第38話

 外に出た。普段は微かな日常と勇気を与えてくれる商店街が、今はただただ五月蠅いと雨宮は感じた。人の声は脈絡がなく物切れで、意味を見いだせない。女と男、老若男女を無理やり組み合わせて一個の生命体にしたらこんな声を出すのだろうか。重い足を持ち上げるたびに深い思考の海に沈まずにはいられない。劇は進んでいる。順調すぎるほどにだ。商店街を抜けた先で右に曲がり、雨宮は懐かしい場所に行って見ることにした。

 岩光池、商店街の右側。だいたい学校から北に行ったところにある小さめの池だ。年々、水面が下がり続けて、今では水生植物が繁茂している。雨宮の生まれたときと同じで汚いという事実は変わらないが、更に一段と酷くなったような気がする。草が揺れる。見ると、一匹のバッタが飛び移ったところだった。虫は雨宮の視界から逃れようと飛び去った。雨宮は興味を失って視線をあげる。

 ゴミだまりのような池に糸を垂らしている。見とれそうなほどの鮮やかに光を反射する銀髪、いたずら心を覗かせる大きな瞳。慎重に似合わず純白のワイシャツを羽織り、上には寒いのか黒く分厚いコートを羽織っている。ズボンが黒いことがさらに怪しさを醸し出している。髪の毛の左側には存在しなさそうな黒の造花が飾られていた。

「何をしてるんですか?」

 雨宮はつい彼女の雰囲気に圧倒されて、敬語で喋ってしまった。それとも彼女を思い出してしまったのかもしれない。似ている。透き通った病的なまでに白い肌も、飾れたブローチも。同時にマリアとは違うのだと雨宮は思っていた。似ているだけの別人なのだろう。だって糸は雨宮の体の中にあるのだから。雨宮は心臓を握るように胸の服を握った。声をかけられた銀髪の人間は集中して見ていた釣竿から視線を逸らし、こちらを見てくる。

「釣りだよ。ここじゃ、腐った雨靴か、廃棄されたタイヤしか見つかりそうにないけどね。君も、やっていくかい?」

 幼い少女とは思えないハスキーボイスと冷静で知的な瞳に一瞬圧倒される。最近の小学生はこんなに大人になっていたのかと雨宮は密かに感動する。少女はその表情に違和感を覚えていたのか、眼を細める。

「いや、みんなそういうわけではないと思うけど」

 肩をすくめた。雨宮は一瞬、何を言われたのか分からなかった。しかしハッとして口を押える。雨宮は確かに何も口に出していないはずだ。適当に言ったのか。それとも、それとも意図を表情から理解したのか。

「えーと」

「うん? 最近の小学生だからこんな知的で賢いわけじゃないのさ!僕が天才なだけだよ」

 少女は子供っぽいニヤリとした笑みを浮かべた。雨宮は先ほどまで少女に抱いていた恐怖心が和らぐのを感じた。

 雨宮は覚悟を決めて、隣に座り込む。

「ふーん……。おにーさん。暇なの?」

「おにーさん」と言われて一瞬、誰の事か雨宮は分からなかったが、瞳が自分を向いていることに気づく。

「………高校生になると色々あるんだよ」

 雨宮は年甲斐もなく腕で足を覆い隠して丸まって座った。少女は先ほど瞳に宿っていたいたずら心に似合わず、何も言うことはなかった。ただ、釣れるはずのない短めの竿を池に垂らしている。

「何かあったのおにーさん」

「ん?」

「いや随分と疲れてそうだからさ。何か心配事でも抱えてるのかなって……」

「本当に俺より年下かよ」

 雨宮は小学生の自分を想像するが、目の前の少女とは似ても似つかない。正義という檻に閉じ込めらた廃人だった。ゲームの廃人だったほうがよっぽどましかもしれない。

「僕はヒナ。おにーさんは?」

「雨宮仁」

「おおー、モテそうな名前だね」

「モテそうな名前なんてあるのかよ」

「あるよ。人の印象はまずは名前で決まる。ボブと言われれば黒人の人を思い浮かべるし、アレックスとか言われと白人みたいだ。……まあさっきの例は日本人にしか当てはまらないけどね。けど名前が印象を決定することは間違いない。カッコ良さそうな顔を連想させる名前は、やっぱり初対面の期待を僅かでもあげるだろう。まあ、それで落差が激しいと失望されてしまうわけだけどね」

 一切言いよどむことなくヒナは言葉を続けた。雨宮は頭の良い友人か、教師と喋っているような気がした。具体的にはナターシャ・オルロワにわずかだか似ていいる気がした。理屈ぽっくて、自分が興味なさげなところが特に。知り合いだろうか。

「おっと話が脱線してしまったな。悩みをお抱えかなおにーさん」

「……結局、おにーさんなのかよ」

「おにーさんの方が、僕に可愛げがあるだろ。でどんなお悩みかな。カウンセラー並みの優しさを持つ、僕に話して見なよ」

 しれっとそんなことを言ってくる。

「それ、優しくなそうだな。………喧嘩だよ。友達が同士が喧嘩してな。仕方ないことなんだ」

 状況に流されて、いやヒナの雰囲気と言葉に惑わされたのかもしれない。真実は隠しつつ要点を伝えていく。素晴らしい名案が出てくるとは到底期待してなかったが、話すことで心が軽くなる気がした。全てを語り終えるとヒナは顎に手を当てて、考え込む。

「……それで、おにーさんはどうしたいの」

 雨宮は自分の心に問いかけられているように感じた。お前はどうしたのだと。

「止めたいのか、それともみんなを出し抜いて優位に立ちたいのか、はたまたすべてを捨てて忘れたいのか」

「止めたいに決まってる」

 雨宮は言い放つ。ヒナはカラカラと楽しそうに笑っている。

「友達って訳でもないんじゃないの」

「けど仲間だと思ってる」

「そう……、僕には分からないな。けど面白いね。やっぱり人間はこうでなくっちゃ。虫の交尾は見るに堪えない……」

 最後に何故かぼそりと付け加える。ヒナの瞳には最初に抱いた印象とは真反対の冷酷な刃物のようになっていた。ただその刃物は誰にも、どこにも牙を向いていない。所在なさげにふらふらと揺れ動いている。

「勘違いをしない方がいい。固定観念に囚われるな。……聖片は引き抜くことができる」

 雨宮は唐突に紡がれ始めた言葉に戸惑う。先ほどまでの無邪気さは吹き飛び、ヒナは低い響くような声で語る。

「これを使えばね」

 声を元に戻して懐からさっきまで存在しなかった短刀を渡す。

「人転、怪しい僕からの贈り物さ。使うか使わないかは君が決めてくれよ」

「………。君は何者だ」

「さあ、何者だろうね。いずれ分かるよ。いや必ず分かる」

「……ありがとう」

「信じるのかい。そう簡単に信じられると拍子抜けだな」

「………信じていようといまいと、もともとなかった可能性だ。やるだけやってみる」

「そう」

 雨宮は短刀を持って池から走り去っていた。

「人間ってやつは意外と純心なんだな。やっぱり別の方法の方が良かったかなー。まあいいや」

 ヒナは釣竿を再び池に垂らした。

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