第4話
アパートから出た雨宮は、夜に沈み始めた街を歩み始めた。雨宮の予想とは違い、アパートでは小さな銀の指輪しか見つからなかった。奇抜なデザインではあるが、これ一つから何か分かるほど、雨宮は名探偵ではない。気のせいだろうと彼は思うことに決めた。考えこんで下がっていた頭をふと、上にあげると商店街についていた。
朝遅くに起き、夜遅くまで活動しているそんな、人間として考えると不健康そうな暮らしを商店街がしていることを、雨宮のみならず、この市に住んだことのある誰もが知っていただろう。だというのに、今日は人気がない。まだ、まばらに人が歩いている姿が見えるが、それも家に帰ろうと、この場から去ろうと動いていると雨宮は根拠もなく感じた。その理由を、すぐに知ることになる。雨宮の髪を伝って地面に雫が落ちて、弾ける。ポツリポツリと、音をうねる波のように大きくし始める空を恨めし気に睨みつける。雨宮は、急激に降り始めたスコールのような大雨を避けるために何処かの店の屋根の下に入り込む。不思議なことに入り込んだ店の扉は、客が来そうな時間帯なのに閉まっていた。もしかして今日は、台風の予報でもあったのだろうか。それとも、ただの厄日なのか。雨宮は、そんなことを考えていた。弾丸のように地面を打ちつける大雨に帰ることを諦めさせられた雨宮は、スマートフォンで適当にカレーライスのレシピでも調べていた。ジョロキアパウダーといういかにも辛そうな名前の物がちらつくが、「パウダーを付けた手で顔に触れると顔が痛くなる」という尋常ではない記述に購入することを諦めた。雨宮は、比較的辛いものが好きな方だが、痛みを感じてまで食べたくはない派だった。
バシャリと、何かが水たまりに倒れ込んだ音が鳴る。雨宮が反射的に振り向くと、会社員の男性が豪雨によってできた水たまりに突っ込んでいた。
「大丈夫ですか!」
雨宮は濡れることを恐れず、雨の中男性に近寄った。しかし、何の返答も帰ってこなかった。「大丈夫」の安心させる言葉も、自分を憐れむ者に対する恨み言も、何一つ、返ってこなかった。沈黙だけが彼に対する返答だった。
「すいません。立ち上がれますか」
ずっと、冷たい地面に横たわっている男を見る。雨宮は、迷ったすえ、無理やり腕の力でその男を持ち上げた。雨宮は、即座にその判断を後悔することになる。男性の顔面だった場所には、代わりに無数の触手が植え付けられていた。一本、一本が、生物としての本能に従ってうごめき雨に当たろうとしているのかもがいている。二つの眼球からは、ひと際大きな蛸の吸盤のような触手が生えており、先端についたレンズで、自らを助けようと動いた愚かな獲物を捕らえる。
「うわああぁあ」
咄嗟に、雨宮はおぞましい怪物を押し飛ばし、後ずさる。比較的強い力で押した。にも関わらず怪物は、動くことなく直立していた。顔をゆっくりと持ち上げ、壊れた人形のようにギョロリギョロリと潜望鏡のような眼を獲物に向ける。顔面の中で唯一、原型を保っている口を震わせながら、音を発する。
「どこだぁー……帰って来た、よぉー」
だらりと下げた腕を引きづるようにのろのろと、雨宮に近づき始める。上ずった悲鳴をあげると、雨宮は本能的に逃げようと走り出した。さっきまであんなに安定していた地面が崩れていくような錯覚を覚える。走るたびに頭が揺れて、視界が歪む。車窓から見た景色のように文字が流れる。早くなっていく動悸を忘れるように、走った。自分の口からこぼれる息継ぎの音だけが雨宮の世界を支配していた。突然、雨宮の視界の端に蛇のように動く触手が見える。雨宮は咄嗟に地面を蹴って倒れれそうになるのを無視して前に跳んだ。後ろを見ると、肥大化した男性の腕から伸びた触手が、先ほどまで雨宮のいた場所を薙ぎ払い、店の壁を凹ませていた。
「逃げぇーないで……よ。父さん、美味しいもの……を買ってきたんだ」
ぶつぶつと、化け物になった男は云いながら、引きちぎったであろう自らの右腕を差し出してくる。握った右腕だったものからは、ドロリと血が零れ落ちる。要らないと思ったのか、男性は右腕を口元に持って行くと、ごくりと飲み込んだ。すると右腕が元に戻る。しかし眼球は未だに異常なままだ。綺麗に着せられていたスーツはぼろぼろの布切れに変貌している。
「逃がさないーーよ。ひ……神様のお告げだから……ねー」
意味の分からないことを喋っている間に、雨宮は震えながら飛び散った長めの木材の破片を拾い剣のように構える。しっかりと両手で握り、相手の動きを見る。ゆらゆらと酔っ払いのように歩く怪物を見る。雨宮の瞳孔は揺れ、恐怖で手が震える。振り払うように木片を力強く握り、地面を蹴る。
「ああああああ!」
がむしゃらに見える行動をした雨宮に対して、男性は一瞬で腕を膨れ上がせる。破裂するように巨大な一本の触手が雨宮を殴りつけようと迫る。雨宮は見切っていたのか、直前で屈みこみ、更に地面を蹴り、急速に接近。両手で握っている棒の刃を、怪物のグロテスクな頭部に横から突き刺す。刃は、深々と突き刺さり怪物は立ったまま沈黙する。雨宮は、死んだかどうかなど確認することなくその場から急いで立ち去った。
ふと、誰もいない橋で呼吸を整えていた雨宮は髪から手元に落ちてくる雫に違和感を覚える。その色は、透明感のある水とは似ても似つかない、どす黒い、工業排水のような液体だった。雨宮は理解を超えた現象から逃れようとした時、眼の前に投石機の玉が落ちたように大地が抉れ衝撃波が奔る。反射的に身を逸らせた雨宮は、衝撃波で飛ばされ腐った黒い水に倒れ込む。血で滲んだ視界に、頭がつぶれて脳が零れている先ほどの怪物の姿が見える。さっきと違うことは、背中に人間には存在しない触手を編んだ羽根が生えていることだ。羽根は機能せず、相当高くから落ちたのかもはや男性としての原型さえ分からない。腕はひしゃげて、右足は無様に折れ曲がらない方向に曲がっている。けれども、気にすることなくゆっくりと立ち上がり始める。雨宮は擦り傷らだらけの右腕を地面に当てて何とか立ち上がろうと足掻く。力を込めるたびに、痛みが奔り、行動を抑制する。何とか立ち上がった雨宮は、足の鋭い痛みで膝を折る。眼の前では、怪物がじーと獲物を見つめていた。
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