第5話
これまでにほとんど思いだしたことの無いような思い出を思い出すと、花の強い香りをかいだ時のような脳の浮遊を感じることがある。
意識と、脳の奥底に置かれたまま忘れ去られた記憶とが、シナプスで結ばれる瞬間。敢えて意識を保っていなければ、その場で卒倒してしまうのではないかと思う程の強い揺らぎ。
夕立に濡れたアスファルトの匂いは、クマゼミの交尾を僕に思い出させた。
虫捕りから帰ってきた夏の夕方、弾力のない安物のプラスチック製の虫カゴの中で、雌雄のクマゼミが尻と尻を噛み合わせていた。
昆虫の交尾が快感を伴うのかどうか知らないけれど、強い力を加えても2匹は離れようとはしなかった。僕は虫かごから2匹のクマゼミを一緒に取り出すと、実家の隣りの寺の松の木の幹にそれらを止まらせた。
曾祖母が死んだ年だから、小学校2年生の夏の事だ。
翌朝、クマゼミは別々に松の根元の碧い砕石の上に落ちていた。2つの死体を、近くのアリの巣へ持っていき、巣穴の近くに置く。初めは興味を示さないように見えるアリの数がだんだん増えて、2つの死体が節ごとに、それぞれ分解されて運ばれていく。
全ての部品が巣穴の中に吸い込まれるまで、側に座り込んで眺め続ける。全てが吸い込まれて退屈になると、今度はアリの巣穴の入り口から、墓地にあった柄杓を使って水を入れる。パニックに陥った大量のアリが穴から出てきた。
僕は声をあげて笑っていた。
ほとんどの少年が持っている残虐な思い出を初めて思い出して、脳の浮遊を通り越して一瞬の吐き気さえ覚えた。いい思い出なのかあるいはそうでないのかも判断できなかった。これから先夏のアスファルトの濡れた匂いを嗅ぐ度に、クマゼミとアリのことを思い出すだろう。ただ、次からはもう、浮遊を感じることはない。
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