第31話
ナターシャは屋上の上でじっと何の変哲もない空間を見ていた。下では人々が何事もなさそうに歩き、彼女には気づかない。
「超人についてどこまで知っているのかしら?」
隣にいる赤いドレスを着ている女に問いかける。
「………人間に化けて暮らす超自然的存在。どうやらまともに暮らせていないらしいけど」
「そうね。大体それぐらいで良いわ。あれは私たち人間にとって決して可愛らしい敵ではないことは覚悟しておくことね。近くにいるわ」
「何で分かるのよ」
「それが…私たちの能力だからよ。貴方にとってはどうでもいいわ。今から命を懸けて戦ってもらうだけで良いわ。無駄な死を発生させないために」
「有象無象が死んでも気にしないのではなかったのかしら?」
アメリアは眉をひそめる。ナターシャはくすりと笑った。
「玩具の兵隊さんのお城を守ってあげなくちゃいけないのよ。……他にも理由はあるけれど、それも理由の一つ」
「貴方ってもっと冷徹な奴だと思っていた。本当にFONのメンバー? 冷徹無慈悲が彼らの専売特許でしょ」
「酷い勘違いね。私たちの仕事は……国を世界を守ることそのものよ。邪魔な人間を狩るのはよくあることだけど、民間人の無意味な殺害は許可されていないわ」
ナターシャは皮膚が急激に逆立つような感覚を感じる。どうやら隣のアメリアは感知できていないようだ。それが確かな真実であることを彼女に確信させる。
「来るわ」
ナターシャが鋭くそう言った瞬間。帳が落ちたように暗雲が広がり、二人の少女以外の人影が消える。ポツリポツリ、雨が降る。黒い雨、泥みたいに汚い雨が徐々に徐々に強くなっていく。ナターシャは外套から右手を引き抜き十指暗器を構える。アメリアの両隣に二体の人形が下りてくる。片方は弓、片方は剣。無機質な穴の開いた眼球が虚空を睨む。
「正面から来るなんて礼儀正しいのね?」
「………」
深い暗闇のトンネルから怪物が姿を現す。鋭い歯が並んだ巨大な口からは生々しい血が滴っている。蒸気機関のように歩くたびに息を鋭く噴き出し、吸い込む。左目の残った眼球がぎょろぎょろと自分に立ち向かう愚か者を確認する。巨大な骨の翼はぴくりとも動きそうにない。右腕には重たそうな鎖が巻き付いている。
「祝福を……アタエル」
「良かったわね。超人そのものではないようよ」
「十分ヤバそうだけど」
アメリアは忌々し気に敵を睨む。その存在は明らかに異質だ。そもそもあんな肉体で動けるはずがない。だが何のエネルギーがあるのか平然と歩き、近づいてくる。本能的な恐怖感を感じる。
「祝福を、祝福を祝福を祝福を祝福を………祝福を与えなきゃいけない。神様に……怒られるから?」
首を傾げながら怪物になってしまった哀れな男は言う。脈絡はない。文章にも行動にも。もうすでに踏み込んで黒衣の少女の後ろに回り込んでいる。人間の腕をゴキゴキと骨が擦れるよう異音を鳴らして引き伸ばし、二倍ぐらいの長さに瞬時に変化させる。そのまま巨大な鎌の如く腕を振り下ろした。ナターシャはゾッとするような目でその行動を見ていた。目標を外れた腕は大地を叩き潰し自らの血で染める。脆い人間の腕はひしゃげてしまう。だが痛みを感じていないらしく、まったく怯むことはない。右腕の鎖を触ることなく解くと、砲丸のような威力でそれを弾き飛ばす。間に剣を持った人形が踏み込み、合わせて剣を振るう。衝撃で人形は吹き飛び床に転がる。その隙にナターシャは攻撃の間をすり抜け、怪物に接近する。右脚をあげて鋭い蹴りを繰り出す。武術の心得など皆無そうな生物は当然のように防御などしない。する必要がないのかもしれないが。蹴りは顔面に横からクリーンヒットし常人なら即死するような衝撃が伝わる。怪物は口を開いて彼女を食べようとしていたが、衝撃で唾液が飛び散る。方針を変えて、怪物は右こぶしをナターシャに振る。ナターシャはすぐさま地面に降り立ち回避する。そのまま足を蹴り砕く。生身の人間の体の脆さを付かれた怪物の身体は地面に膝をつく。
「我が身は、宿命によって構成される。野を駆ける獣のように獰猛に、花を愛でる少女のように穏やかに、踊る。勝利の道は既に定まった。私が歩むのは、業火の道、花一つ咲かぬ地獄。知ってなお私は進もう……聖片解放!」
走りながらアメリアの右腕は変質し巨大な拳を形成。そのまま丸太のような拳で怪物の全身を殴り飛ばした。人外の力に屈し、怪物は吹っ飛んで建物に激突する。
「聖片解放……」
ナターシャがそう呟くと禍々しい羽根が開き、エネルギーをすぐさま圧縮、解放する。レーザー状の光の奔流が倒れた怪物を飲み込んだ。辻村だったものの屈強な頭部は砕け落ち機能を停止している。死んでいるはずだ。だというのにゆっくりと上体を起こす。首がボコボコと湧いて出てきた肉の塊が顔面の代わりになる。
「セイ…ヘン解放!」
肉が裂けてできた口が高い声で言葉を語る。腹の中が輝き始める。ひと際赤く輝くと消失。異音が成り、骨だけだった翼を肉が覆い始める。まずは右肩。
「聖片解放セイヘン」
左腕が赤く光ると再び消失。左肩から緑色の肉が湧き上がってきて骨だけだった羽根に命を宿す。そして左肩。巨大な二対の翼を羽ばたかせながら怪物はふわりと宙に浮いていた。
「………無理ね」
ナターシャがそう呟くとアメリアを抱えた。
「何するの!」
そのまま大地を強く蹴り、後ろを向いて逃げ出す。
「何かが近付いているから」
それだけ言うと、一気に速度を出して屋根を飛び移って離れる。置いてけぼりにされた怪物はじーと敵を見ていたが、どうやら追いかける気はないらしい。代わりの獲物を探し求めて何処かに向かうことにした。幸いにも餌となる人間ならたくさんいるんだから。ここは楽園だと怪物は獣ながらに思っていた。この時まではだが。脚が切り落とされていた。ひしゃげていた脚が痛んだのではない。根元から脚が消えている。
「残念だが、人ならざる者の居場所など、この世には在りはしない」
しわがれた男の声が聞えた。年老いた白髪をオールバックにし、真白な和服を着て佇んでいる。右手には一振りの日本刀。怪物はすぐさま脚を再生し立ち上がる。先ほどまでの油断はない。獲物ではなく対等な捕食者なのだと怪物は認識した。次に白髪の男、源川六三郎が踏み込んだ時、無数の斬撃が怪物を襲っていた。
「夢見切」
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