不確実性

 スラム。


 理想都市として知られるこの街にも、そんな汚点は存在する。


 整備の行き届いていない設備に、安物の金属で補修されたツギハギだらけの建物の壁。お世辞にも居心地は良さそうとも思えない。


 昼は住人達の殆どが労働に出向いているために、この時間に人間を見かけることはありえない。


 だが、それでもこの地区に残る住民はいる。


 鈍い打撃音が狭い路地に響く。


 この地区ではあまり珍しくはない、暴行の現場がそこに広がっていた。建物の間の狭い通路に連れ込んで、数人がかりで袋叩き。


 そうして、気を失ったら身ぐるみ全てを剥がされる。


 これがこの地区では日常茶飯事だった。


 しかし、今回は違った。


 いつもなら、その男達は一人で、かつひ弱そうな男ばかりを狙う。今のように年頃の娘を殺意をもって乱暴をすることなどない。


 でも、人の声はない。


 ただ、肉を打つ音だけが路地に響く。


 少女は声さえ上げずにその理不尽な暴力に晒されている。


 その少女の片腕は、金属で造られていた。だから、どれだけ体か跳ねてもその義手は地面に固定されたままだった。


 しかし、彼女自体の体はとても華奢で、一発ごとに拳がその腹を打つ度に床に倒れていたその体は宙に跳ねる。


 少女の皮膚が破れたのか、男の一人の拳に鮮血が飛び跳ねる。


 男は気色が悪いとばかりに血を払うと、少女の襟首を持って、拳をその美麗な顔に向ける。男の全力を受けて、少女の首が正面から左へと曲がる。その際に彼女の目から丸い何かが落ちる。石畳の地面に転がる少女の口からは鮮血が垂れていた。


 生気のない碧の瞳は虚空を眺めていた。


 けれど、彼女はそれでも意識を保てていた。意識が朦朧としても、ぼんやりと少女は考えごとをしていた。


 どうして、こうなったんだろう。
































 そこは、今までにこの街では一度も見たことの無い場所でした。


 人通りのない少しだけ狭い通路、時間はまだお昼前だと言うのに日当たりが無くジメジメとしている。それだけでは無い、嗅いだことの無い不快な臭いまで漂っていました。


 その光景は間違いなく、スラムと呼称されるであろう場所でした。


 本当にこんな所に、貴族のお嫁さんになるような人が住んでいたのでしょうか。


 でも、証拠ならあります。


 なので、疑うことはないのですが…。


 どこからか湧いてきた不安と共に、スラムの街を歩きます。


 …それにしても、本当に人がいません。どこを見ても、人っ子一人の気配さえしません。そ


 私の知っているスラム街とはまるで様相が違って、どこか不気味さを覚えます。


 湿った石畳を踏む足を早めます。早くこんな所から帰りたい、そんな思いからでした。


 そうして、私はイザベラ女史の家へと辿り着きました。


 建物と建物の間に建てられた、一般的な家屋でしたが、話に聞いていた大家族が満足に住めそうなほどの広さは無いように思えました。


 扉の前に立つと、念の為、ノックを三回します。


 反応はなし、当たり前です。


 返ってきたらどうしようかと思いました。


 一応、扉の横にある窓から中を覗きます。綺麗に掃除されていた窓ガラスからは暗闇しか見えません。


 意を決して、ドアノブへと手をかけます。ゆっくりと、回して鍵が掛かっていないことを確認すると、あとは勢いよく回しきります。そして、押し出すと部屋の中を見渡しました。


 暗い、です。


 見れば、この部屋には窓が一つしかないようでした。それも入り口近くの小さな四角い窓だけです。こんなのでは部屋全体を照らすことは不可能です。


 腰にぶら下げていた小型のランタンに火を付けると、それをベルトから外して顔の位置まで持ち上げます。


 そして、少しは明るくなった部屋をもう一度見回します。


 最初に浮かんだ感想として、こんな場所にある家にしては片付いている。と思いました。


 ですが、それもここがとっくに引き払われる予定であったことを考えると自然のように思えます。実際に家具や道具はまるまる残っているようでした。テーブルや椅子に、棚に鏡台。生活に必要な家具は丸ごと残っています。


 引越したはずなら、これだけの家財道具は残っていないはずですが…まさか、これらを移動させるために彼女はここに?


 と、部屋を見回していると視界にとある物が映りこみました。


 それは棚の上に置いてあった四角くて薄い木製の何かでした。手に取ってみると、それは写真立てでした。


 10人ほどの家族と思わしきグループが、この家の玄関を背景に全員笑顔で写っている写真がそこにはありました。


 殆どが年端もいかない子供でしたが、中央にいる男女だけは違っていて、恐らくその二人が彼らの両親なのでしょう。


 と、そこでイザベラ女史の姿を見つけました。この前の写真よりも少し若い彼女は両親らのすぐ近くで少年のような笑顔を浮かべていました。こんな顔、たまに博士がするのでよく分かります。これは本当に幸せな時にする顔です。


 …もしかしたら、彼女は家財道具ではなくこの写真を取りに戻ろうとしたのでしょうか。そっちの方が納得がいきます。


 そっと、写真立てを棚の上に戻します。これは私が持っていてはいけない物ですから。


 さて、と、もうここには用はありません。


 恐らくですが、これ以上この家を探しても何も出てこないでしょう。


 あとは、この近辺の方に聞き込みをして━━━━━。


 その時でした。


 キキィ、という軋むような音とともに部屋の入口の戸が開きました。












 それから、どうなったかなんて記憶にない。けれど、その結果がこれだ。


 男が二人、いや、三人が私を囲んでいる。


 厳密には二人が私に、暴行を加えて、もう一人が後ろから見ている。


 痛い?


 分からない、けれど、そんなことどうだっていい。


 問題は、この現状をどうにかしなければ。


 最低限のこと、死ななければいい。でも、この男たちはそれを許してはくれないかも。


 何度か蹴られた後、私の体は本当に動かなくなった。比喩ではなく、本当にピクリとも動きはしない。


 仰向けのまま、自分の血に塗れた床に倒れているのだろう。


 それを私の死だと思ったのか、二人の男は手と脚を引っ込めた。


 そして、後ろの男に向かって何かを話し始めた。


「…女は……こ…よ…汚れ……」


 会話はほとんど何を言っているか分からない。これは耳が上手く機能しないからか。


 でも、どうだっていい。


 私を死んだことになっているのなら、無理に会話を聞かなくても良い。下手に動けば、今度こそ殺される。そうなってはダメだ。博士のためにも、あの依頼人のためにも。


 ゆっくりと、目を閉じる。


 まだ、死ぬような怪我はない。


 だから、大丈夫━━━━━━━━━


 そう決めた、瞬間だった。


 その言葉が聞こえてきたのは。


「このロケットの男も見つけろ。こんな腑抜けの女の弟だ、きっと━━━━━━━━━


 はっきりと。


 それは、それだけは、はっきりとわたしの耳に届いた。


「っ!!おい、まだ生きてるぞコイツ!」


 どうやら、死んだフリをしているのが知られたらしい。けれど、そんなこと、関係ない。


「…お前たちに、なにが、分かる」


 血だらけの舌を唸らせる。


 ヒビの入った右腕も、健が切れかけた脚も今じゃどうだってない。


 死にかけの体が、私の意思に応えてくれる。


 目の前の男達は、まるで怪物でも見たかのような顔をしてわたしを見ている。


 辛うじて地面な上に足を付けているわたしの身体は、もはや左腕の義手さえ持ち上げることは出来ないでいる。


 けれど、やらなければ。


 この男たちを許してはおけないから。


 私の、博士を侮辱した下衆どもを決して。


「あの人のことを、お前たちは何も知らないくせに」


 喋る度に、口から血が吹き出す。いつも鼻で嗅いでいるものが、今では味覚で感じている。


「お前たちが、知ったような口をきくんじゃない!!」


 義手を支えに、ゆっくりと痺れる足を持ち上げる。


 まるで生まれたての子馬のようにふらふらと立ち上がると、それを合図に、彼らの1人であるゴーグルの男が怒号を上げた。


 そして、さらにもう一人の薄汚いコートを身につけた男が感化されたのか私に向けて拳を振るう。


 今度こそ、私の息を止めようとしているのは彼の目を見れば明らかな事だった。


 拳が、限界まで振り切られる。ゴツゴツとした岩のような拳は、か細い女の頬に突き刺さり、その無駄な抵抗の意志を命共々奪った。


 そんな風に彼は思っていたはずだ。なにせ、先程まで私のことは死にかけのように見えていた。抵抗できずにその身に拳を受けているのだろうと。


 でも、それは違う。


 コートの男が驚きの声を上げた。なぜなら、彼の右手は私の真鍮の腕に掴まれていたから。


 この真鍮の腕の支配から脱しようと男が必死に抵抗するけれど、出来ないでいる。体格だけなら私の数倍はあるという男が駄々を捏ねるように暴れている。


 バタバタと暴れる男に私がしたのはごく単純な事でした。


 左手を強く握りしめる、それだけで良かった。


 木材が粉々に粉砕されるような音が響いた。それと同時に、コートの男が悲鳴を上げて倒れる。幸運にもその手はこの腕から解放されていた。けれど、涙混じりに悲鳴を上げつづける男の拳は、まるで赤い絵の具に塗れた紙くずのように成り果てている。


「"この子”は鉄の塊ぐらいなら簡単に砕ける。生身で相手に出来るような可愛い子じゃない」


 ぜぇぜぇ、と病人のような呼吸をしながら私は言う。


 直後、ゴーグルの男が吠えた。


 そして、どこからか取り出したのか小さなナイフを私に向けて駆け出した。


 血走った目に荒れた息。


 興奮状態になった人間ほど、怖いものはないという。冷静さを欠いた人間は恐れを知らずに突き進んでくる。つまり、予想だにしない行動をとる。人間は怖いから身を引くし、痛いから叫ぶ、それをしないのだから、こういうのは面倒なのだ。なにせ、行動が読みずらい。


 だから、博士はこう言っていた。


 一撃で終わらせてやれ、と。


 いつもよりも何十倍にも重く感じる義手を持ち上げる。


 そして、振りかぶる。


 鈍器を使うかのように、義手の拳部分で対象を殴りつける。


 ちょうど、目の前まで来ていたゴーグルの男の顔に真鍮の拳がめり込んだ。瞬間、鼓膜に響いたのはガラスが割れる音、果物でも潰したかのような水気の含んだ音。それらが同時に響いた。


 ゴーグルの男の動きが止まり、その体は勢いよく地面に落ちる。


 左手を下ろすと、拳の先についた血液がぽたぽたと滴る。


 …どんな人間でも、頭蓋を粉砕されれば動きは止まる。


 二度とは起き上がらないだろう男、だが、まだ残りがいる。


 かたかた、という音。


 もう一人の五体満足の男に視線を移す。


 最初の二人の後ろにいた、"腑抜け”。


 そこには銃を構えている男の姿があった。しかし、顔は引きつって汗まみれ、足は音を立てそうなくらい震えている。


「そんなに震えていたら照準なんて定まりませんよ」


 返事はなし。


 銃口は確かに私の方向には向いている。けれど、震えているせいで方向自体は定まってはいない。


 …銃は回転式の六連装。最新の型ではないから、精度はあまり良くはないはず。


 危険だけど━━━━━━━


(当たらないことを祈って、全部、吐かせる…!!)


 左手を顔の前に持ってくる。そして、右手で義手での手の甲にあるレバーを引く。


 直後、義手に取り付けられた外装が展開されて、私を守る盾となった。しかし、全身を守れるほど高性能ではない。顔を守るので精一杯。


 でも、顔だけに当たらなければ良い。今は近づいた方が危険だ。ゼロ距離で撃たれたら確率なんて無意味になる。


 距離は…10mあるかないか。


 あとは、祈るだけ。


 神になんて祈れないが、私の運にならいくらでも縋ってやる。


 男が叫んだ。


 獣のような咆哮、そして銃撃音。


 耳を劈くような破裂音とどこかで金属が擦れる異音が鼓膜を震わす。


 しかし、体のどこにも衝撃はない。ハズレだ。


 もう一度、男が叫ぶ。


 今度は、悲鳴のような甲高い声だった。


 そして、銃撃音。━━━今回もハズレ。どこかのパイプにでも当たったのか水のこぼれる音がどこかでした。


(あと、四回…!!)


 身構えて、第三射目を待つ。


 けれど、それが来ることはいくら待てどもなかった。


「…っ?」


 ゆっくりと義手をずらして顔を覗かせる。


 そして、その先にあった光景を見て私は絶句した。


 男が倒れていたのだ。


 それも、彼自身のだろう血液を地面に広げながら。


「何が…?」


 頭が困惑する。一体、何が起きたのか。考えるが現実的な答えが出ない。


 その時だった。


 足音が路地に響いた。


 軽い音だった。まるで、子供のような体躯をもつ人物が鳴らしているかのような音。


 この場所は、音がよく反響する。この音も前から来るのか、後ろからなのか、分からない。


 けれど、足音と共に聞こえてきたその言葉は確かに背後から聞こえた。


「僕は言ったはずだ。用心してね、って」


 振り返る。


 まさか、そんなはず━━━━━━━━


「それに、体も大事にって。言いつけ、守れてないじゃないか」


 そこには、一人の少年が立っていた。


 シルクハットを被った小柄な金髪の男の子。けれど、その手には彼のような幼い子供が持ってはならないとある物品が握られていた。


「はか、せ?」


「あぁ、そうだ。僕だよ、レイラ君」


 にこやかに言った彼の手には、一丁の銃が握られていた。その銃口から煙を吐き出しながら。


 そこには、我が主━━━━━━トマス・マークウェイン博士が立っていたのでした

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