第18話

 ぼんやりとした日差しに晒されて雨宮は目を覚ます。ぼやける目を擦って辺りを見渡す。今日はディジタル時計の世話になることはなかったようだ。相変らず何もない部屋を見ると、眠っていた体を起こし寝室を出る。

「そういえば、昨日は何をしてたんだっけ」

 雨宮は鏡に映った平凡な男を見ながら、なんとか記憶を思い出そうと頭を捻る。体中に糸が張る感覚が奔り、ぎょっとして止まる。気味の悪い感覚を無視して眼鏡をつける。

 学校に行くために学生服を着る。最近は寒いから常に学生服をきておかなくてはならい。とはいえ、防寒効果はやっぱりほとんどない。ふと、ポケットに手を突っ込むと銀色の指輪が入っていた。先端からは短い糸がでている。

 雨宮は徐々に昨日のことを思い出し、大きく溜息をつく。

「本当に生きて戻れるのかな、俺」

 弱音を吐きながらも朝食の準備をする。相変らずのパンと紅茶だ。時計を見ると、登校時間までは少し余裕があった。どうせやることもないので雨宮は外に出ることにした。

 玄関を開けると、冷たい冬の風が少年を驚かせる。大きくあくびをすると、雨宮は階段を降りようと横を向いた。同時に隣人が外に出てくる。滑らかな黒髪は首元で切りそろえられている。背は低く真っ黒なローブを着ている。間が見える陶磁器のように真っ白な肌、こちらをジーと見る眼球。

「何してるんだ。ナターシャ?」

「………見て分からないのかしら。もしかして眼球がついてないわけではないのよね?」

 さらりと吐かれた暴言を無視して雨宮は少女を見つめる。

「どうして、そしてどうやって隣に引っ越してきたんだ」

 何故、そんなことを疑問に思うのだろうという顔でナターシャは見てくる。

「貴方は、……私と協力する気なのよね?」

「ああ」

 それだけは雨宮の中では変わっていない。本気で殺されそうな状況になっている以上、生き残ろうと努力しないわけがない。

「ではそれは愚問ね。貴方、まさか私との協力関係が一夜にして築けたと勘違いしてないかしら。人は人をそう簡単に信用しない、これは絶対不変の原理よ。だから疑り深くお仲間さんを手元に置いているのよ。いつでも、実行できるようにね」

「………」

 冷や汗が頬を垂れる。雨宮は少女に対して湧き上がった恐怖を押し殺す。何をとは聞かなかった。

「心しておくよ」

「そこは、俺はお前に負けないとか言ってくれても良かったのだけど。つまらない人間ね」

「絶対言いそうにない言葉を出されてもな」

「あら、正義のヒーローなら言いそうなセリフだけど」

「……俺は正義のヒーローじゃないよ」

「そう」

 雨宮は話が終わると、元の目的通り階段に向かった。

「常に警戒しておきなさい。相手は礼節をわきまえた人間だとは限らない。ペナルティがあるから、あり得ないは軽率な判断よ」

 雨宮は少し驚いてナターシャを見る。どうやら警告してくれたらしい。

「分かってるよ」

 ナターシャは学生服を着た平々凡々な少年を静かに見守っていた。

「私の推測が当たっていたとしても、外れていてもやることは変わらない」

 自分自身にナターシャは言い聞かせると、右手に装着していた十指暗器を見つめる。共に戦場を生きてきた相棒、姉が使う必要のない武器。


 閑散とした何もない部屋には二体のオートマターが立っている。ナターシャの服装は普段の黒衣ではなく半そで半ズボンの黒服という動きやすい服装だ。真白で手のひらと拳に刻まれた生傷がよく見える。そんな体の悲鳴には耳を貸すことなく手を握り、開く。何度か体を適当に動かす。目の前の練習用の人形はお行儀よく待っている。

「これから訓練を行う。ナターシャ・オルロワ、準備はいいか」

 男の低い声が耳元の端末から伝わる。ナターシャは床に垂れた血を見る。

「問題ありません。始めてください」

 呼吸を整える。カウントダウンがゆっくりと進む。負けるわけにはいかないのだと自分に言い聞かせる。呪いのように言い聞かせ続ける。合図が出た瞬間、爆音と共に二体の重量の塊が飛ぶように襲い掛かる。振るわれた右こぶしを顔面をずらして回避。続け様に二匹目が腹に向かって蹴りを放つ。一瞬だけ飛んで脚を重力を乗せて押し付ける。当然のように彼らは怯まない。頭にある処理装置を壊さない限り、止まらないことを開始前に既に知っている。相手の軌道を思考を読んで振るわれる的確過ぎる連打。ナターシャはぎりぎりで回避し続ける。判断が少しでも遅れれば頭が吹き飛びそうな蹴りが顔面を貫通するだろう。横からはストレート。ナターシャは僅かな拳の不安定さを目ざとく見つける。それは常人では見つけられない隙。紛れもなくナターシャ・オルロワが見つけ出した技である。拳を蹴り上げると、梃子でも動かなかった人形が自分の力の反動で仰け反り体勢を取ろうと後ずさる。それをカバーしようと、もう一体の人形が踏みこみ拳を打ち込む。関節のわずかなズレを見つける。ナターシャはそのズレに向かって細い拳を力いっぱい叩きつける。強烈な音ともに、拳から血が舞う。そんなことは、ナターシャの視界には映らない。無防備に体を晒している人形の首に手を押し付ける。そして聖片に意識を集中させ、一気に思念を流し込む。人形の中を見えない糸が蛇のように動き、動かすべき部品を見つけ出す。歯車が噛み合った一瞬。ナターシャは押し付けていた手を相手の首を切るように動かす。突然、人形は機能を停止し倒れ込む。まだ足りないのだと言わんばかりに、ナターシャは一気に最後の一体に接近。振るわれる拳を弾く。動こうとしていた場所に蹴りが飛んでくる。ナターシャは受けきれず脚の骨が折れる音ともに蹴り飛ばされ床を転がる。すぐさま痛む体に鞭を打ち立ち上がる。目の前に振るわれた拳を的確に真上に軌道を変える。がら空きになった首を両手で掴む。一気に相手の処理装置を乱雑に移動させる。人形は機能を失い倒れ込む。


「素晴らしいですね。ナターシャ・オルロワ。惚れ惚れするほどの技術だ」

 耳元で教官である男性が心底、嬉しそうに声をあげる。皮肉の色など混じらない純粋な賞賛の声。だが、それほど今のナターシャに気に障る音は存在しなかった。

「早く、次の準備をお願いします。この程度で……賞賛される道理はありません」

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