第48話
ナターシャはじーと地面を見つめ満足すると、立ち上がり歩み始める。
「一体、どうやって道を決めてるんだよ?」
「ちゃんと見れば人の痕跡が分かるわ。人間が歩んできた道に何も痕跡がないなんてことはないのよ。埃や靴の泥が一番の情報なのだけど、ここまで雨が降られると日常的に使われている道しか判別できないわ」
雨宮にはそんなことができるわけがなかったので、ナターシャに黙ってついて行く。
「もしもの時でさえ、貴方は逃げ出すことができないと思うから覚悟しておきなさい。どちらかが背を向ければ連携は粉々に砕かれるわ。そうすれば、誰も生きては帰れない」
雨宮は拳を握りしめて覚悟を決める。逃げたくないわけではない。しかしそれ以上にやるべきことができていた。
「貴方は……」
「ん?」
「貴方は今から、私が襲いかかるとは考えないのかしら。私が怯えて、貴方を襲う。貴方を殺す方が生き残る確率が高い。そういう可能性は頭にあるかしら?」
どこか弱きにナターシャは呟く。雨宮からは顔が見えない。
「それなら俺は二人で逃げるべきだと思うよ。それにお前はそんなことはしないよ」
「逃避行がお望みなのね。相変らずおめでたい頭をしてるわね」
ナターシャはいつものように渇いた笑みを浮かべて、再び前を向いた。
数時間後、雨宮たちは路地裏の横に不自然な黒いビニールが置かれていることに気づく。ナターシャは躊躇いなくめくりあげる。下には巨大な穴が広がっていた。
「当たりね。これで何も無かったら腐った神に文句を言ってやるわ」
洞窟の中では、外の豪雨の音が反響して聞こえる。そこは何の変哲もない洞窟で、上から時々雨水が浸透して落ちてくる。雨宮はナターシャに手を握られながら前に進んでいた。別に雨宮たちが握りたくて握っているわけではない。雨宮が洞窟の中では暗くて視界が悪いからだ。ナターシャは慣れた様子で進んでいく。落ちそうなくぼみは平然と雨宮を抱えて飛び超える。
「申し訳ない」
「……別に構わないわ」
ナターシャは口早にそう言った。突然、ナターシャの脚が止まる。雨宮もつられて止まった。
「人間の腐った匂いがするわ。鼻をつまんだ方がいいわね」
雨宮は言われた通りにしたことをナターシャは確認すると前に進む。薄暗い視界の中でも雨宮は骨が露出した人間だったもののがちらりと見える。空っぽの瞳孔がこちらを警告している気がした。立ち寄るな、近寄るなと雨宮たちに言い続ける。横には一本の刀が落ちていた。雨宮は立ち止まって、ナターシャもつられて立ち止まる。
「どうかした」
雨宮は無言で死体の横に落ちていた刀を拾う。名前の無い刀。
「拾っていく。何かの役に立つかも知れないから」
ナターシャは何も言わずに首肯すると、前に進んだ。
右も見ても、左を見ても、無数の人形が積み重なっている。生気のない無情の瞳は侵入者を見つめていない。ただ横たわって地面を見つめている。ナターシャは適当に一体の人形の首根っこを掴んで連れていく。
狭い通路を抜けた後ひと際広い空洞に出る。中央には巨大な怪物が鎮座していた。円口類のような口、人間の胴体に、蝙蝠のような翼膜のついた腕を持っている。下半身は、もともと蟷螂のように膨れていたようだが、切断された後は傷口を止めるように、烏賊や蛸の如き触手が生えている。腕は完全に再生したらしく灰色の真新しい腕が出来ている。煙のように吐き出される黒い息が部屋を漂う。雨宮は唐突にこの場から走り去りたい衝動に駆られる。これは関わってはいけない存在だと本能が警告する。恐怖に耐性があるであろうナターシャでさえ、汗を不自然なほど流していた。のそりと人間の二倍はあるであろう体をひこずりながら、起き上がり両腕をこちらに構える。怪物は喋る能力を持ってるであろうにも関わらず、何も口にしなかった。代わりに
「--------キィ」
声にならない叫び声をあげた。その声を聴いた瞬間、雨宮の意識が混濁し泥の中に沈んでいくような感覚に陥る。平衡感覚が消失し、吐き気がこみあげてくる。視界が点滅し、黒へと塗りつぶされる。
「銀糸の四肢、この世の果てを示す黒き華。貴方は常に私の導であり、貴方は私の憎悪の炎の対象。瞳の灯は、私の心を焦がし。涙は、私の心を癒すだろう。貴方の残したものは、私の道を示す。親愛なる血に祈りを、呪わしき血に光を灯せ……聖片解放!」
遥か遠くから声が聞えた。雨宮は正気を取り戻し、視界が戻ってくる。目の前ではナターシャが燃え上がる触手の羽根を生やしていた。
「精神支配の類は私にはあまり効果的じゃないのよ」
ナターシャはそう言うと、触手の眼球の目の前に光を収束させ、発射。巨大なレーザーは繽來神を吹き飛ばす。神は飛び上がり、洞窟の天井に張り付いて、腕を使って天上を這いまわる。一気にナターシャに飛びかかる。巨体のプレスを羽根を盾にして持ちこたえる。ミシミシと不吉な音が鳴り始める。雨宮は飛び出して、繽來神を殴りつける。馬鹿力で口からは血が吐き出る。それでも神は怯む様子はない。右腕を暴風と共に雨宮に叩きつけた。雨宮は相手の身体を踏み付けて体勢を安定させ、拳を叩きこむ。力と力がぶつかり合い、弾け飛ぶ。体の小さな雨宮の身体は宙に浮かび上がり、地面に落とされる。ナターシャは敵が浮きあがった隙を見逃さない。ひと際強く力を込めて、巨体を持ち上げて吹っ飛ばした。繽來神は体を器用に回して大地を掴んで降り立つ。重たそうな腹を両手を大地につけて支える。獲物を狙っている肉食獣のように。
「オルアアアァァァァAAAAAa」
円形の口に大きく息を吸い込み、周囲が震えるほどの声を出す。ナターシャの視界が歪み。地面が波打ち始める。不安定な足場を高速で化け物は迫ってくる。ナターシャは自分の右腕に糸を巻くと、痛覚を刺激する。一瞬だけ、視界が元に戻る。右手を爪のように振るう。繽來神は両腕に力を込めると、飛び上がり再び天井にへばりついた。
「気色悪い。虫みたいね」
雨宮が飛び上がって、張り付いた怪物に拳を叩きこむ。怪物は巻き起こった風に流されるように一瞬で飛び歩く。天井の一部が瓦礫のように崩れ始める。
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