第6話

 結局、さんざんあの後、橋の下を探してみたが、足跡の一つすら残っていなかった。彼女の存在自体が世界から消失したような状況だった。そうしているうちに、雨は自然とあがり、まっ黒で平坦な空に変化した。橋の上で、倒れていた男性は、唸るような声をあげると、ボーとしながら一人で何処かに歩いて行った。

 車のヘッドライトが雨宮の呆然とした顔を照らし出し、闇に落とす。少年は、考えていても何も出てこないことを悟ったのか家に帰るために橋を渡り始めた。

「ただいまー」

 誰もいない空っぽの部屋に対して雨宮はそう言った。彼の父親と母親は、別の世界に行ったりはしていない。ただ、転勤が多く仕事に人生の意味を見出しているだけ。けれど雨宮は、彼らを恨んではいなかった。もっと言えば、尊敬しているのだ。こんな人生に意味を見出せる一人の人間として尊敬している。たとえ、一滴の淡い愛情への欲求があったとしても。無機質な温かみの無いスイッチを押すと、味気の無いLED電球が光る。時計を見ると、太い針が真上を指していた。

 雨宮は早速、綺麗に整列させている調理器具たちからフライパンを取りだす。冷蔵庫の中にあったお徳用6個セットの卵から一つ取りだす。油をしいたフライパンに殻を割って入れる。雨宮は醤油や、砂糖を目分量で測り入れた。端的に言って、雨宮はそこまで料理への情熱を持っていない。技術はある程度はあると自負しているが、やる気というものは皆無である。だから誰かに頼まれない限り、凝ったものは作らない。自分で皿に出したただの卵焼きを見て、雨宮は自分が何故、料理が好きだったのか思い出そうとした。二つの顔が浮かぶ。自分の母親の理知的でそれでいて遠くを見ている瞳。それでも視線は確かに幼かった彼を見ていた。もう一つは、……。思い出そうとした雨宮を頭痛が一瞬だけ襲う。

 雨宮はレンジで炊き上げた米と、卵を食べながらコンピュータを使用していた。検索欄には、「海来市 触手 怪物 事件」と打ち安易に検索ボタンをクリックする。全然異なる候補が幾つか出てくる、「Dukhリアルスパイ〇―マンの出現」という如何にも嘘くさい記事。結局、案の定というか、雨宮の悲観的な予想通り、彼を襲った怪物と似た現象は起こった記録がなかった。ふと、ポケットから拾った指輪を見てみる。銀色のボディと小さな糸でも入りそうな構造を見ると、あの黒衣の少女の武器を思い出す。断言は出来ないが、よく似ている。何か起こるかと恐る恐る右手の人差し指にはめてみたが、刃物のような糸が出てくることもなく、何も起こらなかった。

 夜が開けて、太陽が目覚める。雨宮は時間に余裕を持って学校に向かった。校舎の前につくと、ちらほらと生徒が登校している姿が見られる。もし、雨宮が会ったような怪物がどこでも出没しているのならこうはならないだろう。木製の階段を昇りながら雨宮は物思いに耽っていた。怪物は自分を襲ってきたのではないかという予測だ。彼の周りの異常は、他の場所では現れておらず。伽藍とした商店街のことを物珍しがって喋っている様子もない。彼は自分だけがパラレルワールドに飛ばされたような空気感を感じていた。

「雨宮君!」

 雨宮の聞きなれた声が突然横から聞こえる。白水恋。雨宮が生み出した腐れ縁。事あるごとに頼みごとをしてくるやっかいな存在、だというのになぜだか嫌いになれなかった。その根元に、自分の過去が根付いていたとしても。

「雨宮くーん……聞こえますか。聞こえるか雨宮、白水少佐だ」

 白水は唐突にトランシーバーを持った振りをする。

「何してるんだよ……」

「兵隊ごっこ」

「このご時世に、やってる奴いないよ」

「世界にはいますー。というか、ここにいますー。それは置いといて、雨宮君に渡したいものがあります」

 白水はそう言うと、小さな花柄の付いた可愛いらしい小包を目の前に出してきた。

「昨日のお礼のクッキーです」

 雨宮の手に突然、袋が握らされる。

「拒否権なし?」

「当然、雨宮君、よく要らないって言うから。中等部の頃、『俺はお前を助けようとしたんじゃなくて、自分のやりたいことをやっているだけだ』て言って、全部お礼断ってたし。けど、私は絶対に渡すからね」

 向日葵のような純粋な笑みは、変わってしまった雨宮には少しだけ痛かった。雨宮は苦笑いと共に、貰ったクッキーをリュックサックに入れた。

「今は言わないよ。貰えるものは、貰っておく主義だからな」

「でも、たまには、昔に戻ってほしいかも」

「何でだよ?」

「私の好感度が上がるからです」

「これ以上、上げてもめんどくさいだけだからいい」

「そんなこと言わないでよー。あっ、雨宮君……今日の放課後、暇?」

「心霊現象の解明に向かう必要があるため、お断りします」

「綾乃の生き写しなの?」

「俺は幽霊女と同一人物ではない。やることがあるんだ、すまん」

「うーん、残念だけど、分かった。また今度誘うね」

「一体、どこに誘うつもりだったんだ」

「楽しい楽しい、私とのデートだよ」

「緊張して死にそうだから、遠慮します」

「えー、絶対楽しいのに」

 ハリセンボンの如く膨れている白水に手をひらひらと振って、雨宮は自分の教室に向かった。

 放課後、人の流れが教室の外へと向かい始める。今日は運が良いことに雨宮もその流れに乗れそうだ。早歩きで外に出た雨宮の思考の中にあるのは、先日の化物だ。黒い少女は、木偶と呼んでいた異形の存在。学校でさんざん科学を学習してきた雨宮の頭では、どうにも理解しがたいのだが、現実として起きてしまったものは受け入れるほかない。

 思考の海から解放される。昨日、木偶と出会った商店街が見えてきた。空は夕暮れ。まだ、あの時の再現とは程遠い状態だ。雨宮が橋と商店街に挟まれた住宅街を見る。その中に、ひと際高くそびえたつ高層マンションがあった。天を貫くほどではないが、十分すぎる程高い。ここに住んでいる人間は、間違いなく富裕層だろう。雨宮の小学生の頃の記憶では、頼めば階層を上がる程度のことはできたはずだ。

 結果を言うとすれば、雨宮は当然のように金を払うことになった。一泊だけ、大体1万円ほどお支払することになった。雨宮は、セキュリティーカードを貰って、エレベータに乗る。刻まれていく電子的な数字が時が止まっていないことを知らせる。雨宮は、ふと過去の自分の残滓を見る。小さな自分は、いつも通り、誰かに囲まれており、今の自分とは似ても似つかない。ただ、変わっていないものがあるのだと、自らに主張するように雨宮は胸を軽く握った。

 11階で間の抜けた音がなる。雨宮は小奇麗な床の上を歩き、自分の部屋に向かう。そしてその前で止まり、眼下に広がる橋と商店街を見た。ここならもし、木偶が現れても気づくことができる。あちらも容易に上がってはこれにないという算段だった。

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