第49話

 繽來神はそれを狙っていたのか、自らの手で天上を叩き壊した。大地が震撼し、ナターシャの頭上から小粒の石が大量に落ちてくる。真横にひと際大きい岩石が落ちて砕けちった。直撃すれば即死は免れない。顔のない口がニタニタと笑っているような気がして、雨宮は寒気を覚える。雨宮は突き刺さっていた右腕を引き抜くとナターシャの隣に降り立つ。

「どうも、逃げた方がいい気がするな」

「あの気味の悪い笑みを見ると、それが狙いなようだけど」

 神はナターシャたちを追うことをやめて、こちらを不気味に見つめていた。雨宮たちは急いで、背を向けて走り出す。

 傀儡術で身体能力を強化し、不規則に落ちてくる瓦礫を目で見て躱す。地面が割れ、どこに続くか分からない狭間を飛び越える。雨宮が何とか、外に出ようとした寸前、足を掴まれたような感覚が伝わる。背後を見ても何もいない。影が蠢ている、ボコボコと沸き立つ泡のように何かが人間の影に潜んでいる。雨宮は唇をかみしめ、刀を抜いて抵抗しようとする。ナターシャがすぐさま糸を伸ばす。足を切り落とすための糸と、体を引っ張るための糸、その両方が一瞬で叩き壊れた。目の前には少しだけ小さくなった化け物の姿。ナターシャは指輪を一気に抜き、新たに付け替える。同時に弾丸を放った。


 泥が体中に張り付いたような奇妙な感覚が雨宮を包んでいた。辺りは真っ黒で、この世界には何もない。あるものは雨宮の自身の肉体だけだ。足場がないのに、立つことができて、空気がないのに息を吸い、吐き出す。雨宮は刀と銃があることを確認する。さっき、影に引きずり込まれた奇妙な現象は現実だ。ここは少なくとも繽來神の領域であることは間違いない。

「そんなに……警戒しなくても大丈夫だよ」

 右肩に手が乗せられる。雨宮は躊躇なく、相手を確認せずに刀を振った。空ぶったことを認識すると、雨宮は目の前に立つ人物を見つめる。

「警戒しなくて大丈夫だって、ここには君と僕しかいないんだから、さ。正義のヒーロー。善意の亡者の方が相応しいかな」

 白のワイシャツの上に黒いコートを羽織り、黒いズボンをはいている。短くそろえた銀髪、その左側に黒の花のブローチ。いつも通りだ、池で釣りをしていると少女と何ら違いの無い存在が影の中に立っていた。雨宮は自らの疑いの無さに呆れて溜息をつく。

「沈まないでよ。僕は君をあの時殺すつもりだったんだよ。だってのにさ、弱音なんて吐かれたら。助けたくなってしまうだろう」

 大きく両手を広げる、右手には傀儡師から異能を奪いさる短刀、人転。

「………何のためにこんな茶番をやってるんだ。趣味か」

「いいや。僕の再生のためさ。僕の身体を見ただろう。痛々しい、腹が抉れて、あれ塞がらないんだよ。取り戻さなくちゃいけないんだ。愚かな人間たちからね。……なーんて、いえばラスボスっぽいかな。けど、僕はこのセリフ、負けてしまいそうで嫌なんだよね」

「なら、さっさと俺を殺してとくべきだったな」

「いーや、問題ないね」

 雨宮は大きく踏み込んで、刀を一閃。刃は少女の短刀で軽々と止められる。雨宮は自らを縛っていた傀儡術が機能していないことを認識する。

「最後は人間らしく……ね。僕の粋な計らいだよ。楽しんでくれると嬉しいな!」

 ヒナの細身からは想像できない馬鹿力で刀がはじき返される。振るわれた短刀を左手で持った刀で受け止める。雨宮の右手には銃。すぐさま引き金を引く。閃光と共に弾丸が発射される。ヒナは避け切れずに右腕に弾がめり込む。爆発的に膨張して、ヒナの右腕を襲い始める。

「ズルは良くないね。それは君の力じゃない」

 崩壊して液状化していた肉体が時を巻き戻す様に再生する。

「不正は正されなければならない」

 ヒナは短刀を雨宮につきつける。雨宮はすかさず役に立たない鉄塊を化け物に放り投げた。顔を逸らして避ける。ヒナは一気に接近して、短刀を雨のように振るう。雨宮は受け流し、生まれた隙をついて踏み込む。首を捉えたと思っていた刃は容易に受け止められた。雨宮の想像以上に、傀儡術の影響は大きい。体と脳の認識に違和感が生じている。鋭い短刀の突きが右腕を抉る。燃えるような痛みを、雨宮は無理やり押さえつける。ふらふらと倒れそうに後ずさる。右腕からは止めようのない量の血が流れている。ここに自由に動かせる糸など存在しない。あるのは貧弱な人間の肉体だけだ。積み上げてきた術は霧散している。雨宮の目の前には己を舐め腐ったマリアに似た少女の姿。

「馬鹿……みたいな展開だな」

 雨宮は重くて持てない刀を放り投げる。ヒナは短刀に塗られた血液を口に含む。だらりとした体勢から、ヒナは短刀を振るう。雨宮はしっかりと見て回避する。動きがどうしても大げさになる。必要以上の回避は必然、隙を産む。ヒナは勝利を確信して、短刀を逆手に持ち直すと雨宮の頭に振り下ろした。雨宮は声にならない声を叫びながら、右手のひらを盾のように扱った。短刀は細かい指の骨を砕き、底まで一気に貫通する。鳴き声のような声をあげながらも、雨宮の目には未だに貪欲な勝利への欲望が渦巻いていた。砕かれた右手をそれでも、軋ませながら握りしめる。緊張した筋肉は深々と刺さった短刀を固定する。ヒナはすぐさま手のひらから短刀を手放す。次の瞬間には、雨宮の顔面に飛び蹴りがめり込んでいた。反応できずに雨宮の身体が宙に浮く。雨宮は歯を食いしばって苦痛から逃げようとする体を黙らせる。相手は未だに不敵な笑みを浮かべて、愚か者である雨宮を見ている。雨宮は痛みで支配される思考を怒りで書き換える。絶対的優位の立場、にやけた面。雨宮は憤怒に突き動かされ、飛び出した。左手の拳は小さな手のひらで止められる。満足に使えない右手は上がらない。ヒナの右手が頬を殴り飛ばす。血が闇に沈み込む。意識がも朦朧として、暗闇に沈み込みこんでいく。雨宮は右手に突き刺さった、痛みであり唯一無二の勝ち筋に意識を集中する。ヒナは悦に浸って、腹を蹴り上げた。その時、雨宮の眼光が鈍く光る。雨宮は自分の右手に左手を伸ばし、絶叫と共に短刀を引き抜く。人転は、生み出した者にも作用するのだろうか。ヒナは咄嗟に後ろに飛び去ろうとするが、血だらけの刃が小さな胴を切り付けた。

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