第27話

 結局最後まで、アメリアの傀儡術を緩めることなどできなかった。随分と驚いていたが雨宮からすればごく一般的な結果だ。逆に基本的な身体能力強化や、痛みを受けた際の制御が可笑しいのだと思う。雨宮は泥のように眠った。

 晦冥の中、夜に溶けるような黒衣の少女は壁に張り付いていた。指から伸びた五本の糸はフックのように宙に体を固定する。瞳にはなにも映らない。虚空が広がっているだけだ。星一つない今の曇った夜空のように。滑らかな黒髪が風に揺れる。

「狩りの時間ね」

 ぼそりとそう呟くと、一直線に上に駆け上がった。

 アメリアは体中に奔った悪寒で飛び起きる。空は平然としたままだが、体の中にはざわつきがある。悪い夢を見たのではない。これから見るのだと警戒する。寝間着のまま侵入者が来るであろうリビングの窓ガラスを見る。何も見えないにも関わらず亀裂が生じる。音は一切なっていない。アメリアはひび割れた場所をにらみつける。

「素晴らしいご登場ね」

 四本追加で硝子に突き刺ささる。亀裂は繋がりながら広がり、全体を侵食する。ガラス戸は一気に細切れになる。それでもなお未だに音はならない。破片は宙に浮いたまま固定され、人ひとりが入れる程度の穴が開く。夜から染み出るようにベランダには一人の少女が立っていた。夜のように暗い髪と、月明かりのような純白の肌。

「有象無象のくせに…。私のものを奪った罪……払ってくれるのかしら?」

 ドスの聞いた声にアメリアは悪寒が奔る。張り付けたような黒い瞳がこちら見る。

「……協力者だと聞いていたのだけど」

「協力するメリットがどこにあるのかしら。貴方と彼、束になっても私には勝てないでしょう。違う?」

「……さあどうでしょうね」

「まずい」それがアメリアの端的な感想だった。予測できなかったわけではなかったわ。ただ心の片隅で彼女にとって雨宮仁は大して重要度の高い存在ではないと考えていた。逃げだしたら放置するものだと思っていた。甘かったのだ。「私のもの」、彼女とって雨宮仁はあの時偶然、助けられた程度の人間ではないのか。アメリアはいら立ちを抑えるために歯に力を込める。寝室には人形が一体ある。

「そんなに気に入ってたの?」

 頬に血が流れる。アメリアはぎりぎりで眼球に突き刺さることを回避した。ナターシャの瞳には殺意すら浮かばない。息を吸うように自然な動作で人の命を刈り取る死神。黒衣もあいまってアメリアには目の前の存在がそう映った。

「有象無象が死んだわ。哀れな女」

「確定事項なのね」

 風を切り裂く歪な長い爪が横から飛んでくる。アメリアは床を転がりながら回避し、人形に近づく。

「ヘンゼル!」

 人形の腕を取る。すぐさまそこを離れる。ナターシャが蹴りが動こうとしたマネキンの頭を壁にめり込ます。ナターシャは忌々し気に舌打ちをする。人形はギリギリと不快な音を立てながら壁から立ち上がろうとしている。黒衣の少女は本体の少女に向かって糸で縛り上げたベットを放り投げる。アメリアは二発殴りつけたあと、鋭い蹴りで愛用の寝具を蹴り砕く。壊れたベットの隙間から蛇のように糸がはい出してくる。一本は的確に眼球を捉え、体中に刃物を突き付けられている状態だ。

「聖片解放………」

 憎々し気にそう呟くとアメリアの右手が赤く発光。人としての姿を一部忘れ去り、触手の束へと変わる。フルスイングで迫っていた刃をすべて大雑把に叩き落す。視界が一瞬触手で塞がれた瞬間、ナターシャは踏み込み飛び出した。走る足の感触を確かめる。勢いにのせて足を叩きつけた。強力な筋肉にガードされる。

「相変らず硬いのね。……銀糸の四肢、この世の果てを示す黒き華」

「クッソ!」

 呪文を呟き始めたナターシャを止めようとアメリアは攻勢に出る。振り下ろされた巨大な拳はナターシャの尋常ならざる脚力で相殺される。

「貴方は常に私の導であり、貴方は私の憎悪の炎の対象。瞳の灯は、私の心を焦がし。」

 分かれた触手が四方八方からナターシャを襲う。ナターシャの皮膚が僅かだが紅く染まり。血が床を汚す。それでも彼女の声に迷いはない。

「貴方の残したものは、私の心を癒すのだろうか?」

 自分自身に問いかけるようにナターシャはそう言う。

『親愛なる血に祈りを、呪わしき血に光を灯せ……聖片解放!』

 ナターシャがそう言った瞬間、空気が一変した。乱雑に紡がれていたリズムは静寂になり。燃えるような赤い世界は終わりを告げる。世界は深淵の底に落ちたかのように被食者を狙っている。アメリアの目に純粋な恐怖が浮かぶ。

「さあ……始めましょうか。泥棒猫、……いえこの表現は可愛らしすぎるわね。ドブネズミぐらいが貴方には丁度良いと思うのだけど」

 ナターシャの右肩から生えた翼が食い入るように視線を向けてくる。当然情熱的なものではなく、美味しそうなウサギを見たような嬉しそうな眼だ。アメリアは生唾を飲むと、最悪の状況に頭を悩ませる。勝てるだろうか。ナターシャ・オルロワについては、劇に参加する前から存在自体は知っている。連邦国家犯罪対策局、通称FON直属の傀儡師。生まれたときから兵器として育てられてきた化け物。その中でもひときわ目立つのが、とある姉妹だった。白い妖精と、黒い死神。女性に対して黒い死神とは如何なものだろうかとアメリアは思ったが。今ではその評価は正しいのだと確信を持って言える。緑色の翼を生やした黒衣の少女は悪魔、そのものだった。

 高速で音を置き去りにして羽根が弾丸のように飛んでくる。アメリアは触手をまとめて叩きつける。そんな小さな抵抗など無駄と言わんばかりに、そのまま壁に叩きつける。

 アメリアの肺から血と共に空気を押し出される。確かに最適なタイミングで拳を振るったはずだ。間違いなく全力だった。だというのに軌道を変えることも、一瞬さえ止めることができない。腹をそのまま刺し貫かれていないことだけが唯一の成果と言えるだろう。一気に引き抜かれた翼は定位置に戻り。にやけた眼を向ける。その目がカッと見開くと、赤く発光し。大量のエネルギーを収束させ始める。集まったエネルギは熱を持ち、周囲のものを吹き飛ばし始める。

「さようなら……」

 無感情にナターシャがそう言うと、ひと際赤く眼球が光る。眼を潰すような光の後、膨大なエネルギの奔流が奔った。光の後には全身から血を流してかろうじて立っているアメリアの姿があった。ナターシャは驚いているようで、不愉快そうな顔をしている。

「手加減しすぎたからしら。建物が崩壊するとめんどくさいから弱きになりすぎたわ」

 言い訳するように早口でまくし立てる。再び、絶望を与える光を集め始める。アメリアは既に一歩も動くことができず目の前の悪魔を気丈に睨みつけていた。鋭く終わりを告げるようにひと際赤く光り輝く。その光はアメリアの瞳に届くことがなかった。

「………貴方言ってたわよね。私がアメリアを殺しても気にしないって」

「ああ」

「なら何故、そこに立つの。雨宮仁。そいつは私を殺そうとして、私は彼女を殺そうとしている。正当防衛が成立するかは分からないけど、私の理論もある程度通っていると思うのだけど」

「そうだ………お前は正しい」

「では去りなさい。のこのこと出て行った罪に関してはあとで、追及してあげるから」

「俺はアメリアを守るために立ってるんじゃない。お前を殺すために立っている。この街を脅かすナターシャ・オルロワに対して正義を執行するためにいる」

「………屁理屈ね」

 雨宮の言葉を聞いてどこか悲しそうに一瞬だけ沈黙したが、すぐに零に戻る。雨宮の声の震えにナターシャは既に気づいている。殺すべきか、生かすべきか。雨宮は本当にナターシャに勝てるとは思っていない。ただ雨宮にアドバンテージがあるとすれば会話を聞いていた点だ。「私のもの」とナターシャは雨宮を形容した。それがロマンチックな意味ではないことを確信を持っていた雨宮は何か自分自身を殺せない理由があるのではないかと考えたのだ。溜息が解となって聞こえる。

「………いいわ。そこの女と一時的に協力しましょう。そうね、最近街を騒がせている殺人鬼で良いじゃないかしら。あれ楽に殺せそうだから早く終わるわ」

 ナターシャは硬直している雨宮の横を通り過ぎる。

「くだらない知恵があるのね。忌々しい。警告しておくけど、貴方の命にそこまでの価値はないわ。例えるなら……子どもにとってのお気に入り玩具ぐらいかしら。壊れたら悲しいけど、すぐに忘れるわ。だからこれ以上、欲張るなら殺すわよ」

「……」

 雨宮は何も言い帰さず。ナターシャが去るのを待った。雨宮は自身の判断の矛盾に当然のように気づていた。この判断は正しくない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る