第14話
その日は、雨が降っていた。蛙や蝸牛でさえ、外に出かけたがらない大雨で人々の流れは悪い。雨宮は学校帰り、傘を持って歩ていた。雨宮はどうしても急いで帰るという選択を選ぶ気がおきず、貫通してくる雨を見過ごしていた。そのせいで中等部の制服が濡れる。空を見上げると、圧倒的な曇り空で希望の一つも差し込んではこない。雨宮は悲観的になって、乾いた笑いを一人こぼす。それを気味悪がる人間さえ、周りにはいないのだから問題は生じないはずだった。雨宮は帰り道にある崩れたアパートの下を珍しく歩いていた。
子どもの頃は、ここで肝試しでもやったものだ。たった数年で見る影もなくなったが。そんな感傷を突き破るほど、雨宮の目の前に広がった光景は衝撃的だった。天上の存在を想起させる白い頭髪、右側にはアクセントに黒い造り物の花が添えられている。色素の薄い肌は寒さで青白くなってきており、白いワイシャツはずぶ濡れで重さを感じさせる。
真っ黒な瞳だけが、彼女の唯一の人間らしさと言えるだろう。雨宮はあまりの美しさに息を飲む。そして見入っているうちに、違和感に目が付き始める。右腕は地図のように皮がめくれており、血を滲ませている。底の見えない瞳は、朦朧しており怯えるように辺りを見渡している。その癖、注意力が散漫で雨宮にさえ気づいていない。左腕には、獣の歯形が刻まれている。晒された右脚は赤くはれており、痛々しい。
「大丈夫ですか!」
雨宮はそれに気づいた瞬間、傘を放り投げて女性に近寄ろうとする。その前に足音に反応して、倒れていた女性はすぐさま立ち上がり、逃げるようにアパートの中に走りだす。雨宮は迷ったのち、追いかけることに決めた。案外、あっさりと女性は雨宮に見つかった。
一階から、二階に渡る階段を上がった途端に転倒したらしく横たわってこちらを睨みつけている。雨宮は強烈な殺意を感知し、本能的に後ずさる。
「近づいたら……殺すわ。戦う気がないなら立ち去りなさい」
鉄のような冷たさを含んだ声音は、それでもなお彼女の美しさを引き立たせる。雨宮は顔を下に向けて、考える。立ち去るか、立ち去らないかではなく如何にして信用してもらうかを。正義に毒された頭に、弱って傷ついている見知らぬ人間を見捨てる選択肢など最初からありはしないのだ、未来永劫。恐怖で震える脚を、本能で逃げようとする足を、強力な意思でねじ伏せて、顔をあげる。
「帰らない……俺は君が誰であろうとどんな存在だろうと、見捨てる気はない」
雨宮は力強く、少女の冷たい視線に目を返す。ゆっくりと足を一歩だけ踏み出し、階段を上がる。少女は倒れたまま、黒いズボンのポケットに手を入れると数本の長い銀の糸を指に巻き付ける。
「最後の警告よ。命が惜しければ、さっさと立ち去って寝て忘れなさい!」
掠れるような声で、叫ぶ。雨宮はただじっと少女を見つめ、また一歩階段を上がった。あと三段。もう一段上がった瞬間、糸が目に見えない速度で跳ね上がり、雨宮の頬の皮を削り取る。雨宮は得体のしれぬ攻撃に、恐怖を感じ、足がすくむ。それでもまた一歩、階段を上がる。迫ってくる糸を見ることに成功したが、避けない。雨宮は彼女と戦いに来たわけではないから。両腕に切られたような後がつき、血が垂れ始める。最後の一歩に対する応酬は何もなかった。
「……俺は……君を助けたいわけでもなくて、ただ自分を曲げなくたくないだけだ。だから助けさせてくれ」
「…馬鹿なのかしら」
絞り出すように真理愛はそう言った。
「そうかも……知れません」
雨宮は悲し気な笑みを浮かべた。
女性が家に入る。中学生である雨宮にとっては、夢のような体験なのかもしれないが、相手が傷だらけとあれば話は別だった。雨宮は耳に自然と聞こえて来る水の音を振り払い、カップに入れた紅茶を含み唇を湿らせる。雨宮は紅茶に対して専門的な知識を持っているわけではなかったが、気に入ったのか頻繁に飲んでおり、家にはパックが常備されている。カップを静かに置くと閑散とした部屋を見る。灯りがついていなければ人が住んでいることを誰も認めないだろう。それくらい、生活感のない部屋だ。一人暮らしというやつは唐突に始まるものだ。母親の海外勤務がきっかけで、父親もそれについて行き雨宮は一人ここに残ることを選んだ。学校のことが主な理由だ。さすがに異国の地で快適に過ごせるほどの英語力を雨宮は身に着けていない。それなのに、外人と思わしき人物が家にいる状況が成立しているのだからなんとも言えない気分になった。雨宮は、もう一度カップに口をつけようとしたとき、予想外の状況に凍り付いた。白亜の銀髪は濡れて上半身に垂れ下がり、薄い肌に張り付いている。成熟した女性の無駄のない隆起は、気品さえ感じさせる。黒い瞳は、冷ややかな目で雨宮の吸い付けられている視線を見つめ返す。体中に刻まれた生々しい傷跡が痛々しい。
「な、何してるんですか?」
「へぇー、これだとちゃんと反応するのね」
少女は床が濡れることに構わず、雨宮に接近する。驚いた雨宮は、近づいてくる少女から遠ざかろうとして倒れ込む。
「で、何が目的で助けたのかしら? その様子だと体目当て? それとも金かしら、はたまた本当に善人ぶってる馬鹿なのかしら?」
続けざまに真理愛は雨宮を問い詰める。雨宮は当初こそ慌てていたが、少女の悲痛な顔を見て次第に冷静になってくる。そして雨宮は、正面から少女を見る。
「三つ目だと思う。俺のためにやってんだ、文句があるんなら今後、そんな目に会わないこと。そしてその状態で俺の視界に入らないことだ」
雨宮は堂々とそう宣言した。真理愛をそれを聞いて、ポカンとしていた。すぐに真理愛の眼は、冷ややかな目つきに変わる。
「やっぱり馬鹿なのかしら?」
「そうかもしれないって最初に宣言しただろ。だからきっとお前と会ったことなんて明日には忘れてる」
「信用できないわ」
「………信用する必要はないよ。……殺したいなら殺せばいい。俺は断固、抵抗するけどな」
真理愛はその言葉を聞いて、眼を見開き。右手の指に巻かれている糸に力を入れる。雨宮は立ち上がり、真理愛を慎重に見る。両者とも凍るような時を過ごした。
「服」
真理愛はぼそりとそう言う。傍においてあった白いシャツを着て、黒い上着を羽織る。最後に黒いズボンを履く。
「一応礼だけ言っておくわ。ありがとう」
ぶっきらぼうにそう言うと、玄関に向かって歩き出す。よろよろした足音が、雨宮の耳に響き問いかける。このまま帰して良いのかと。強迫観念じみた正義を刺激する。一歩躊躇いがちに踏み込むと、少女の腕を強引にとりこちらを向かせた。真理愛の目は、静かに涙が伝っていた。
「……宣言通り、俺はお前を助けるからな」
雨宮は力強く目を見て、そう言った。
「誰であっても?」
「ああ」
「どんな存在でも……ただの人殺しでも…?」
「………それでも俺は助けるさ。自分を曲げないために」
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