第5話

不思議と恐怖を感じなかった。ずっと望んでいたからだろうか。雨宮のゆっくりとした思考の海にそんな考えが浮かぶ。抵抗しようにも、足も腕も損傷しすぎてまともに動かせない。歩くだけで痛みが走る。腕をあげるだけで痛い。そんな状況だというのに目の前の怪物のぼろぼろだった足はゴキゴキと音を立てて元の形に戻す。傷だらけの雨宮を笑うが如く。雨宮仁の人生に終止符を打つために、目の前の怪物は、両手を膨張させ、一本の触手を生み出す。そして暴力的な波を解き放った。巨体のわりに高速で、矢のように一直線に触手は、雨宮の胸に迫る。

「生物1、生物2。どちらを選ぶべきかしら。いつも迷うのよね。貴方もそう思わない。だって大差ないもの、命の価値なんてね」

 突然、雨宮の頭の上から反響するような少女の声が聞える。危機的状況とは似ても似つかない、つまらなさそうな場違いな声。声の主は、黒い外套を羽根のように広げる。雨宮の眼に、銀色の指輪をずらりとつけた細い純白の左手の指が晒される。少女は一気に左を手を爪の如く、巨きな触手に対して振り払った。突然、触手に五本、深く細い傷ができ血が噴き出る。しかし力が足りないのか、根元までは食い込まない。

「貧弱なのが難点」

 すぐさま、触手に巻き付くように傷口ができる。少女は、思いっきり背負い投げの如く左腕を振りぬいた。瞬間、巻き付いていた糸は急激に食い込み、触手を雨宮の目の前で切断した。怪物は血が噴き出たことに驚くように、腕を二つに分けて後ずさる。雨宮と怪物との境界線かのように一人の黒衣の少女が立っていた。首元まで伸ばした滑らかな黒髪。指の一本一本が、精巧な人形のパーツのようにかみ合い、少女を創り上げている。漆黒の瞳は、心底、汚らわしそうに倒れ込む怪物を見下ろしてた。身長が150cm程なので、倒れているからこそ見下ろすことができているとも言えるだろう。怪物は平静を取り戻し千切られて、吹き出していた血液を無理やり止めて立ち上がる。涎をボタボタと垂らしながら、目の前の少女の出方を伺っている。雨宮と対峙したときとは違い、考えなしに襲わないことを本能的に選択したらしい。大の大人でさえ、恐怖しそうなほど冷徹な空気。無感情が張り付いた瞳を少女は、獣に向ける。切断されて丸められていた触手の先端が再生し、元の鋭さを取り戻した。

「木偶は、相変らず頭の出来が悪いのね。死ねば理解できるのかしら?」

 そうぼそりと言ったあと、少女は一気に距離を詰める。怪物の目の前に突如として現れ、今度は指輪を同じように嵌めた右手を振るった。糸は顔に食い込む。怪物はそんなことに構わずに右腕が変化した触手を鞭のように少女に振り下ろす。地面は崩れず、音もならない。静かに糸は、勢よく振り下ろされた触手を切断し地面に落とした。同時に、顔に刻まれた線は顔面を切断し、部品を地面に散りばめる。胴が静止しているところを見ると、どうやら頭が崩れると動けなくなるらしい。ゆっくりと時間をかけて頭部が触手に覆われ、皮膚を形成していく。

「そこの貴方」

「ッ!」

 雨宮は呆然としていた頭を叩き起こされ、話しかけられたことに驚く。

「この私が、こんなにゴミに何故時間をかけているかちゃんと考えて発言することね。見ての通り、殺したり、無力化したりするのは簡単なのよ。両足でも切断すれば、貴方が逃げる時間程度は優に稼げるでしょう。けど道端で人が死ぬと色々と面倒な処理が必要になるのよ」

 豪雨の音に負けないように、大声で少女は喋る。まるで恥を誤魔化そうとまくし立てるように喋る少女を、雨宮はじーと見つめていた。

「何なんだ、この状況は?」

「あと……逃げようとしたら殺す」

 真っ暗な穴の底のような瞳孔が、雨宮の心臓を掴んだような錯覚を一瞬で覚える。反射的に、雨宮は自分の心臓を守るように自らの身体を抱いた。

「平和な世界で生きてきたのね、羨ましい。本当に怖いなら全速力で走って逃げるべきなのに……」

「……」

 雨宮の身体は先ほどまでの恐怖から解放された反動か、動くことが出来なかった。背後で怪物が動き出していた。人間とは異なる触手の束でできた頭部を草のように生やした怪物は、猛然と足を踏み鳴らし小さな少女に掴みかかる。少女は起こされた風に流されるようにひらりと攻撃をかわす。そのままの動作で右手を振るった。頭部に出来ていた偽りの頭部が切除される。再び停止する。今度は、ちゃんとした人間の頭部と眼球が生えてきた。眼球は、グルグルと忙しく動き回り、少女を観察する。

「傀儡師……ナターシャ・オルロワ、異界律に反する行動……です」

 男性の口から機械のような抑揚のない音声が流れ出る。紡ぎ終わった後、ナターシャと云われた少女は、小さな右手を強く握る。電流のような痛みが一瞬だけ、ナターシャに奔る。そして自らの両手に嵌めた十指暗器の操作が荒くなったことに気づく。

「まるでスマホの使用不能時間みたいなシステムよねこれ」

 ナターシャは、右手だけを胸の前に水平に持ち上げ、敵を捕らえる。

「けど残念。五本あれば、木偶の一匹殺すのには過剰だから」

 五本の指のそれぞれから、銀色の指輪を通ってピアノ線のような糸が伸びている。2mほどある鋭く細い刃は、その姿を雨によって浮き彫りされる。止まった糸に雨粒が絡みつく。雫が重力に従って落ちた。怪物の右腕が膨張し圧縮する、熱したものを冷やす様に元の人の肉体へと戻る。しかしその凄惨とした緑色の肌と、ごつごつとした棘、鋭い肉食獣の如き爪が異常性を主張する。

「良いわ、どうせ治るでしょう」

 ナターシャは、眼を大きく開く。男性はうめき声をあげながら猪のように一直線に突っ込んでくる。それに少女は歩みを寄る。鋼鉄のような硬さをほこる右腕が、少女の小さな体を貫こうとする。ナターシャは、その場で体をばねのようにして飛び上がり回避する。糸は既に、異形の右腕に五本、針のように突き刺さっている。

『止まれ』

 ナターシャが言葉を発した瞬間、その言葉が実現したかのように、一瞬、怪物の右腕が硬直し重力に負けたように下がる。

「苦手なのよ、傀儡術」

 ぼやくように、ナターシャは怪物の背を飛び越しながら云う。突然、隠していた左手を出して、刃のように構え、人間の首に高速で振り下ろした。鋭く皮膚を打ちつける音が鳴ると、男性は呻き声をあげて倒れ込んだ。

「けど良かったわ。頭を飛ばすより、気絶させた方が倒れている時間が長いのね。これは素晴らしい収穫」

 ナターシャは、倒れている男性の無事を確認している。

「あ、あの?」

 雨宮が震えたままの脚を何とか立たせ声をあげる。ナターシャは、彼を一瞥すると興味がなさそうに視線逸らし、芝生の生えた橋の下に飛び降りた。雨宮は咄嗟に腕を掴もうとするが失敗する。首を出して見てみると、橋の下には影の一つも落ちてはいなかった。


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