第50話

 薄明の中、雨宮仁はアパートだったものの塀に肘をついて空を見ていた。太陽の贈り物がわずかな視界を保証している。時期に世界は再び暗闇へと帰るだろう。生暖かい空気が頬を撫でる。雨宮はどこにも続かない穴に背を向けて、階段を下りる。

 子どもの頃は誰かと一緒で、少し前も誰かの力を借り続けながらも今も一人で歩いている。それでも僅かでも違うところがあるとすれば、心のありようだろう。偽りの正義は硝子のようにあっさりと砕け散って、新たな正義は泥のように雨宮の心を侵食する。何も変わってなどいない。正義の亡者から、文字通りの亡者になっただけだ。

 吸って吐く息も、歩む足も何一つ変わりはしない。これは雨宮仁にとっては一生忘れらないトラウマで思い出だとしても、この世界は記憶しない。自分の歩む足音だけが雨宮の耳に響く。


 それを示す様に、今日学校に行った雨宮を待っていたのは、クラスメイトの疑問にみちた視線と僅かなばかりの心配だった。教師からは事情聴取をされ、雨宮は無言を貫いた。神様を語る超自然生物と戦っていたんだ、と熱心に言い聞かせたところで雨宮には信じてくれる未来が見えなかった。結局、白水から受けていない授業のノートを見せてもらい、巡礼かのように雨宮は教師を回ってプリントを貰った。雨宮も日常に戻らなければならない。雨宮は彼女たちと違ってもともと暗闇の中に足が沈んでいる人間ではないのだから。雨宮は満足げな表情で、空を見上げた。


 約束通り、雨宮は車が立ち並んだ場所に来る。ここは夜にも関わらず眩しすぎる光に満ちている。一台の車が通りすぎるとのを見届けると、誰もいない歩道を渡った。室内に入ると、気持ちの良さそうな椅子の上で、二人の少女が言い合っていた。

「ナンセンス、有り得ないに決まってるじゃない!」

 大声を出されて隣の黒衣の少女はめんどくさそうだ。

「うるさいわね。うるさい蠅は嫌われるわよ。……仕方ないじゃない、本国が貴方のような怪しすぎる人間を殺さないと保証しただけ感謝することね。私の報酬、決行減額されたのよ」

「だからってなんで、私が貴方の手伝いなんてしないと……いけないのよ!」

「不安なんでしょうね。彼らは臆病で、弱いから狂犬には鎖をつけておかないと怖いのよ。分かってあげなさい」

「鎖はつけるべきは私ではなく貴方でしょナターシャ・オルロワ!」

 ナターシャは非難の言葉を無視して雨宮の方を見る。

「あら、約束通り来るなんて偉いわね。これも日ごろの躾の成果かしら?」

「お前に躾けられた覚えはない」

 雨宮はいつも通りのナターシャにため息をこぼす。別れと言うから涙の一つでもこみあげてくるかと思えば、こみあげてきたのはため息だけだった。雨宮は周りからの嫉妬に満ちた視線に呆れを抱く。そんなに話しかけたいなら、話しかけてらいいのにと雨宮は思った。ただし飛んでくるのは冷笑と傷を抉る暴言だが。姉とは似ても似つかないなと雨宮は感じた。

「体の調子はどうなんだ」

「問題ないわ。傀儡術は以前より調子が良いほどよ。それにしてもまさか、本当に永遠の命なんてものを渡してくるとは想定していなかったわ」

 雨宮が影に飲み込まれた時点で、異界律に触れ一時的に死亡していたらしい。あんな場所が日本であるわけがなかったのだ。

「死んだときに、周囲の人間の精神を支配し、憑依する能力。ただ、役に立ちそうにはないわね」

「一応、不死身の肉体なのにか?」

「肉体が死ねば、技術の大半が消失するわ。そもそも人間に使えるか分からないもの。精神を支配したところで、脳が違うから憑依先の影響を受ける可能性が高いわ。だからもし憑依先……」

 随分と異能自体には興味を惹かれてるらしく、流暢に自らの考察を語っている。ナターシャは雨宮がうわの空であることに気づく。

「……無視。いい度胸ね。最後に決闘でもしましょうか?」

「お前と俺はライバルか何かなのか? 無視はしてないよ。お前の思考にぞっとしてるだけだ」

「あら、あの時死んどいた方が良かったかしら。これでも必死に頑張ったのよ」

 ナターシャは、ヒナの想定を見事に凌駕して、繽來神の半身を吹き飛ばした。それとも繽來神にはもともと勝つ気などなかったのだろうか、雨宮には判断がつかなかった。アナウンスが鳴り、物語の終わりを告げる。ナターシャは重たそうな荷物を軽々と背中に背負うように持つ。アメリアは飽きれてものも言えない。代わりに大きなため息を吐いた。

「それでは、これで貴方の物語は終りね、雨宮仁」

「お前が言うと、殺す前の決め台詞にしか聞こえないな」

 雨宮は苦笑いをする。無表情で、真剣な目つきで見られればそう捉えられても仕方がないかもしれない。だけど雨宮の思惑は間違いでその意図は逆だ。

 雨宮の唇が何かが塞ぐ。雨宮の目の前にはナターシャの白い肌で満たされていた。口の中を舐めまわされて、食べられているような感覚を覚えて、雨宮は咄嗟に離れる。ナターシャは、平然とした表情で背中を向ける。

「良かったわね。こんな美少女に唇奪ってもらえて、これでいつ死んでも大丈夫よ」

「……」

 雨宮は何か言い返してやろうと思ったが、口は動くだけで音を出さない。

「……ナターシャ、貴方って結構肉食系だったのね」

「何度か言ってなかったかしら。私は欲しいものは何が何でも手に入れるタイプなのよ。だから雨宮、勝手に死んだら地獄で殺してあげるわ」

「死なないよ絶対。お前は地獄にも干渉してくるのかよ」

 雨宮は烈しく動機している心臓を無視する。

「私は死神だってよく腐った金持ちどもに言われてるわ。だから出来るんじゃないかしら。貴方……ところで大学はいくかしら?」

 早速、他人の未来を聞き始めるナターシャに驚く。

「一応、行くつもりだけど……」

「今、高校二年ぐらいだから、5年後くらいには一度日本を訪れるわ」

「拒否権は」

「あるけど、私より優秀な番。これは少し直接的すぎるかしら、優秀な生物を貴方が見つけていたら、殺し合ってあげるわ」

「話し合いで終わらないのかよ」

「他人の獲物を横取りしようとした奴に、人権なんてあるわけないでしょう」

 ナターシャは獰猛な蛇のように狡猾な笑みを浮かべた。

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