてた。またか、とだれかがいった。おれにも憶えがある。公園で母親にやられたのがあったっけ。今度は雨のなかで少女が死んでたという。雨のなかのひと殺し、──レイモンド・チャンドラー。どうだっていい。

   どうせ、また母親がやったんだろ。

 水を呑みながら始業を待つ。飲みものを買う金もなかった。拾いものの、ペットボトルに水道水とくる。まあ、どうだっていい。とにかくガラス工場は機械を入れ替えるあいま、手作業で材料を運ぶやつらを欲してた。うなりながら熾き火を秘めた釜のまえに、天井からダクトが降りてる。材料のガラス片はそこから落ちてきた。はじめは少しづつだったのが、しだいに大きな流れになった。スコップではどうにもならなくなって、ベルトコンベアがおれたちの手で運び込まれた。流れてくる材料をスコップでさらに奥へと掻きだす。高熱のなか、ひとつきりの幸運は20分ごとの交代だった。おれはすぐにばててた。きらめくくず山をみつめ、呼吸を整えようとする。そのとき、老人が怒鳴る。──おまえも動けよ!

 休憩室で声をかけられた。

   きみ、いくつ?

  24です。──若いってことがなにか罪悪のようにおもえた。男の顔は赤黒く、疣があった。ちいさな疣だ。

   ほかに仕事なんていくらでもあるだろうに。

  ないですよ、宿なしじゃ。

   夢とかないの?

  詩とか短歌とかでなんとかやっていきたいですね。

   小説は書かないの?

  ながい文章は苦手なんですよ、

  書きたいのはやまやまですが。

 その日のことが終わると、下着まで濡れてた。びたびたと皮膚にくっつき、歩きづらい。われわれのワゴンの隣には、ラリー仕様のミニ・クーパーが深緑して坐ってた。おれは水を呑み、べつの男が喋るのを聞いた。車は南にむかって走る。──おれがきみの齢のころはあぶくでな、どこにいっても大金で雇ってくれた。面接で「おまえ、いくら欲しいか?」訊かれて、「50万」っていったら、むこうは「雇ってやる!」。そんな調子で毎晩、高級な酒場にいって味もわからねえたかい酒を呑んだ。家も2件建てたし、息子もできた。なにやってもうまくいく、いい時代だったな。──かれはまるで今日の一切がないかのように話しつづけた。かれの家族がいまどうなってるのか、どうやって飯場に落ちたのかがおれのあたまに残っただけだ。

   きみはまだ若いんだ、パチンコ屋の棲みこみになればいい。

 おれはほほ笑みで応え、眼をそらした。これ以上我慢ならなかった。寮にもどるとふたたび狩りにでた。5つもまわって壜いっぽんと、パン1個しか得られなかった。そろそろ潮時らしい。おれは食堂にいってカレーライスを喰った。だれかが見てるような気がした。事務所へいっておれは前払いのぶんをとりにいった。2千が手に入るはずだった。

    まだ1度めの出勤ですよね?──ええ、そうです。

   それなら前払いは千円になります。

   5度以上出勤すれば2千円だせますよ。

 逃げだす金も得ることもできなかった。翌日もおなじところに派遣されたが、それきりだ。まだ何日もそこの仕事はあったが、おれだけはずされた。営業曰く苦情が来てるという。いくら力を使ったところで、ないものはどうしようもないことに気づいた。

 なんとかあたまをさげておれはうんと遠くの、廃棄物の処理にあてがわれた。飛び交う蠅たちのなかで塵芥を仕分けるのだ。まずは空き罐だ。とにかく臭かった。くさった液体がそこらじゅうを流れ。おれの顔に飛びかかる。そこへ蠅がおれの口や耳の穴にむかってくる。──さておつぎは家具や鞄や買取不可のおもちゃどもだ。材質ごとにでっかい箱にわけていく。ウィスキーをみつけた。でもだれかが持てってしまった。とにかくおれはのろくさかった。たった1日、北へむかっただけでお払い箱にされた。仕分けられたのはおれ自身だった。おれは町へでた。図書館があった。万引き対策の本をみつけた。たしかこんなことが書かれてあったともう。──犯人は世間とはずれた、あるいは汚れた服装をしている、とあった。おれは便所へいって自身を鏡にみる。靴がそろそろお役ごめんだ。その夜さっそく靴屋にでむいた。手に入った。

 昏い室に入り、とがった皮靴を磨きながらおもった。これは生きた気分じゃない。死んだものの気分だと。入寮以来はじめてテレビジョンをつけ、夕べのニュースを眺めた。自殺の話はない。靴屋の話しもない。そしておれの明日についての報せもなかった。よい気分ではないが、そうもわるくない。死体もわるかない。おれはズボンを降ろし、シャツを投げた。じっくりとまたぐらをつかみ、おもいうかべた。むなくそのわるくなるほど照明の効いた室で、まず装飾つきの木椅子がおかれる。2脚だ。いっぽうにおれが坐る。そこへ20歳過ぎの童顔の女が現れる。とにかくばかげた、幼稚なかっこうをしてる。お帽子つき。少女めかした、そのおもざしがおれをやさしく蔑む。ふいにかの女の御足がカッとひらめいた。ぬかるみを通ってきたかの女の白い運動靴がおれのまたぐらをしっかりとらえ、おさえつけてる。おれはそのまたたきに茎を温くさせられてしまい、──あとはかの女のされるがまんま、しかし仕返しはたっぷりとくれてやる。2回戦。引き分け。薄洋紙がなくなった。疲れているときにむりな射精はしてはならない。それを忘れてた。肛門から痛みだして便所へ駈けこんだ。いきんだ。なにもでない。いきんだ。なにもでない。でそうなさわりがある。この症状のなまえを教えてください。24歳、男性、当方無学。だが1時間ほどでそれはやんだ。手加減してくれたんだ、だれかが。残ってた酒をきめ、もういちどかの女と姦りあおうとしたが、勃たなかった。身を横たえて深夜まで眠った。次の日、ほかの口入れ屋にいって仕事を求めた。パナソニックの工場があった。どこもくそったれな携帯電話を要としてた。そんなもの、もったこともない。しかし面接のことをうっかり営業に話してしまった。

   つまりここをでたいということだね?

  それではどこもやとってはくれません。

 あくまでここにいて金も貯めて寮費も清算したかった。おれには苦情がたっぷりでてた。とりつく島もない。生きていくにはどうすればいいのか。

   でもきみはまだ若い、ほかにだって当てはあるやないか?

  ぼくだって、広告に「軽作業」とあったからここに来たんです。

  文なしでそとにでたら死んでしまいますよ。

  給与、払ってくださいよ。

   もう寮費でなくなった。

 黙っておれは7階にひっこんだ。ふたたび温くなった、またぐらをもみしだき、勃たせようとした。しかしおれの内なる女らは、みなそっぽをむいてた。しかたなく、階下へでると、狩りにでかた。その日は白葡萄酒を呑んだ。贋キャビアもおまけだ。翌日になって営業の男がおれを訪ねた。色黒で髪を逆立てた、眼の鋭いのが、おれを見据えていった。──いま、何人ものひとにいってまわってる、──退去してくれるひとを。芝居がかった、癪な喋りだった。

  でもぼくは文なしですよ。

 男は財布をだして千円札をだした。

   これはおれのポケットマネーだけど。

 おれは受け取ってしまい、おまけにやつのだした、自主退寮者のリストにもなまえを書いた。その日のうちにでていかなければならない。しばらくして雨が降りだした。おれはまたでかけてウォトカを盗みだした。雨が激しく降った。おれはでるしおを喪い、唐辛子入りのウォトカを呑んだが、いっこうに酔わせてもらえなかった。しかたなく鞄を手に入れにいった。翌日の朝、月曜日に営業の、ほかの男が室をあけようとした。おれは鍵をかけてた。覘き窓から男が声をだす。

   なんでいるんや!

 おれは寝台に横になってそれを眺めた。けっこうな眺望だ。まるい眼の男はわめく。

   きのうまでだっていったろうが!

   なんでいるんや?

  雨が降ってたんですよ。

   そんなの関係ない。

  でもあれじゃあ、でられない。

   関係ない!

  おれは金だってないんだからな。どうしようもないんだ。

   とにかくここをでろよ。

 おれは芥葛を冷蔵庫に隠しておもてへでた。1階の階段のうらへ立ってたら、やつは芥袋をもって降りてて来た。よう、とおれはいった。やつは怒って携帯電話を握った。

   はよう、いねや!

  イネ?──どういう意味だ?

   とにかく失せろ、警察呼ぶぞ。

 やつが携帯電話に手を展ばした。おれは逃げた。おれに千円くれた、営業に出会した。やつのつらは涼しげだった。

   いまからでるのか?

  ええ、そうです。

   なんとかなりそうか?

  さあ、わかりません。

   でも若いんだからな。大丈夫だ。

 おれは終始笑顔で答えた。やつはきっとおなじような科白を携えて、また千円で追いたてにいくところなんだろう。けちくさいくそやろうどもだ。そのうち、やつらの本社がみえ、女子社員がでていくのがみえた。とろくさい顔だ。でもじぶんじゃいいとおもってるくちだ。日の光りがいまいましかった。公園の便所にいって顔を洗った。そして夜を待つ。腹のぐあいがわるくなってた。上腹部が脹れてるようなさわりがある。残った金でポカリスエットを買い、呑んだ。なんにもよくならなかった。夜になって、おれは量販店へいった。酒は呑めそうになから、ダンボールをもらうことにした。

  おもてのダンボールをひとつ欲しいんですが。

   あれは購入されたお客さまのためのものでして。

  お願いします。どうしてもいまいるので。

   ちょっと聞いてきます。

 店員は去って、うしろの列がおれをみつめてる。しばらくして戻ってきた店員は、いちまいかぎりを条件に赦してくれた。さっそくおれはもてにいっていちまい、しかしでかそうなやつを撰んだ。公園のベンチに腰をおろす。さいわい仕切りはない。「三文オペラ」をひらく、盗賊は釈放された。物語は終わった。そのつづきは現実のなかで探すとしよう。おれは陸をひき、作業着をかぶった。

 明けてすぐおれはスポニチを買った。求人欄のためだ。ちかくに3軒の飯場をみつけた。そのひとつにむかった。しかし1日でくびになった。事務所へ自己紹介する時間をまちがえてしまった。おれはもうひとつのやつにひっかかった。場所はアスホールから、まったくはなれてなかった。おれは水を呑んだ。はらわたが温くてしかたがない。そして息も苦しい。寮夫妻はやさしいひとたちだ。食堂でラーメンを喰いながら話しをする。

   きみはまだ若いんだ。こんな仕事はさっさとやめたほうがいい。

   金ができたらまともな職に就くんだ。

    そうよ、まだいくらだって可能性はあるわよ。

 そのとき、妙な生きものが床を走るのをみた。なんだこれは? そいつはくそ忙しく走り回ってじぶんの餌場をみつけた。ねずみの1種らしい。おれは腹に違和感を憶え、寮母にいった。

  すみません、胃薬ありませんか? 

 散薬をもらい、すぐに流し込む。まだ夕方だったが、横になりにいった。よくないことばかりだ。はらわたが温い。水を机においた。テレビは病院から払い下げられたものでつくりが変わってた。画面が異様に小さく、音を聞くのに手間がかかる。しばらくして眠ることができた。しかし夜中になってそれはまわってきた。痛みだ。鳩尾と背中がいっぺんに痛み、締めあげられたかのようだ。どっちにからだをむけても痛みはやわらがない。それでどころか、どんどんふくれていった。慌てておれはノートを破くと、簡単な遺書を書いた。このままでは死ぬとおもったのだ。──《父、母へ、葬式はやらないでください。書きものはみな棄ててください》。

 死を待つにしても苦しみは過大すぎた。おれは階下へ降り、おもてへでる。病院をさがしはじめた。幸いにしてちかくそれをみつけた。夜間救急窓口、そいつが開くのを待った。老婦人がふたり、おれをけげんにみた。おれは見返さなかった。ただなにもかもが過ぎ去って消えてしまえることのみが望みのように感じられてしかたがない。何時分かが過ぎて、ようやくなかへ通された。おれは免許証をだし、文なしと告げた。ロビーには灯りがなかった。おれの顔には脂汗がしたたり、坐っているのもむずかしかった。

   あの子、ぜったい盲腸よ。

   あんなに脂汗流して。

 老婦人たちがささやく。さらに1時間待ってようやくおれの診察になった。血やレントゲンなんかをこなしてついた病名は、急性膵臓炎といった。はじめて聞く代物だ。1ヶ月の絶飲絶食。すぐに寝台が用意され、点滴がはじまった。痛み止めがよく効いた。ふたたび眠りに落ち、明日がやってきた。痛みは2日めがいちばんひどい。さらに機械へとつながれ、全身コードだらけになった。夜、意識が混濁するなか、父がやってきた。そとづらだけはいい男だ。

   遺書があったって聞いてるから、

   どうせ妙な薬でも呑んだんでしょう。 

 勝手なことをいいやがって。浮浪者として入ればよかった。7、8日経って一般病棟に移された。痛みはまだひどい。しかし1日中、なんども痛み止めを求めるほどではない。コードもはずされて身軽になったおれは毎日、障碍用の、ひろくてきれいな便所で、灯りもつけないまんまみずからを慰めた。喰ってなくともでるものはでたし、あいかわらず空想のなかの女らはいかしてた。つらいのは空腹だった。おれは病室にもどると、すぐに料理を喰い、女らと語らう光景を思う浮かべた。1ヶ月経って外出がゆるされるようになった。おれは本を手に入れ、読み始めた。「燃えつきた地図」はいまひとつだ。「ライ麦パンのうえのハム」はまあまあだ。「ありきたりの狂気の物語」は最高だ。ある夜、医者がおれを呼びだした。若い看護婦をひきつれて、別室で横にならせた。

   これから股の毛を剃ろうとおもう。

 医者も若かった。こんなことしたくないだろう。

   ズボンとパンツを降ろして欲しいんだ。

  ここでですか?

 おれは看護婦をみた。両方を降ろしておれの陰部があらわになった。看護婦が陰毛の1部をそぎ、そこへ点滴針を突き刺した。──これで1日に何度も刺したりせずに済むだろう。──陰部、そして仮性包茎をみられた恥ずかしさで便所に駈けこんだ。あたらしいネタで2発抜いた。もう退院だというころになって飯が来るようになった。質素なものだった。米と汁と漬物。それでもおれには豪勢だった。毎日の楽しみが飯だけになった。ある夜、またしても親父がやってきた。

 「おまえ、これからどうするつもりなんや?」──どうって?──ここの入院費や!──払えないよ、またべつのところにいって稼ぐまでだ。──おまえなんか、いったいどこが使うんねん?──求人欄をみて、ぶっつくだけさ。──それでどうやって生きていくんや?──姉は大学院までいってIBMいっとんやで、おまえは遊んどるだけやんか。だからどこにいったって首になる!──黙ってやつが叫び、なじるのを聞いてた。おれは病院からどう逃げだすかを考えてた。また数日経って、ようやくまたぐらの点滴がはずされた。おれは荷物を整理しだした。飯場へもいっておいてきぼりの鞄をとりにいった。──若いのに死のうだとおもうな!──そう叱られた。そしてまたモールで酒をくすねた。もうなんともなかった。翌日、置手紙を書いて病院をでた。なけなしの金で電車に乗り、中心街をめざした。そこではじめて盗みがばれてしまった。おれは監視員の中年女にひきずりこまれ、警官どもを呼ばれた。

   この鮨泥棒め!

 警官たちは威嚇したが、それは連行されず終わった。おれは商店街の入口に腰を据え、眠りに入った。作業着入りの手提げ鞄を枕に、本やなんかの入った鞄をそのままにして。夜明けまえに起きると鞄はなかった。おれはどっかに落ちてないか、棄てられてないかを探った。どこにもない。ハーパーを手に入れ、そいつを呑んだ。朝がやってきた。またしても求人をめくった。ひとつ、よさそうなのがあった。公衆電話にかけ、手配師を呼ぶ。公衆電話を切る。金がなくなった。

   ほんとうに若いな。

   こういう仕事は?

   経験は?

  まえにアシスト・パワーという飯場にいましてね。

   おれんとこもその系列だよ。

   営業とでもけんかしたのかい?

  ええ、そうです。そんなところです。

 どうやら大阪で軽作業を仕切ってるのはアスホール・パワーらしかった。なまえはちがってどれもがやつらの系列ということだ。これじゃあ、どうにもならない。──いちど訊いてみるよ。男は電話をかけ、おれのことを照会しはじめた。しずまりはすぐにやんだ。

   わるいな、兄ちゃん。──だめだとさ。

 たったそれきりで車はでてしまい、おれにはもう頼るものがない。おれは知ってた。それだけだ。世間で通じるひとびとはみな、どちらかの椅子に坐ってて、物事を色分けしたり、なまえをつけたり、指をさしてあざ笑える人種だということをだ。セオドアとかいう詩人のいってたとおり、おれも《行列した犬を笑えない》んだ。だれかおれにいってくれ、まだ間に合うと。おれはどや街にむかって歩きながらおもった。もう正后過ぎだ。



 いろんな飯場にいった。なんとかできる仕事を探して歩き回った。体力もスキルもないおれにはどうしようもなかった。飯だけは喰えたが、それだけのことだ。尼崎の名優建設から亀山ブランドの工場へいった。マイクロバスに鮨詰めになって転びそうになりながら通った。1階の片づけした。なんとものんびりしててよかった。寮には同世代のやつらがいた。福岡や千葉から来たというのがいた。そのなかでおなじ齢のやつが声をかけてきた。一緒にコンビニへいき、おれはジョニ黒をくすねた。それから歩いて宮内町の本籍地を訪ねた。そこには叔父がいる。かれはおれに金をくれた。

 工場での仕事は配置が変わり、プラント内の夜勤になった。職人の手元だ。おれは嫌気が差して辞め、膵炎の再発で安藤病院へいった。そして神戸の済生会病院にも入った。ぜんぶ膵臓炎だ。そしてどこにでも父が追いかけて来た。叔父はおれに祖母の遺産を渡すといい、それで室を借りろといってくれた。でも安い物件でも初期費用は30万ちかくだ。けっきょく酔って暴れたのがばれて破談になった。そんなとき三田駅で北野拓朗と遇った。激しい雨が降ってた。傘のかわりにスポニチを広げた。おれは黒ジャケットにカッターシャツだった。けれども革靴を喪い、作業靴を穿いてた。これから飯場にいくところだった。プラットホームでかれはおれに気づき、破顔した。阪神タイガースのシャツを着てた。けれどもかれは忘れものをしたといい、買った切符を払い戻しに階をあがってった。それがかれを見た最后だ。

 そのあと大衆演劇に入った。沢龍二というひとが派遣切りになったひとびとを受け入れてる。そんな記事を見て、おれも応募した。話がまとまるまえに西成のセンターあたりでうろついてた。名優でいっしょだった福岡の少年が炊きだしの列にいた。給与未払いのまま追いだされたらしい。おれはといえばスーパー玉出で買った鰺フライにあたってひどい気分だった。

   一緒に行動しましょうよ。

 そう誘われ、劇団にもいきたいといわれたけどおれはかれをおきざりにした。やがて劇団かつきへ配属された。豊岡の竹野駅に着いたときにはもうふらふらだった。みな薄汚い連中だ。趣味はパチンコだけ。かかってる音楽も夜の繁華街を凝縮したみたいに最悪なものだった。音色を増やせば曲がよくなるとおもってるばかものがつくったものだ。下手をすればたった1小節できりで、お役御免のパートもある。

 興行は海沿いの村にホテルでだ。窓からは時化が見える。讀賣テレビがおれをドキュメントとして撮影する。かれらは土足厳禁のマットに靴のままあがり、おれに「派遣切り」という辞をいわせようとした。芝居はどれもおなじようなものだった。人情者か、勧善懲悪もの。退屈だった。おれはセットや小道具を入れ替えたりしながら過した。生憎おれはそうでなかったし、嘘吐く気にもなれなかった。かれらはやらせも堂々やる。おれに舞台を雑巾がけをさせ、それを先代が見る。そして科白、「舞台はきれいにしろ、そこは役者の鏡だ」と。かれらはそんな陳腐なものを大真面目にやる。そしていう、「これ以上はやらせになる」と。馬鹿じゃないのか。ひと月経って、静岡へいった。狭い坂道にバックでトラックを入れる。夜更けから朝まで荷物を運んだ。床に穴のあいた古いバーカウンターに荷物をおいた。朝になってみなに金が配られた。おれだけなかった。はっきりとした説明もない。あるとき役者のひとりがいった、ミツホは本ばかり読んでる。わるいことじゃないが、もっとひとと話をしないと成長せんやろ。──いったいなにを話せばいいのか。舞台のあいだじゅうずっと短歌を綴ってた。角川短歌へ応募するつもりだった。讀賣テレビのディレクターがいった。「歌詞を書くのならひとを紹介する」。静岡では化粧の練習がはじまった。おれは役者なんかなるつもりはなかった。親方たちが帰ってきた。親方とサシで話がしたいといった。おれはやめるといった。そとへでると女将にいった。

  おれは裏方がやりたかった。

  役者なんてなりたくなかった。

   あんたなんかにできるのは役者だけや!

 女将がわめいた。うしろから親方が撲りかかってきた。

   よくも女将をばかにしてくれたな!

 顎をやられ、とっさに石を掴み、やつを睨んだ。親方がいう、

   こいつやらかす気やぞ!

 やがて2代めがきておれを宥めた。帰りの切符と6千円を与えて去っていった。たったひと月で終わってしまった。おれは実家で短歌を清書した。120首をつくり、そこから50首を森先生に撰んでもらった。なんとか受かればいい。そうおもってつぎの仕事を探した。

 六甲工芸社は山口町にあった。夜、歩きながら求人広告を見た。老婦人が箒を持って立ってる。かの女が社長だった。さっそく面接の約束をして歩いて帰った。父はもはやカブを貸してくれなかった。歩いて町までいった。仕事はプラスチック製品の検品だ。理由をいって遅れていった。ペットボトルの蓋に気泡や傷がないか確かめて仕分ける。クリーンルームの作業だ。休憩のとき、若く、不運そうな男がおれに寄ってきた。いかにも不運そうで、うす昏くて、近寄っては欲しくない類いだ。

   ヤマチュウにいたよな?

  ああ、そうだ。

   いっつも絵を描いてた印象がある。

  ああ、暇でね。

   暇やったから?

 おれにはだれだか、わからなかった。仕事が終わって酒を買った。CCをいっぽん。そして呑みながら歩いた。いつのまにやら、手提げ袋を失くした。CCとスタークの「殺人遊園地」があったのに。おれはさらに酒を買った。精神病院まえのバス停で眠ってしまった。気づくと男がいた。おれの服を掴み、なにごとかわめいてる。おれにはどうすることもできなかった。気づいたときには、セーターいちまいで暗い隧道を歩いてた。いったいじぶんがなにをしてるのかもわからない。どうにか知ってるひとの家を見つけた。赤坂峠のアカサカ氏。かれは著述家だ。中学生のときにも泊めてもらったことがある。タクシーを呼ばれ、おれは名塩グリーンハイツで降りた。眼鏡もない、帽子もない、ダウンジャケットもない。まさに身ぐるみを剥がされた。

 おれは仕事を休んだ。奪われたものを探すためにだ。ダウンは河で見つかった。帽子と眼鏡はだめだった。最初の給与で7千が入った。眼鏡に遣うべきだったが、「失したものを買うためにしばらく日雇いで働きます」といってしまった。金はすぐになくなった。PC操作やパレットの積み卸しも期待されてた。でも、おれはなにもいわずに辞めた。キャリアアップを望む男を責めないでくれよな?



 いろんな求人を当たった。寝坊したままやめることもあったし、いくらか稼げたこともあった。あるところでは面接に商品券をくれ、そいつでスコッチいっぽん買った。仕事にはいかなかった。またぞろ父にせっつかれてまたも面接先を探した。大丸ハムに決めた。暑さはひどく世界中のどんなアイスクリームが溶けてるだろう。歩いて田尾寺から流通センターまでいくことになってた。でもいかなかった。丘をあがって、スーパーマーケットへいった。まずは酒だ。小壜のズブロッカを見つけてくすねた。ふたたび入って今度は鮨を狙おうとした。空間把握にむりがあった。性急でもあった。しかもこの店舗には監視カメラの盲点がない。あっても狭すぎる。おれは無理やりでてった。店舗脇の路次で私服に捕まった。ベルトをやつは掴み、おれをバックヤードへ連行した。おれはガラ受けになった。でも住所をいわなかった。電話番号も。親を呼ばれるのは最悪も最悪だ。警官どもがつめよる。

   おまえのこと識ってるぞ、反則金支払用紙届けにいったとき、おまえの姉さんがでたぞ!

 けっきょくは電話番号を吐いた。薹の立った警官がおれのノートを見聞してた。──これはなんだ。──小説だ。やつが笑った。父がやって来て、ほかでもやってると仄めかした。そういった不都合を自慢するみたいにいうのが、おれの親父なんだ。おれはあわてて遮った。──牛尾先生のところで金を借りたんです。──実際あの教師から金をせびったのはたしかだった。たった千円。酒を呑むほかに使いでのない金だった。帰りの車のなかでおれと父はいがみ合った。おれは北インターの出口で車を降り、歩きだした。こんな気分はたくさんだ。おれは歩いて三田は弥生が丘まで来た。永易の家を目指して、とうとう見つけたとき、雨が降りだした。留守だった。日は暮れてる。ノートいちまいに手紙を書いた。



   高校時代に黎くんお世話になったナカタと申します。

   いまはちかくの公園にいます。ここ数日まともに喰っていません。

   所持金も尽き、仕事も失い、どうしていいのかわかりません。

   どうか助けてください。

   お願いします。



 おれは公園で眠った。ちいさなベンチにからだを載せ、雨を凌いだ。すると来たんだ、永易の旦那が。かつてジゴロみたいな風貌は失せ、丸坊主に髭面だった。

   やっぱおったんや。

   うちのおかんはいたずらや、いうてたけど。

 それからやつの家で休んだ。おれはやつからせしめてやろうとうそをいった。家にはだれもおらず、連絡もできない、じぶんは放浪の果てで、ひとりぼっちになったと。翌日、うそはあっさり暴かれて母へ電話が繋がれた。やつの母親はなかなか抜け目ない。永易とおれは車で出かけた。郵便局員の家だ。おれの知らないだれかだった。やつがおれのことを話し、仕事がないかと訊く。おれはもう郵便はうんざりだ。でも内勤ならできないこともないだろうといった。話しが曖昧なまんまスーパーへいった。おれが捕まったマックス・ヴァリュだ。車からでようとしないおれを永易が笑った。

   どないしてん?

  ここで万引きやって捕まった。

   なに盗んだんや?

  鮨だ。

   貰えたか?

  いや。

 やつは笑った。それから3人寄ってボンゴレをつくった。もともとはスパゲッティをつくるはずだった。でもおれが余計なことをいって変更になった。電子レンジで使う茹で器じゃあ、茹で汁を使えないといったからだ。あまりにも愚か。おれは赤ワインを呑みまくり、ふらついてる。──呑んだくれやな!──けっきょく実りのある話にはならなかった。永易の家では母が待ってた。コーヒーを呑み、話した。──息子には放浪癖があるんです。──知ったような口を効きやがって、このくそ女。おれは深夜徘徊したって、深夜まで苦役をしようが無関心だったくせに。まったく救いがたい。おれはけっきょくまたあたらしい仕事を探すしかなかった。たいぶ薹の立ったババアがやってる口入れ屋にいった。流通センターでの仕事だという。内容は飲料水の開梱作業。おれは2日しか持たなかった。やる気はあった。しかしどこかがわるいんだ。ババアがいうにはおなじように宣告されて、そこから返り咲いた女だっていたらしい。でも、理由がわからない。もしかしたら終業後にボトルのコーヒーをくすねたのがいけなかったのかも知れない。ババアは予定の期間を充たさずに馘首になった場合、給料を減らすとほざいてた。けれども「法律事務所と労基に相談する」といったら満額の金が入って来た。2万。阪神競馬場を見学にいった。ティオペペを永易にプレゼントした。やつと呑むために。ふたたび、やつはおれを拐かし、焼肉屋で1万奢らせた。気の弱いおれがだめなんだ、ちくしょう。けっきょくティオぺぺもやつがほかのやろうと呑んじまった。



 なみはや紙業は瓢箪山にあった。飯もガソリンもなにもかも、じぶんの稼ぎからださなきゃならない。2日の研修のあと、ひとりでトラックに乗った。天敵は子供会のやつらだった。新聞紙をもっていこうならやつらがわめき、むかって来た。おれは慌てて紙を載せ、車で突破した。いいやつもいた。近所の老人は新聞紙と一緒にビールをくれた。かれの手首から先は両方ともなかった。それでも巷の人間よりも人間だった。

 おれの車がパンクしてしまった。おまけに免許の更新が迫ってた。おれは父に借りようとした。だめだった。なんとか友人に借り、伊丹の更新所までいった。でもそれからすぐに馘首になった。おれは社員から2千円せしめ、求人を見た。京都の風俗でボーイを探してるらしい。ひとまず西成へいった。路上でシャツを撰んでるとき、男が現れた。かれは浮浪者を施設や病院に案内するブローカーのみたいなものだった。でもべつに金をとられるわけじゃない。

 さっそく自立支援センターで浮浪者の入所施設を手配してもらった。自彊館といった。そこではさっそく喧嘩さわぎに出会した。老人が若い30男にむかって「ちんどん屋みたいや」といった。若いのは激しく怒り、老夫に掴みかかり、撲りつけた。ちんどん屋が悪口として成り立つなんて、車谷長吉の小説でしか読んだことがなかった。入所して2日、激しい背中の痛みに襲われた。飯も喰えない。西成区職業安定所、つまりセンターの病院に診てもらった。またも急性膵臓炎だ。1ヶ月の加療だ。でも、けっきょく外出中に呑んだのがばれて追いだされた。病院をでたあと、ブローカーに遇った。かれは退院祝いに鮨を奢るつもりでいたという。礼をいって歩きだした。そこへ自転車に乗った老夫が現れた。話しかけて来る。酒を奢ってくれた。しつこくじぶんの室に泊まるようにいった。おれは用事があるとかぶりをふった。気味がわるい。それでも、けっきょく根負けしてかれの白ゆり荘にいった。針仕事で生計を立ててるという。痩せてて背は高かい。おれは酔ってふらふらだった。そして眠ってるときだ、やつがおれの顔を舐め始めた。耳の穴に舌を突っ込まれた。おれは驚いて眼を醒ました。

  なんでこんなことを?

   あんただってわかってるんやろう?

  あんた、家族もいないのかよ。

   息子がいる、孫もいるで。

  でも、こんなのまちがってる!

   なにがや?

 おれはそこをでた。やつは追って来る。暗がりのなかを走り、ホテルに泊まった。気持ちわるくなってシャワーを浴びた。犯された女たちの気持ちがほんの少しだけわかった。それから家に帰った。ヘミングウェイの短篇集ばかり読んだ。「兵士の故郷」の気分だった。病院で知り合った老人から電話がかかって来た。──会わないか、ということだ。かれは元やくざで80を超してた。おまえに5千円やるよ、ソープも奢るといわれた。でも合流できなかった。おれはシリトーをまねて掏摸の少年についての短篇を書いてた。でも最后まで書けなかった。ひどい争いをやらかした。おれは父に掴みかかって、テーブルに叩きつけた。おれは酔ってた。さんざんに吠えまくった。姉のおもづらを撲り、いちばんめの妹に階段から突き落とされ、警察を呼ばれた。「ポリ公なんざきらいだ」といってかれらの好奇心を刺激した。でもそれ以上なにもいわなかった。翌朝、父はいった。「おまえに手切れ金をやる」。20万といった。まず10万を受け取った。でも、それでなにができるというのか?──室だって借りられない。おれはさっさと使い果たした。手に入れたのはソフト帽だけだ。次の10万を父はださなかった。「そんな無駄遣いをするやつにはやらん!」。おれは怒ってまたも荒れた。

 とりあえず入院できるところを探した。三田宝塚病院にいった。医者が自裁したというところだ。ロビーでカミュの「ペスト」を読んでたら、幼い少女が寄ってきて覗き込む。──これは病気の話なんだとおれはいった。かの女によってはどうでもいいことだった。おれは医者と話しをつけ、入院になった。ところがあまりにひどい薬物依存者が多すぎた。どうしたわけか、本棚の本はみな背表紙が剥がされてる。看護人たちは屈強な男どもで、無表情を決めてる。薬の説明もせずに患者の口へ放り込む。いったいここはなんだ。畳部屋でおれは横になった。みなが持ってる私物用の箱がない。夜になってひとりの老人がおれのものを漁る。小銭が盗られた。朝になって鞄を見た。日本画用の筆がすべて折られてた。いったいなんでこんなことが起きるのか。おれは医者に抗議した。老いぼれにも、弁償しろといった。おれはそのまま退院した。いまだに2万の請求が来る。

 おれはコーン・ウィスキーを呑み、交番へいった。救急車を呼んだはずが母がやって来た。おれは呑みつづけ、母の車にゆられた。おれは母性をいまだに知らない。おれのなかには父権しかないんだ。ともかく母はすべての判断を父に任せ、黙認してた。おれがなにをされてもそうだ。小さいころ、夜の11時まで正座で説教された。父は亢奮して収まりがつかない。そこへ母が歩いて来る。一瞥くれて去る。助けてはくれない。おなじように女たちも一瞥で遠ざかるだけだ。かの女たちがどこへ去ってったかなんて男たちのだれも知らない。いちばんめの妹がいった。

   これからほーくんのこと、あんたって呼ぶわ。

 おれが働かないのを妹が酔ってなじった。おれのほうも以前、キャバクラ勤めのかの女を女郎長屋の蛞蝓(なめくじ)と揶揄したらしい。生憎、憶えはなかった。そいつを父が暴露し、妹は激しく怒って、財布から3万ばかりだし、

   さっさとでてってや!

 おれは金を掴もうとする。父がそれをやめさせた。おれの手が入った室に棲み、おれの苦役のうえで胡座をかいて、おれの不出来をみなが責め立てた。妹はいつしかいなくなり、室の荷物もすべてなぜか残ってる。ひとはおもってる以上にたやすく消えてしまうものだ。おれだって傍からおなじことだ。ただ仲間も恋人もないから出戻りを余儀なくされるときがある。でもおれも帰らないときが来るだろう。金色の斧によって、書物みたいにこの忌々しい土地を分かちたい。そして銀色の鍔で飛びだす。おれにはきれいな羽根があって、どこまでもいけるんだぜ。手に入らないものはない。なにもかもこの手のなかだ。深夜ずっと起きて詩を書いた。そいつはちょいとブローティガンみたいだったかも知れない。いまはなにもかも忘れちまった。おれは大阪にむけて旅支度をはじめてる。今度はきっとうまくやるさ。




 かつて「夢のなかの同窓会」という短篇を書いてた

                 ノートを喪って

         いまはもうこの世には存在しない

                 わたしはずっと

          わたしを見棄てたものの正体を

            明かすことに夜をつかった


 短篇の内容はこうだ、

 古紙回収業者のわたしはそこを馘首になり町へでる

 ひどく酔って塒を求めてると

 かつての同級生たちに出会すのだ

 

            求められない自身を拗ねて

                  かれらに絡む

        でもわたしはそれを夢とおもってる

           かれらに金を恵んでもらって

              中之島を臨む河岸にて

                      眠る


 あさになってわたしはポケットの金に気づき

 本を買いに歩く

 しかし河に落ちて死ぬ

 れもんの匂いが遠くからして来た

 運河に光りが差し、

 水死人を

 悼む

 謹

13/10/10






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裏庭日記/孤独のわけまえ 中田満帆 @mitzho84

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