第8話

「いらっしゃいませ。」


ドアを開けるのとほぼと同時に、カウンターの中から女マスターが言った。 ゆっくりとした、まとわりつくような鼻声だ。

 年は僕の母親とかわらないくらいだろうか。化粧は薄く、妙齢の女性特有のいやらしさやエグさを感じさせないし、その逆でもない。肩まで伸ばしている真っ直ぐな黒髪も、あまり手入れはされていないが、不潔さはない。


「どの席も空いています。お好きな所におかけください。」


 僕は店内をぐるりと見回す。コンクリートに吹き付けた壁材が、長年のタバコのヤニに汚れている。2人掛けのソファーに腰掛けると、スプリングが抜けているのか、思ったよりも深いところまで腰が沈んだ。

 しばらくして、マスターが水とメニューを載せた盆を持ってきた。


「こちらからこちらはできません。こちらはレモンスカッシュ以外ならできます。」


 LP盤のジャケットの内側に、ドリンクメニューが書かれた紙が貼られている。タイプライターで打ち込まれたカタカナがただの記号に見えて、僕の思考を停止させた。


「ホットコーヒーを」

「はい、かしこまりました。コーヒーはできます。」


 マスターはカウンターの中に戻ると、誰にともなく話し始めた。


「今日まだ新聞とかテレビとか見てないからわかんないんだけど、どうなったかしら、あの、60台玉突きの事故。」

 僕は水の入った青いグラスに口をつける。


「なんとか一応片付けて、道は通ってるみたいだけど。」

 氷を口に含んで、音を立てないように噛み砕いて、飲み込む。


「あたしね、荷物を頼んであるのよ。東京から。なかなか来なくて。先月の30日にたのんだのよ。まだ来ないの。そろそろ来てもいいのに。60台の中に巻き込まれてるんじゃないかと思って。」

 覚えたてのタバコに火をつける。一口目はいつも吹かすだけだ。


「人に渡す物だから、あんまり遅れると。…はい、できました。」

 マスターは入れたてのコーヒーを、相づちも打たない僕のテーブルに持ってきた。


「美味しいかどうかわかんないわよ。だってあたしコーヒー嫌いなんだもん。飲んだこともほとんどないわ。」


マグカップよりさらにひとまわり大きいカップに波並みと注がれたコーヒーがこぼれないように、僕の方からカップに近づき、みそ汁をすするように一口。僕だって味なんてわからない。でも、美味しい。豆を厳選しただの自家焙煎だの、コーヒーにプライドを持っている店なんかよりずっと。


マスターはひとりで犬の色のことについて話している。マスターの話に遠慮するかのように、モーツァルトが流れている。僕は適当に返事をしながら、カウンターの奥にかかっているモノクロの抽象画を眺めていた。


 ひととおり思い出して、苦笑いした後、ふたたび原付のエンジンに気合いを入れた。アスファルトの匂いが、オイルやらガソリンやらが焦げた匂いの陰にそっと隠れた。

若松橋を越えてすぐの交差点の赤信号でもずっと虹を見ていた。いい虹だ。美しいという言葉が陳腐に感じられる程に。それを誰かに伝えたかった。

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