第17話

 最悪だ。どうしてこうなってしまったのだろう。……マイケル・ロビンソンは呆然と歩きながらそんなことを考えていた。着ているブラックスーツは真新しい皺の無いものではなく、少し年季が入っており埃や曲がりが目立つようになってきていた。色とりどりのデザインをされた英語は生き生きと人を誘っており、マイケルの頭に紡がれるものとは正反対だ。腐った世の中に対して雑に舌打ちをする。周りからの視線など気にせず、不機嫌なオーラを出しながら早歩きで歩く。

 

 だからだろうか、柄にもなくマイケルは人気の少ない路地裏に入ってしまった。日は既に落ちている。都会だからといってこんな時間にはあまりこういう場所をうろつくべきではない。知ったことかと奥に入ってみることにした。こそこそと汚らしい顔の人間が営業スマイルを張り付けてろくでもない粉を売っている姿を見て、マイケルは不快感を覚える。彼は決して真面目ではなかったが、しっかりとルールを守る方だ。だからだろうか、マイケルが咄嗟に拳を握って両者を殴り飛ばした。もう一方と違って、売っていた男は突然殴れたにも関わらず気を取り直して懐から鋭利な刃物を取りだしている。刃物が眼前に急速に迫る。マイケルは努めて冷静に、流されるように横に避ける。売人の攻撃は空振り体勢を崩す。マイケルは大地を踏みしめると脚で男の頭を蹴り上げた。売人は気絶した。警察に電話しようかとも思ったが、こんなものは日常茶飯事なので笑って済ませられると確信し取りだしたスマートフォンをしまった。

「いやぁー鮮やかな蹴りですね。素晴らしい、まるで日常のワンシーン。貴方は朝の目覚めの紅茶を飲むように人を殴り飛ばせるでしょう」

 マイケルはその言葉に眉をひそめる。何も感じていないのはどうしようない事実なのだが、見ず知らずの他人に言われるとどうしてもこうも腹が立つのだろうか。目の前のフードを被っている男の顔が、気色悪い営業スマイルが原因なのだろうか。

「勘違いしないでもらいたいな。僕は犯罪者がいたから制裁を加えただけだよ。薬の売人も所持者も一応は犯罪者だからね。文句を言われる筋合いはない」

「ええ、ええ。そうですね、その通りです」

 うんうん、とうなづく相手を見ているとマイケルの頭が冷ややかなナイフのように変質する。あの時のように殺してしまおうか。

「えーと、貴方は何をしてるんですか? ただの浮浪者の身なりではないないようですけど。僕が言うのもなんだけどさ、こんなところをうろつかない方がいいよ」

 マイケルはできるだけ穏やかに目の前の怪しい男に忠告する。

「いえいえ、それは大丈夫ですよ。私もこの世界の売人ですから……。ただ、一点違いがあるとすれば、私の品物は貴方の目を惹くことは間違いありません」

 男はローブを払い顔を晒す。右目には巨大な獣に引っかかれたような傷跡が残っている。マイケルは男の身体を注意深く観察する。銃はおそらく持っていない。ナイフもだ。丸腰、けれど引き締まった体をしており、さっきの売人ほどあっさりとはいかないだろう。攻撃しようとしていた手を引っ込める。

「………貴方は賢い人ですね」

「皮肉かい?」

「最近、不幸な目にあわれましたか?」

「…その通りだよ。ろくでもない上司に解雇されてしまったわけだ」

「それはそれは、見る目がありませんね」

「まったくだ」

「貴方も、貴方を雇った人間も」

 一瞬で背筋が凍るほどの殺意が周囲に充満する、時が刻むごとに殺害するか、しないかを決めている。売人は特に気にせず言葉を続けた。

「……貴方は平凡な会社で働く人間でもありませんよ」

「給料の話かい?」

「いえ、どちらかというと職種の話です。我々と共に働きませんか、給料はもちらん、貴方が働いた企業ではあり得ないほど払いましょう」

 マイケルは疑わし気に売人を見る。馬鹿にしてるわけではないようだが、真意が未だに分からない。

「よく分からないな。はっきり言ってくれ」

 苛立たし気に見る。売人は懐から何かを取りだすと手のひらに包み、目の前で開いた。マイケルは目を見開き、口を気味悪さから歪める。そこにあったのはただの肉塊だった。牛の肉や、豚の肉とは似ても似つかない灰色の肉。それだけならばまだましだが、どう考えても心臓のように脈動している。生きているのだ、肉片一つになったとしても。泡が浮きあがるように赤い眼球がぎょろりとマイケルを覗き込む。

「うおおお」

 奇妙な存在に悲鳴をあげ、指を指し腰を抜かす。

「なんだ、なんだ、それは」

「そんなに驚かれることですか? 肉塊が動くのは確かに不思議かも知れませんが、切断された部分が動く生物は意外といると思いますが。まあ、貴方の驚きの通り、この生物の肉片は一個の命として生きているのですが」

「なんだそれは?」

 マイケルは少しだけ呼吸を落ち着かせる。

「聖片と呼ばれるものです。遥か遠く、遠い場所からやってきた生物の肉片ですよ」

 喋っている間にも、肉片は細い影のような脚を生やし生まれたての小鹿のように立ち上がろうと蠢いている。間違いなく生きているのだ。

「貴方にやって欲しい仕事は至って簡単。これを回収してきてほしいのです」

「………何のためだ。違法研究か何か?」

「ご明察ですね。その通りでございます。もっと言えば、これさえ私たちの研究の産物の模造品に過ぎないのです」

「………」

 彼氏が殺人鬼だったという報告を受けた彼女でさえ、ここまでは絶句しないであろう程マイケルは呆然としていた。だが、同時に心の底からこの展開を楽しんでいる自分に気づく。

「いくらだ?」

「成功すれば貴方が平凡な暮らしさえすれば、一生暮らしていけることは保証しましょう」

「……魅力的な提案だが、怪しい匂いがするよ。僕である必要がない」

「新手の詐欺ではないかと疑ってらっしゃるのですか。……では少し、情報を開示しましょう。この聖片を食べた者には異能が宿ります」

 売人は喋りながらゆっくりと倒れていた薬物の販売人に近づく。

「しかし誰でもというわけではありません。失敗すると……」

 無理やり口を開くと、脈動して動こうとする。肉片を男の体内に入れ込んだ。

「うがあああ」

 大声で叫びながら倒れていた男は喉を抑える。眼球からは血が漏れ出し、穴という穴から血の池を作ろうと努力する。一分ほどで、池が出来上がっていた。男は干からびたように死を迎える。口の中ら先ほどの蜘蛛のような肉片がでて歩いて逃げようとする。マイケルは反射的に血の池に足を突っ込んで、肉片を捕まえた。

「と、いう風に死亡します。どうです、食べてみては如何ですか?」

「………」

 マイケルは常人なら失神するような光景でも、平然と立ってじっともがき続ける肉片を見ている。

「……僕が死んだら妹にはした金を入れてやってくれ」

「その程度ならば、保証しましょう」

「住所とか聞かなくていいのかい?」

「調べればこの国の住民程度であれば割りだせますよ。マイケル・ロビンソン、貴方が殺人鬼であることも当然こちらは存じておりますよ」

「……それは誤情報だな、あんまり、簡単に仲間を信じない方がいいと僕は思うよ。僕は君も信じない方がいいんだが、どうも、これだけ手の込んだ芝居を打たれると、僕の少年心が燃え上がってしまったようだ。運の良さだけなら自信があるからね」

 顔を上にあげると、躊躇いなく肉片を飲み込んだ。


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