第25話

 雨宮は普段なら絶対に乗らない屋根の上に乗っていた。空には大きな月が浮かび、雨宮の顔を闇夜から守る。隣には闇でさえかき消すことできない赤の少女が立っている。

「良い夜ね」

「寒いだけですよ」

「乗りが悪いわね」

 アメリアは肩をすくめる。息を大きく吸い込むと、隣の家の屋根に飛び移る。落ちれば骨折は確実にしそうな高さだが彼女に不安はない。雨宮も覚悟を決めて飛び移る。体が浮遊感を持つという未知の感覚に戸惑いながらも、勢よく音を立てて不格好に着地する。

「何か歩いているわ」

 アメリアが常人の視界では点のようになっているものを指す。雨宮は目を凝らして見るが見えない。

「見えませんけど」

「貴方、視力悪いでしょ」

 雨宮はそれもそうだなと納得する。アメリアは再び飛び上がり次々と屋根を飛び移る。

 視線の先には逃げようとする一人の女、次々と視界が入れ替わり目標に近づいていく。夜風を切る音のせいで音が聞こえにくいのが煩わしい。踏み出す足の一歩、一歩が熱を持ち始める。それ以上に思考にエネルギーを費やさいけないのだが。アメリアの横から一体の人形が別の屋根に飛び移っている。とうとう、目的の人物を視認できる距離まで近づけた。女性だ、20代前半ぐらいのどこにでもいるような女。目線をずらすと後ろから明かに不審な肥った男が息をあげながら歩いている、手には鋭利なナイフを持っている。二人の距離は以外にも徐々に縮まっていた。というのも女性の方が恐怖によるパニック状態でたびたび転びそうになって速度を失っているからだ。迷宮を歩くように乱雑に道を駆け抜けるが、男は不自然なほど確実に追跡している。小さくない音を立てて隣に雨宮が飛び降りる。

「助けましょう」

「迷いないわね」

「ないですよ。アメリアさんがどうしても止めるというなら別の方法を考えます」

「反対したら、私と戦うの?」

「必要とあらば」

 雨宮は普段の退屈そうな瞳を変えて、燃えるような怒りで眼前の光景を見ている。アメリアはそれを見て、侮れないなと感じる。すぐさま目線をもとに戻す。

「………助けるわよ。私にとっても無関係な人間が傷つくのは気分の良いものでもないわ」

 アメリアの言葉を聞いて、雨宮は移動する二人の人間を獣のように狙い始める。女性が転んだ瞬間、雨宮はアメリアに目配せすると爆発するように屋根を蹴り、飛び降りた。衝撃を押し殺して大地に降り立つ。

 初めて男の顔を詳しく観察する。その顔はどうしようない恐怖と絶望に彩られており、犯罪の動機になる怒りも涙も狂気的な笑みも存在しない。雨宮は予想外の事態に固まる。男は発狂して襲い掛かってくる。どう考えても慣れていないたどたどしい刃物を、雨宮は素の動体視力だけで見切る。身を捩って回避する。そのまま拳を打ち込もうとしたときには、既に遅い。頭部を正確に狙ってナイフが投擲されていた。目の前の男のものではない。避けられない。そう思った時、人形が脳髄に突き刺さる寸前にナイフを宙で掴んだ。雨宮はすかさず目の前の男の顔面を殴り飛ばし、腹を殴り気絶させる。すぐさま二度目の攻撃を避ける。ナイフは狙いを外れて床に突き刺さる。

「あと少しだったのに……もしかして君たち協力することにしたのかい。コミュニケーション能力の塊だね。羨ましい。僕の友達は君の拳でノックダウンさ。酷い話だ」

 マイケル・ロビンソンはさも悲痛そうな面持ちで影から体を出す。雨宮は彼の一挙一動に目を配る。弛緩して緊張してない腕と脚はこの状況だと明らかに不自然だ。

「何やってるんですか?」

 雨宮はちらりと倒れた男を見ていう。

「うん、見ての通りだが」

「そこら辺にいる人間を脅して、餌にする」

「酷い言い方だな。彼が欲求不満みたいだったから背中を押してあげただけさ」

「背中を押された奴があんな怯えた顔をするわけないだろ。どうやったら恐怖で怯えながら人殺しなんかやるんだよ」

「ふふふ、それにはコツがあるのさ。君にも…やってあげようか?」

 雨宮は無言で睨みつける。するとマイケルの指に硬そうな線が付いていることに気づく。

「ん、これかい。これはただのピアノ線だよ。傀儡師にそんな能力があるなんて僕は知らなかったものだから事前購入してなかっただ。日本円はあまり持ち合わせていなかったら、そこの男に親切にも買ってもらってわけさ。これは少し早い誕生日プレゼントだね」

 楽しそうにマイケルは喋る。雨宮は隙を伺い続けるが、挙動の中からは見つけられない。右手に持ったナイフはせわしくない動き回り、視線はじっと雨宮と傍に居る人形を監視する。雨宮は急激に足に力を込めると、一気にマイケルに接近した。傀儡術は自身の中身にしか作動させない。

「血気盛んな若者にはいつも驚かされるよ!」

 マイケルはすかさずナイフを短く横に振るう。雨宮はそのまま刃物に対して拳を打ち込む。わずかな血と共に刃物が木っ端みじんに砕け散る。続けて左拳をマイケルの顔面に繰り出す。それを防ぐためにピンと張ったピアノ線が道を阻む。咄嗟に拳を止めて足を蹴りつける。マイケルは後ろに軽く飛んで避ける。砲弾のような人形の拳がマイケルの頬の皮を吹き飛ばす。流れるような動作でマイケルは腕を掴むと人形を投げ飛ばす。次にとんできた来た雨宮の右回りの蹴りを、掌底で弾き飛ばす。追い打ちに、伸びた糸が散弾のように雨宮の身体を襲う。雨宮は倒れるように回避するが、腕、脚、腹部を糸の弾丸が突き刺す。雨宮は痛みで自分に命じていた傀儡術が弱くなる瞬間を感じる。倒れた雨宮の無防備な頭をマイケルは蹴りつけようとする。それを人形の蹴りが相殺する。マイケルは痛みで顔をしかめるがすぐさま人形の頭部を掴む。

「どうせ、これも傀儡術、何だろうね」

 ぺろりと唇を湿らせると、マイケルは人形に傀儡術を行使する。抵抗も何もなく人形は支配された。

 マイケルは感じた違和感に突き動かされ、飛ぶようにそこから離れる。瞬間、さっきまでいた場所をアメリアのしなやかな健脚が吹っ飛ばした。レーザ光線のように飛んでくる糸をマイケルは的確に避けていく、全てを避けたころ残ったのは、数本の糸のクズだけだった。スーツについたほこりを払う。

「逃げられちゃったか」

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