第8話
フロントの人には、眼もくれずに雨宮はがむしゃらに突っ切る。外に出ると同時に、右手でアメリアから借りた真紅の傘を開く。左手には、雨が降った時に使う予定だった折り畳み傘を持つ。先ほど、橋の方に向かっていた少女を全速力で追いかける。赤い傘は、雨宮を守り切れず、体が濡れる。そんなことは構わず、走る。走って記憶の中の少女の影を追った。
幸いなことに見つけるために時間はかからなかった。少女は雨に濡れているにも関わらず平然と歩ていた。
「白水、白水!」
雨宮は息切れしているにも関わらず、できる限り雨に負けないように大声をあげる。予想外の声に気づき、白水は振り返る。
「あま……みや君、何してるの?」
目を皿のようにして白水は、突然の事態に硬直する。
「雨の中歩いているお前に言われたくない。それにこんな時間に出歩かない方がいい……特に今はやめてくれ」
雨宮は何とか息を吸い、落ち着きを取り戻す。白水の目の前に自分用の傘を出した。
「雨宮君ってやっぱり……すごいよね」
「何がだよ」
「だって、普通の人は、自分の知り合いが濡れているところを見たからって、全速力で走って傘を渡したりしないよ」
「いやするだろ。ここまで暗くて、天気も悪いんだから」
「……よくよく考えたらそうかも」
「おい……」
「あはは、冗談冗談。けど、嬉しかった……雨宮君の昔の良さが戻ったような気がして…」
雨宮は白水の咲くような笑顔から目を逸らして、傘を押し付けた。
「そんなに……良かったか。正義ぶったキチガイだと今は思ってるんだが」
白水は、静かに首を振る。
「そんなことないよ…。誰かのためじゃなかったとしても、私は救われたし。自分の意思を貫くのは、そんなに簡単なことじゃないから」
雨宮は渇いた笑みを浮かべる。
「黒歴史をそこまで評価されると、何も言えないな」
「何も言わなくていいよ。私はずーと覚えてるから」
「……それは……なんとも言えない気分だな」
「雨宮君は、何してたの。私の勇気の誘いを断って」
「すまん」
「別に怒ってないからいいけど、何かしてたんでしょ?」
雨宮は、何度か口を動かした末、ようやく開く。
「ゆう…」
「ゆう……」
「幽霊を探してたんだ……」
ポカンとした表情を白水がする。
「……ぷっ!」
「おい笑うな。俺は本当に見たんだから、幽霊というよりはゾンビだったけど」
「幽霊と戦うつもりなの?」
「怯えてるよりは、怖くないだろ」
「そう言えば、雨宮君。結構、お化け屋敷とか嫌いなタイプだったよね」
「………好きではない」
「けどちょっと変わってるよね。だいたいお化けが怖い人、本当に出会ったら震えてそうな気がする」
「何でだよ。怯えてるだけなんて嫌だろ…」
話し込んでいると雨が鬱陶しく振り始めた。
「ねえ……雨宮君」
「何だ……」
白水は唐突に顔を下に向けて思案し始める。そして、何かを決心したかのように顔をあげる。
「雨宮くッ」
「白水!」
雨宮は白水の背後に迫る存在を見て目を見開く。すぐさま、疲れていた脚に鞭を打ち、白水を抱きかかえるようにして横に吹っ飛んだ。一瞬の後、歩道が砕け散り、めくれ上がった地面が空中を飛散する。膨張した触手の拳、虚ろな右目、対照的すぎる触手の生えた左目。おぞましき木偶である。雨宮は白水をかばうために地面を擦り、わずかに失血感が襲う。
「何……あれ…。人間?けど、けど」
ぶつぶつと瞳孔を木偶に固定したまま白水は喋り始める。明らかに周りが見えていていない。逃げるという正常な判断すら彼女は失ってしまったようだ。
「また……正義のヒーロごっこかよ。くだらない」
雨宮はぼやくようにそう言うと、白水が落とした傘を拾い、手に持つ。降りしきる雨から、雨宮を守るものは誰もいなかった。この状況に慣れてしまったのか、雨宮の目には恐怖の色はない。代わりに狂ったような決意と衝動だけが支配している。誰かを守ることが正しいという幻想、理想そういうものだ。姿勢を安定させ、両手で傘を勇者の剣のようにしっかりと握る。瞳は敵を捕らえ、その一挙一側を見逃しはしない。ゆらりゆらりと、木偶は川の上を流れる葉のようにゆれる。突然、地面を踏み砕く。弾丸のように飛び出し、膨張した右腕を押し付けようと雨宮に突っ込んでくる。雨宮は大きく息を吸う。攻撃をよく見て、少しだけ体をずらす。愚直な拳は、再び地面を壊す。
「幸い、殺しても正当防衛は成立しそうだな…」
間髪入れず、怪物は左回りに拳を振るう。その前に、雨宮は両手の力を込めて、木偶の頭部にフルスイングを直撃させる。予想外の衝撃に木偶は仰け反り、呆然と立ち尽くす。やはり、頭が弱点らしい。
「よく見ろ、そんなに速くはない……落ち着け」
静止していた体が動き出し、木偶は意識を取り戻す。踏み込み、真上に跳んだ。そのまま抱き着こうとするように雨宮に向かって落ちてくる。一拍、一拍、鼓動が打つごとに木偶のおぞましい変質した顔面が視界に映る。雨宮は先ほどとは異なり、傘の鋭くとがった先端を槍のように構えている。静かに、極限まで木偶を近付けさせる。木偶の右腕が不安定な体勢から繰り出される。雨宮は右足で、踏み込む。槍を持った右手を少しだけ後ろに引き。一気に、拘束を外された猛獣のように槍は放たれた。拳は雨宮に当たることなく、だらりと地面に向かって垂れる。頭部には、鋭利な傘の先端が突き刺さっておりだらりと現実感を失わせる赤い血液が流れている。雨宮が力の限り、傘を引き抜いた瞬間、誰かの足音が聞こえる。雨宮が白水が倒れ込んでいた場所を見ると、白水は動いておらずぶつぶつと呟きながらへたれこんでいる。だというのに足音が…聞こえた。
雨宮は一瞬の思考の後、導き出した結論が外れることを祈って、横に跳んだ。真下に向かって、一直線に巨大な触手の固まりが落ちてくる。めくれあがった大地の破片が雨宮の頬を切る。老人のような白い髪をした、異形の存在、別の木偶だ。雨宮は脇目もふらずにとにかくこの場から離れようと走り出した。
「………正しい判断ね。明らかに雨宮さんを狙っている。どういうことかしら?……そして、一人、感知。雨宮さんは明かに傀儡師ではないから、たぶん別ね。…ふふふ、案外楽しめそうで安心だわ」
アメリアは眼下で繰り広げられる戦闘を見ながら、すっかり戦闘の熱に負けてぬるくなった紅茶を口に含んだ。
「雨宮さんの知り合いは、私が回収しましょうか。一人見つけてくれたお礼に」
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