第36話
柴田は唐突に顔を青ざめた雨宮に驚く。体は震え、汗が壊れたように噴き出る。何も言わずに逃げるように走り出した。
「ちょっと……待って」
柴田の困惑した呼び声は既に雨宮には聞こえていない。誰もいないのをいいことに全速力で走りぬける。口中が乾いている。この忌々しい歯などなければどれほど幸せだっただろうと雨宮は考える。噛み切った柔らかい舌の感触。狂気的なマリアの蒸気した頬。何を考えているんだと、声を大にして言ってやりたかった。マリアには雨宮を助ける義理などないのだと言ってやりたかった。
人目も気にせずに街を走る自分はさぞかし滑稽だろうと雨宮は思う。それでも、それでも走っていないと涙が出そうだった。だから走った。全てが終わって、もう一度始まったあの場所に走った。
灰色のアパートは相変わらず誰一人、収容する余裕がないらしく。誰もいなかった。あれだけ輝かしい存在だったマリアの面影が一つも残っていないことに悲しさを感じる。そんな資格もないのに。雨宮は視線を下に向けて階段を昇る。初めての登った時の階段は軽くて飛び上がるようだった。周りには友人がいた。それも今はいない。大切だった人間に、心配された挙句、ただの人殺しに成りあがった。今、自分は上に向かうために歩いているのか、それとも落ちたいから昇っているのかどちらか自分自身でさえ分からなかった。
記憶を思い出すと惨めな自分が見えてくる。マリアに向かってダサいことを言って、それでも飽き足らず、恥を知らず、罪を塗り重ねる。助けたに命を捨てさせ、生きているのが自分という存在なのだった。雨宮は両手を血が出るほど強く握った。爪が食い込んで、生きている証が地面を濡らす。
いつの間にか、屋上についていた。見下ろす景色は優越感など与えてくれず、ただひたすら雨宮に罪を問いかける。死んだ人間は戻らない。そんな当たり前のことを、聞き飽きた言葉を伝えるように。頬を雫が伝う。
「これが……俺の正義なのか」
雨宮は虚空に向かって問いかける。正しいと思っていた。誰かを助けることも、誰にも関心を示さないことも必要なことだと思っていた。優しかった人間は牙を研ぎ、獣に変わった。だから他人を信じない。正義の最大の報酬は世界に咲く、銀の華の無邪気な笑顔で、最大の罪は銀の華の無感情な視線だった。
「何が正義だよ!」
雨宮は天に向かって人目を気にせず叫ぶ。自分の我儘で突き放した挙句、その人に救われる。これが正義の体現者の姿なのだろうかと雨宮は自らに問う。答えは否だ。正義など雨宮の体の中になど一つもないのだ。紡がれた糸は血だらけだった。
全てがゴミになったような感覚に飲まれ、飛び降りようとする。体は床に縫い付けられたように動かない。糸は脳を支配し、雨宮の意思を、行動を止める。
「馬鹿だな……俺」
糸は簡単に抜ける。傀儡術は簡単に解ける。これはもうマリア・オルロワの異能ではなく、雨宮仁のものだ。自らにかけた傀儡術を解けない理由はない。雨宮は解かなかった。罪は山のように積みあがっている。更に積み上げる必要など既にない。雨宮は子供のように泣きじゃくって濡れた眼瞼をこすった。目を開ける。目の前には空っぽの空が広がっていた。この先にあるのは魅力など欠片もない空白だけだ。
「ねえ、雨宮。人はなぜ仕事をするのかしら?」
無機質な雨宮の部屋にずかずかと入ってきてマリアはそう言った。
「生きるためじゃないのか」
「それはその通りだけど。それじゃこの世には必要のない仕事が多すぎるわ」
「真理愛はどう思うんだ」
「誰かに強制されてるだけじゃないかしら。その強制している人間もまた誰かに強制されている。その人が死んだ後も気づかないうちに常識を改変されて、また強制することが正しいと思い始める。この世はその繰り返しなのよ」
真剣な話をしながらマリアは雨宮が作ったチョコのカップケーキを食べる。風勢などまるでない。
「まともな話なんだろうけど、その態度だと心に響かないな」
「けど一方でみんな何かに縛られてることに安心してるのよ。ほら、子供って親の言うことを聞きなさいってよく言われるでしょう。それで死んじゃう子供もいるんだから絶対に正しいとは言えないわね」
「それがなんの関係があるんだ」
「……人間は生まれたときから命令されて休まるときなんてないのよ。在りはしないのよ。もし自由意思を手に入れる人間がいたとしたら生きる意味を他人や状況ではなく、自らに置いているもの」
「真理愛は自由意思を持っているのか?」
「全然、私はFONの奴隷だし。給料は貰ってるけどね。だから……貴方が私を導いてよ。きっと最高の景色が見えるよ」
雨宮は何も言わなかった。
涙を振り払い降りると、ぽつぽつと忌々しい雨が降ってきた。不吉をわざわざ知らせてくれるご親切な黒い雨。お前自体が不吉なのだと気づきはしないのだろうか。と雨宮は思った。予定調和、二体の木偶が現れる。雨宮は見慣れたのか、それとももっと恐ろしい怪物を見たからなのか、動じることはなかった。
男性の木偶が頭の大きな触手を鞭のようにしならせる。遅すぎるそれを殴り返すと、木偶は痛みで呻き声をあげる。そんな叫びさえ今は何も感じさせることはできない。雨宮はこなれた動作で傀儡術を使って木偶の脚を蹴り砕き這いつくばらせる。背後から女の木偶が奇声をあげながら、右腕を振るってくる。地面に当たれば砕けるだろうそれは、とても柔らかい。雨宮の手に握られる。雨宮はそのまま引き寄せて、足を掴んでねじる。骨が砕ける生々しい音が耳に響く。今まで理不尽に思えた不幸も、自らの責任で、責務そして試練だと思うと少しは楽になった気がした。聖片の本体はどんな姿をしているのだろうか。
趣味の悪いゲームを行う化け物。人間の欲望を把握し、地獄に誘う悪魔。そんな存在は今の雨宮にはどうでもいいことだった。人が死んだら残念だと思うけれど、きっと大切な友人や恋人を失う事とは比べようがないくらい軽いだろう。人は全てを手に入れることも、守ることもできない。だから雨宮は仲間を守ることに決めた。奇妙な縁で結ばれた仲間だけを。
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