隠し事





 あれから、一週間も経ったのか。

 彼女を失ってから、随分と時間が過ぎたものだ。

 こんな心持ちになったのは初めてだ。得体の知れない虚無感だけが、心に存在しているというのは。

 あまり、この事について考えることはしたくない。

 考えれば考えるだけ、冷静では居られなくなる。

 なんとか気を逸らそうとして、窓の外に目を向ける。

 ベッドに寝そべりながらの視界に映る光景はあまり良いものでは無い。この部屋からは街灯の明かりは入り込まない。だから、こんな夜でも差し込む光はない。ランタンひとつでは、照らすものには限度がある。それにガラス玉を撒いたような音が聞こえる。窓ガラスを見ると部屋の明かりに照らされた水滴が見えた。今日はだいぶ荒れているようだ。

 直後に飛び出た考えは古典的な文言かも知れない。

 つまり、この天気はまるで私の心のように荒んでいるかのように思えた。

 あぁ、私の何がいけなかったのだろう。

 私はこの身にして、ただ対等な労働を求めただけだ。貴族は人の上に立つべき、などという合理性の欠片もない考えなんて私には理解できない。だから、この場所に工場を移した。だから、男女問わずに労働者を集めた。だから、立場など気にせずに働ける場所を作った。

 全ては上手くいっていた。

 そうして、あの人と出会った。

 あの日、私は何をしていたのか憶えていない。だが、ただふらふらと歩いていたことはどうしてか覚えている。理由なんて、分からない。しかし、その時の感情は良いものとは言えないものだった。

 それから、どうだったか。

 あぁ、そうだ。

 気がつけば私は旧市街地に迷い込んでいたのだ。

 それも他地区から遠く離れた、旧市街地の真ん中に。

 その後からはよく憶えていない。

 次に憶えているのは、ボロ布のようになって地面を転がっていた時だ。血を流していた、身体中も火傷を負っているかのように痛みが延々と蝕んでいた。

 立ち上がることも出来ない私。そのまま死ぬのではないかと思っていた。

 彼女と出会ったのは、その矢先のことだった。

 金になるような物は全て持っていかれた、それでも近づいてくるその女は私に一体何を求めているのか、さては命でも欲しいのか。ならば、殺せ。

 などと妄想をしていた。今思えば、あの時は体だけでなく頭までやられていたのだろう。

 そうでなければ、あの美しい女にそんな言葉を吐けるはずがないのだ。

 ともかく、そんな私を彼女は助けてくれた。

 意識も朦朧としていた私をおぶってまで、自分の家に運んで治療を施したのだ。

 ようやく、落ち着きを取り戻したとき、彼女の家の狭いベッドの上からこう投げかけた。

 どうして、私を助けた?

 すると、彼女は言った。

 私が野垂れ死にそうな男を見捨てる女に見えるか。

 予想外だった。

 私と同じ歳をした娘が、まるで何十年も生きてきたのような威厳を感じだのだから。…でも、そんなものは飾りなのだと直ぐに分かった。

 無理矢理、自分を曲げているだけなのだと。

 …自分を偽る人間を飽きるほど見てきたせいなのか、そういったことが分かるのは。

 それはそうと彼女が私の恩人なのは確かなことだ。

 一泊もすれば、痛みも引いた。それほど傷が深くなくて良かった、と彼女は笑みを浮かべた。

 そうして、私は工場に戻った後も度々彼女の元へと訪れるようになっていた。

 恩返し、ということだ。

 彼女には両親がいない。それなのに弟や妹が共に3人ずついた。年若い娘だと言うのに彼女は女手1つで育てあげようとしていた。

 だから、私は兄弟達の世話をはじめとした手伝いを行うことにしたのだ。…もっとも、金銭の提供をしようと思っていたのだが、彼女が怪我人からは金は受け取ることが出来ないと言われたために不可能だったのだ。

 それどころか、会社を抜け出して大丈夫なのかと心配されたが、そんなものは要らないと教えた。ここに来る前、工場のみんなには説明したのだと。そして、みんな喜んで送り出してくれたこと。ひとつの組織の長がそんなので大丈夫なのか、だって?大丈夫、みんな優秀なんだよ、と。

 ともかく、それからの日々は私に幸福を与えてくれた。

 誰かと過ごす喜び、というのを私は初めて知った。

 …だから、かは分からない。でも、私が彼女を訪れる目的が日を追う事に、恩返し、から彼女に会うことになっていたのは確かだった。

 そうして、ある日の事だった。

 彼女が熱を出して倒れたのだ。

 私が家の手伝いをしても、軽くなるのは家族のことだけだ。一家の大黒柱として労働者の彼女は、日々過酷な環境で毎日を過ごしていた。無茶をしていたツケが返ってきたのだ。

 工場での話を聞けば聞くほど、彼女が今まで無事でいられたことが不思議でならない。

 だが、これ以上は本当に死んでしまうことは目に見えて分かる。

 それでも、彼女は大丈夫だと言って仕事に向かおうとした。

 こればかりは兄弟達と力ずくでも止めた。

 そうして、彼女を私の馴染みがやっている医者の元へと連れていった。彼が言うには、ただの疲労による体調不良だそうだが、これ以上の労働は彼女に確かな死が待っている、だそうだ。

 このままでは、彼女が本当に死んでしまう。

 ━━━━━━━━━━━そうして、私の中でひとつの決心が固まったのだ。

 診療所のベッドの傍で、私が何を言ったのか細かいことは覚えていない。

 しかし、その後がどうなったのか。

 簡単だ。

 私と彼女は結ばれた。

 彼女はただ私と結ばれるだけでなく、工場を辞めて私の会社へと勤めることになったのだ。彼女曰く、あなたと家族になれば遠慮なくお金が渡せると思っているだろうけど私はちゃんと働くつもりだから心配しないで、と。だから、せめて働くのなら私の所にしてくれと言ったのだ。ここでなら君を歓迎してやれる、と。

 そうして、私たちの新しい生活は始まった。…はずだった。

 その日は、午前中で作業は終わった。午後の予定は無く、のんびりと彼女達と過ごすはずだった。

 …そのはずだった。

 その日、忘れ物をしたと言って彼女が元の家へと戻ったのだ。引っ越したのは一週間は前だが、彼女達の生まれた家ということもあって売り払ったりはしないではいるが、まさか、引っ越した後に気がつくとは。売却をしなくて正解だった。

 だが、彼女は夜になっても帰ってこなかった。

 いくら待てども、彼女がドアを開けて『ただいま』ということは無かった。

 探しに行こうかと玄関の前で考えていたその時だった。

 ドアの隙間から、何かが入り込んできた。

 それは雑な封を押された手紙だった。宛名も宛先もなかったが、何かがあるというだろうと直感から封を開ける。

 正解だった。

 乱雑な字で書かれたそれは明らかな脅迫の文章だった。

 内容は簡単で、お前の身内を攫った、返して欲しくば金をよこせ、というものだった。提示された金額は、それほど高額なものではなかった。…しかし、到底払おうとは思えなかった。

 こんな人間に屈することは出来ない。そんな理由もある。だが、最もな理由は、こんなことしをても彼女は喜ばないからだ。

 …しかし、警察に駆け込めば彼女の命はないとあった。

 ならば、どうすれば良い。

 ともかく、警察の協力が得られないのならばと"彼”に依頼をしたが、もし、それが奴らに知られたらと恐れてしまった。そんなことは有り得ないのに、私は隠し事を秘めてしまった。

 もし、それが彼らを傷つけてしまったらと私は考えられなかった。

 あぁ、なんて私は愚かな人間なのだ。

 嘆くように私の口からその思いは漏れた。

「そう。君は愚かな人間だよ」

 突如として、幼い少年のような声が寝室に響いた。

 俯いていた私はそれがどこから聞こえてくる声かは分からなかった。しかし、閉まっているはずの窓が風に煽られて壁にぶつかる音も同時に耳に響く。それはつまり━━━━━━。

 顔を上げる。

 その声の主が居るであろう窓へと。

「どうも、エヴァン・セルディックさん。夜分遅くに申し訳ない」

 壁際に配置されたベッドから対象の位置にある窓。そこに一人の人間が腰を置いていた。器用に窓枠に腰を置いて身体のほとんどを室内に収めている。

 雨避けの為の黒のコートに、大きなシルクハット。身につける物は大きな物ばかり、それなのに、彼の体は子供のように小さい。

 シルクハットを深く被った彼の顔が微かに覗く。そこには片方だけが異様に吊り上がった口角があった。

「こうして顔を合わせるのは初めてでしたね。僕の名前はトマス・マークウェイン。貴方の依頼を受け持った者です」

 雨水が滴るシルクハットの鍔を持ち上げて、少年がその顔を見せた。

 吊り上がった口角が作り出す表情というのは、笑みだけでは無い。それを彼は見せつけた。

 傍から見るのならそれは笑みという他ないだろう。しかし、私を見る彼はまるで威嚇しているかのように思えて仕方が無いのだ。

 ただ、挨拶をしたと言うだけなのに私は彼に対して畏怖の感情を持ってしまったのだろうか、身体が震え始めてきた。

「本当なら、このようなお時間に伺おうかと迷っていたのですが…少々、事情が変わりまして」

「何の用、ですか」

 震えた唇で、何とか言葉を紡ぐ。

 得体のしれない人間に対応のできるほど、私は肝が据わっている男ではない。

「いえいえ、単純な事を聞きに来ただけですよ」

 そう言うと彼は窓枠からこの寝室の木目の床に降り立つ。

 ぽたぽた、とコートから水の滴る音がこの寝室に響く。

「昨日、あなたの所へ一人の女が来たはずです。僕よりもふた周り大きな背をした、薄い茶色の髪の女です」

「え、ええ、あなたの代わりと言っていた、確か、レイラ…」

「レイラ・ホワイト。僕の助手です。とは言っても、最近は専ら雑用ばかりを押し付けていますがね」

「あの方が、一体どうされたと?」

「今日、あなたの依頼の調査として貧困街の方へと彼女は向かいました。ご存知の通り、あそこは酷いところでしょう?人を人だとも思わない野蛮人が多く出没する危険なところだ。そんな所へ、彼女は向かったんです。たったの一人で」

「それは…大変でしたね。それで成果の方は如何でしたか?」

「残念ですが━━━━━━━」

 その時、トマス・マークウェインの顔に別の感情が浮き出た。

 私を見据える目は、確かに怒りに満ちていた。

「そんなもの、どこにも無かった。それどころか、彼女は碌でなし共に暴行まで受けた。僕が行かなかったら彼女は間違いなく死んでいた」

「そ、それは…」

 あぁ、そんなこと、こんなことになるなんて知らなかった。

「彼女は言っていたよ、この件が犯罪絡みではないんじゃないか、って。どうしてか、と聞いたら何と言っていたと思う?」

 何も喋れない。

 答えられない、脳がそれを拒絶しているのだ。

「あなたから聞いた情報からそんな可能性は無さそうた、と。安直でしょう、それもそうだ、彼女は若くて未熟だからね。でも、それとこれとは話が違う」

 一歩、また一歩と私のベッドへと近づく。

 まるで、悪魔でも来るかのように、ゆっくりと確実に私に恐怖をうえつけてくる。

「あの時、彼女を襲ったのは確かにあなたの探し人を攫った蛮人だった。生き残りの一人が吐いたらしいから、確かだよ。あなたから彼女を攫った後、彼らはあなたに何度かコンタクトを取っていたらしいじゃないか。それなのに、君の返答が無かった。逃げたのではないかって、彼らは考えてあの家に向かった。しかし、そこには何ら関係の無いレイラ君がいた」

 責め立てるかのように、私に

 あとはさっき話した通りだよ。そう言い終わった彼はもう私のすぐ横にまで来ていた。

「僕は君を責めたいんじゃない。ただ、聞きたいんだ」

 一度、彼は笑みを見せた。

 責めたいのでは無く、本当にただ疑問に感じているだけ、そう思わせるような笑み、

 しかし、それは一瞬で変貌した。


「どうして、嘘をついたんだい?」


 その瞳には、なんの感情も見当たらない。口角こそ上がっているものの、感情を表現しているようには到底思えなかった。

 人形の無機質な笑みのような何かを浮かべた彼から逃げるように私はベッドから転げ落ちる。

「僕は大切な人間を傷つけられた。この気持ちは君も痛いほど分かるはずだよ。だから、君が彼女を救い出したい気持ちも僕は分かる。でも、でもだ。どうして、そんな不合理的なことをするんだい?教えてよ、僕は分からないんだ」

 それは好奇心だった。

 彼の言動からは想像も出来ないほど、ありふれた好奇心の表れだった。ある意味では見た目相応の好奇心だ。

 子供の好奇心とは、限度の知らない沼のようなものだ。それでいて、ありとあらゆる手段でそれを満たそうとする。

 子供は汚れの意味を知らない。

 だから、時には残酷な手段を用いることもある。

「あ、ぁあ」

 彼の目は、その時の子供のようだった。






















 真夜中の"工房”で、金属の擦れる音が微かに響く。

 まるで、時計に耳をあてているかのような音でもあった。

 その音を響かせているのは、一人の少年。

 名を、トマス・マークウェイン。

 10代も前半のような身体の少年は、ランタンの明かり一つで自らの生み出した道具の調整をしている。

 夕陽の日差しにも似た、薄いオレンジの灯りに照らされているのは、骨組みだけのグローブ型の機械だった。上部には、三本の矢尻のようなものが備え付けられていて、それぞれが下部にある細い縄がまとめられたローラーへと繋がっている。大きさはトマスの頭と同じくらいだ。

(あらかた、想定通りかな。使いやすさも…少し訓練すれば問題は無い)

 ゴーグルを嵌めて、機械と睨み合いをしている彼の上半身の衣服ははだけていて、健康そうな白い肌が露出していた。その小さな身体の肩の辺りは包帯が巻かれていて、トマスは苦しそうに肩を抑えて気にしている。

(巻き上げの速度は落とさないとダメかな。…肩が外れるなんてのはとんだ欠陥品だ)

 その機械、名前を"振り子ペンデュラム”という。

 特定の位置へ鉤付きの細い縄を飛ばし、巻き上げをして高所へ移動、ロープの代わりにして"振り子”のように建物と建物の間を移動できたりと、多種多様な移動手段を確保するための道具。縦と横に入り組んだ面倒な地形であるこの街でこそ輝く事の出来る道具。

 これを使えば、例え、地上から何メートルも離れた高さにある貴族の寝室に難なく侵入することができる優れもの。

 とはいえ、問題もある。

 縄を巻き上げする際のパワーが高く、生身の、それも子供の身体には負担がかかるのだ。

 彼の理想には程遠い。

(とはいえ、調整に時間は掛からないかな。あっても二日。早くて数時間ってとこだな)

 トマスが工具を置く。

 そうして、ふぅ、と息を着くと金属のパーツが散乱する卓上の一区画に置かれた安っぽい金属のカップを手に取る。

 中身は紅茶。

 これが無ければ、作業が進まない。

 いつもは彼女が淹れてくれるのだが、あいにくと今は療養中。

 自分で淹れると何故か味が落ちてしまう。今度からは彼女から淹れ方を教えてもらおうか。でも、それでは楽しみが薄れてしまうかな。それよりも━━

「こんなガラクタ使ってるのが知られたら怒られるな」

 ふふ、とカップを見つめながらトマスが笑みをこぼす。

 でも、愛用のモノだから止められない。

 なにせ、彼女からプレゼントされたモノだ。そう易々と捨てられる訳が無い。

 紅茶を口にして、少年はしばしの休息をとる。

 その最中でも少年は思考を巡らせていた。

(今回の事案は、単純だった)

 訪問の際にエヴァン氏は、今度は真実を口にした。

 金銭の要求はあった。

 それに期限まで決まっている。

 彼らが定めた刻限は、四日後。

 もし過ぎたならば、女の命は無いと思え、とのこと。

 本来、こういった話が来た場合は即刻実行犯の居場所を探り当てて、即刻殴り込みをかけるのがセオリーだ。なにせ、こういった馬鹿をする犯罪者というのはフィジカルも頭も中途半端なロクデナシばかりだ。しかし、今回はそういう訳にも行かない。

 情報が足りないのだ。

 手札は多ければ多いほど良い、しかし相手より一枚でも少なければ勝利の女神は相手に微笑む事になる。

 これもあの木偶の坊が隠し事をしたことで情報収集が遅れたからだ。

 そもそも、要となる突撃要員が寝込んでいるとなればどうしようも出来ない。考える頭があっても動かす為の手足が無ければどうしようも出来ないのだから。

(レイラ君の怪我は想定よりも浅い。マイヤーズは安静にしなければ酷くなるかもしれない、って言ってた。彼の目は確かだ。無視することは出来ない…でも、これにはレイラ君が必要なんだ)

 正面にあるカレンダーに目を通す。

(あれから五日か。待っても三日で、それ以上は危険かな)

 いくら彼女の回復力が優れていても、たった八日程度であの怪我を完治させることは不可能だ。

 少年としても彼女を現場に出すことは極力避けたいと考えている。しかし、彼女が完治してからでは遅い。

「…ごめん、レイラ君」

 君に無理をさせることになる。

 悔しそうに小さな発明家は呟いた。

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