第7話

雨水は真っ黒な黒い海を見ていた。光が魚のように泳ぎ、街を創り出す。地面に頭を掴まれたかのように雨宮は、広がる世界から目を離せなかった。

「良い、夜景でしょう」

 穏やかな旋律を奏でるような声が、雨宮の耳に染み渡る。

「そうですね。けど、少し寂しい気がします」

「何故かしら?」

「自分も大きな流れの一つでしかないと気づかされるから」

「ふふ、確かにそうね」

 雨宮が突然話しかけてきた女性を見る。アニメの中でしか見たことない黄金の縦ロール、舞踏会にでも出ていくのかと思うほどの紅蓮のドレス。体のラインが美しい曲線を描き、彼女の女性らしさを見せつける。青藍色の憂いをこめた瞳は、雨宮と同じように下に広がる世界を見つめている。

「えーと……ここに住んでる方ですか?」

「そうよ。貴方も?」

「今日は色々理由があってホテルを取ったですよ」

「若いのに、大変なのね。私はアメリア・テューダ。貴方は?」

「雨宮仁です。外国人の方ですか?」

「アメリカよ。つい最近、日本に来たのよ」

「仕事ですか?」

「まあ、そんなものね。大きな流れに身を任せるのは嫌い? 郷に入っては郷に従えとか、嫌いそうね」

「嫌いなわけでは……ないです。ただ、周りに無意識に流されるのは嫌なだけ」

 アメリアが、雨宮の隣の塀に腕を置いた。

「日本人は自分の意見を言うことを恐れる傾向があるという噂よ。けど、それは決して悪いことではないというのが私の意見。みんなで暮らすためにはそれが重要だもの」

「そうですね。そうしなかったから、今は一人で行動することが多くなりましたよ」

「後悔している?」

「いいえ、けど疲れているのかも知れません。自分の道があっているのか不安になる。すべてを捨てた方が楽なのかなと考えることもあります」

「そう、面白いのね、貴方」

「そうですか?」

「だって初対面の女にべらべらと喋るんだもの」

「アメリアさんも、話に乗ってるじゃないですか」

「ずっと飛行機に乗っていると、人と喋りたい気分になるものよ。で、ホテルを取ったくせに、部屋に入るそぶりのない貴方は、何が目的なのかしら?泥棒だと、残念だけど」

 雨宮の身体に一瞬電撃のようなものが奔り、体が意思に反して制止する。

「違います! ちょっと、目的があってマンションに上がりかっただけです」

「まさか、夜景を楽しみに来たなんて言わないわよ?」

「それより馬鹿みたいな理由です」

「ふーん。本来なら無視しても良いけれど、今は状況が違うのよ。そうとう重大なことでないなら、話してくれないかしら?」

 真剣なまなざしで問い詰めるアメリアに押され、雨宮は自分の目的を語ることにした。

「ふふふふふふふ」

「笑わないでくださいよ」

「だって、お化けを退治するために1万円払う学生よ。面白くないわけないじゃない」

「子どもの頃は、駄々こねれば入れたんですが、年を感じます」

「雨宮さんは、本当に面白い人なのね」

「いや、化け物が出たのは本当ですからね」

「眼球から触手が生えて、しかも体を触手に変える男性ね。で、全部終わったらさらっと元に戻って家に帰ったのよね」

「多分ですけど。全く何なのか分からないですよ」

「……ふーん、もう劇が始まっているのね」

「えっ!」

「何でもないわ。で、その黒衣の女について教えてほしいのだけど」

「確かに気になりますけど、触手の怪物の方が怖いと思いますよ?」

「冗談よ。そうね、咽喉渇いてないかしら?」

「そういえば、何も買ってませんでした。自販機で買って来ましょうか。お金は、払いませんけど」

「うふふ、別にいいわよ。お金には特に困っていないし。というかよかったら、紅茶でもいかが? 私が淹れるわよ」

「……行儀悪いですけど、外で飲んでいいなら、有難くいたただ来ます」

「いいわよ別に、じゃあ私この階に部屋があるから、三十分以内には戻ってくるわ」

「すいません、後でお金払いますね」

「いいわよ。言ったでしょう、金には困っていないのよ」

 アメリアはひらりとドレスを揺らすと、優雅に歩いて行った。無機質な廊下を歩いているだけで様になる人間もいるのだと雨宮は感じた。

 数十分後、アメリアが両手に紅茶を持って歩いてきた。

「どうぞ」

「ありがとうございます」

 真白なカップに淹れられた薄い赤みを帯びた紅茶は、温かみを雨宮に伝える。空気に流されるまま波紋を広げ、美しさを際立たせるそれを、雨宮はゆっくりと飲む。

「ダージリンよ。生憎、イギリス育ちでもないから、そこまで上手く淹れられないけど」

「いいえ、とても美味しいですよ」

「ふふ、ありがとう」

 アメリアは、自分用の物を静かに飲む。真っ赤な唇は、陶磁器とのコントラストで更に強調される。静寂が流れ、夜が深まって行く。ポツポツと、あの時と同じように雨がゆっくりとだが降り始めた。カップが空になった。

「雨が降り始めましたね」

「前は、こういう天気で出たのでしょう。怪物は」

「そうですね。絶賛、ビビってますよ」

「安心しなさい。もしもの時は、守ってあげるから」

「自分の問題です。巻き込めませんよ」

「あら、男らしいのね」

「勝てなさそうだったら、逃げますけどね。あと、出てこないことを祈るばかりです」

「これを見たことがあるかしら」

 雨宮は一瞬、きょとんとして見せられた操り人形を見る。等身大のよくできた人形で、球体関節の位置も人体に酷似している。

「何ですか、これ?」

「私が趣味で作っている人形よ」

 アメリアは、細い腕で人形を持っている。

「ないですね。何か、話した化け物と関係があるんですか?」

「いいえ。けど、最近、この街でこうした人形が歩いている姿が目撃されてるそうよ。そっちにも気を付けることね」

「末期みたいな場所ですね。ここは」

「そうね。逃げた方がいいと思うわ」

「………」

 真剣な、心を射抜くようなまなざしに雨宮は、笑って帰すことができなかった。雨宮は下にいる人物に眼を吸い込まれる。既に十分なほどの強さになっている雨の中、一人の少女が歩いていた。雨宮は、遠すぎて顔さえ見えなかったけれど、何故か気づいていしまった。歩き方、線の細さ、纏った雰囲気を見慣れすぎたせいだろうか、彼女が白水恋だと雨宮は直感的に理解した。

「すいません、アメリアさん。ちょっと下に降ります。知り合いが見えたので」

「そう。傘を貸してあげるわ」

「どこまで、俺の意図を読むのがうまいんですか?」

「貴方が分かりやすいだけだと思うわ」

 アメリアが小走りで持ってきた真っ赤な傘を雨宮は受け取る。

「すいません、後日返します」

「頑張りなさい、雨宮仁」

 急いでエレベータのボタンを押す雨宮を見ながら、アメリアはそう呟いた。

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