第46話

 海來村から抜けだすと不自然なほどあっさりと雨は止んだ。あれが繽來神の能力らしい。

「人間を変質させる雨。そういえばなんで俺たちはずっと無事だったんだ」

「傀儡師には効かないんだと思うけど、一応一部とはいえ同じ存在なわけだし」

 ナターシャは雨を払いながらそう答える。雨も降ってないのに濡れている雨宮たちを道行く人が見てくる。人の視線さえ気にならないほどナターシャは思考の海に沈んでいた。

 雨宮は自分の部屋に入ると、ナターシャが勝手に入ってくる。

「躊躇いないな」

「私は彼女ほど純粋じゃないから。お風呂借りるわよ」

「………」

 雨宮はナターシャの行動に既視感を感じる。数年前、同じようなことがあった。今はもういない人間との出会い。

 ナターシャはシャワーで細い体に水を流す。温かさなど欠片もない水は冷静さを取り戻す。ナターシャは繽來神に見つかった途端、死ぬことを覚悟してしまった。それほどまでにあの存在は規格外だ。今、何事もなく生きているのが不思議なほどに。超人はナターシャたちを自ら見逃したのだ。こちらに逃げ道がないのは事実だが、それでもあそこで殺さない論理的な理由など存在しない。

「見逃されたのね」

 それが真実だ。真剣勝負を望む、騎士のような精神であの怪物はただの人間を見逃したかもしれないとナターシャは考える。置かれていたタオルで体をふく。身体は柔らかさとは無縁で、筋肉質ではないが体の余分なものは一切ない。張り詰めた糸のような身軽で強固な肉体。黒い外套を羽織ると、役目を果たすために動き出した。


 雨宮は適当に紅茶を二つ作って、先に自分の方を飲んでいた。ここにはいつも、彼女が座っていた。影に重なるように一人の少女が座る。黒衣の外套、最初見たときは雨宮にはぞっとするような無表情にしか見えなかった瞳が優しさで満ちていた。

「私は脱がないわよ」

「え………」

 唐突な発言で、マリアの裸が想起され頬を染める。

「やっぱり、私の姉は馬鹿だから。そういう行動したでしょ。……まさか当たるとは思っていなかったけど」

 ナターシャは穏やかに紅茶を飲む。雨宮は沈痛な面持ちで紅茶を見る。

「ごめ……ん」

「謝罪を私は要求していないわ。懺悔も必要としないわ。私はマリア・オルロワではなく。ナターシャだもの。あの人のあまり仲が良くない妹。それに彼女の判断は、彼女の判断よ。貴方に生きてほしいと思ったのは姉様だもの。文句はないわ」

 当然のことのようにナターシャは言った。

「けど、俺のせいだ。俺のせいで真理愛が死んだ……」

「そうね、愚かな貴方のせいで姉様は死ぬことを選んだ。それは紛れもない事実だわ」

「………」

「貴方はまた私に死ぬことを許してほしいの?」

「違う! 俺は……俺は」

 雨宮の視界が涙でぶれる。人間離れした銀髪と、色素の薄い肌。雨宮は弱音を吐く唇を結んだ。

「俺は俺は、俺は正義を貫きたい。たとえ、お前の屍の上で生まれた正義だとしても」

「死人に口なし。……いい言葉ね。そしてその通りなのよ。貴方は託されたものを、受取ったものをどうするかだけ決めればいいわ。その力も、生きる意味、罪さえも貴方のものなのだから。………まあ、あえて妹として姉の後継者である貴方に望むことがあるならば、私が心酔できるほど強く美しくなりなさい」

 ナターシャは椅子から立ち上がって、雨宮の頬を掴む。大きくを見開いて雨宮の眼球を覗き込む。

「あの人は完璧だったわ。私は森羅万象であの人に勝ったことがない。要人の暗殺から、訓練の一つまで、そして超人の討伐もね。私の美しさも、あの異次元の華を見ると、霞んで泥に沈んでみえる。苛烈で美しい私の姉様、貴方が代わりを努めてくれることが、妹である私の願いよ」

 ナターシャは鬼気迫る形相を一瞬で無表情に戻し、席に座る。雨宮はぎょっとして、口をぱくぱくと開いていた。

「私はね。貴方が姉を殺したことなんて百も承知なのよ。姉は私にとって道そのものだった。どこまでも先に行って、灯りを灯してくれた。姉様は私に振り向いたことは一度もなかった。ありとあらゆる有象無象を殺し続けていた。文字通り、私の神だった。………私の気持ちを愚かな貴方に教えてあげましょう。私は期待しているのよ、雨宮仁に。……貴方は私の道足りえるのか…とね」

「………俺はあいつの代わりにはならないよ。俺は俺の道を進む」

「それでいいのよ」

 ナターシャはつまらなさそうに言った。

「姉様の恋人に何かを期待したら地獄で殺されそうだもの、隙にしなさい」

「俺は逃げないよ。俺はナターシャに死んでほしくないから」

「貴方は足手まといになりそうだけど」

「そうなったら適当に見捨ててくれ。けど、真理愛は超人を殺したことがあるんだろ。だから俺はそんなに弱くないと楽観視しておく」

「本当に弱いなら今頃、この世にいないからそれだけは安心することね」

 ナターシャは狂気的な目つきを落ち着かせ、外に出て行った。

 戻って来たナターシャが持っていたのは、2つの拳銃だった。何の変哲もないハンドガン、この日本では異常の塊だ。さすがに雨宮とてこの状況になれば法律など考慮していられない。

「これ、神様になんて効くのか」

「一応、私の組織が開発している。対超人用のハンドガンよ。効果のほどは確かではないけどね。一般人が持ったからと言って勝てた話は聞いてないわ」

「貰っていいのか」

「どうせ片方死んだら終わりよ。予備なんて役に立つとは思えないわ。貴方を戦力として考えてあげてるだから感謝しなさい」

「ああ」

 雨宮は慎重にナターシャが軽々と持っていた銃を握ると、落としそうになる。雨宮の想像以上に重い。恐らく一般的な銃より重いだろう。

「特殊弾薬を突っ込んでいる仕様上、軽量化が難しいらしいわ。決定打にはならないことはほぼ確実だから、適当に撃って放り投げることね」

「そんな雑でいいのかよ」

「組織の金だもの。私は遠慮しないわ。………期待してるわよ、貴方は私の仲間なのでしょう?」

「ああ、俺はお前の協力者で仲間だ。そしてお前を助ける正義のヒーローになるよ。お前が望まなくてもな。俺は……やっぱりお前に生きてほしいから」

「我儘な男は嫌われるわよ」

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