第44話
日が変わった。ナターシャはあの日から数日間引きこもっていた。なんでも準備があるそうだ。雨宮たちは明日、旧海來村を訪れる予定だ。ナターシャが準備しているということから戦闘になる可能性が高いとみて良いだろう。だから雨宮は死ぬつもりはさらさらない。けど後悔がないよう返すものを返すべき人間に返さなければならない。
雨宮が向かったのは岩満池だった。あの少女がまだここにいるのか、確信はなかった。だから釣り糸を垂らしている小さな姿を見て安堵のため息をつく。
「よお!」
こちらに気づくと陽気な声をあげて手を振ってくる。雨宮は気恥ずかしさを感じながらも隣に座り込んだ。今思えば、こんな小さな子供に重大な話を語る自分は可笑しいのかも知れないと雨宮は思った。ただヒナの纏う気配には子供のような無邪気さはあっても言葉には高度な知性が宿っていた。ヒナはこちらの表情を見て笑みを浮かべる。嬉しさ半分、愚か者を笑う嘲笑半分といった頃だろう。
「その表情を見る限り、上手くいったみたいだね。いやー良かった、良かった。僕としてはもっと面白い展開を期待してたんだけどね。無難に終わってしまったよ」
からからと悪気もなくヒナは笑う。
「まだまだ、終わりそうにはないよ」
雨宮は未来への不安に溜息を吐く。結局のところ、今回のことはアメリアの安全がある程度保証されただけで、劇自体が終わったことは意味していない。ナターシャは理解しているが、あの時あの場にいた深見という女性がアメリアを攻撃しないとも限らない状況だ。雨宮はナターシャのことを全面的に信頼していたが、それでも劇の主催者がさらなる化物なのは間違いなく、死なない保証はない。だからため息も付きたくなる。
「人生に疲れてしまったのかい?」
「いや、人生にはもう疲れないよ。俺は俺に失望して俺に疲れている。そしてそれを乗り越えなくちゃいけないんだ」
「何故だい?」
「教えてくれた人がいたからだ。背中を押してくれた人がいたから、俺は今立っている」
「………人間ってのは相変わらず意味不明なことをカッコよく言う才能があるね。人生に意味なんてないよ。君が死んでも、誰が死んでも、世界は変わらないし、回り続ける。瞼をとじて、開ければ人間の時代なんて終わってしまうのさ」
ヒナは早口でそう言いながら釣竿を引き上げた。巨大なタイヤが持ち上げられていた。雨宮はぎょっとして隣を見る。どう考えても少女の体格では持ちあがりそうにないにも関わらず、ヒナはいたずらっぽくこちらを見て微笑んだ。
「人間、この世には関わらなくていいこともいっぱいあるんだ。何も知らなけば人生は楽に過ごせる。何もしなければ苦しむことはない。多くの人は全てを諦めて、よく分からない幸せと承認欲求で心を満たして死んでいく。君もそっちに進んだ方がいい。無謀な勇気は平和な生活には不要なのさ」
「………」
現状を見好かれたような言葉に雨宮は固まる。ヒナはどこまでこちらの心を見透かしているのだろう。もしかしたら劇のことや、傀儡師のことまで知っているのではないかと雨宮は頭の片隅で思ったが言葉には出さなかった。
「けど俺はその選択は選ばないよ。託してくれたものを捨てる気はない。自分の人生にも背を向けない」
「………つまないなー。悩んでいる方が人間は美しいよ」
「そうかもな。まあ、どうせ人間歩んでれば強制的に悩まされるよ」
会話は途切れ、沈黙が包む。雨宮は二度しか会っていないヒナと並んで座ることに何故か不安を感じなかった。
「これ……返すよ」
「ん?」
雨宮はポケットから短刀を取りだして差し出す。ヒナは疑わし気にジロジロと短刀を観察する。溜息をつく。
「君は、随分と純粋なんだね。貰ってしまえばいいのに?」
「貰った方が良かったのか」
その言葉を聞いてヒナはジト目を向ける。
「そういう意味じゃないよ。本当に純粋だな。………君は僕を怪しいと思わないのかい。そんな怪しすぎる物品を持っている子供がまともな訳がないだろう。ここまで言えば分かるかい?」
「分かってる……けど、お前は俺を助けてくれたから何も聞かない。話したいなら聞くけどな」
「生憎、人間風情に語ってやる不安は持ち合わせていないんだ。……ああいや一つあったな」
「何だ?」
ヒナは真剣な目つきで、雨宮の瞳の奥底を覗く。
「君は他者に絶望したときなぜ、生きることを選んだ」
「…………いやだったんだろ。誰かに、世界に負けるのがずっと嫌でしがみついてただけだ。けど、今は少し変わったかも」
「ほんと、人間ってよく分からないよ」
ヒナは空を見上げて言った。雲は時が過ぎれば流れてて行って、明日には同じ場所に、同じ雲はいない。
ナターシャは再び、図書館を訪れていた。一直線に前回見つけた本を見つけ取りだす。「旧海來村」と書かれた表紙。なかったのだ。ナターシャが一人でこの図書館を数日前に訪れたときには、こんな本は存在しなかった。目的のためだ。資料調査をする程度で何とかなるならそれに越したことはないと考えていた。だから調べていたはずだ。もっと奇妙なことは、自分以外の誰もがこの本がもともと存在したと言っているのだ。ナターシャが図書館の人に聞いてもそうだ。何度か見かけている老人に聞いてもそうだ。
「やりたい放題されてたのね」
そもそも傀儡師として劇に参加することを契約した時点で、「海来市から出てはならない」が機能している。ということはあちらはある程度はこちらを監視できている。だからナターシャの認知阻害程度は行われても可笑しくない。けれどもう、霧が晴れた。もしこの資料の中の「繽來神」がこの劇の主催者ならば、回復できたのだろうか。腹半分と腕一本、とても八人の聖片程度では間に合わない。それこそがナターシャにとっての勝機だった。ナターシャの感覚から言ってまともな状態の超人に勝てる人間は姉しかいないと思っている。数年前、姉は白鵺と呼ばれる超人をこの街で処分している。
残念ながら、この任務を完了しても姉を超えた気は勘違いでさえ得られそうにない。とナターシャは相手の特徴と歴史を見ながら思っていた。
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