第35話

 カリカリとシャープペンシルが音を奏でる。窓の外からは淡い日の光が差し込み寝ぼけた瞳を叩き起こす。雨宮は眼鏡をのけて寝ぼけた眼を擦る。源川六三郎は死んだ。いや雨宮自身が間接的にとはいえ殺したのだ。彼の言っていることは正しかった。雨宮がこの街の人間を守りたいならば、殺してはいけなかったのだ。それを理解していてなお雨宮は判断を間違ったと思っていなかった。暖かな手のひらが確かに教えてくれたから。

「………」

 授業の終わりを告げるチャイムが鳴ると、柴田綾乃が机の前で直立した。口は堅く結ばれ、瞳は少し怯えている。

「えーと、どうしたんだ。柴田さん」

 雨宮には柴田に話しかけられる理由が思いつかなかった。彼女の友人の白水恋ならばいつものことなのだが、雨宮にとっての柴田は友達の友達ぐらいの感覚である。怯えたような真剣な表情で見つめられるような間柄では決してない。

「放課後、ちょっと残ってて……」

 ぼそりとそう言うと自分の席に戻ってしまった。白水に何か頼まれたのだろうかと雨宮は思う。

 放課後にぼーと机に座って約束の時を待っていると、とんとんと柴田に肩を叩かれる。意外にも柴田だけだった。白水は部活に行ってしまったらしい。

「ついてきて」

 柴谷にそう言われて、人がちらほらとしか残っていなかった教室を出る。ちらりと見えた窓の外は既に茜色で太陽が沈みかかっていた。柴田は覚悟を決めたようにこちらを振り向く。

「………雨宮って廃アパートの下で倒れてたよね」

 雨宮は唐突に、そんなことを言われて固まる。

「倒れてたよ。血だらけで…関節もちょっとおかしかった。だから、だから………私はすぐに救急車を呼びに行ったんだけど、アパートの下に誰もいなかった。だからもしかして……雨宮って不老不死だったりするの?」

「え?」

 突飛な予測につい声を出してしまう。馬鹿にされたと感じたのか、柴田は恨めしそうにこちらを見る。

「超自然生物は存在するんだから……。で、雨宮はそれじゃないの」

「柴田さん。俺が倒れてた。アパートの下で」

「うん、そうだけど。平然と学校に来てたから別人かも。雨宮、不老不死でもないみたいだし」

 雨宮の中にあのアパートに行った記憶は確かにあった。その後の記憶が切り取られている。無意識に思いついた。切り取られているのかもしれない誰かによって。傀儡師は記憶の操作ができるだろうか。分からないが、雨宮には違和感しかなかった。体の中の糸は異物以外の何物でもない。本来あってはならない存在。ナターシャにも、アメリアにもありはしない現象だ。傀儡術を行使して体の内部に意識を向ける。筋繊維を固定するように編まれた糸は右腕に集まっている。更に上だ。雨宮はじっと目を閉じて、意識を脳に向ける。蜘蛛の巣のように実態を持たない架空の糸が脳に突き刺さっていた。雨宮はその糸を外した。


 うすれた眼瞼を開けると、眼も眩むような長い銀髪がかかる。いつの記憶だろうか、中学生だった頃か。まどろむ意識の中で考える。

「ああああああああああああ!!」

 真っ赤な唇で柔らかそうな口から出るとは信じられない断末魔のような叫び声が聞こえる。誰かに植え付けられた正義が少女の悲壮な表情に軋みをあげる。その判断を正しかったのかと。飛び降りて堕ちて良かったのかと背を押しておきながら問いかける。それさえも自分自身ということを雨宮は理解していた。

「なんで…なんで、貴方がそれができるの。約束したんじゃない……」

 綺麗な顔を汚しながら月坂真理愛、マリア・オルロワは泣いていた。整えていた髪は振り乱してたせいで乱雑になり見る影もない。マリアは掠れるような雨宮の息の音が聞こえると、鳴き声しか出せない無力な口をつぐんだ。その代わりに行動する。持ち歩いているスーツケースは人外じみた筋力で投げ飛ばし、これから行うべきことの証拠を隠滅する。時間はあまりない。やるべきことをやらなければならない。マリアの頭は冷静に最適解を模索する。止血して間に合うだろうか、間に合うわけがない。雨宮仁の命はあっさりと悪魔に吹き消されれるだろう。方法は一つしか無いのだ。

「傀儡術で止血………無理やり筋肉や骨を動かせば……」

 まともな方法では間に合わないならマリアがずっと呪っていた力を使うしかない。傀儡術は意思なきものを操る力とされているが、その本質を彼女は知っている。傀儡術は意志を支配するためのもの。傀儡術は人間を支配するための方法だ。雨宮の頭を優しく撫でると、眼を閉じた。澄んだ水に泥が沈むように雨宮の意識を上書きしていく。倒れている雨宮は人間として当然備わっている能力を失う。腕は鉛のように重くなり動かすことができなくなる。着地の際に無様に折れてしまった足は痛みを感じる機能を失う。ついには脳にまで侵食し考えるという機能を奪い去る。マリアは一気に傀儡術で筋肉を収縮させ、止血。折れたものを無理やりつなぎ合わる。そして頭には楔を。しかしそれでも足りはしない。出血は急激に収まったが、最初から体力がない。肉体が壊れすぎて今更修復したところで補いきれない。だから命令を組み込む、雨宮の家までの位置はおぼろげながら覚えている。命令を書き込む、人形を動かすときのように関節の動き、必要な力。雨宮の脳に焼き付ける。マリアの眼球からは赤い液体が出て、頭がオーバーヒートしているせいなのか鼻血がでる。拭うことなどせずに命令し続ける。全てが終わると燃え尽きたようにマリアは冷たい地面に倒れ込む。今度は助けてくれる英雄は存在しない。雨宮は助けに来ない。助けるのは自分だからだ。あの時、命を懸けて救ってくれたようにマリアは同じ覚悟でそれを行う。ただ違うことと言えば、危険を負っているのではなく、損失を追っている。一生をかけても自らでは取り戻せない損失をこれから負う。だから最後くらいはいいだろう。雨宮は壊れた人形のように立ち上がり軋みをあげる。意思を失った朦朧とした瞳の中、差し出された雨宮の唇をマリアは貪る。唾液を交換し合った後、マリアは舌を差し出す。

「生まれて初めて聖片の核が舌にあったことに感謝したわね」

 マリアは恍惚とした表情でそう言った。雨宮は、それを噛みちぎった。聖片は神と名付けられたものの肉体、瀕死の人間を再生する程度の能力は存在するだろう。

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