第9話

 拳がちらりと視界に映る。迷うことなく雨宮は、その場から進行方向を急に左に変える。その判断の正しさを轟音と共に巻き上がる灰色の砂が保障する。ただ、ひたすらに走る雨宮の道の前に、異形の存在が三体追加で現れる。そのどれもがゆらりゆらりと、揺れながら雨宮の方に確実に近づいてくる。前方にいる先頭の一体が、トラックのように猛然と雨宮に向かって走り出す。後ろからは、未だに灰色の髪をした木偶が拳の雨を降らしてくる。

「戦うしか…ないか!」

 雨宮は立ち止まり、一気に背後を振り向く。灰色の木偶は、一撃でコンクリートを破壊するような暴力的な右ストレートを繰り出す。雨宮は右にずれて攻撃を回避。飛び散る破片を気にせず、傘の鋭利な先端を突き出す。刺突は、直撃から外れ木偶の顔面の右側だけを削り取る。体勢を崩した雨宮は、次に繰り出される拳を防ごうと傘を盾のように構える。瞬間、全身が砕け散るほどの衝撃が伝わった。人間など当に超越しているらしく、巨大な獣のタックルに似ている。傘は変な方向に曲がり、砕け散る。受け止め切れずに雨宮は、道路に体を打ちつけ一度バウンドする。四方八方から重いゆっくりとした足音が聞こえて来る。雨宮は血に濡れた視界を上空にあげ、ため息をつく。

「くだらないな……最後の最後までこんなことして死ぬのか、俺は…」

 呻き声が聞こえ、雨宮は静かに衝撃に備えて目を閉じる。しかし、雨宮の臓物が地面に散らばることも、激痛が襲うこともなかった。ただ、心地の良い小さな手のひらの感触と、鼻孔をくすぐる淡い甘さ。雨宮が目を開けると、橋の上で出会った黒衣の少女の顔があった。精巧な芸術作品のような黒い双眼、人形のような純白の肌。小さな少女の瞳に、恐れなどは存在しない。

「死ぬのは貴方の勝手だけど、少し用事ができた。一時間ほど、借りていいかしら」

「えっ!」

 ナターシャは浮きあがった雨宮を回収するとふわりと木偶の集団から抜けだし、距離を取って立つ。

「……木偶ね。四体、貴方随分とめんどくさい状況にしてくれたわね。一体なら時間をかければ安全に人間に戻れる状態で鎮圧できるのだけど、四体となると私の服が傷つくかもしれないでしょう」

 雨宮をお姫様抱っこしたまま、ナターシャは流暢に喋り始める。

「貴方は、誰ですか?」

「……傀儡師よ。貴方のような人間とは縁も所縁もない存在。見たいなら今のうちに見ておきなさい。私の技術を見て、生きて帰られる人は少ないから。お金を貰ってもいいぐらいにはね」

 ナターシャは、一拍おくと、気を取り直して迫ってくる四体の木偶を見る。雨宮を襲ったときとは違い歩みは遅い、考えなしに突っ込むと死ぬことを知能なき存在である彼らでさえ本能的に理解したようだ。

「生憎、有象無象が何人死んだとしても私には実害はないのだけど………。国際問題に発展すると困るわね。日本人は怒りっぽいから嫌いね。少しだけ息抜き程度に遊んであげましょう」

 絶対零度のような微笑を浮かべると、ゆっくりと木偶の軍団に近づいていく。ナターシャ以外の時計の針が止まった時間が続いていく。大地を踏み砕く音で、時が動き始める。白髪の老人の木偶が行動に出る。それにつられて、三体の木偶が思い思いに動き、小さな少女に迫る。

「銀糸の四肢、この世の果てを示す黒き華。貴方は常に私の導であり、貴方は私の憎悪の炎の対象。瞳の灯は、私の心を焦がし。涙は、私の心を癒すだろう。親愛なる血に祈りを、呪わしき血に光を灯せ……『聖片解放』!」

 奇妙な呪文を少女が呟き、天に向かって吠える。右肩が痛々しいほど赤く発光し、ナターシャに燃えるような鈍痛を与える。純白の肌は、鱗のようにひび割れ、深緑色に変色する。歪な破裂音と共に、ナターシャの右肩から羽根のように触手の束が生えた。天使とは似ても似つかないおぞましい悪魔の羽根は、それでもなお、純白の羽根以上に見るものを魅了する。その中央には、生命を持って動き回る巨大な眼球。雨宮は倒れたままで、その偉大なる悪魔の子に魅入られる。小さな体に、似合わぬ巨大な翼は彼女の異常さを際立たせる。

 それでも白髪の木偶は、全速力で走る。腕を膨張させて、巨大な拳を形成。止まっているナターシャに拳を振りかざす。腕は羽根に触れた瞬間に飲み込まれ消失した。撫でるように触っただけで、木偶の腕が消し飛んだのだ。さすがにダメージが大きく過ぎたのか、木偶は大声をあげて後ずさる。

「腕、ちゃんと直るかしら?」

 ナターシャは見当違いな不安を口にした。隙を見て、若い男性の木偶が飛び込んでくる。攻撃は空を切り、地面に頭から突っ伏す。ナターシャは、空間を超越したかのように一瞬で、位置を変えたのだ。

「まあいいわ。だいたい一時間ぐらいで再生する程度の傷なら問題ないでしょう」

 少女は倒れ込んでいる木偶にゆっくりと近づき、その頭蓋骨を掴み、確認するために屈みこむ。

「左脳か、右脳を消し飛ばしましょう。そうすれば、もし万が一生き返らなかったとしても何もかも忘れて、喋ることもできずに証拠を消してくれるわ。運が良ければ一生病院で植物人間生活ね」

 ナターシャは微笑むと、倒れた木偶の頭を離す。人間の脚力では有り得ない速度で、木偶の頭蓋を蹴り飛ばした。そのまま道路沿いに会った店舗に激突し、めり込んでしまう。

「これで一匹」

 何の感情も感じさせない声色で、呟く。蹴られた木偶は、完全に機能を停止したらしくだらりと路上に転がっている。恐れることなく女性の木偶が、知能を使ったのか触手を伸ばして攻撃する。雪崩のような触手の束を、ナターシャは羽根を払うと消し飛ばす。切断されて真紅の血液が噴き出す。それさえも少女は平然と回避する。次の瞬間には、女性の隣に残酷な悪魔が現れていた。小さく息を吸い込むと、ナターシャは右手のストレートで木偶の頭蓋の左側を殴打する。細い腕からは想像もできない膂力。衝撃で風を切り、対象を吹き飛ばす。

「二匹目」

 今度は、タイミングを合わせて残りの二体の木偶が遠距離から触手を伸ばして攻撃してくる。大地がめくれ上がる。ナターシャは、既に鳥のように空を舞っていた。翼についた眼球は、見上げている下賤な民を冷酷に見つめている。砲弾のように大地に急速に降りる。地面はひび割れ砕け散る。体勢の崩れた白髪の木偶の頭部を鷲掴みにすると、メキメキと音を立てるほどの力を込めて握り潰す。不吉な音が鳴る。木偶はだらりと力なく手のひらに捕まれ垂れ下がる。最後の一匹は、攻撃されたことさえ認識できないまま、頭を蹴り飛ばされ倒れ込んだ。崩壊した街を背に、ナターシャはゆっくりと靴の音を鳴らしながら、呆然と見ている雨宮に近寄る。

「貴方は何ものかしら?」

「化物……」

 渇いた笑いを浮かべると雨宮の身体は、壊れたように震え始める。先ほどまでのように立ち向かえる恐怖などではなく、目の前にいるのは、明確な捕食者であり、自分は追いかけられる羊だ。貪られる肉へと変わる存在である。

「気持ち悪いわね」

「ッ!」

 ナターシャは一瞬のうちに、雨宮の背後に周りに首を手刀で叩きつけた。雨宮の朦朧とした瞳は、気絶したことで閉じられる。

「話にならない人間は、とりあえず黙らせる。簡単でいいわよね」

 少女は、右腕で雨宮を抱えると地面を跳ねるように飛んだ。

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