第19話

 雨宮は学校に着いた後、白水に何と説明しようか頭を悩ませていた。

「新たに殺人鬼が、いや酔っ払い……それとも暴力団の下っ端か。全部あり得なさそうだ。というか明らかに人間じゃない容姿のやつがいたんだぞ。誤魔化せるのかよ」

 大きく溜息をつき、気を引き締める。とりあえずその場の流れで誤魔化そう。雨宮はそう考え始めた。覚悟が決まる前に、茶髪の少女が変わらぬ笑顔で雨宮の前に現れる。

「あっ、雨宮君」

「あ、ああ」

「昨日は本当にありがとうね」

 白水はそう言いながら小さな小包と黒い高そうな傘を渡してくる。質問攻めをどうやって避けようか考えていた雨宮は思考が停止する。

「えーと」

「うん、これ昨日借りてた傘の代わりと私の手作りのシュークリームです。………ダメかな?」

「………」

 何の話か分からなくて雨宮は困惑する。

「あれ? もしかして忘れちゃってる。昨日、傘貸してくれたでしょ?」

「………ああ、そうだな」

 雨宮は違和感を無視して渡された傘と小包をもらう。何故か頬を赤くしていたが、一体昨日の記憶はどうなったのだ。雨宮は疑問に思ったが口に出さないことにした。何も問題が起きないならそれが最善である。白水は手で渡すと、逃げるように柴谷に抱き着いている。雨宮は何も言わずに教室に入ることにした。

 窓際の席なので談笑しながら登校してくる生徒たちが見える。昨日、雨宮にはあのようなことがあったというのに日常というものは案外、強固で変わりにくいらしい。そう、どこかで思っていた。

「お前ら、転入生を紹介するぞ」

 ぶっきらぼうな男性教師が、チャイムが鳴るなりそんなことを言い始める。昨日まで何も予告がなかったのに何故だろう。「入っていいぞー」男性の声と共に無造作に扉を開く音が聞こえる。漆の色の瞳、首元までで切りそろえられた黒い髪、肌はどこまでも白く、周りの人間とは息遣いの一つから違い、纏っている雰囲気も見えている世界も異なるだろう。雨宮は固まっていた。

「は!?」

 惹きつけられた人々の視線は、雨宮の声など気にも留めなかった。普段は野次を飛ばしそうな男子生徒すらじっと静寂に耐えている。先生は何事もないかのように説明を開始する。

「えー、あ、紹介するぞ。月坂零さんだ。県外からの転校生だから、分からないことも多いと思う。優しく教えてやってくれ。自己紹介を頼む」

「ええ、月坂零です。よろしくお願いします。そうですね……」

 ちらりと面白そうに呆然を口をパクパクとしている少年を見る。

「趣味は読書と、羊羹を食べることです」

 至って平凡なことを言った後、にこりと微笑む。それだけで部屋中の物を軽々と魅了した。

 授業が終わり、チャイムが鳴るとさっきまで黙って見ているだけだった男子生徒たちがぞろぞろと少女を囲いだす。「他に好きなことは?」「どの県からの来たの」と次々と質問が投げかけられる。ナターシャはそれに対してまったく躊躇いなく答えていく。雨宮が違和感を感じる点といえば、本当に悩むそぶりを一切見せないということだ。チャットボットのように無感情に答えていく様は、自身からすれば薄ら寒さを感じる光景だ。

「好きな人はいないんですか!」

 無神経なクラスの中心人物らしき男子生徒が心底興味深そうに質問する。

「………しいていうなら、姉ね」

 ナターシャは初めて悩むとそう言った。新情報に興味を惹かれた。

「お姉さんってどんな人なの?」

 女子生徒が興味を持って聞いてくる。

「そうね私では遠く及ばない存在よ。今の今まで小さな勝負一つ、勝ったことがことがないわ。あれは紛れもなく化け物の生まれ変わりだと思うわ。ええ、そうに違いないわ」

 雨宮は絶対にナターシャの姉に会いたくないと思った。ナターシャでさえこの性格と力を持っているのに勝てないのなら、恐ろしすぎる。

 ナターシャは周りから飛んでくる質問に答えながら、思考の海に浸っていた。予想されている質問は、あらかたと答えを考えてきた。人物資料は仕事柄何度も見ていることもあり、新しい人間に成ることも問題はない。それにこういった方法で潜入するのは初めての事ではない。普段は何処かの役人なのだが、今回は学生である。ナターシャは学生に扮するのは始めてだったが、運のよいことに自分の髪色は一般的な日本人の髪色と大差がなかった。一つ失敗したとするなら、姉の存在を晒したことだ。そもそもナターシャが決めていてた月坂零の設定に姉など存在しない。ついうっかり憎悪と嫉妬から答えてしまっただけだ。そのせいで、姉に関する質問だけは、答える際のよどみが生じてしまっている。違和感を悟られなければよいがと、ナターシャは過剰な警戒を抱きながら質問を受けていた。

「お姉さんは今、何やってるの?」

「さあ、何をやっているのかしら。分からないわ。……好きにやってるんじゃないかしら?」

「お姉さんのこと本当に好きなの?」

「……あら大好きよ。ただ関係は結構複雑なのよ。そう簡単に割り切れないわ」

「ふーん」

 と興味のなさそうな返答が聞こえる。次第に時間が近付いてきた人ごみが晴れていく、ナターシャは小さく聞こえないようにため息をつく。

「潜入は得意だけど……疲れるのよ」

 騙してしまったと後悔するような感性は既にナターシャの脳内には存在しなかったが、ふだん比較的静かな少女にとって聞かれたことを答えるだけとはいえ疲労感が溜まっていくものだ。姉ならこんな潜入でも上手くやるのだろうかと、ナターシャは思う。

「めんどくさいから、適当に喋ればいいんじゃないかしら」

 ナターシャの頭の中の姉がそう言っていた。そう言えば、姉は結構適当な奴だったと思い出す。きっと私と同じ状況になったら実のところあたふたしやすいのは姉のような無計画な天才児の方かもしれないとナターシャは思う。何故か小さな勝利感を感じうっすら笑みが生まれる。視線を感じて見ると、隣の席の名前の知らない男子生徒が目を咄嗟に逸らす。どうやら見とれられていたらしい。姉にあったら卒倒するのではないだろうかとナターシャは不安を隠し得なかった。

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