第30話

 数日後。狭い部屋、ベッドの上で音を立てながら二人の男女がまぐわっていた。女の方は引き締まった肉体をした若者で成人はしていなそうだ。一方もどこにでも平凡な男で、特徴と言えば鋭く細い目に気味の悪いにやけた笑みだ。どうやら彼らは愛情とは無縁らしい。閉まっている窓ガラスからどこらともなく黒い霧が染み出てくる。次第にそれは形を作り始めて人間の形に落ち着く。辻村御影は、必死に振っていた腰を止めて、悪寒が奔らせ続ける影を見る。じーと眼を凝らしても顔の一つも見えてこない。影自体が実態を持ったかのような奇妙な存在。この世には到底存在できないはずの影。影は当然のように歩を進め二人の人間の前に立った。辻村の顔からは先ほどまでのにやけた笑みはなく。純粋な恐怖心が支配が現れる。心臓をぐっと握られているような、いや脳を撫でまわされているような不気味な感覚を覚える。辻村の息があがる。女はさっきから体を抱いて全裸で震えている。歯が奏でるコーラスだけが異常なほど静かな部屋を彩っていた。

「あああああああ!」

 女は恐怖に負けて体を抱えるのをやめて、狂った獣のような鳴き声をあげながら扉に向かって走る。扉はあっさりと開き。一人の女が外に出た。開け放たれた扉の方からは、ぐちゃぐちゃと何かをすりつぶしているような音が鳴り響き始めた。影は逃げようとした女には興味がないのかじーと少年を見つめている。

「誰だ……、お前」

 辻村は必死で声を絞り出して目の前の怪物に話しかける。辻村は一歩も動けない。動けば恐らく首が飛ぶのだと本能的に理解していた。影はその言葉が聞えたのか、頭をすこしだけ左に傾ける。

「ワタシはオマエの母だ。……ソシテ父でもある」

 しわがれた老人のような声で訳の分からないことを喋り始める。辻村は会話が通じることに安心したが、恐怖から何も喋れない。

「……マチガイか? アイニクこの身体での日本語は慣れていない」

 穏やかなソプラノの声で怪物は語る。

「けどそうね。私は……仕事を失くしたんだ。仕方ないじゃないか。仕方ないじゃないか。仕方ない。そう仕方ない。仕方ない。仕方ない」

 若い20台程度の男の声で怪物は言葉を羅列する。辻村は恐る恐る後ずさり始める。本能がこの存在とは関わるべきではないと警鐘を鳴らし続けている。辻村はもちろん従いたかったが、理性が、直感が、不用意に動けば死亡すること絶えず警告する。噴き出るような汗が床に垂れる。言葉が途切れると怪物はゆっくりと泥のような右腕を挙げた。その瞬間、辻村は勇気を持って接近した。腕輪のように巻かれていた鎖は勢よくほどけ、一本の線となって恐怖の対象を打ち砕かんと動く。鎖は影の頭部を見事吹き飛ばし。黒い泥のようなものが床に散らばる。

「シュクフクを。シュクフクを。シュクフクを。シュクフクを。シュクフクを。シュクフクを。シュクフクを。シュクフクを。シュクフクを。祝福を与えよう、辻村……御影」

 吸い込まれるような引力が唐突に発生し辻村は咄嗟に離れようとする。

 次の瞬間には辻村は真暗な世界に立っていた。地面を見ると暗雲に星が描かれている。空も同じ。右を見ても左を見ても、上も下も北も東も、西も南も全部宇宙のような空間。正常な感覚が失われている。体は立っているのか、落ちているのか、それとも落ちているのか。分からない分からないと不調を訴え始める。世界は彼の認識と常識を侵略する。辻村は意志を振り絞って腕をあげようとすると、……腕がないことに気づいた。腕だけではない。脚も、胴も、今考えているはずの脳さえない。辻村は悲鳴をあげようとして、口すらないことに気づき。涙を流そうとしたが眼球はない。意思だけが浮いている。魂だけが無防備に晒されている。どこからともなく手のように空間が歪み、彼の精神を握り潰さんばかりに掴む。

「シュクフクを与えよう」

 それが最後に辻村御影が聞いた言葉だった。

 シーラ・エリオットは唐突に悪寒を感じて辺りを見渡す。何もいない。先ほどまで人が行きかっていたのに誰もが忽然と消えた。彼女一人だけを残して、ぽつぽつと雨が降り始める。小雨は一気に暴雨に成り代わり、叩きつけるような風が吹き始める。台風の予報は当然ながら出ていない。開始を告げる雨は人間には予言されない。咄嗟に隠し持っていた拳銃をシーラは構えた。叩きつけるような雨が視界を塞ぎ、不安をあおる。

「シュクフクを」

 どこからかそんな言葉が聞える。波紋のように言葉は反響し耳を支配する。毛が逆立つようなぞわりとした感覚を覚え、シーラは瞳を揺らす。渇いた咽喉を鳴らして、じーと周りを見渡す。何も来ない。それこそが更なる恐怖を加速させる。

「祝福……祝福を……与えなくては」

 シーラは確かに男の声を聴いた。ちらりと視界の端に赤い光を捉え、すぐさま振り向く。そこには何もいない。代わりに誰かの足音が聞えた。シーラは大きく息を吸い込んで無理やり精神を落ち着かそうとする。長い金髪が雨に濡れて垂れてくる。どらりと粘液のようなものが肩にかかる感覚がする。すぐさま肩を払うが、何も乗っていない。恐怖による幻覚。雨は未だに叩きつけるように音を奏で、彼女に一切の落ち着きを与えない。シーラはもはや、あの怪しい男の提案を受けたことを後悔し始めていた。金をくれて脱獄させてくれると言うから受けてやったが、こんな目にあうとは聞いていない。殺人鬼にだったらシーラは冷静に対処できただろう。目の前のそれは同じホラー映画に出てきそうな存在でも、また別種のものだ。滝のように流れる汗が、今の自分の身に降りかかっている恐怖が到底地球、いやこの宇宙のものではないと知らせてくる。シーラは無事に帰ったらあのADAMとかいう会社は爆薬で破壊してやろうと強く決心した。

 恐怖に気を取られて気づかなかったのか?

 足元には奇妙な生物がしゃがみ込んでいることに。形は人間だ。顎は外れ口は両側に裂けている。右目の眼球は既に存在せず煙のようなもので満たされている。黒い黒い底の見えない煙。一部が肌色であることがより一層不気味さを引き立てる。まるでもともと人間であったかのような。右腕は骨が露出し肉は落ちている。本来存在しない骨が鳥の翼のように広がる。口には鋭い牙が並んでいる。

 シーラは咄嗟の判断で引き金を引いた。と思い込んでいた。発砲する前に、脳に行動を命じられた腕は口の中に加えられている。女は次の瞬間には腹の中に飲み込まれていた。

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