胸の燻り
トラム。
機関車の客車のような見た目をした一両編成の機械の塊。蒸気機関の小型化で生まれた画期的な発明のひとつ。機関車と同じで決まった路線しか走れないけれど、その分、無料で乗り降りは出来ますし、何よりも乗り心地が悪くないので多くの人々に愛用されている人気者。至るところに張り巡らされたレールの上を走るゴツゴツとしたこの四角い物体は、この街でなくてはならない存在です。
私と博士はトラムに乗り込むと適当な席に座ります。席は窓に水平になるように設置されていて、少しばかりのクッションがある背もたれは、この揺れだらけのささやかな列車旅をちょっぴりだけ快適に過ごさせてくれます。
今の時間は午後の二時を過ぎた辺り、街を歩く人間自体が少ないためか、このトラムに乗っているのは私と博士しか見えません。なら、運転手はどうなのか、そんな疑問は私にもありました。しかし、このトラムに乗客以外の人間は必要ないのです。自動化というのが進んでいると博士は言うのですが、私にはよく分かりません。
そして、ふしゅう、なんて典型的な蒸気の排出音が聞こえたと思えば、トラムがゆっくりと動き出します。
街中を、それもこの街のような建物に圧迫されている狭い道を走るとだけあってトラムの最高時速は…詳しくは分かりませんが、人が全力で走れば追いつくぐらいでしょうか、安全と言えるぐらいの速度で走るのです。
がたん、がたんと音を立てて走り出したトラム。
体が右へ左に少し揺れます。
車内は誰もいないせいか、静まり返っています。ここでは外から聞こえる音は明らかな異物、そのため、トラム内の静寂はより顕著なものとなっていました。
先ほどのお医者さまの所での薬がまだ残っているのでしょうか、くらくらとして、まるで夢の中のような気分がします。思考がうまく働きません。お酒を飲んだ時のように、思考が働かないのに、身体は素直に動いてくれます。
だから、思いついただけの幼稚で不必要なつよがりも素直に口が紡いでしまうのです。
「助けなんて、いりませんでした」
博士の助力が無くたって、私は一人で出来ました。絶対に。
「君はいつもそうやって強がる。悪い癖だよ、それ」
博士の言葉に、少し強い声で言い返します。
「強がっていません。経験則です」
「それを強がりって言うんだ。まったく、一体、どこの世界に銃弾を真正面から受けようとする女の子がいるんだ。それが経験ってなら、君はとっくに死んでいる。まさか、運任せ、だった訳じゃあ無かったろうね」
「……」
それは確かなことです。
私はしくじった。無理をした。無謀なことをした。そして、博士に苦労を負わせた。
それを突きつけられて、わたしは何も返すことが出来ないでいたのです。
ですが、嫌な気分になっても、私のきかん坊の口は止まりませんでした。
これは頭の片隅に生まれていた疑問なのでしょう。
「…一つ、聞いても良いですか」
「何だい、レイラ君」
ひどく淡白な返事でした。
「博士もその手を汚すことがあるのですね」
「それは僕が、あの時、人を撃ったからかい」
「あまり声を上げないで下さい。誰かが聞いていたらどうするんですか」
「そんな人なんて、どこにも居ないだろう」
言われて、もう一度認識しました。このトラムには私たち以外は居ないのです。
「……私、驚きました。博士が銃を使えて、ましてや人を撃つなんて」
「僕だって、このぐらいはするよ」
そんな事はどうだって良いだろう、とでも言うかのように博士は言いました。
この数年、博士が銃を握る姿自体は何度か見てきました。
ですが、その引き金を絞る姿は初めて見ました。それにこの反応、恐らくは私の見ていない所で…。でなければ、こんな平然としていられる理由がありません。
「レイラ君」
突然、博士が口を開きました。
「…なんですか」
考え事をしている最中、予想もしなかった出来事に床を見ていた私はオモチャのように機械的なぎこちのない動きで首を博士の方に向けました。
博士は、車窓の向こうこの街の光景を見ていました。…あるいは、もっと遠くの方を。
「これに慣れてはいけないよ。僕みたいにはなっては駄目だからね」
それまで視線を逸らすことさえ無かったのに、まるで、懺悔でもするかのように、博士は自分の手のひらを見つめはじめたのです。
「僕はもう手遅れだけれど、君は違うんだから」
分かったかい、と博士は私の目を確かに捉えて言います。
「分かっています」
理解しています、そんなこと。人殺しに慣れてはいけないなんて、そんな人として初歩的な"当たり前”など。
「…そんなこと、分かっています」
分かっているのです。
この言葉は博士にではなくて、私自身に言い聞かせているなんてこと。
私は、きっと変わってしまうんだ。
いつか、誰かの命を奪うことに何の躊躇いもなくなってしまう。
あなたは私にそうなってほしくはないのですよね。
だから、私は抗います。
あなたのために、いつかが来ないように抗うのです。
博士は、そんな女の言葉にただ一言だけ、
「なら、良い」
たった、それだけを博士は語りました。
…私ではなく、やっぱりどこか遠くを見る博士の目は━━━━━━━。
「……」
考えようとしてやめました。
それから先には、私の知らない博士が存在してしまうのでしょうから。私の博士じゃない、誰かの姿が重なってしまうようで、考えることを拒んでしまうのです。
再び、トラムの車輪がレールを削る音が車内に充満します。
それ以上、私と彼の間に会話はありませんでした。
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